巨艦の鼓動
関東大震災は起こっていません。
新扶桑型は長門型の後部主砲1基なしバージョンを想像していただけると幸いです。
1934年 冬
真田はうんざりしていた。
海軍内での派閥争いにである。
ワシントン条約やロンドン海軍軍縮会議の時には
条約派と艦隊派が火花を散らし、今は航空主兵派と戦艦主兵派が
やりあっている。
お互いの意見をぶつけ合って議論するだけならまだしも、
陸軍やあわや陛下まで巻き込んで自分の主張を通そうとする
連中に真田は呆れ返っていた。
真田は四国の小さな町で産まれた。
瀬戸内海に面したその町では、しばしば海軍の艦艇を
見ることもあった。
父親は江戸時代から続く武器商人で、人付き合いが上手だった。
真田は海軍に入ってから、派閥争いに参加したことは
一度もない。
派閥に入れば出世は早くなるだろうが、
なにかあった時に柔軟な対応ができない。
海軍は巨大な組織だ。ならば、様々な部署に友人を持っておけば
色々と融通が効く。
父の背中を見ながら彼はこうして生きてきた。
8歳離れた弟の息子は自分に憧れ、同じ道に入ってくれた。
3人の息子も立派に成人し、ひとりは艦政本部で
働いている。
そろそろ退役して予備役になってもいいかもしれない。
そんなことを考えていた矢先、真田に将官会議への
参加指示が来た。
・・・・
将官会議とは、日本海軍の行く末を決める重要な
集まりである。
メンバーもそうそうたるメンツで、
議長は海軍大臣の大角岑生、
横須賀鎮守府司令長官の末次信正、
海軍次官、長谷川清
艦政本部長、中村良三
軍務局長、吉田善吾
軍令部総長、伏見宮博恭王
そして軍令部次長、真田孝幸
(軍令部次長は特例)
この中でも、横須賀鎮守府司令長官の末次信正は
強固な大艦巨砲主義者で、大艦の建造を唱えていた。
そして、なにより、皇族である伏見宮博恭王軍令部総長の
発言力は絶大で、海軍大臣の大角はその指示にしたがって
ばかりいるとの噂だ。その証拠に
本来は上座に座るのは海軍大臣なのだが、
今日は伏見宮総長が上座に座っている。
「それでは、会議を開始いたします。
今回の議題は他でもなく、46cm砲搭載戦艦の建造に
ついてであります。」
「私は賛成です。欧米も持っていない46cm砲の
戦艦の建造によって我が海軍の戦力はゆるぎないものと
なるでしょう!」
まず賛成したのは、やはり横鎮司令長官の末次信正だった。
艦政本部長の中村もこれに同調する。
「私は空母だ、戦艦だといった主兵論争いに
興味はありませんが、10年ぶりの大型艦建造によって
日本の造船技術が進歩すれば、艦政本部長として
嬉しい限りであります。」
特に反対するものはいなかった。
伏見宮総長らもこれに賛成し、満場一致で
46cm砲搭載戦艦(のちに武蔵型とよばれる)建造計画、
A-140計画が採択されたのだった。
この頃の海軍重鎮って
目立たない人が多くて調べるのが大変でした(泣)