山本長官の遺産
1943年 7月 横須賀
長官機撃墜とそれによる山本五十六長官の
戦死
―――――のちに『海軍甲事件』と
称されるこの出来事が日本に与えた損害は
大きかった。
長官機墜落の一報を受けたトラック基地は
ただちに駆逐艦を出動させ、哨戒機も
多数動員して救助にあたった。
しかし、救援部隊が到着した時、
1番機はバラバラになって既に跡形もなく、
生存者は皆無。
2番機は参謀長宇垣以下3名が奇跡的に
機外に投げ出され、残骸に捕まって漂流しており、
救助された。
この事実はしばらく国民に伏せられたが、
6月下旬に公表、7月3日に国葬が営まれ、
臣民は真珠湾の英雄の死を悲しんだ。
山本が戦死したことで連合艦隊司令部は
再編成を迫られ、新たに山本長官の友人で
親米派の古賀峯一が選出された。
しかし、その古賀が選んだ参謀長が
大問題だった。
なんと、あの福留繁なのだ。
古賀は山本と同じ軍政官向きの人物で
作戦立案などは苦手だった。
そのため、海軍内で『作戦の神様』と
呼ばれた福留に頼るほかなかったのである。
(なにが『作戦の神様』だ。
ほとんど他人の理論の真似ごとじゃないか。)
真田は心の中でそう毒づいていたが。
なんとか引き継ぎ事項も終わり、
ある程度落ち着いたある日、
真田は田代に一通の手紙を渡された。
「山本長官が『自分にもしものことがあれば真田に
渡してくれ』と遺されたものです。」
真田は手紙を受け取り、開いた。
『この手紙が貴官に渡っているということは
私の身に何かあったことだろう。
私は日本が米国に勝つ可能性はわずかだと
思っている。だが、もし勝てるとすれば
それは敵を上回る戦闘機を開発する他ない。
海軍航空本部に堀越という技師がいる。
零戦の設計を担当した優秀な人間だ。
彼に海軍の新型艦載機の開発を依頼した。
貴官がその仕事を引き継ぎ、どうか
新型機を完成させてほしい。
日本の未来をよろしく頼む。』
真田はいてもたってもいられなくなった。
すぐに内火艇を出させ、
海軍航空本部へ向かった。