日米機動部隊激突!!1
MO作戦開始にあたり、開戦から昭和17年5月に
至るまでの日本軍のニューギニアにおける
行動を説明しておかねばならない。
開戦からほぼ1ヶ月が経過した2月8日、
日本軍はトラック島防衛と、南太平洋における
航空拠点確保の必要性から、
第六戦隊を主体とした攻略部隊によって
ラバウルを占領。
ここに航空基地を創設した。
しかし、ラバウルだけでは南方及び南西方面
を攻撃される可能性があり、
井上成美中将を司令官とする第四艦隊は
ラエ、サラモアの占領を主張。
当初は反対意見が根強かったものの、
宇垣の後任として軍令部第一部長の椅子に座った福留繁
少将らの賛成と南方作戦の早期成功によって
ラエ、サラモア占領が決定。
3月3日、第二十四航空戦隊の支援を受けた
上陸部隊がラエ、サラモアにそれぞれ上陸を
開始。飛行場や通信施設を占領し、
作戦は日本側の完勝かに見えた。
しかし、3月6日、既にマーシャル、ギルバート諸島に
空襲を仕掛けていた米機動部隊
(空母ヨークタウンとエンタープライズが基幹)が
日本軍上陸支援部隊に襲いかかり、
日本軍は輸送船2隻を失い、軽巡洋艦1、駆逐艦2隻が
損傷する大損害を受けてしまう。
この損害に不安を感じた陸軍は、
ポートモレスビーを攻略する場合は
正規空母を派遣するよう海軍に要請していた。
真田の知らないところで事は動いていたのである。
5月20日、永野修身軍令部総長より山本連合艦隊司令長官に
大海令19号が発令された。
内容はポートモレスビー、ニューカレドニア、
サモア、フィージー諸島方面の攻略で、
あくまで米豪遮断を目指す軍令部の
思惑が現れていた。
これに従い、
山本長官は第四艦隊を基幹とする
MO攻略部隊を編成。
主力は言うまでもなく、第五航空戦隊の
空母3隻であった。
空母翔鶴、同瑞鶴、同空鶴の3隻は5月24日、
トラック島に入港。
第四艦隊と合流し、作戦の打ち合わせを行った。
5月29日、MO攻略部隊がトラック島を出撃。
まず五航戦を中心とした機動部隊が出撃し、
その後方200海里に上陸部隊を載せた
輸送船団が付いた。
攻略部隊はラバウルに入港し、
ラバウルの台南航空隊と作戦会議を実施。
その結果、6月4日早朝に設営隊が
ソロモン諸島ツラギ島に上陸。
同日には水上機基地を建設。
翌6月5日朝、五航戦がポートモレスビーに
空襲を仕掛け、上陸作戦を援護。
米機動部隊が現れた場合は
ラバウル、母艦、両航空隊が全力で撃滅するとの
方針で固まった。
1942年6月4日、日本軍機動部隊が
珊瑚海に展開、同時に設営隊が
ツラギに上陸。
MO作戦はこうして幕を開けたのだった。