ワシントン条約
1922年春
春の日差しが暖かい霞ヶ関。
赤レンガでつくられた建物の中に
海軍省と軍令部はある。
その軍令部で頭を抱えている人物がいた。
軍令部次長加藤寛治である。
「この内容でどう国防しろというのだ!」
彼が頭を痛めていた理由は他でもない。
今年2月に締結されたワシントン海軍軍縮条約。
この条約で日本は新型戦艦の建造を禁止され、
保有量も米英のおよそ6割、30万トンにおさえられて
しまった。
この条約の締結をめぐり、彼は全権大使の
加藤友三郎と激しく対立した。
対米7割は譲れん!と。
しかし、加藤友三郎は
「米国と戦うなどできるわけがない。
国防は軍備だけはない。外交も必要だ。」
と、日本の経済状況を理由にこれを締結した。
確かに、日本の経済状況は芳しくない。
アメリカは第一次世界大戦時に大量にイギリス国債を
買い入れた。
そんな大国と軍拡競争をして勝ち目がないというのは
一理ある。
それよりも問題だったのは、戦艦1隻の排水量が
3万5000トンに制限されたことだ。
これは完全にアメリカのエゴに過ぎない。
アメリカはパナマ運河を通過する必要性から
戦艦の排水量が制限されてしまう。
だから日本が巨大戦艦を作らないように
足かせを日本にも押し付けたのだ。
通常なら30万トンの規格内なら
3万トンを10隻作ろうが30万トンを1隻作ろうが
その国の自由なはずだ。
加藤寛治にはそれが気に入らなかった。
「八八艦隊は露と消えたか・・・・」
日本海軍の夢、八八艦隊。
アメリカの軍拡計画"オレンジプラン"に対抗して
日本海軍が考えた
戦艦8隻 巡洋戦艦8隻からなる建艦計画。
一部を除いてほとんどの海軍軍人の悲願であった。
「失礼致します。次長、お呼びでしょうか?」
次長室に入室してきた背の高い男。
整えた口ひげと鋭い眼光は生粋の武人である
ことをうかがわせた。
第三課長の真田孝幸大佐である。
「おお、真田大佐。貴様の意見が聞きたい。」
真田は海軍大学校を優秀な成績で卒業後、
第二艦隊参謀などを歴任し、3年前から
第三課に勤務。
少し前に課長になっていた。
この男の耳にもワシントン条約の内容は入っている。
「これでは我が国の国防に自信が持てん!
どうすればいいか意見を聞きたい。」
加藤はこの無骨な軍人を信頼していた。
自分の利益よりも軍の利益を優先する珍しいタイプの
軍人だからである。
すると、真田の口から出たのは
考えもしないような意見だった。
「伊勢型と扶桑型を改装するのです。
いえ、改装という名目で新しい戦艦にしましょう。」