迫る開戦
1941年7月
日本軍はインドシナ南部に進駐し、
アメリカとの対立は決定的となった。
アメリカは日本に対し、経済制裁を発動。
在米日本資産の凍結と石油の輸出禁止を行った。
これに伴い、軍令部第一課では、
対米戦争の戦略研究が連日のように
行われ、無数の演習が繰り返された。
そんなある日、真田はとある人物に誘われ、
横須賀の料亭にいた。
その人物とは、第一航空艦隊参謀の福原大佐である。
福原大佐は真田の耳元でこう告げた。
「軍機なんだがな、山本長官は飛行機でハワイ
をやるつもりらしい。」
「飛行機で、ハワイを・・・」
山本五十六は1930年代から
航空機による真珠湾攻撃論を唱えていた。
当時は誰も相手にしない暴論だったが、
今は違った。
航空機は大型化し、速度も格段に早くなった。
そして日本には遠距離航海が可能な正規空母が9隻もある。
新しく竣工した翔鶴型空母、翔鶴、瑞鶴、空鶴は
航空機84機を運用できる最新鋭空母であり、
速力や運動性能において天城型を大きく上回り、
まさに日本空母の完成形とも言える。
天城型3隻、雲龍型3隻、翔鶴型3隻、計9隻の
正規空母が運用できる航空機数は実に600機を
超え、これだけの数があればハワイ攻撃も
現実的となってくる。
実は、真田は一課の他の参謀たちと
議論を重ね、対米戦争の戦略をある程度固めつつあった。
戦略は以下のとおりである。
①何らかの方法で米空母を叩き潰す。
②南方の資源地帯を素早く確保し、海上輸送線を確立させる。
③空母をインド洋に派遣し、イギリスを駆逐する。
④アフリカで奮戦しているドイツ軍と協力し、
スエズ運河を制圧。援蒋ルートを遮断し、英支を連合国より
分断する。同時にマリアナ諸島を要塞化する。
⑤空母部隊を呼び戻し、オーストラリアを空襲。
同国の港湾施設を無力化する。
⑥マリアナ諸島にて米軍と決戦。これに勝利する。
この戦略のカギを握るのはやはり④だろう。
④は、
・『ドイツが欧州戦線で勝利する』という日本が
対米戦争に勝つための大前提をサポートできる。
・長年苦しめられた援蒋ルートを遮断できる。
という一石二鳥の作戦なのだ。
しかし、真田には気ががりなことがひとつあった。
米空母である。
日本の空母がインド洋に行っている間に米空母が
太平洋を荒らしまわれば大変なことになる。
真田は米空母の撃破に頭を悩ませていた。
そこに願ってもいない真珠湾攻撃の情報が入ったのだ。
(もしかしたら、うまくいくかもしれん。)
1941年11月。アメリカよりハルノートを受け取った日本は
これを『アメリカの最後通帳である』と勝手に判断。
御前会議にて対米開戦を決断した。
開戦の日は年が明けた1月5日と決まった。