三国同盟
今回少し読みにくいかもしれません。
ごめんなさい
1940年
3月、Aー150戦艦はようやく建造が認められ、
海軍マル4計画に盛り込まれた。
海軍マル4計画
戦艦1隻(Aー150)
大型空母2隻
甲巡(改鈴谷型)4隻
乙巡(阿賀野型)6隻
新型駆逐艦(秋月型)16隻
潜水艦21隻
予算は5億円(当時)を超える大規模なものであった。
呉の造船所の拡張も既に始まっている。
そして世界もまた、戦争に狂喜していた。
ヒトラー率いるドイツ第三帝国はフランスに侵攻。
電撃戦と呼ばれる速攻戦法でわずか3ヶ月で
パリを占領してしまった。
イギリスもドイツに粉砕され、本土に後退。
さらにドイツはH42型と呼ばれる超大型戦艦を
2隻起工したとの噂もあり、
誰もその勢いを止めることはできなかった。
そんな中、とある話が日本に持ちかけられた。
"日独伊三国同盟"である。
この同盟をめぐって、海軍省、軍令部、
もちろん陸軍も、大騒動となる。
ソ連の脅威を抑えたい陸軍として
この同盟は願ってもない話であり、
石原莞爾など、一部を除いて、陸軍は
同盟に賛成した。
一方、海軍は山本、井上、米内ら
親米派に加えて、岡田啓介元首相及び元海軍大臣
永野修身前海軍大臣など多くの人物が
この同盟に反対であった。
『アメリカの対日感情が悪化する』
というのが主な理由である。
軍令部第一課の若い参謀らの間でも
この話題で持ちきりだったが、
正樹は数少ない同盟支持者だった。
「海軍がこれまで揃えてきた軍備は
すべて対米戦争のためのものです。
その対米戦争時に一番の障害となるのがソ連です。
今ドイツは破竹の快進撃を続けており、
ソ連を封じ込めるためにもこの同盟は必要です。
独ソ不可侵条約があるとしてもドイツは
ソ連に対する強力な防波堤となります。
日本とアメリカはいずれぶつかります。
そうなった時のために、味方は多いほうがいい。
私は同盟に賛成します。」
正樹はこの意見をまとめたものを
佐久間に代わり新しく次長となった
古賀峯一中将に提出したが、親米派の彼に
一蹴されてしまった。
この同盟案は1939年頃から存在していた。
1939年5月、満州国境でソ連軍と関東軍が衝突した。
いわゆるノモンハン事件である。
この戦いで日本軍はソ連軍に多大な損害を
与えたものの、ソ連軍全体からすれば
極めて軽微な損害であり、逆に日本側が
主力一個師団を失ってしまった。
陸軍上層部はソ連の脅威を再認識し、
同盟の締結を急いだ。
しかし、8月下旬、またしても事件が起こる。
独ソ不可侵条約が締結されたのだ。
これにより、同盟締結はほぼ絶望的となり、
同盟推進派の平沼内閣は総辞職
それから1年間同盟の話があがることはなかった。
だが、ここに来てドイツが
フランスを打ち破り、イギリスを追い詰めている。
陸軍では『バスに乗り遅れるな!』のスローガンの
元、南方進出を強める"南進論"が展開され、
ついに米内光政内閣は倒閣された。
続いて発足した第二次近衛内閣は
陸軍の操り人形で、同盟交渉はどんどん
進められていき、
最終的に、新海軍大臣及川古志郎の
「これ以上反対することはできない。
仕方ない。」
の一言で、1940年9月27日、同盟は締結された。