揺れる海軍
1939年 10月
9月にヒトラー率いるドイツ第三帝国が
ソ連と共にポーランドに侵攻。
これによってフランスとイギリスがドイツに宣戦布告。
第二次世界大戦の幕が開けた。
Aー150戦艦は
軍令部第一部長、宇垣纏少将
軍令部次長、佐久間京司少将
軍令部総長、伏見宮博恭王大将
ら、重鎮たちに認可され、
建造開始も遠くないように見えた。
なお、正樹は中佐に昇進し、
新たに軍令部第一課に異動となっていた。
しかし、3日に行われた
海軍将官会議で、この案に反対した
人間が2人いた。
軍務局長の井上成美少将と
連合艦隊司令長官、山本五十六である。
山本は
「航空機の発達は目覚ましく、
莫大な予算を投じて戦艦を作ったとしても
その活躍はまったく期待できない。」
とし、井上に至っては
「そんな船よりも戦闘機を1000機作ったほうが
遥かに役に立つ!」
と強硬に反対。
このふたりの猛烈な反発により、
第一回会議は決裂した。
「そういうわけで、貴様にも将官会議に
特別出席してもらうことになった。」
結局、佐久間らではこの2名を説得するには
至らず、佐久間は海軍大臣吉田善吾大将に
正樹の第二回会議への出席を具申。
特例として認められた。
そして、一週間後の10月10日。
第二回会議が行われた。
「方々もご存知のように、
航空機は目覚ましい発展を遂げており、
800kgの魚雷を搭載することも可能となった。
800kg魚雷を抱えた無数の航空機に襲われれば
戦艦など手も足もでない。
私は断固として反対する。」
スタート直後、山本はこのように述べ、
あくまで航空機の優位性を主張した。
これに横須賀鎮守府長官の長谷川清中将が
続けた。
「私は航空機の発達、進歩については
同意したいと思います。ですが、航空機が
戦艦を撃沈した実績はなく、机上の空論に
過ぎないのもまた事実です。」
駐米時代に山本と親交があり、
山本寄りと思われていた長谷川中将の
思いがけぬ中立論だった。
これには航空論者のふたりも唸るしかなかった。
大艦巨砲主義者で、圧倒的発言力を持つ伏見宮総長が
風邪で欠席している以上、正樹ひとりでこのふたりを
説得せざるをえない。
この機を逃してはならぬと、正樹はすかさず
追い討ちする。
「この戦艦は航空機に対するありとあらゆる
対策を施しております。
対空射撃は簡易管制で一元化し、効果的な弾幕射撃を
行うことができます。
魚雷が命中しても二重三重の装甲と、そこに
流し込まれたスポンジやゴム層を破壊するのは
極めて難しい。
この戦艦は航空機に沈められるようなことは
ありません。」
これに援護射撃を送った人物がいた。
海軍次官、住山徳太郎中将である。
「空母は大型だけですでに9隻が就役、進水、建造
されており、十二試製艦上戦闘機も生産が
始まったのであろう。ならばここは
予算を戦艦に回すべきではないか?」
議論は白熱した。
なおも食い下がる井上を制止し、山本は言った。
「良いでしょう。ただし、ふたつ条件があります。」
山本は正樹のほうを見た。
正樹は直立不動のまま、山本を見据える。
「空母を2隻。それも絶対に沈まないものを
作ってもらいたい。そして、この戦艦が完成したら
もう戦艦は作らない。このふたつの条件が
満たされるなら、私も賛成に回りましょう。」
こうして、Aー150戦艦と、新型空母2隻の
建造が決まった。
1939年11月のことであった。