淡い想い
少し寄り道します。
1939年春
久しぶりの早い帰宅だった。
正樹は都心から少し離れた場所の借家で暮らしている。
なんでも前に住んでいた老人が亡くなり、
遺族が売りに出したらしい。
古い平屋だが、決してボロいわけではない。
ひとりで住むには十分すぎる広さに、小さな池つきの庭。
比較的田舎でのんびりした雰囲気があり、
正樹はこの空間が好きだ。
家に入ると奥から声がした。
「おかえりなさい!今日は早いのですね。」
「おお、京子。来てたのか。」
長い黒髪を後ろで結び、揃えた前髪と
大きな目。
変に飾らないその顔は大和撫子という単語がぴったりだろう。
隣の中華料理屋のひとり娘村田京子。
いつも家におらず、家事をしない正樹に
変わって洗濯や掃除をしてくれる"お手伝いさん"である。
「洗濯と掃除、やっておきましたから。」
「おお、ありがとう。」
「海軍さんなら家事くらいしてくださいな。」
中々痛いところをついてくる17歳だと思う。
実際、兵学校では炊事や洗濯を覚えさせられる。
「俺は家事できないんじゃない。
やらないんだよ。」
「そうですか。まあ、私も楽しいのでいいんですけどね。」
そう言いながらもてきぱきと洗濯物を畳む京子。
結婚願望のない正樹だが、家に帰った時に
『おかえりなさい』が聞けるのは嬉しい。
その後、彼女は正樹に夕飯まで作ってくれた。
・・・・
次の日、正樹は休日だったので、
読書をしながらのんびりしていると、
京子がやってきて店の余った材料で朝食を振る舞ってくれた。
今彼は彼女の膝に頭をのせ、耳掻きをして
もらっている。
「いつも悪いな。」
「いえいえ。でも、今月の給料は2割増でお願いしますね。」
本当に抜け目のないおなごだと思う。
でも嫁をもらうならこんな女のほうがいい。
軍人の妻は、旦那がいつ戦死するかわからない中、
子供を女手一つで育てていかないといけない。
しっかりもので肝の座った女でなければつとまらない。
それにしても、京子も大きくなったものだ。
初めて会った時はまだ国民学校生だったのに。
今ではもう旧制中学(現高校)生だ。
彼女がこうして仕事をしているのには理由がある。
彼女の母は元々高級中華料理店で働いていた。
そこの常連だった銀行の幹部と親密になり、
愛人関係にあったという。
その後、妊娠が発覚。不倫がバレるのを恐れたその幹部は
不倫の事実を墓場まで持っていくことを条件に
彼女の母の『自分の店を持ちたい』という夢を
多額の投資で叶えてあげたそうだ。
その幹部も金融危機や世界恐慌などの不況で
銀行が倒産し失業。
家族を義母に預けて自殺したらしい。
というわけで、彼女の家は貧乏で、
旧制中学に行くだけでかなりの負担になっているらしい。
(この時代、旧制中学に行けるのは裕福な人だけだった。)
「なんなら、軍の指定食堂にしてやろうか?」
「そんな・・・・マサさんに迷惑がかかります。
私たちは大丈夫ですから・・・・」
体勢を変えて京子の顔を見る。
見るたびに綺麗になっている。
最初に会ったときの幼さはもうなかった。
彼女の成長した胸部が嫌でも視界に入ってくる。
戦艦のことしか頭にない正樹も
京子を意識せざるをえなかった。
その午後、軍令部の友人がやってきて、
51cm連装砲の開発が成功したことを教えてくれた。