第2話 呆れ顔のearly bird
速水とジャックは、下宿先に帰ってきた。
もう深夜十二時を回っている。
速水は座ったままのジャックを立たせ、引っ張って、玄関扉に手をかけた。
鍵は頼んでおいたので開いている。
「ただいま」
小さな声で速水は言った。
「ただいま…デス」
ジャックも同じく。
「じゃあ風呂入って寝るか。ジャック先に入れよ」
「はい…」
ジャックは意志消沈したまま、着替えも持たずに風呂場に消えた。
シャワーの音が聞こえる。
速水は溜息をついて、ジャックの着替えを取りに行った。
クマのぬいぐるみを適当にかき分け、ひたすら放って、どかして、タンスから寝間着や下着を取り出す。
コレをきちんと畳んでタンスにしまったのは速水だ。干したのも、選んだのも。
…隼人はのんびりしていたが、あれでそこそこの生活力はあったのだ。
自分の着替えも持って、下に降りる。
脱衣所に入ってカゴの上に着替えを置く。
「着替え持って来たぞ」「サンキューです」
速水がシャワーを浴びて出ると、ジャックが適当に洗った髪を乾かしていた。
速水はニュースを見る為にテレビを付けた。ろくなニュースは無い。すぐに消す。
水を飲んだり、歯を磨いたりしていると、ジャックが話しかけて来た。
「速水サン、僕のダンスはどうでした―?、…俺のダンスはどうだった?良かったか」
ジャックは途中から英語にかえた。
「…」
速水は口をすすいで、歯ブラシを置いた。
速水はソファーに座った。ジャックは床だ。初めは床に座るのは…とか言ってた癖にもう慣れたらしい。ジャックが来て約三ヶ月。
「かなり良かった。ジャックは格好いい…!」
速水は目を輝かせた。
外ではツンケンしているが…速水はジャックに懐いていた。
本当は会った時にもテンションが上がっていたのだ。隼人に置いて行かれるほど。
「…だろう?」
ジャックが前髪をかき分け、フッ…とキザに笑った。
「ああ!凄い!それに皆も。どうやったらあんな風に踊れるんだ?俺ももっと練習したい!明日、俺仕事だけど、四時に起こすから、ジャックもつきあえよ!」
明日の入りは九時からなので、早く起きればいつも少しは踊れる。
「げっ、四時!?俺には無理だ。…それにお前はもう少し寝た方が良い。背が伸びない」
「…う。じゃあいつも通り五時で起こす。明後日は休みだからまた練習しよう」
速水は言った。
「…速水、君は誰かに見て貰いたいとは、思わないのか?ダンサーになりたくないのか?」
ジャックが言った。
速水はちいさく溜息をついた。またその話か。
「俺は…踊れればそれで良い。ダンサーとか…俺には無理だ。知ってるだろ?もう寝る」
そう言って二階へ上がった。
■ ■ ■
翌朝、またいつも通りの日々が始まった。
身体を動かし、仕事へ行って。疲れて寝て。
休みの日は朝から晩まで踊る。
「はぁ…」
そしてまた疲れて戻って来た。ベッドに倒れ込む。
速水にも、自分がなぜこれほど踊るのか分からなかった。
昔は…少しはプロになりたいと思っていた。けれどある時から、それは出来ないのだと気が付いた。
速水は起き上がって、ノートを適当に取り出し。あるページを開き、ラックからそこに書かれたタイトルのCDを取り出してプレーヤーに入れた。
夜なので、ヘッドフォンを付ける。
歌詞の無い曲だ。再生が始まる。
がーがーー、ざー、ジー、きー、ガー。
これは前奏だ。
暫くすると、ぐにゃりと歪んで、また戻り、キーという甲高い音と共に、一気に音が増える。洪水のような、怒濤の音達が響き合う。複雑に入り組んだ不協和音。
かと思えば急に音が少なくなり。鳴っているはずの音符が間引かれる。
…リズムはかろうじて分かる。
「=====↑ーー====」
速水は小さくハミングをした。
自分であるはずの音を口ずさんで、机をタップし、一小節ごとに暗記した楽譜通りの、正しい拍を取っているのだ。それならば変な音とは関係無い。
プレイヤーがおかしいのでは無い。速水の耳が、…いや、頭がおかしいのだ。
他の音は聞こえるし、声も普通。日常生活には支障はほぼ無い。
時折、車のクラクションが変に聞こえる、くらいだ…。
が、曲だけが壊滅的におかしい。
電車の発信音などは、ゆがみ、引き攣れ、自殺させる気か?と言いたくなるほどだ。
ガが……!
唐突に曲が終わった。
「ハァ…」
これでどうやってダンサーになれる?
速水だって、色々試した。
何がいけないのかと、色々試した。
小学四年生くらいまでは普通だった。時折、小さな雑音が混じるくらい。
…コップを二つ用意して、たたき合わせると、音が歪んで変に聞こえる事がある。
昔、自分が弾いたピアノの音が、あまりにおかしく吐き気がした。
――病気だ。
しかもおかしな方向に進行している。
多分、全ての始まりは――。
…速水が幼稚園に上がったばかりのある日、家族で水族館に行った。
幼い彼は水族館が初めてだったので、はしゃいでいた。
そしてイルカのショーを見た。
あれがそうだ。全ての始まりだ。
…お父さん、イルカが何か言ってる…!
速水はそう呟いた。
「ああ、キューって鳴いてるな。あれはイルカの声だ。人には聞こえない声で、イルカ同士でお話ししてるんだ」
速水の父はそう言った。
「…キュー??」
速水には、そんな風には聞こえなかった。あれは英語とか…どこかの国の、長い言葉だ。
分からないけど、イルカが何か喋っている。
「キュー…??」
それから帰るまで、速水は首を傾げていた。
「お兄ちゃん、さっきイルカが何言ってたか分かる?」
速水は八つ年上の兄に聞いた。
「…?いや、分かんない。サク、あの声は、人には、絶対に聞こえないんだよ」
「…えっ?でも聞こえたよ!」
その様子を、両親は微笑ましそうに見ていた。
速水は…冷や汗をかいていたのだが。
そして車の中で大泣きし…その日はそのまま寝てしまった。
翌朝、酷い熱を出し、救急車で病院に運ばれた。
その後、二日ほどで熱は引き。両親はようやく胸をなで下ろしたのだが…。
速水にとっての、本当の恐怖はこれからだった。
「…!!」
しばらくしたある日、蚊が出て来て。速水は逃げ出した。
…蚊が何か言っている。小さすぎて聞き取れない。
「あ、うわ、蚊が居る。お母さん、シューどこ?」
「お兄ちゃん!だめ!殺さないで!」
速水はそう言った。兄は殺虫剤を撒き蚊を殺した。
蚊は死ぬまでものすごい悲鳴を上げ続けた。
速水は、母親にすがって泣いた。優しいのね、と言われたが…そうじゃない。
本家は自然が多くて、蝉が五月蠅かった。
だが、蝉の声は前と違う音だけど、こういう物だろう―そう思えるくらいだった。
殺さなければいいんだ。
速水は普通に過ごしていた。…死にかけの蝉を見つけるまでは。
「お母さん、あの蝉、恐い…」
途切れ途切れに鳴いて。いきなり落ちた。
速水は外に出るのを嫌がるようになった。幼稚園も行きたくないと言って叱られた。
――夏休みの前、幼稚園ではアリの巣に水を入れるのが流行っていた。
そして逃げたアリをつぶしたり。捕まえてフィルムケースに入れたりするのだ。
沢山いるアリを…。
…恐い。怖い。怖い!
「お母さん…」
そして速水は母に相談した。母は、速水を医者に診せた。
まず、いくつかの耳鼻科。
そこから紹介され、総合病院で脳の検査、そして脳には異常無し、最後は精神科だ。
そこで一応の病名を聞かされた。
『総合失調症による幻聴』
当時の速水にはよく分からなかったが、母は言葉を失った。
父と母は、速水の病気について何か話をしたらしい。
あの頃は大声で喧嘩もしていた。
しばらく後、母は速水を連れて別邸に行くことになった。
別邸の近くにある大きな病院の先生は、速水に優しかった。
速水は家から外に出ていなかったが、退屈なら、何か好きなことをするといい、と言われ、たまに母と一緒にやっていた日本舞踊を始めた。
母は別邸で教室を開いていた。
環境が変わったのが良かったのか、単に幼少期の一時的な物だったのか。
それは次第におさまっていった――。
■ ■ ■
あくる朝、速水が大鏡でエアーチェアーの形を確認をしていると、ロブが訪ねて来た。
「あ、ロブ!」
起きがけのジャックが言った。
速水も足を下ろし顔を上げた。
「よう。アーリーバード」
ロブは方手を上げ、速水に声をかけた。
「何しに来たの?」
速水は英語で聞いた。
「お前のダンス見に来た。ジャックが、今日お前が休みだって言ったから」
「…暇だな」
どうやらジャックが呼んだらしい。それで来るなんて暇以外の何物でも無い。
「いつもココで踊ってるのか?」
ロブはガレージを見回した。
「そうだけど」
速水はロブに中身が見えないように、ノートを開いた。
アップは完了、今日練習するのは…。
昨日予習したばかりの、最近発売された洋楽だ。
テンポがちょうどよく、そのままブレイクダンスに使えそうなマイナーな曲。
この曲は、アメリカ人的にもハードでカッコ良い…らしい。ジャックがそう言った。
速水が視聴したところ、やはり歪みが酷いが、音が多くてまだ聞ける類の曲だった。
表も裏も拍が取れるし、要所で音のポイントも取れる。
速水はこれなら、ショーケースに上手く組み込めるかもしれない、と思いダンスの構成を考える事にした。
盛り上がりのシーンとかに使ったら、緩急があってカッコいいだろう。多分。
しかもこの曲は英語の歌詞ありなので大分練習は楽だ。
――実際に使う時には歌詞無しにしたりするが、歌詞に合わせて練習すればタイミングを間違えない。
速水はパラパラとページをめくる。
五線譜ノートの見開き二ページを使い、歌詞が全て書き出してある。
その下に音符が書いてある。これは楽譜を手に入れそれを写したものだ。
紙の楽譜がある場合は、次のページに貼り付ける。
楽譜が手に入らない時は、誰かに楽譜起こしをして貰う…。以前は兄や隼人に頼んでいた。
歌詞の下には。
前奏、二十秒、一番、Aメロ Aサビ Bメロ Bサビ …一分二十三秒後に間奏が十七秒。二番Cメロ Aサビ(リピート) 間奏二十一秒。Dメロ Dサビ 最後の演奏四秒。
と注釈が英語の単語ごとに区切って、つらつらと書かれている。
計、四分二十五秒の曲だ。
どの部分を切り取るか、速水は少し考えた。ショーの後半、曲調を変えるのに使いたいから、サビではなくか、Bメロか、二番のCメロあたりか?
「ん、なんだそのノート」
ロブが覗き込もうとしたので、速水はさっと閉じた。
「邪魔。帰ってくれ」
そして睨んで言った。
「まあまあ」
ジャックが言ってノートをヒョイと取り上げた。
「あ!」
速水は手を伸ばしたが、指先は空を切る。背伸びしても届かない。
「返せよ!」
「速水サン、君、そろそろ即興の練習しようか」
ジャックが日本語で言った。
「…!」
速水は目を見開いた。
「…どの曲?知ってるのなら――」
「ロブ、持って来たか?」
今度は英語で言う。
「ん?ああ」
ロブが黒いトートバッグからCDを次々に取り出し、プレイヤーの近くに置いた。
四、五十枚はある。
CDの山がガシャリと音を立てて、少し崩れた。
「……う」
速水はそれを見て、思わず後ずさった。
「速水、ダンサーは、初聴の曲も踊れなければならない。ほら、かけるぞ。ブレイクで良い。君の思うままに――、編曲はしてあるよな、まずはこれだ。フィニッシュまで踊れ」
ジャックは笑った。
「…ああ。言われた通りに、マイナーな曲、EDM、ブレイクビーツをかき集めて持って来た。全くクソ骨が折れたぜ。借り物も入ってるから無くすなよ?」
ロブが答える。
「っ…ジャック!!俺はダンサーになんかならない!」
速水は叫んだ。
「いいや。君はなれる。プロのダンサーになるんだ」
「無理だ!」
速水は言った。ジャックが一歩踏み出す。速水は後ずさって逃げようとしたが、ジャックが速水の肩を掴んだ。
「無理じゃないさ。…君なら出来る。聞こえるままに、聞こえる通りで良いから。とにかく一度踊ってみるんだ」
優しく諭される。
きこえるままに?
「……っ、出来ない!無理だ!」
肩をしっかり掴まれたまま、速水は耳を塞ぎ目を背けた。
近くにはロブがいる。ブレイクダンスのプロだっていうロブが。
――ブレイクダンス界の寵児『JACK』の友人。そんな凄いダンサーの前で、踊りたくなんかない!絶対に!
「君も、気が付いているだろう?…予習して、知ってる曲だけで踊るのは、もう限界だって事に」
「…っ!」
言われた速水は、めまいがして倒れそうになった。
――限界。
……げんかい。
もうダンスはできない…?
「大丈夫、とことん、出来るまで付き合うから。一緒にやろう」
ぐらついた速水を支えて、ジャックが言う。
「いやだ…」
速水はまた耳を塞いだ。頭を引っ掻くように。
俯いたら、涙がこぼれ落ちた。
「何でそんな事言うんだ!無理に決まってる!!出来ないのに――!!」
速水はノートを拾って逃げ出した。
■ ■ ■
「ハヤミサン!」
ジャックの声が聞こえる、追ってきたのだ。
速水はとにかく、全速力で走って逃げた。
行き止まりを避け、気が付いたら通りに出ていた。
どうしよう。逃げ出してしまった…。
住宅街、白線だけの歩道で、うつむきノートに視線を落とす。
どこかでカラスがカー、と鳴いた。
…このノートを見せたのは、隼人が初めてだった。
何秒で動き始めて、何秒間がサビ、どう踊るかは先に決めておく―。
速水はずっとそうしてきた。
けれど周囲は決まって、速水に『次は即興で踊ってみろ』と言うのだ。
それは大抵『上手い』って褒めた後。
…速水にだって、分かっている。
子供頃から本当に、ずっと踊ってばかりいたのだ。
余程向いていないとかじゃなければ、上手くもなるだろう…。
療養のため、茨城の別邸に引っ越した速水は無事、近くの小学校に入学した。
同い年の子供と同じ学年だ。母は胸をなで下ろしていた。
別邸に移り環境が変わったのが良かったのか、幼少期の一時的な物だったのか。
動物や虫の声が聞こえることは徐々になくなっていった。
虫やら鳥や猫の言葉も、今ではもう聞こえない。
言葉と言っても、判別不能な宇宙語のような物だったのだが。
茨城の小学校では、新しい友達も何人か出来た。
速水が小学二年になって間もないある日、その中の一人が言った。
『俺の兄ちゃんが、ブレイクダンス始めたんだ。俺も、ダンススクールに入る事にした!』
『ブレイクダンス?』
速水と数名は顔を見合わせた。
『凄いカッケーんだぜ!なあなあビデオ貸すから!皆で一緒にやろうよ』
そしてその格好いい踊りをする為に、速水は通い始めた…。
あの頃が一番、楽しかった。
リピートが来て入院したりもしたけど、具合の良いときは踊ってばかりいられた。
ああ、それは今でも変わらないか。
――小学四年の時。
速水は受験生で塾帰りの隼人と、ダンススクールの帰りに出会った。
その頃は、たまに雑音が入るくらいで、皆と楽しく踊っていた。
小五の夏休み、速水の祖母の智恵が死んだ。
死因は熱中症と脳梗塞のタブルパンチ。
速水はダンススクールでたっぷり踊って、帰って来て、畑で倒れていた祖母に気が付いた。
……俺が昼に一度帰っていたら、きっと、ばあちゃんを助けられた。
…ばあちゃんが倒れてすぐに救急車も呼べた。
速水は薬を誤飲して、入院した。
■ ■ ■
――退院した速水は、かなり久しぶりにダンススクールに行った。
「朔君、今日は、即興で踊ってみよう、思うままに体を動かすんだ。見本を見せるから」
ダンススクールの新見先生が笑顔でそう言った。
「えっと、はい…」
朔はまだ気持ちが沈んでいたが、踊って忘れる事にした。即興は得意だった。
「曲は、これでいいかな」
新見先生が適当にかけて先に踊った。
「…先生、コンポ壊れてない?酷い音。良く踊れるね」
「え?」
それから暫くして。速水は隼人に病気の事を打ち明けて、ダンス教室を辞めた。
――この頭は駄目だが、体は問題無い。
速水は一人で、ひっそり踊ると決めた。…技を磨くだけなら一人で出来る。
音楽をかけなくても踊る事は出来る。
けれど、以前の様に『楽しく』踊る事をあきらめられなくて。
ノートに歌詞を書き出したりして、何とか曲を踊ろうとした。
そして、何度も曲を聴いて、時間を掛けてノートに書いて予習すれば、踊れるようになった。
歌詞があればそれを何度も口ずさみ。
隼人に頼んで、前奏何秒とか、サビ何秒とかストップウォッチで計って貰う。
そしてどう踊るか、振り付けを考える。
これなら速水は、三十分くらいで出来る。大変なのは隼人だが彼も慣れた。
しかし…歌詞が無ければもっと大変だ。
どうにしかして楽譜を手に入れ、音を想像する。
そして速水はずっと、楽譜通りに音階を口ずさむ。
自分の声が、速水の唯一の頼りだ。
前奏は何秒、Aメロ何秒、サビ何秒。間奏は――?
初めは五分の曲で、五時間ほどかかった。今でも二、三時間。
そしてようやく理解する。たぶん、これは『こんな曲』なのだろうと。
……間違っているかもしれない。
「はぁ…」
速水は溜息を付いた。
…無理があると言うことくらい、速水だって分かっている。
やるなら、ジャックがいる今しか無いと言う事も。
ジャックのように、自由に踊れたら、いいなと思う。
…けれど自分の『それ』は、一体、『何』を踊っている事になるのだろう?
■ ■ ■
「…ただいま」
日が落ちてから、速水はガレージに戻った。
「おかえり」
ジャックが出迎えた。
日本語…速水はホッとした。
「ロブさんは?」
速水は見回した。姿が見えない。
「ああ、今日は帰りました」
ジャックが言った。
「…そうか」
速水はノートを放って、壁にもたれ座り込んだ。
見ると、CDの山はまだある。速水はその一枚を手に取った。
「なあ。隼人が。いきなりお前に俺の事を話した、って言ってさ…」
速水はぱか、と意味なくCDケースを空ける。そして閉じる。
床に置くと、ひっかくような、少し高すぎる金属音がした。
かしゃ、と言う小気味良い音だったのは昔のことだ。
速水はガレージに立ったまま、過去を振り返る。
『ああ。ジャックさんには君の事、もう全部話してあるから』
――イタリアへの出発前、隼人はいきなりそう言った。
速水は信じられなかった。
ずっと、知っているのは、死んだ母と死んだ祖母と、親友の隼人だけだった。
速水の父と兄、祖父は、きっと小学校低学年で直ったと思っている。
――信じていた隼人に、裏切られた!!?
速水は思わず隼人に掴みかかった。
『お前っ、…』
いや、隼人はいつか誰かに話せ、そう言った…。
速水が誰にも打ち明けないので、痺れを切らしたのだろう。
昔、隼人に言われたのだ。それは、本当に病気なのか?…と。
『君は、自分が病気だって言ったけど。例えば、絶対音感を持つ人たち。…彼等は自分の感覚を、たまたま、音階っていう分かりやすい形で、皆に説明出来た。だから理解された。――けど君はそれが説明出来ない…もしかしたら、それだけなんじゃないのか?だから僕はジャックに、君の事を相談したんだ』
体はもう大丈夫。
日常生活も、楽曲が変という意外はほぼ支障は無し。
が、時折おかしな音や声が聞こえる。
……幻聴?
幻聴は、適度に身体を動かしたり、踊っているときは無し。
逆にリラックス時にはよく、速水の知らない鳥の声が聞こえる事がある。
…犬猫虫もたまに鳴くが、やはり鳥が一番多い。
大抵「あ、また鳥が鳴いてる」くらいで済む。
けど夜中も朝も大合唱。あいつら空気読まない。
そんな訳で、寝る時は特注の耳栓が必要。
だれかの声も聞こえる。決まって不気味なカラス?の鳴き声の後。
その声は体調が悪いと酷い。
ええと…これは多分、幻聴だね。
速水と医者は、何となく釈然としないまま、手探りの治療を続けている。
「隼人は…調べれば調べるほど、何かが違うって…」
ようやく、速水は呟いた。
『現に僕とこうして会話はできるし、日常生活に支障はない。ただし風邪を引いたり、無理をしなければ…。つまり無理をすると、症状が酷くなる。って、それは僕も、他の人も同じだ。具合が悪いと耳鳴りがしたりする。だったらもう、偏頭痛とかそんな物じゃないか?…今、君は薬もほとんど飲んでいない。あまり効果が無いから』
隼人の言う通りだ。
…もう、特に酷い時に飲むくらいだ。
たしかに、偏頭痛、絶対音感は言い過ぎだけど。
これは…もしかしたら、『普通』の病気じゃ無いのかもしれない。
「ジャック…、俺、即興、やってみようと思う」
速水の言葉に、ジャックは嬉しそうな顔をした。
「…グラスを二個ぶつける音とか。音楽とか。全部変な音が重なって聞こえるけど――」
速水は目を閉じ、天井を仰ぎ、自分の耳に手を当てた。
「たまに、すごく綺麗に響くんだ」
「…、速水、君は」
ジャックが速水に近づいた。
「ジャック。…誰かにこれが、伝わるかな?」
「出来ます、きっと出来ます!貴方のダンスなら!!」
ジャックは速水に抱きついた。
「ジャック、ウザイ!」
「よし!!じゃあ今すぐライブハウスに行こう!!俺と一緒に広いステージで踊ろう!世界を変えるために!よし、今夜が君のデビューだ!それが良い!」
ジャックが英語で話し出す。
「…はぁ!?」
速水は呆れて絶句した。今から?ステージ?
「今からって」
「ええ!みんな、きっと貴方を歓迎してくれます!僕と世界へ行きませんか?」
ジャックは速水に向かって手を差し出した。
――歓迎って、何の宗教だよ。
「…」
速水は頭を押さえて、眉を潜めた。いろんな意味で頭が痛い。
「まずは日本、次はアジア、中東、ヨーロッパでその次は――!大歓声と共に―」
ジャックはよく分からない即興ダンス?を始めた。
…どう見ても、適当にリズムを取って体を動かしているだけだ。
速水はそんなジャックを見てひどく心を痛めた。
…ジャックは可愛そうな奴だ。
「リオのカーニヴァルでは僕と貴方が一位になって、シドニーでは――」
ジャックはまだひたすら夢を語っている。
「そうだ!それがいい!やはり一緒にタッグを組もう!僕と一緒に、ブレイキンでこの世界に平和を!」
……ジャックの妄想はもはや留まる所を知らない。さすがに呆れた。
「お前…バッカじゃないのか?」
速水は電気を切ってガレージを出た。
〈おわり〉