深淵の記憶
彼女の元へ飛んでいきたい。だって、だって、ほら。あんなに泣いて叫んでいる。真っ赤な炎が、友を奪おうとする様をどうして黙って見過ごせようか。
初めてできた女友達だった。腰が低くて、いつも名前を様付けしてくることだけが唯一の不満。あと、男を見る目がないのが心配だった。私が男だったら、きっと世界中の誰より彼女を大切に慈しみ、最高に幸せだと言わせてみせただろうに。
ああ。その彼女の、命が!!
「ロゼッタ! ねぇお願い、返事して!」
石を投げつける民衆を己の青い炎で追い払い、磔にされている友に駆け寄った。
「ロゼ。ロゼッタ。可愛いロゼ。返事してよ! しなさいったら!」
遠くに、馴染みの魔力を感じる。クルスイーク。ロゼッタを誰より愛した魔族の男。種族の違いから身を引きつつも、ずっと彼女のそばにいた。
「クルス! あんたも早く手伝いなさい!」
声を張り上げながら、手は休みなく火を消した。皮膚が焼け爛れても気にならない。そんなことよりも、ロゼ。
「ロゼ、聞こえる? 助けにきたわ。返事して」
拘束を解いた瞬間、ロゼッタの体はずるりと落ちた。同行していた部下が慌てて受け止めてくれる。
「ロゼ!」
今のは何の匂い? いやだ、そんなはずはない。
否定したくて、すぐロゼを抱き起こす。しかし、そこにかつての清楚な面影はない。皮膚が失われ、露な肉さえ焼けて異臭を放つ。体の至るところに杭を打たれた痕があった。そのくせ、顔の輪郭は綺麗に残っていて、美しかった彼女がこの処刑の日まで、幽閉されながらどんな地獄を味わったか、すぐにわかってしまう。いつだって、女は男に虐げられるのだから。
「ロゼ」
ああ、いやだ。こんなの認めない。
どうして彼女ばかりが、こんな目に遭うのだ。散々苦しんだ挙げ句、最愛の男に切り捨てられ、拷問の中で男たちの欲から慰みものにまでされた。
清らかな心の、美しい娘だった。
それが何故、こんな最期を迎えている?
許せないと思った。
あの男? それとも、間に合わなかった自分だろうか?
歯を食いしばった瞬間。
「ステ、ラさま」
消え入りそうな、掠れた声。焼けた喉で、それでもロゼッタは私の名前を呼んでくれた。
「ロゼ!」
生きている。だが、それさえ儚い奇跡だと理解している自分がいて悲しかった。この重症では、明日まで到底もつまい。
「ありが、と。きてくだ、・・んて、おもいも・・・」
「馬鹿! あんたの為なら国境だろうが次元の裂け目だろうが、いくつだって飛び越えるわよ!」
恨み言でも漏らしてくれたら、今すぐ彼女に殉じることもできた。それなのに、あまりにもまっすぐ見つめてくるから、私は何も言えなくなる。
「今度は、私が貴女をたす、け・・い」
「いいよ! そんなことより、今は自分のことを」
「なら、お願いを」
そして最後に望みを呟き、彼女は――。
+ + + +
「寝ながら泣くとか、あんた変なとこ器用だな」
呆れたような、親しみのこもった声だった。
この声で名前を呼ばれるのが大好きだ。とてもきらきらした気持ちになる。信じられないほど、自分の名前が胸を揺さぶるのだ。
「ジャス・・・?」
「うん」
安心させようと、彼が意識的に相好を崩したのが分かった。また一筋、涙が流れる。
「ごめんなさい」
「・・・・何が?」
少し警戒気味に問うジャスに、手を伸ばす。
「間に合わなかった。助けてあげられなくて、ごめんね」
「いや、待て。何の話だ」
慌てたように手を振るう姿に、奇妙な感覚を覚える。あれ?
「指、生えてる」
「そりゃな」
「殆ど残ってなかったのに」
「・・・・どんな恐ろしい夢みてたんだ、リア?」
リア。そう、リア。レリアル・ウルフラーナ。神々の戦を止めた光の花の名前。意味は「愛在る者の幸福」だ。
自分の名前を胸の中で繰り返した瞬間、ようやく意識がはっきりしてきた。
「・・・・おはよう」
ジャスにそう言い、リアは周囲を見渡した。
自分の部屋でもジャスの部屋でもない。
身を起こし、ここはどこだと言いかけて、思い出す。ここはチュニアールではない。
「あ・・・・」
連鎖的に蘇る全ての記憶に、絶句した。
「リア!?」
無意識に顔へ爪を立てる手を、ジャスが引き離した。その力強さに震えが走る。
「やっ・・・・!」
恐慌状態のリアは、その手を振り払った。そのまま目の前の男から距離を取ろうとして、寝台から転げ落ちる。また頭を打った。
「――――そんなに俺が怖いのか? それとも赦せない?」
その声に、詰る響きはなかった。どこか労るようであり、切実なもの。
「あんたの身に何があったか、正確なことは何も聞いてないんだ。だけど、まず謝らせてくれ。あの夜のことだ」
一定の距離を開け、驚くべきことに、ジャスは膝を付いた。リアが声を上げるより早く、彼は言う。
「本当に悪かった。怖かったよな、嫌だったよな。立太式が済んだら、チュニアールでいくらでも殴られるつもりでいたんだけど」
まさか王宮に特攻してくるとは。そう苦笑する彼の頬に、やっと気持ちが落ち着き始めたリアは手を伸ばす。
「ジャスは悪くないわ。あたしが」
「俺はあんたに自分の気持ちを全く告げてない。そんな相手から迫られたんだ。あんたは被害者だ」
自分の気持ち――その言葉に泣きたくなる。待って、違う。謝るのは自分の方だ。本当は求められて嬉しかったのに、保身から拒むような真似をした。
その眼差しの強さも無邪気な笑顔も大きな手も名を呼ぶ声も、何もかもがたまらなく愛しい相手だ。
「ジャス、あたしは!」
言い募りかけた口を、大きな手が優しく塞いだ。ゆっくりとした仕草なのに、まるで反応できない。何より、その行動の意味に衝撃を受ける。
言わない方がいい。
リアが拒んだように、ジャスもまた拒んでいるのか。
そう考えた瞬間、視界が一気にぼやけた。目の奥が熱い。
「き、嫌いになった・・・・?」
「なれたら、どれだけ楽だろうな」
涙を拭う手は慈しむような所作であるのに、今の二人には明確な壁が存在した。
「落ち着いたら、聞いてくれるか? 応えてくれとは思わない。ただ、知ってほしいんだ」
「ジャス」
「本当に悪いと思う。散々はぐらかして、今更よくもって、自分でも呆れるんだが」
困ったように笑う様が、ひどく大人びて見えた。
「もう、あんた以外は女に見えない」
悪戯のようにリアの髪を掻き乱すと、ジャスはそのまま部屋を出ていった。その後ろ姿を、放心状態のリアは黙って見送ったわけだが、じわじわと頬が熱を帯びるのを感じる。
そんな場合ではないというのに、嬉しく思う自分を否定できなかった。というか、あんなもの殆ど告白と変わらない気がする。
「もう・・・」
恥ずかしいやら悔しいやら情けないやらで再び毛布を被った時だ。
「いやあ、何あの桃色空間。殿下ってば僕がいること忘れてたのかな」
呆れたような声に、ぎょっとして起き上がる。見れば部屋の隅の長椅子に腰かけた少女が、顔をひきつらせてこちらを見ていた。
「なんかもう、あれだったね。空気中に砂糖まぶしたみたいな。つーか殿下、好きな子相手ならあんな風になんの?」
君も大変だねぇと笑って近づいてくる少女を、リアは知っている。
「ヒルデガルドさん」
「はいよ、二回目だね。よろしく、お姫様」
そのままヒルデガルドは流れるような所作でリアの手を取ると、指先に唇を落とした。思わず硬直する。
「あ、あの?」
「殿下は僕のご主人だ。君はそのお姫様。なら、忠義を示して当然だろ?」
「お、お姫様!?」
鳥肌がたった。どんなに頑張っても脇役止まりな容姿である自分を、ほぼ初対面の相手がそんな風に呼ぶなど。
「いやはや、仲睦まじいお姿を拝見したよ」
にやにや笑う姿は、どこかリオンを思わせる。姿形はサーシェスとそっくりなのに、言動でこうも印象が異なるのか。
「僕のことはヒルダでいいよ。年が近いし女同士だからってことで、しばらく君の警護と侍女を兼ねて側にいるから」
「えっ」
「殿下の仰せだよ」
ヒルデガルド――ヒルダは、猫のように笑った。
「いやあ、ほんとびっくり。あの殿下がねぇ。ふふ、僕に君を任せるとき、なんて言ったと思う?」
「え・・・と」
リアは真面目に考えた。ジャスからリアに関する注意事項が出たならば。
「・・・すぐどっかへ行くから要注意、機嫌を損ねたら焼き菓子、石頭だから頭突きは避けろ、みたいな?」
「なにそれ!」
違ったらしい。ヒルダは腹を抱えて大爆笑だ。日頃のジャスからして、てっきりそんなことを言ったのだとばかり思ったのだが。
「あー、駄目だ。お腹いたいわ。お姫様やるね! 殿下ったら基本報われないんだから、あの顔で。ああ、もう。ほんと笑える」
笑いすぎではないだろうかと思いながら、リアはおそるおそる声をかける。
「あの、ヒルダさん」
「呼び捨てでいいよ? ああ、でも君は名乗らないでね。殿下が君の事情については詮索するなってさ。時期を見てるんだろうけど」
てきぱき答えるヒルダの態度は、ジャスと親しくも男女の甘ったるいものは全く感じられない。嫉妬した自分を恥じつつ、リアはおずおず尋ねた。
「それでジャス・・・いえ、殿下はなんと言ったんですか?」
「そんなに畏まらなくてもいいのに。聞きたい?」
「はい」
「なら、敬語と敬称なしで。いやぁ、年の近い子と知り合う機会なくってさあ。貴族からは嫌われてるし」
からから笑う彼女に、リアはこっくり頷いた。正直ハードルは高いが、このヒルダという娘、見た目のわりに頑固な性格かもしれない。ここは従うべきだと判断した。
「ヒルダ。ジャスはなんて言ったの?」
「ふふ。あのね」
こっそり耳打ちされた言葉に、リアはあっという間に真っ赤になった。問題は山積みだというのに、どつしようもなく心が弾む。今だけは、この喜びに身を委ねてもいいだろうか。それを杖にして、また立ち上がれるように。
ヒルダの言葉が、ジャスの声で蘇る。
『側で支えてやってくれ。俺の宝物なんだ』
天然って怖いよね。そう笑うヒルダに、リアは全力で同意した。




