幼い日の約束は今
痛々しいまでの静寂が、その場を支配していた。
「・・・本当に、サズなの?」
「ああ。そうだよ、リア。ずっとずっと、会いたくてたまらなかった!」
きつく抱き締めてくれる腕の力強さに、もうあどけない少年の青さは見えない。どこまで雄々しい男の腕だ。
かつて何より愛した紫色の瞳に自分が映る。うっすら涙さえ浮かべている彼に、ようやく実感した。
「あ、ああ・・・っ」
サズだ。
四年前に死んでしまった、死なせてしまった、そう信じていた、最愛の幼馴染み。
サザード・ダズル・ナリガレロ伯爵。
その彼が今、目の前で呼吸をしている。
生きている。
「サズ、サズだ・・・!」
真っ暗な世界にひとりぼっちだった自分を見つけてくれた人。何より恋しくて、守りたくて、神様のように、いつだって心の中を照らしてくれた。
「よ、よかっ・・・良かっ」
言葉にならなかった。涙で視界は歪んで、嗚咽も抑えきれない。
ああ、これはなんてことだろう。
「リアってば、泣きすぎ」
「だって!」
彼を失い、世界を呪った。
皇族も祖国も憎くてたまらなかった。
その思いは時と共に風化しつつあったが、心の隅に残っていた最後の濁りを、サズの声が、とうとう溶かしてしまう。
生きていてくれたのだ。それだけで、今は。
「俺が居なくなって寂しかったか?」
「この馬鹿!」
得意そうに聞いてくるその顔面を、リアは思いっきりつねった。
「ちょっ、リア。いひゃい」
「うるさい! 馬鹿! どうして四年も連絡してくれなかったのよ!」
本当は分かっている。サズの死は、おそらく何者かにより、というか皇太子とその一派によって仕組まれていた。生き延びても既に公には死人と認定され、身動きが取れなかったのだろう。
だがしかし、リアにとってこの四年は、あまりに長かった。
かつて無邪気な十四歳だった自分は、もう何も知らない無垢な娘ではないのだ。恋し失い、時の虚しさに廃れ、ひとつの出会いで違う世界に飛び出した十八の女が、今の自分だ。
もう、彼だけを純粋に慕っていた少女は、どこにも存在しない。
「ばか・・・」
全身から、力が抜けた。
「ばか」
聞きたいこと、話したいことは沢山あるのに、何故もっと早くに現れてくれなかったのかと責める自分がいる。彼の生存を喜ぶ気持ちは大きいのに、今リアが恋い慕うのは、サズではないのだ。
どうしてジャスと出会う前に、自分を迎えに来てくれなかったのだろう。
そうすれば、こんな胸の痛みを知らずに済んだ。
誰より大切だったはずの人を、裏切ることもなかったのに。
(・・・ちがう)
結局は、自分が悪い。
心変わりしたのは、間違いなくリア自身なのだから。
真実一途な娘なら、きっと生涯をかけてサズを想った筈だった。そうしなかったのは、自分が薄情な人間だからではないか。たかだか四年も待てないで、何が許嫁だろう。
「リア?」
俯くリアを、サズは心配そうに見る。ようやく抱擁を解くと、そのまま隣に腰かけた。
「驚かせすぎたな。わりぃ」
かわいい笑顔だった。彼は変わらないのに、自分はなんて醜いのだろう。母は命がけで自分を愛してくれたのに、あの強く美しい母の娘が、こんな冷淡かつ多情で、移り気な女だなんて。
「サズ、あのね」
しかしだからといって、いつまでも沈黙しているわけには行かない。
やっと会えたと、彼は言ってくれた。
おそらく、長い潜伏期間を終えて、迎えに来てくれたのだ。幼い日の約束のまま、二人で遠くに逃げる為に。
だが、リアはその手を取ることは、もうできない。
もうサズが一番ではないから。
否。
リアの世界が、あまりに大きく広がって、サズだけが大切なものではなくなったからだ。
今だって勿論サズは大切だ。しかし、ジャスを愛している。仲間たちとの暮らしを守りたい。あの国で得たものを、もっとたくさんの人に伝えたいとも願っている。生きることは残酷だからこそ、美しく尊く、意味と価値があるのだと。
(あまりにも、遠くにきてしまった)
だから、サズだけのリアでは、いられないのだ。
たかだか四年。されど四年。
十代の小娘が変わるには、充分すぎる時間だった。
「どうした?」
サズはリアの裏切りなど露ほども知らずに、微笑んでいる。リアが自分と共に来ることを、疑ってさえいないのだ。
「あたし、あなたに言わなくちゃいけないことがあるの」
声が震えた。しかし、逃げるな、と誰かが言う。
それは誰の声だったか。自分か、あるいは母か。それともジャスか仲間たちか。
どれも違ったように思う。きっと、幼い日の自分だ。置き去りにするなら、認めろ。そう、言っている。
「うん? っと、わりーけど、後でもいいか? まず移動しよう。人の気配が」
「好きな人がいるの」
再会の感動もそこそこに、我ながら最低だと思う。
しかし、臆病な自分は、今を逃せばきっと言えなくなる。
「好きな人が、できた。サズを待てなかった。死んじゃったって、ずっと思ってたから。ごめんなさい」
早口に言い切り、立ち上がって頭を下げた。
ごめんなさい、もう、貴方と一緒に死んであげられない。
殺してやるとまで言ってくれた彼を、自分は裏切る。
幼い日の約束が砕けた瞬間だった。
共に生きたいと想う相手が、他にいる。たとえ結ばれなくても、同じ世界に生きているだけで、幸せを感じられると信じられる人に、恋をした。
「ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい!」
誰より好きだった。
世界の誰より大切だった。
尊い神のようなひとだった。
そんな相手を、裏切ったのだ。
「恨んでいい。あたしのせいで貴方の人生を狂わせた。何もかもあたしのせいだって、わかってる。でも、嘘だけは吐けないよ」
泣くのは卑怯だと、必死に目を瞑り、歯を食い縛った時だった。
「リア、こっち向け」
呆れを含んだ声に、驚く。
「サズ?」
「はい、座る座る」
「え、ちょっと!?」
ひょい、と膝の上に乗せられて、流石に気が動転した。
「サズ、あたしは!」
「四年も経ったんだ。流石に、何の変化もないなんて思っちゃいないよ」
耳元で落ちた囁きに、鼓動が跳ねる。
「ランティスは? 一緒じゃないのか」
「・・・・えっ」
まさかの名前に、純粋に驚いた。何故サズの口からランティスの話が出てくるのか。
リアの表情を見て、サズは苦笑した。
「あいつ、何も言ってないんだな」
「?」
まさか二人は知り合いなのか。頭が真っ白になるリアは、サズの腕に力が入るのに気がつかなかった。
「その話はおいといて、リア。お前の好きな奴は、ランティスじゃないよな?」
「え、ええ」
「うん。なら大丈夫だ」
奇妙な反応だと、本能が警鐘を鳴らした時には手遅れだった。
視界が一気にひっくり返り、背中に軽い衝撃を感じる。見上げる先には天井。そして、覆い被さってくるサズ。
押し倒されたのだと理解した瞬間、血の気が引いた。
「さ、サズ・・・?」
人の少ない宮殿、管理されていない空き部屋、二人きりで寝台の上。そして何より、かつての許嫁同士で、本来なら今頃とっくに夫婦になっていた間柄の男女。
呑気に泣いていた自分を殴りたくなった。
「サズ、何を考えてるの?」
先程とは違う震えが、全身を支配する。その予想に違わず、サズは唇を重ねてきた。
あっさり訪れた現実の感触に、リアは放心する。
何度も何度も啄まれて、ようやく我に返った。
(いやだ)
怒り任せに殴り殺された方が良かったかもしれない。
嫌だった。そう、本当に嫌だった。
触れたいのも、触れてほしいと願うのも、今ここにいない黒髪の彼だけなのだ。
その相手はもう、サズではない。
「・・・やめて!」
なんとか引き離し、声を張った。しかし、サズはにっこり笑う。
「やめない。俺への気持ちを思い出してくれるまで」
「なっ」
再び強引に口づけられて、リアは涙ぐんだ。さっきの言葉は、そういう意味だったのか。
いやだ、気持ち悪い。そう思う自分が悲しかった。偽らざる本心で、彼を拒絶してしまっている。
あんなに大切だと慕っていた相手が、今は恐ろしくて仕方がない。
恐怖と自己嫌悪で身動きさえできないリアだったが、サズの手が胸の膨らみに触れた瞬間、とうとう涙が止まらなくなった。
絶対に嫌。触らないで。
しかし、そう思うのに、体は動かなかった。それどころか、魔力さえ乱れるだけで暴走の兆しもない。この王宮に張り巡らされている結界のせいだろうか。
そこまで考え、気づく。
これは罰なのだ。
サズの人生を狂わせた挙げ句、自分は新たな世界で幸せに暮らし、あまつさえ別の男に心変わりした。その報いを今ここで、直接サズから受けている。
「サズ・・・」
「うん?」
大きな熱い手が、素肌に触れた瞬間だった。
右耳のイヤリングから、山吹色の光が溢れ、その場を満たす。
「私達のお友達から離れて」
夏の日の遺言に従って。
山吹色の髪、林檎色の瞳、半透明の体。
「セレナさん・・・?」
自分とサズの間に現れたその人物の名を、リアは呆然と呟く。
出会う筈のなかった二人の少女が、遠い異国の地で再会した。




