秘密の名前と僕らに降る花 中編
男爵領から立ち去ったアレクサンドラは、まっすぐに【ラジェーテ】を目指した。昼夜を問わず走り続ける。ここで忠誠心を示さなければ、自分は殺処分されてしまうだろう。それだけは駄目だ。
(もう一度リオンに会うまでは)
死ねない。なんとしても生き抜いてみせる。
・・・・本当は分かっていた。
男爵の首を手土産にさえすれば、こんな強行をせずに済んだのだ。それでもできなかった。
(夢なんて見たくなかったのに)
泥の中で生まれ育ち、当然のように泥の中で死んでいくのだと思っていた。
それなのに。
『大丈夫かい?』
『また来るからね!』
あんな温かい世界を当たり前のように与えてくれる出会いがあるなんて、知りたくなかった。
走り続ける。それなのに、胸は引きちぎられるように痛い。景色が霞んで見えて目をつぶる。
「どうして・・・・っ」
本当の名前も告げず礼さえも言えなかった。その事実が、こんなにも寂しい。
ようやく【ラジェーテ】にたどり着いたアレクサンドラを待ち受けていたのは、任務失敗の制裁でも殺処分でもなかった。
辺り一面の、炎の海。
「・・・・何これ」
思わず呟く。目の前に広がる景色に頭が付いていかない。こういうときはどうすればいいのだったか。基地が陥落した際の心得など教わっていない。立ち尽くすアレクサンドラの耳に、少しずつ周囲の音が届き始める。
「脱走だと!?」
「速く追え。ノアリスだけは逃がすんじゃない!」
直後に爆発が起こり、また人が吹き飛んでいく。
この炎は死が罪人を裁くために形になって現れた魔物のようだ。
周囲の絶叫にようやく理解する。
【ラジェーテ】はもう、終わりなのだ。
どうしよう。そう思いながら、アレクサンドラは既に走り出していた。
「リオン! どこ!?」
人の群れに飛び込んで声を張り上げる。自分と年の違わぬ子供たちは、みな立ち尽くしていた。逃げ出したいのに、大人に捕まれば死よりも惨い折檻が待っている。殺処分も恐ろしいが、何よりおぞましい末路は折檻の後に洗脳と薬物投与を続けて、完全な操り人形にされることだ。
誰もが救いを求めるように、アレクサンドラを見る。その中にリオンの姿はない。
(ああ、もう!)
少し前の自分なら、こんな連中見捨てられたはずだ。それなのに、今は目を反らすことさえできない。
「走れ! ここで与えられた力を、今度は生き抜くために使うんだ!」
気づけば声を張り上げていた。よく通るその声は、炎の中でもしっかりと伝わった。
「君たちはいつまで大人の奴隷でいるつもりだ」
リオンはいない。今どこかで泣いているのかも。
だけど、もう。
探しにはいけない。
「ここから逃げて、知らない世界を見たくはないのか!」
そう叫ぶや、アレクサンドラは深く息を吸い、歌を放った。
(もう一度だけ、力を貸して)
胸に手を当てて歌えば、あの王子からもらった紫の花が萎れているのに気づく。
せっかく貰ったのに、枯らしてしまうくらいなら、持ってこなければ良かった。
「・・・・これからもっと炎が大きくなるよ。固まったらすぐに捕まる。気をつけて行きなよ」
そう小さく微笑んで、アレクサンドラは炎の中に飛び込んだ。
直後、無数の火柱が吹き上がる。
火精霊と風精霊に炎を大きくするよう指示を与えながら、アレクサンドラは安堵した。
子供たちの走り去る足音が聞こえたからだ。
(殿下や男爵は・・・・泣いてくれるかな?)
だけど、今の自分はあの子供たちを見捨てることはできない。といって、あの場の全員を守り抜くなど不可能だ。できるのは精々発破を掛けるくらいだった。
(リオン)
君が逃げていることに賭けた。
少しでも多くの人が逃げられるよう、せめて時間を稼ごう。
裁きの炎の中で誰かの為に償えるなら、最高の最期ではないだろうか。
「見つけたぞ、アレクサンドラ」
低い声が聞こえる。
・・・・取り囲まれているらしい。
「今すぐ歌をやめれば命だけは助けてやる」
それは嘘だ。
炎を操るアレクサンドラを、彼らは決して生かしはしない。
(さあ、歌おうか)
そろそろ息が苦しくなってきたが、それでも構うものか。
喉が焼けても歌い続けてやる。
『リオン』
男爵と王子の声が蘇る。
ごめんなさい。優しい二人を悲しませる。
しかしアレクサンドラはわかっていた。生きていれば、自分はまた彼らに会いたくなる。身の程も知らずに。
(だから、さようなら)
流れる涙さえ蒸発していく。
アレクサンドラは火精霊と風精霊に、魂を捧げる覚悟で歌い続けた。
「ああ、気がついたかい」
驚いたような声に、アレクサンドラは目を覚ました。
「っ!」
途端に激痛が全身を襲った。喉も燃えるように熱くて痛い。
(なに、これ)
朦朧とする意識で周囲を見渡すと、簡素な山小屋のようだった。
「喋ろうとしなくていいよ。あんな恐ろしい目にあって、可哀想に。酷い山火事だったねぇ」
「麓まで燃え広がっていたらしいぞ」
二つの声は嗄れつつある。上手く眼が開かないが、どうやら老人の夫婦に拾われたことは理解できた。
(そうだ、あのあと)
歌い続けた果てに倒れたアレクサンドラに、精霊たちが群がってきて、あの炎から助け出してくれたのだ。まるで、まだ行くべき所があるとでも言うように。
「・・・・こっ、こ?」
ここはどこだ聞こうとした瞬間、喉に血の味が広がった。
「喋ってはだめ! まだお医者さまがいらしてないの、無理しないで」
老婆の声に、アレクサンドラは不思議に思う。なぜそんなに親身になってくれるのだろう。
「ここはトロナイルと連邦の間よ。国境地帯・・・・というのかしら? 時々軍人さんが見回りにきてくれるの。だから安心して頂戴」
軍人がうろついている土地なら【ラジェーテ】の追っ手にも、そうすぐには捕まらないだろう。少しは安心できそうだ。
そう思ったらまた意識が遠のいてゆき、アレクサンドラは眠りについた。
一ヶ月後。
自分で立って歩ける程度に回復したアレクサンドラは、老夫婦に別れと、心からの感謝を告げて山を降り、国境を越えた。
向かう先は1つしかない。
(痛いな)
体が悲鳴を上げている。しかし、これは怪我だけが理由ではない。
組織にいる間、嫌でも様々な薬を投与されていた。それをなんの治療もなく全て唐突に絶ったなら、謎の発作や禁断症状が出てもおかしくない。
(行かなきゃ)
アレクサンドラは髪を短く切り、性別を男と偽って旅を続けた。ただでさえ子供一人旅だというのに、幼い女では危険度が一気に跳ねあがるのだ。更にいうなら、追っ手を多少掻い潜れるかもしれないという希望をこめて。
(遠くから一目、元気な姿を見れたら)
もう思い残すことはない。
痛む体を引きずるように歩きながら、アレクサンドラは進み続けた。




