亀裂
トロナイルの宮殿にて、頭を抱えている少女がいた。
(僕が殿下の側室・・・? やだやだ、冗談じゃないよ)
王子ジャスティスの悪友にして、稀代の美声を持つ【平和の歌姫】の異名を大陸に轟かしている男爵家の令嬢、ヒルデガルド・コーバッツだ。
確かに、友人として彼を支えるために、その道を考えたことが一度もないわけではない。だが、ヒルデガルドは男爵家に拾われた孤児であり、世間ではシンデレラなどと持て囃されているようだが、社交界での地位など所詮お飾りで、裏では散々に貶されていることなど周知の事実だ。ゆえにヒルデガルドは迷惑をかけないよう、ジャスティスの友人であることを殆ど明かしていない。彼との関係を知るのは男爵夫妻とジャスティスの叔母の嫁ぎ先であるヴァレンティノワ公爵一家。
そして――――トロナイル国王と、その側近数名だ。
直々に話を持ちかけてきた以上、おそらくヒルデガルドの王宮入りは、既にある程度の根回しが出来ていると考えていい。
(まずったな・・・どう殿下に謝ればいいんだ)
ただでさえ臨まぬ婚約やアルポロメの鬱陶しい公女で頭を悩ませていたのに、まさかそこに友人まで加わるとは夢にも思っていない筈だ。自分に非があるとは思わないが、流石にヒルデガルドでも同情してしまう。
(せっかく、あんな表情ができるくらい、好きな子ができたってのにさ・・・・)
夏の頃お忍びで帰国した彼は、心に一人の少女を想っていた。
それはとても真剣で誠実で、その瞳にヒルデガルドは一瞬、時を忘れて見惚れたほどだ。
笑っていても、いつも寂しげだった自分の主。
心の底から慈しんでいるのだと、その瞳が物語っていた。
そんな相手がいるのに、ようやく出会えたのに、何故、どうして彼ばかりが。
ヒルデガルドは自身の未来を狭められる可能性を憂うより、友人をどこまでも道具として扱う国王に深い嫌悪を覚えた。
「失礼ながら、国王陛下」
「なんだ」
「僕の主は、あなたではない」
首を刎ねられても仕方がない。
否、この粗末な首ひとつで、友人が生まれてから刻まれ続けた傷に報いれる筈がない。
けれど、だからこそ、言った。
言ってやろうじゃないかと思えた。
誰もが傅く至高の玉座。高みから見下す、子ども達にとっての【暴君】に、真っ向から。
「僕の主は、この世に唯一人。ジャスティス・ラゾーディア殿下だ。他の誰も僕に命ずる資格など持たないし、僕はそれを許さない。僕を娶るのも殺すのも生かすのも、その全ては我が主が決めること」
かつて、あの少年がヒルデガルドの本名を胸に秘め、今も守ってくれているように。
恩に報いよう。自分とその家族の味方でい続けてくれた彼の心を、ヒルデガルドは知っている。
この王宮で、自分だけしかいなくなっても、最後まで彼の、彼だけの臣でありたい。
「僕の玉座は、とっくの昔から彼の指定席なんだ。悪いが、諦めていただこうか、“国王陛下”?」
殺されてもいい。
命がけで示してやる。
何もかもが思い通りになるなど、思いあがるな。
道具同然に扱い切り捨てた自分の息子に、お前は負けたのだと。
毅然とした態度で、朗々と宣言したヒルデガルドに、国王はかすかに目を瞠り、やがて息を零した。
思わず、という風に。
「確かに。あれの嫁には、いささか以上に惜しい。良き娘だな、ヒルデガルド・コーバッツよ」
部屋から出ることを許されたヒルデガルドだったが、回廊をズンズン進むその表情は険しく、常の陽気さは見当たらない。
(やっぱ一発くらい殴ってやりゃ良かった)
国王は諦めたようだが、信用ならない。ヒルデガルドは鼻を鳴らした。
(こんな下衆な話があったなんて、そりゃ言えないけど・・・・でも、やったよ殿下、一矢報いたからね!)
心の中で拳を握るヒルデガルドは、今回の婚姻について考える。
“魔女の児”が二人も生まれた王室――――姫は攫われ、息子は留学の名目で異国へ追放。国民は何も知らない。
自国の王族こそが、“ ”なのだと。
ヒルデガルドの憶測だが、そう考えれば納得がいくのだ。
側室として王宮に上がれば、ヒルデガルドはきっと一年もしないうちに子を宿すだろう。
そしてその父は、夫となっている筈のジャスティスではない。
共犯者として選ばれたのか、それとも子どもを産んだ後はすぐに処分する算段だったのか。
それは今でもわからない。
いや、側室の話自体がなくなる可能性も高いのだから、考えるだけ無駄だろう。もうじきジャスティスは誕生日で、また近いうちに帰省するのだから、その時報告すればいい。
そう判断して意識を切り替えた彼女だったが、不意に視線を感じて、足を止める。
(なにか、今――・・・っ)
思考が最後まで続かない。
まさしく一瞬の出来事だった。
優艶な美貌の姫君が、ヒルデガルドの目の前に、唐突に現れたのだ。
「ノアリス殿下・・・・」
かつて攫われた、ジャスティスの姉にあたる王女だった。
「初めまして、わたしノアリス。さっきのお話は聞いてたよ、ヒルデガルドちゃん」
柔らかいのに底知れぬ迫力を秘めた笑顔に、ヒルデガルドは久方ぶりにその感覚を思い出す。
(ここで僕、消されるのかな)
目の前の美しく優しげな姫君から、死の恐怖をひしひしと感じた。
独立国チュニアール
自分を取り巻く環境が少しずつだが確実に変化している。そのことを小さな島国で暮らすジャスはいまひとつ理解できないまま、クリフの帰還を待っていた。
もうじきに自分の誕生日がくる。この分では、クリフとはジャスが本国に一時帰国してからの合流になるかもしれない。神殿での儀式があるのだ。
ジャスは知らなかった。
シンルーがアルポロメにいることを。
ランティス達が過去の因縁に再び巻き込まれようとしていることを。
春先に出逢った旅人が自分の祖国へ向かっていること。
帝国で自分の婚約者候補の姫君が賊と対峙したこと。
生還した実の姉がヒルデガルドと接触したこと。
本当に、何も知らなかったのだ。
想い人である少女が、自分に同じ想いを抱き、今まさに自分の元へ足を向けていることも。
知らなかったからこそ、この日、事件は起きた。
お互いの幼く不安定な恋心を、無用心に晒して。
ヒースはクリフと違い扱いやすく、最近は港の方にいる時間が多い。ジャスがさりげなく提言すると、二つ返事で港の詰め所を寝床として定めた。
よって、ジャスはこの無駄に広い部屋を一人で使っている状態だ。
もともとクリフは徹底的に姿を隠していたが、本当に誰もいない空間というのは久々で、ジャスはついだらけてしまう。
(どうすっかな・・・・)
リアが自分に好意を抱き始めているのではないか。
そう疑い始めてから、ジャスは彼女の目を見ることが出来ない。
惚れた相手が自分を想ってくれる。本来なら、ジャスが平民で、尚且つここまで複雑な立場でなければ、喜び有頂天になれたかもしれない。
けれど。
最初から――――出逢った瞬間から、いずれ別れることが決まっていた。なのにどうしてあの夜、赤い月の下、自分たちは。
少女との距離感をどうすべきか思い悩む少年は、最後の最後まで、その足音に気付けなかった。
そうして、少しずつ、終わりが始まっていった。
「ジャス、いる?」
リアは彼の部屋のドアを叩きながら、大きな声で呼びかけた。
「ジャス、大丈夫? ・・・開けるよ?」
ためらいがちにドアをあける。彼だってノックもなしに平然とリアの部屋へ入ったりするのだから、おあいこだろう。
「ジャス・・・?」
ドアを開けてすぐに広がるリビングダイニングキッチンには、灯りがついていない。しかし、奥の私室から僅かに光が漏れているのに気付き、リアはそちらへ向かった。
「ジャス、もしかして寝てる・・・?」
小声で問いかけながらドアを開けると、暖炉前のソファで横になっていた彼は驚き、飛び起きた。
「えっ、リア!?」
何故ここに、と驚くジャスが少しおかしくて、リアは小さく笑ってしまう。
その微笑に彼が見惚れていることに気付かず、彼女は言う。
「アランさんから聞いた。仕事中、明らかに様子がおかしかったって。みんな心配してたわよ」
「あ・・・ああ、そっか。悪い」
歯切れが悪いジャスにリアも少し心配になったが、横に腰掛け、あえて明るく、からかうように額を彼のそれにぶつける。
こつん、と。
「さーてーはー・・・、ランティスお兄さんがいなくて寂しいのかな? いつも一緒だったクリフさんまでいないから心細かったりして?」
リアとしては、彼がムッとした顔でうるさい、そんなんじゃない、とそっぽを向くのを予想していた。
けれど。
実際のジャスは、リアと鼻が触れ合うほどの距離に、硬直していた。
息の仕方が分からなくなる。
遠い昔、レティアが自分に向けた言葉が蘇る。
彼女もこんな気持ちだったのだろうか。
手を伸ばせば、何でもできる。触れて抱き締めることも。
相手の方から、こうして近づいてくるのだから。
それなのに、自分以外の誰かが胸にいるのを知っている。
これは怒りか、それとも嫉妬なのだろうか。
よくわからない。
リアと出逢ってから、初めての事ばかりだった。
ただひとつ、わかったことがある。
今になって知ったのだ。
ずっと、彼女を好きだと想っていた。
けれど本当は、それだけではなかった。
想いはとっくに、そんな温かい時期を通り過ぎていたのだと、誰もいない夜の部屋で、彼女と二人きり、顔を寄せ合わせた瞬間に、知った。
彼女が欲しい。自分のものにしたい。
誰にも触れさせたくないし、その全てを飲み込んでしまいたかった。
たとえ手酷く拒絶されても、きっともう、リアでなければ、それ以外は女にさえ見えないだろう。
出会いの夜を思い出させる赤い炎に照らされた部屋で、ジャスの理性が、静かに割れる。
そうして、穏やか日々が、終わりを告げた。




