修羅の崩壊と心の行方
『あんたってほんとバカね』
粉塵で薄汚れた衣装を纏いながら、女の神々しくさえある美貌は全く損なわれていなかった。普段は丁寧に巻かれた栗色の長い髪は乱れ、雪色の真珠肌にも無数の傷が刻まれ血が滲んでいる。それさえ妖艶で魅力的に感じるのは、彼女こそが為せる業なのか。それとも、自分がこのじゃじゃ馬に惚れ込んでしまったがゆえなのか。
『うっせぇ阿婆擦れ』
悪態をついた。すると彼女は面白そうな笑みを浮かべる。星空を宿したような藍の双眸が輝いた。
『その阿婆擦れに命を助けられちゃったのは、どこのお間抜けさんだったかしらね?』
細い肩を竦める。ああ――溜息が漏れる。
この姿が好きだった。呆れたようで、疲れたようで。それでいて活力に満ちた声。女らしい体格の線がたまらなく見事だった。
『そんなに言うな』
別の男の声がした。大嫌いな、あの糞野郎の声だ。
『だってこいつ、この歳になって意味なき反抗期を迎えちゃったみたいなのよ? しっかり向き合わないと』
出会い、拾われたのは十を少し過ぎた頃。
恋人同士の彼らは、自分を歳の離れた弟、もしくは息子のように面倒をみてくれた。
独立国チュニアール。荘厳で美しい白亜の宮殿。
そして、時は流れて。
『あんたって本当に馬鹿ね』
以前よりも深みを帯びた声。
星空の瞳は哀しそうに濡れていた。
『さようなら、セルガ』
紅い満月の夜の別れ。
星さえ霞む怪しい月夜が、それ以来、彼の胸に焼きついた。
外の景色がまた変わる。
(また冬が来るんだ)
あの日から、一年半が過ぎていた。
(紅夜)
彼に見られてしまった。確かに互いが暗殺者であることは承知していたが、現場での姿を晒すのは恐ろしかった。
だのに、彼は現れた。蒼姫の真の姿を見て青ざめていた。そのことが思った以上に苦しくて、精神的に不安定だったこともあり蒼姫はあの場で意識を失ってしまったのだ。好いた異性に血塗れの姿を見られて、喜ぶ女が世界中にどれだけいるだろうか。曲がりなりにも年頃な蒼姫が受けたショックは測り知れない。
けれど、次に目覚めた時、彼は傍にいなかった。
恐怖か嫌悪か。それらによる忌避なら、まだよかったのに。
『療養?』
屋敷を訪れた組織の首魁の提案を蒼姫は訝しんだ。どういうつもりだ。
『何も? 働かせ過ぎたと思ってな』
怪しい。この男が他人を気遣うなどついぞ無いことである。疑うなというのが無理な話だった。
『セルガさん、紅夜を知らない?』
屋敷内を隈なく捜したが、見当たらなかった。蒼姫を避けるにしても、律儀な彼の性分からして、書置き一つ無いというのは不自然だった。
問われたセルガはにやりと笑った。瞬間、ペルセフォネが顔を顰めたが、蒼姫は気づけなかった。次の言葉が衝撃的過ぎて。
『ラミアと組んで仕事に出た』
『はぃ?』
予想外の答えに間抜けな声が漏れる。
『お前とはもう会いたくないとよ。相方に誤解されるから』
『え・・・・っと、誤解?』
『思春期のガキってのは、好きな女に妙な誤解されたくねぇもんなんだよ』
誰が、誰を、何だって?
『紅夜が、ラミアちゃんをす・・・・好きで、わたしから距離を置いたってこと?』
『そうだ』
心臓を抉られたような気分だった。
確かに、自分は彼にとって厄病神だろう。なにより初対面で臓器を切り刻んでくるような女など【圏外】とされて当然だ。
でも、だけど、しかし、けれど、そうは言っても。
(傷口に塩だね・・・・)
ラミアは炎のような髪が美しく気の強い娘だ。彼女は蒼姫を嫌っているようだが、こちらはむしろ憧れている。しっかり者で頼りがいのある人だ。
だから、紅夜が惚れたというのも驚きは無い。悲しくはあるけれど。
それが、一年半前の話。心の深手は未だ癒えない。
(泣きっ面に蜂)
しかも、「会いたくない」との伝言付。落ち込みすぎて涙も出やしない。
「蒼姫」
「・・・・博士」
ゆっくり振り向くと、幼少から世話をしてくれている男がいた。今では自分をそう呼んでくれるのも彼だけになってしまった。
「もう少し休んでいなさい。まだ本調子じゃないのだろう」
「わたし、病気なんてしてないよ」
“魔女の児”は総じて体が丈夫なものだ。普通の人間のように臥せってしまうほど可愛い生物ではない。
失恋は、同じように痛いけれど。
「君の場合は病気ではない。薬物の過剰摂取だよ」
博士は蒼姫の頭の撫でるように叩いた。
幼い日から殺し屋として育てられた蒼姫は、セルガの指示で危険な薬物を使うことなど日常茶飯事だった。鎮痛剤に精神安定剤、向精神剤に睡眠薬。数えきれない薬物の効果は抜群だったが、それだけ副作用も後遺症も依存性も高い。この一年半、蒼姫も蒼姫で必死に自分自身と戦い、治療に耐えた。
(もう、いいだろう? これ以上は、あんまりだ)
この時ペルセフォネは、紅夜が誰の為に自分たちから離れたかを承知していた。セルガの酷い嘘にも気づいていたが、真相を語れば紅夜の想いを踏みにじることになると躊躇い、今後どうするべきかを考えていた。
(組織を抜けるか)
常ならば裏切り者として死を与えられるだろうが、今は少し状況が違う。
ペルセフォネには一つの確信があった。この組織はもう、長くは保たないと。
【星空の宴】は、他の奴らが思うほど生易しい連中ではない。名前こそふざけているかのように目出度いが、その兵力は一国の軍隊と遣り合えるほどだと聞く。世界各国の上層部にもコネクションを持っているらしく、情報網やそれによる圧力も相当なものだ。
一方、自分たち【ラジェーテ】は悪名高い暗殺集団だ。特に首魁セルガはその卑劣で強引なやり口で、方々から憎まれている。
【星空の宴】に叩き潰されるのが先か、それとも内部分裂か。どちらにせよ、この組織はもう長くはないのだ。
(せめて、この子たちだけでも・・・・)
紅夜と蒼姫。生きるために他人の命を奪って育った殺戮と破滅の申し子たち。
けれど、それ以上に優しい心を持っているのは知っている。十分すぎるほど苦しんでいることも。標的を人間と思わなければ楽だったろうに、この二人はどんな時でも相手の身の内に宿る生命の灯火を見つめている。そんな似た者同士だから、こんなにも惹かれ合っているのだろうか。
コンコン―――
「はい?」
蒼姫がノックに応じて答えると、扉が開いた。見知った女性が現れる。
「マリーナさん」
【月下の女王】と異名をとる組織最強の女暗殺者だ。博士と親しい女性なので、自然と蒼姫も言葉を交わすことが多かった。
「どうなさったんですか?」
「それ、が」
マリーナは珍しく、迷うように視線を彷徨わせた。躊躇いがちに口を開く。
「落ち着いて聞いてほしい。気を確かに」
困惑を孕んだ声で、彼女は告げる。
「本部が、【星空の宴】に襲撃を受けている」
記憶の中で、誰かが微笑みながら言った。
『じゃ、紅い月の夜に出逢ったから、わたしは君を“紅夜”って呼ぶね』
ああ、またこの夢か。我ながら女々しい。けれど心は現実を拒絶するように、遠い日の少女を追いかける。
初めて逢ったのは二年前。それから半年を共に過ごして、【あの日】を境に離れたのだ。他でもない自分の意思で。
もう、一年半も顔を合わせていないのに、瞼に焼きついた優しい笑顔は色褪せる事がない。俺ってこんな粘着質だったのか、と少し悪い風に考える。「一途」なんて綺麗な言葉、自分のような殺人鬼にはおよそ似合わないのだから。
けれど、好きなのだ。どうしようもなく。自分でも驚くほど強く惹き付けられた。
『大丈夫だよ。わたしがここにいて守ってあげる』
傷による発熱で魘されている時、彼女は傍にいてくれた。闇の中を這いずり回ってきた【ソルド】には信じられないほど優しい言葉をくれた。こちらが復讐鬼だと承知の上で、それでも彼女は【ソルド】の手をずっと温かく握っていてくれたのだ。
血に穢れていると分かっていた筈なのに、【ソルド】の罪に塗れた手を、彼女は何の躊躇もなく掴み、冷たくて暗い孤独の闇から引き上げてくれた。
正直、彼女が暗殺者かどうかはどうでもよかったのだ。ただ傍にいてくれて嬉しい。それだけだった。
明るい笑顔、名を呼ぶ声、温かな手、素直な言葉。
その全てに、どれだけ救われただろう。
気丈に振舞いながら実際はそうでないことなど、とうに知っていた。
だから、【ソルド】を捨てた。彼女がくれた新しい自分を受け入れた。家族と仲間を裏切る道を選んだ。【紅夜】として生きると決めた。
「蒼姫・・・・」
脳裏で頼りなく揺れる、儚げな蒼い一輪花。
彼女の【蒼】は自分とは違う綺麗な色だったから。【姫】は彼女が王族だった事もあるけれど、気高く優しい彼女への敬意を表したつもりだった。本人は由来などさほど気にしていないようだったが、少なくとも紅夜にはそれなりに意味のある名前だった。
本当はずっと傍で、名を呼んで欲しかった。その笑顔を見ていたかった。
『ごめんな。さよならだ』
そして今、まさに永遠の別れが訪れようとしている。紅夜はぐるりと、仰向けのまま辺りを一瞥した。
炎の赤、血の赤、そして遠く、月の紅。
【星空の宴】の総攻撃。気づくのが遅すぎた。
けれど、これで良かったとも思う。これで彼女は自由の身だ。組織が滅べば、彼女の枷は消える。この炎が焼き尽くしてくれる。自分は共に行けないけれど、ペルセフォネが傍にいて面倒を見てくれる筈だ。
そして。
「紅夜・・・・?」
僅かに響く少女の声。紅夜は苦笑した。どこまで執着しているのか。炎が見せる幻覚だ。
目の前に、黒衣の少女がいた。別れた時より伸びた黒髪が、離れて過ごした日々を物語る。毛先は相変わらず癖があり、巻き毛のようになっていた。顔立ちも大人びた気がする。元から整った容姿の持ち主だったが、一年半でまた随分と女らしくなったようだ。まあ変化の最も著しい時期に離れたのでそれも当然か。紅夜の方も背が伸びて少し外見が変わったとラミアから言われていた。
けれど、左右で異なる宝石を宿したような双眸の美しさは変わらなかった。蒼は極上のサファイア、紅は鮮やかなルビーのように綺麗なままで。
どうせ自分の弱い心が見せた夢幻なら、笑ってくれたらいいのにと思った。贅沢を承知で言うなら、もう一度名を呼んで欲しいとも。
そんな今にも泣きそうな顔はしてほしくない。そんな表情を見たくなくて、させたくなくて離れたというのに、これでは本末転倒も良いところだ。
「蒼姫」
かつて自分が与えた、確かな想いが込められた名を呼んだ。手を伸ばす。たとえ触れられなくてもいい。ここに姿が見えるだけで、紅夜は嬉しかった。次に意識を失えば地獄に逝くのだとしても、笑って死ぬ事ができる。殺人の罪に穢れた復讐鬼の最期には、勿体無いほどの幸福だった。
その筈だった。
「・・・・ぅ、や」
妙な事が起きた。
少女が膝をつき、身を屈めて紅夜の手を握ったのだ。いつかのように。
「紅夜!!」
熱い血とは程遠い温かな涙が、頬を濡らす。それで一度に意識が冴えた。情けなくもいじらしい泣き顔。何度も見た。いや、しかし。
まさか、本物の――――
「蒼姫・・・・?」
そんなはずはない。そう言い聞かせる紅夜を、少女はキッと泣きながら睨みつけた。
「そうだよ! お莫迦な紅夜を迎えに来たの!!」
満身創痍の紅夜の鼻を抓って、更に大声で叫ぶ。
「お莫迦!!」
再会の感動もそこそこに怒鳴られ、その剣幕に恐怖を覚えた紅夜は本能に従い答える。
「ご・・・・ごめんなさい」
こんな台詞を言うのは、子供の頃以来だと、ぼんやり思った。




