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鳥籠姫と黒い翼の魔法使い  作者: 飛翔生姜
第三章 色づく想いは紅葉のように
35/118

戻りえぬ時の彼方






 夢を見る。

 大切なものを失った日の事を。

 誰より憎い男の顔を。



 処刑場へと現れた【彼女】は、もはや生気を失っていた。

 捕縛され、幽閉場所の塔で数ヶ月に及び拷問を受け続けた。

 ただでさえ華奢な体躯は更に痩せ細り、豊かな黒髪は見るも無残な有様だ。紅玉の双眸からは光が失われている。もしかしたら、【彼女】は既に視力を奪われているのかもしれなかった。

 磔にされ、その足元に火が放たれる。

 そこで、彼女は身動ぎした。

 口から漏れたか細い呻きが、やがて慟哭にも悲鳴にも聞こえるものへと変わってゆく。

 やめろと叫びたかった。

【彼女】は何も悪くないのに。

 お前達を救ったのは、他でもないその娘なのだと。

 しかし現実は非情だった。

 燃え盛る炎に、見物していた多くの人間が石を投げ始めたのだ。

 民衆達の容赦ない仕打ちを、【彼女】はどう感じているのだろう。

 燃え盛る紅蓮の勢い、爆ぜる炎。そして周囲の怒号で、もはや【彼女】の声は聞こえない。

 分かっていた。もうこの時点で【彼女】が事切れているのだと。それでも認めたくなかった。

 一体【彼女】は、どんな思いで逝ったのだろう。

 そう涙を流した瞬間、【彼】を支配したのは紛れも無い怒りだった。それは無実の【彼女】に石を投げつけた民衆達、彼女を捕縛し拷問した連中に抱いたものの比ではない。


『なぜ貴様は“そこ”で生きている……?』


 今でも思う。本当に、八つ裂きにしても足りないほど憎くて堪らない男を、よく殺さず我慢できたものだと。


『それが長く己に仕え尽くした者に対する貴様の礼儀か!』


 憎かった。

 どんな苦痛や恐怖を強いても、決して晴れることのない負の感情が巻き起こした黒い嵐。

 心の優しい娘だった。

 自分のような人外魔境にさえ、純真な笑みを向けてくれた少女。

 その最期が、こんなものであっていいはずがなかった。

 赦せない。

 しかし同時に、分かってもいた。

 この男の存命と、治める国の繁栄。

 それこそが【彼女】の希望だったと、知っていた。

 だから、堪えた。

【彼女】の為に。


『ロゼッタ……!』


 後に、【彼女】が子を遺していたことが公に知られ、国中各地で魔女狩りが行われた。艶やかな黒髪は魔女の血を示し、真紅の瞳は狂気と破滅の象徴とされ、それらの色彩を持つ者達が虐殺される暗黒の時代が幕を開ける。

 それが、トロナイルに伝わる古き伝承【魔女の児】の始まりだ。






「クルス、どうした?」

 決まり悪げな視線に、鳥の魔物は喉を鳴らす。

 それが、首を撫でろという意思表示である事を承知している黒髪紅眼の王子は、よく分からないながら従った。

「俺が言うのもあれだけど、男より女にしてもらったほうが嬉しいんじゃねえの?」

 ご尤もな意見に、しかしクルスイークは頷かない。

「浮気はしない主義でな」

「は?」

 ますます怪訝な顔をするジャスに、クルスはついに笑いを零した。

 もう遠い昔、お前の始祖とも言える女性が同じように首を撫でてくれたのだと言えば、どんな顔をするだろうか?

「あ、もしかして、ランティスのこと揶揄してんの? あれ違うぞ。ありえないからな」

「ふふん。見事な兄弟愛よの」

「あー、もう。いいよ、それで」

 からかわれていると感じたのか、ジャスはやや乱暴な手つきで嘴を軽く弾いた。無論、痛くも痒くもない。心の優しさは、間違いなくロゼッタの血筋なのだ。そう思う。

 最愛の女が繋げた命。その末裔。

 そして、、今なお憎い男が治めた国の後継者。

 正直、ジャスを引き取るという話を聞いた時は複雑だった。人間にとっては遥か太古の御伽噺に過ぎずとも、クルスにとっては昨日のように思い出せる喪失の日なのだ。

 しかし、そんな鬱屈とした感情は、幼い日のジャスを見た瞬間に霧散した。

 むしろ消し飛んだ。

 聖堂に現れた少年は、幼い頃のロゼッタと瓜二つだったのだ。

 そうしてようやく、トロナイルという国がロゼッタの全てであったことを認識し、その永劫なる繁栄が彼女と寄り添うことにもなるのだと理解した。

 ジャスの養育に、クルスは全霊をかけた。王子である彼の成長は、彼女の望むところであることを信じて。

 いつしかトロナイル王室は、彼女の名を冠するようになっていた。

 それでいいと、ようやく思える。

 自分は彼女の末裔を守り、死んでいこう。

 そしていつか、彼女と同じ場所に立つのだと。





 クルスと別れたジャスは、そのままリアを捜して食堂の方へ足を向けた。もう昼時なので、城内の仕事も休憩に入っているだろう。

 あの紅葉見物から既に数週間が過ぎているが、やはりというか進展はない。まあ後退しないだけマシであり、何より親密になったとて最終的には別れることになるのだから、今のままが一番幸せなのだろうな、とも思う。

(リアの好きな奴って誰なんだ? 皇太子……は、ないよな。婚約すげえ嫌がってたし)

 何となく、分かってはいたのだけれど。

(死別、か)

 出会った当初、彼女のどこか浮世離れした雰囲気は、母の一件から始まり、【最後の将軍】として祭り上げられ特別を強いられた生活の中で生まれたものだと思っていた。

 しかし、それだけではないのかもしれない。

(もし相手が生きてたなら、協力できるんだけど)

 個人的な感情を優先するなら、そんな事は絶対に御免だ。ずっと腕の中に閉じ込めて、彼女は自分だけのものだと見せ付けてやりたい。

 少なくとも、そう思う程度には嫉妬している。顔も名前も、何も知らない相手に対して。

 けれど、リアを王宮に連れて行くことだけは出来ない。やっと自由になった彼女を、異国の王妃として縛り付けるなど論外だ。仮にリアがジャスを好きだと言ってくれる日が来ても、今度はジャスがその言葉を受け取ることができなくなる。

(そういえば)

 先日、イリヤから聞いた話を思い出す。

(死ぬのかな、あの人)

 あの人――――トロナイル王国君主ウィリアム・ヴォレッドル・ヴァロリコルゲント。

 ジャスの父。

(我ながら薄情な不孝息子だ)

 その話を耳にしてもう随分になるのに、今の今まで見舞いに行こうとも思わなかった。

 もはや王とは理解していても、肉親としての情を抱くのは困難かもしれない。

 父も母もいらない、なんて言ったら、育ててくれた面々はどう言うだろうか。

 だが、それが本音だ。

 ずっと懸命に育ててくれたチュニアールこそが誇るべき祖国であり、見守り、傍にいてくれた【星空の宴】の皆こそ、愛すべき家族なのだった。

 もちろん反りの合わないものも大勢いる。それでも彼らは、ジャス個人にぶつかってくるのだ。それさえなかった実の両親に、一体いまさら何の感慨を抱けというのか。

(駄目だ。とにかくリアに会おう)

 亜麻色の髪を眺めていると、心が落ち着く。くるくると変わる表情を見れば、不安も何もかもが晴れていくように。

(俺も大概に重症だな。イリヤを笑えない)

 これでは本当に王位を継いだとき、彼女以外の妻を娶れないのではないのか、と意識の端で苦笑した。

「あ、ジャス! おはよう」

 食堂に入ったジャスを出迎えたのは、想い人たる少女が浮かべた満面の笑みだった。

「あ、ああ」

 その柔らかさに一瞬見惚れ、ジャスは数拍遅れて返事をする。びっくりした。今日は随分と機嫌がいいらしい。

「何か良い事あったのか?」

「え? ああ、あたしじゃなくてリーシャなんだけどね。ランティスが帰ってきたの!」

 親友と喜びを分かち合うリアに微笑むジャスも、兄の無事に安堵の息を漏らした。

「そうなのか。元気そうだった?」

「うん。さっきまでここにいたんだけど、荷解きがあるって部屋に行ったわ。リーシャも一緒にね」

 普通ならここで妙な勘繰りを受けそうなものだが、ジャスはその時の光景が目に浮かぶようだった。

「ディディは?」

「リーシャと一緒にランティスのお手伝いに」

 つまり、それはセブンとラドも同行している筈だ。ジャスはつい兄に同情してしまう。

(あいつらも空気くらい読めよなぁ)

 ランティスの性格からして、彼らを辛辣に扱ったりはしない筈だが、多少がっかりしているのではないだろうか。

「あんたは? 一緒に行かなくて良かったのか」

「うん。ジャスに渡すものがあって」

「俺に?」

 なんだ、とジャスは喜ぶより早く身構えた。珍しい話の流れに、つい警戒してしまう。

 そんな彼の内心に気付くことなく、リアは大きな紙を差し出した。紅い葉が白い紙によく映えている。

「はい。こないだの椛、栞にしたの」

「え? ああ」

 ありがとう、と受け取るジャスは、その大きさに呆れた。

(図鑑専用だな、これ)

 大きいの見つけたー! と騒いでいたのは覚えているが、まさか自分宛だったとは複雑だ。

「いいのか? 貰っても」

「うん。リーシャには四葉のクローバー渡したし」

 それ紅葉もう関係ないじゃん、と思うも、口に出すほど野暮ではない。

「じゃ、貰っとく。ありがとな」

 そうして、使い道に困る栞を片手に苦笑した。





 ランティスの部屋で行われていた荷解きが一段落し、気を利かせたラドがディディとセブンを連れて退出した頃。

「じゃあ、直接お母様とは会えなかったんですね」

 我がことのように顔を曇らせるリーシャに、ランティスは苦笑しながら、彼女の柔らかな髪を撫でた。

「そんな顔しないで。今までにも、こんなことは沢山あったんだ」

 いつも情報を得ると、自分やサーシェス、リオンの三人は、そのたびに期待していた。最初の数年は特に落ち着きがなかったと思う。

「それに、連絡先も渡しておいたし、もし何か分かれば知らせてくれるだろう」

 特に、最後の町で知り合った自警団の男達は、どこか親しみを抱ける雰囲気があった。師匠とそっくりな趣味を持っているらしい【セリ】という女性には、純粋な興味もある。

(マリーナさんのアレはシュールだったからなぁ)

 殺し屋として育てられた自分達だったが、何より印象に残っているのは血の海でも肉塊でもなく、天狗の面に毛皮を被り、しかし何故か身に纏うのは割烹着という、師匠の奇抜極まりない出で立ちだった。

 それで刃物の一つでも振り回していたなら、それはもう立派な鬼婆だったことだろう。しかし彼女はサーシェスと同じく稀少魔法【メロディア】の継承者であり、常に精霊を使役して戦っていた。獲物を持っても大概が銃などの遠距離派で、女の身である不利を意識してのものらしかった。

(刃物、か)

 そういえば、と思い出す。

 あの組織には、少しばかり年上の少女がいた事を。

 艶やかな黒髪は僅かな癖があり、片目にはいつも眼帯をしていた。

(似てたんだよな)

 リーシャにはなく、ジャスに。

 何となくだったが、顔の造りが同じだったように思う。

 師匠マリーナの友人が世話をしていた暗殺者で、組織内でも【悪魔の瞳を持つ死の舞姫】と畏怖の対象となっていた。

 言葉を交わしたこともあったが、正直ランティスはピンと来なかった。花畑にでもいそうな天然娘だとさえ思っていたほどだ。

 そう、あの天然ぶりも、ジャスに通じるものがある。

 彼女は今どうしているのだろう?

 普通なら死んでいてもおかしくはないが、彼女は特別だ。幼くして開花させた才は、同年代のランティスから見ても恐ろしいほどだったのだから。

(そういや、あれは誰だったかな)

 彼女の隣に、短期間だったが金髪の少年がいた事を、ついでのように思い出した。

 確か敵対していた組織の捕虜だったが、いつのまにか首魁セルガの手下になっていた気がする。その頃には何故か少女が世話役と共に姿を消し、少年の隣には代わりのように、派手な赤毛の娘がいた。まあ、同じ色の髪質であるランティスも人のことは言えないのだが。

「ランティスさん?」

 急に黙り込んだランティスを、リーシャが心配そうに呼んだ。

 我に返った彼は、その追憶を打ち切る。

「なんでもない。そうだ、ジャス達は元気?」

「はい。とっても仲良くしてますよ」

【ジャス達】といえば、まあ要するに【あの二人】の事なのだ。もう最近ではジャスとリアは二人でワンセットのような認識になっている。

「この間は紅葉狩りに行ったそうで、おすそ分けを貰いました」

「へえ、どんな?」

 純粋な興味で尋ねるランティスに、リーシャは笑みを浮かべて応える。

「とっても素敵ですよ。見ますか?」

「うん。お願い」

 というより、見せたいのだろうな、と思う。故郷では一族の象徴たる巫女姫、その後は永きを孤独な牢獄で過ごしたリーシャは、今この時が楽しくて仕方がない筈だ。何より初めて出来た親友であるリアに向ける友愛ぶりは、出会って半年とは思えないほどのものがある。まるで生まれた時から共にいるのではないかという程に親密で、リアも不器用ながら同性の友人が出来て嬉しそうにしていた。

 そんな二人の間で一体どんな品が遣り取りされているのかと微笑ましく思い、紅葉ならば栞にでもしたのだろうかと推測しながら、ランティスはそれを受け取った。

 受け取って、沈黙した。

「……綺麗な四葉だね。大した縁起物だ」

 つい棒読みになってしまうのは、仕方がないと思う。

 何故クローバー? 秋も紅葉も関係ないではないか。

「素敵でしょう? わざわざ加工して、ペンダントにしてくれたんです」

 ジャスの無駄に大きな栞と比べても、手の入れ込みようが勝っている。ここに彼女らの友情がいかに厚いか如実に現れていた。

(まあ、流石あいつの許婚だった事はあるよな、この不思議行動ぶり)

 不意に、死別した友の顔が脳裏を掠め、ランティスは静かに目を閉じた。

 お前の大切な、自慢の少女は、こうして元気で過ごしている。親友まで出来た。

(だから安心してくれ、サズ)

 4年目の命日には、墓参りに行こう。

 そう思った、静かな秋の昼下がりだった。





 チュニアール首都ブレッティーガ城は【星空の宴】総本部として知られているが、その最奥に一般の構成員が立ち寄らない区域がある。かつてジャスが幼い頃、初めてイクスやクルス、ミュイと出会った聖堂のある辺りだ。

 立ち入り禁止令は数年前に撤回されたが、今でも出入りする者は少ない。彼らが率先して関わったジャスは例外だったが、それ以外は皆一様に遠巻きな対応を取っていた。

 独立国チュニアール女王ルフィシャーズ・ディープゼ・ラフィエメリヤ直属の騎士団【星空の宴】の幹部。

 その肩書きを持つ【蒼天歌劇団】の面々だったが、実質「切り札」という扱いで、普段は影のデスクワークに徹している。最近の仕事といえば、十年以上前に【ラジェーテ】を叩きのめしたくらいだ。

 そして今、城内で女王個人が所有する館の一角、談話室で彼らは屯している。

「あーあ。ジャスは何やってんのかしらね!」

 遅々として進展のない少年少女の恋愛事情を、女王は近頃じれったく思うようになっていた。

「もう半年以上よ!? ほんとに十代末の男の子なのかしら」

「ふぅむ。わっちらは既に年齢が3桁の男を知っておるであろ。根性のない男はいつまで経ってもヘタレなのではないかえ?」

 ルフィスに相槌を打った紅いドレスの女ミュイが放った言葉は、室内にいたクリスフォード・ボナパルトに対する嫌味でもあった。

「誰がヘタレだと? 身の程を弁えよ、下賤めが」

 中世の皇帝であった彼は、数百年の時を生きる比較的“若い”【蒼天歌劇団】の一員であったが、未だに傲岸不遜な性格は変化がない。他者を見下した態度から多くの者に疎まれており、温厚なジャスさえ彼を煙たく思うほどであった。

「そちこそ黙りやれ。いつまでも消えた名に縋りつきおって。見苦しいぞえ」

「其の方、余を侮辱するか」

「こら、やめんか」

 見かねて制止の声を上げたのは、会話の先端を開いた女王ルフィスではなく、ゴーレムを思わせる巨漢の大男イクス・テェルロであった。

 しかし。

「ミュイ。子ども相手にその態度は何だ」

「ぬ!? 聞き捨てならぬぞ、揃って余を愚弄するか痴れ者ども!!」

 イクスの仲介は火に油を注いだだけだった。寧ろミュイに加勢したような印象さえ受けてしまう。もちろん他意はないのだけれども、こういう所は弟子のジャスを彷彿させるものがある。

「そうさのぅ。確かにわっちが見っとも無い真似をしたやもしれぬ。許せ赤子どの」

「ほれみろクリス。ミュイとて殊勝に非を認めた。次はお前だ」

 連携のような追い討ちに、クリスフォードの顔が怒りで赤く染まりつつあったが、ミュイとイクスは全く気にしなかった。

「何やってんだか」

 一方、そんな不毛なやりとりを遠目に眺めているのは海の王子イーヴァ・ブリュレイクと、女王の恋人ウォル・ケイド・ヴィータだった。昼間からワイン片手にチーズをたっぷり使った料理を摘まんでいる。イーヴァは気ままに育ったボンボンであり、ウォルは生まれた国が元々「一日の中で最も大切なのは昼食」という食文化を持っていた。昼から酒や豪華な食事は寧ろ日常の一部だ。そして夕食が質素である事も、未だ抜けきらない民族の慣わしだった。

「この青チーズ何だったけか? 最近じゃ食ったことないのは分かる」

 彼ら【蒼天歌劇団】の言う「最近」は基本的に数百年の意味がある。それとて瞬きの間程度にしか認識していないウォルは、首を傾げただけて答えなかった。

 ウォルはルフィスの補佐を務めており、私事では彼女の恋人でもある。それなりの重要人物なのだが、いかんせん無口な為に目立つこともなく影も薄い。

 無愛想ではなく、元々喉が潰れている。否、潰されている、というのが正しいか。

 喋れないわけではないが、さながら鴉のしわがれた呻き声に聞こえるため、好き好んで会話をしはしなかった。

 しかしながら、【蒼天歌劇団】は若輩者のクリスフォードとさえ既に数百年を共に過ごしている。言葉を使わずとも目で会話ができるようになっていた。

 だが、イーヴァの場合、その絆は妻との関係修復には生かされていないようだった。今日もそっけなくされて、言わば今の酒は自棄酒に類するものなのだ。

(いつか三行半たたき突けられそうだよな)

 妻は本来、イーヴァの父に捧げられた生贄だった。それが迂闊にも一目惚れしてしまい、頼んで譲ってもらったという馴れ初めだ。

 そう、第一印象から最悪だったのだ。完璧に物扱いされて喜ぶほど、彼女は狂っていなかった。寧ろ限りない常識人だったのだ。

「どうすっかな」

 思わず声に出す。

 瞼を閉じれば、妻との出会いが蘇った。







『昔々、ある所にそれは美しい踊り子がおりました』

『漆黒の双剣を手に舞うその姿に、海王が虜になるほどでした』

『ある日、人々は海王を怒らせてしまい、踊り子を生贄として差し出します』

『その様子を、海の王子は静かに眺めていました』



「助けてやろうか?」

 彼は、女が泣いて縋り付く様を想像した。当然だ。今からこの娘は生贄として海の王に捧げられるのだ。

 しかし、その娘は母なる海を思わせる群青の瞳を眇め、

「ハッ」

 鼻で笑った。

 イ-ヴァ・ブリュレイクには、己に自信があった。背も高く、顔も総じて美しいとされる種族の血を引いているだけに、甘く整っていると評判も良かった。

 だのに、この死に際にあるはずの娘は一瞥をくれただけで終わった。

(なにコイツ) 

 そして、なにより阿呆な話だが、そのつれない態度に迂闊と思いながら心惹かれた。

 うっかり、惚れてしまったのだ。

「お前の、名前は?」

 声が上擦るのを抑えつつ、今度はなるべく控えめに尋ねた。もっとちゃんと声が聞きたい。名を知りたい。

 娘は胡乱な目を向けてきたが、答えぬ限りイーヴァが立ち去ることはないと理解したのか、諦めたように渋々と名乗った。

「         」

 イーヴァの行動は早かった。即刻父王の元へ出向き、彼女を自分に下賜せよと請うた。父は息子からの珍しい申し出に快く応じ、彼女は正式にイーヴァの妃となった。

 が。

「助けてほしいなんて言ってない」

 彼女は辛辣だった。

 イーヴァとしても、彼女がこの程度で靡くような女なら願い下げだ。口元を釣り上げる。

「助けた?違うね。お前は俺の物になったんだ」

 余裕綽綽と答えた彼は次の瞬間、ほぼ無意識に後退した。

 彼が数瞬前までいた場所を、漆黒が一閃した。

「!?」

 美しい宵闇のような刃。イーヴァは息を飲む。

 彼女は双剣使いだったのだ。

「誰が、誰の何?」

「俺の嫁。ああ、我ながらスゲぇ鬼嫁だなーって今さら後悔感じ始めてる」

 女の碧眼に剣呑な光が宿った。

「あんたみたいな怪しい男の嫁? 何の悪夢よ。それなら私はさっさと未亡人になった方が救われる。その腐った首よこしなさい」

「無理。不可」

「問答無用!」

 海底の王宮は、その日を境に随分と賑やかになった。

 半年が過ぎれば臣下たちも「両殿下はいつもお元気で仲がよろしくていらっしゃる」と、彼らの闘争を【ちょっぴり過激な夫婦喧嘩】と解釈するようになっていた。普通は違うと気づきそうなものだが、いかんせん年寄り連中が多すぎる王宮で、「今時の愛情表現はちと過激じゃのー」くらいにしか思われていなかった。

 女は海の一族に輿入れした為、【人】を失い不老不死の身となった。しかしそれは嬉しいことだ。いつでも遠慮なく全力で、あのスカした王子を殴れる。肉体が衰えないのも意外と便利なものだ。

 そう鼻を鳴らして言っていた。

 しかし数年後、彼は漸く気付く。

 彼女はイーヴァに望まれなければ、不自然に何千年もの命を強いられることはなかったと。

 理不尽にヒトとしての生を奪われた事に対する恨み言を、一度も零さなかった彼女。

 自分にはその価値もないのだと、無言で叩き付けられているように感じられた。




現在

 食堂で軽食を摂っていた【噂の二人】は、とある夫婦の話をしていた。

「え? ユーナさんって既婚なの!?」

 夏の騒動の時、密かにレティアを見張り、真っ先に注意して見ていてくれたと後で知った。あまり話した事はないが、とても良識のある大人の女性だと記憶している。深い海のような群青の瞳も、美しくて印象的だった。

「あれ、知らなかったか」

 目を剥くリアに、ジャスがきょとりと首を傾げた。

「じゃあ、相手も知らないんだな」

「ええ。あたしの知ってる人?」

 知ってるも何も、とジャスは苦笑した。どこか意地悪げにも見える表情に、リアがムッと顔を顰める。

「なに?」

「うん。ヒントは、あんたが初対面で痴漢呼ばわりした男」

 一瞬の後、リアの顎が極限まで落ちた。

「え?」

「うん。たぶん想像通りだと思うけど、その前に間抜け面を直そうか」

「イーヴァなの!? あんな出来た人が、あんな不審者の嫁って何の悪夢よ」

 まるで遠い昔の誰かと同じことを言う少女に、少年は複雑な笑みを浮かべるだけだった。




(ごめん)

 酒に酔うとイーヴァは、決まって「あの日」を思い出す。

 全て奪ってしまった。自分の勝手な欲望で。

 確かに愛しているのに、苦しめるしか出来ない。

「ごめん」

 眠りの寸前で零れた言葉は、偶然そばにいた女に届いていた。

「やっぱり莫迦ね」

 海色の瞳を細め苦笑しながら、ユーナ・ログセスカは夫の額を軽く小突いた。












 初恋は十三歳の時だったと、シンルー・アーゼは記憶している。

 年上の人。姉の恋人。

 私は子どもで、二人は憧れの象徴でもあった。

 なのに。

『ごめん』

 ずるいひと。

 いつしか、そう思うようになった。

 溜息を零して、胸元のペンダントを弄ぶ。

 綺麗な宝石。ガーネット。姉の好きな色。私の瞳の色。

 そばにいて。そう、心から願った。

 荒野で救いを求めるように。

 だって私は、どうしようもなく子どもだった私には、3人で過ごす時間が何よりも尊く、そして大切だった。

 愛していた。

 決して裕福とはいえない暮らしを。

 姉の笑顔を。あなたの声を。

「ロッドさん」

 独りにしない。

 その一言が、欲しかっただけなのに。

「ルー? 何やってるんだ」

 リーシャを伴い食堂に向かっていたランティスは、暗い表情で黄昏ている銀髪赤眼の雪女に声をかけた。

 シンルーだった。

「ラン? 戻ってたの」

 シンルーは赤毛と金髪のカップルに軽く笑い、いつものような表情で近づいた。

「おかえり。調子はどう?」

「微妙。でも、なかなか面白そうな人の話は聞けたかな」

「ふーん? それじゃ、あとで聞かせてもらおうかしら。あ、でも、先にサーシェス達ね」

「了解。じゃ、また後で」

「はいはーい」

 いつものように当たり障りのない遣り取りを終え、ランティス達を見送った後、シンルーは苦笑した。

(あの人のこと考えると、なんでかランティスが来るのよね)

 いつも何故か、まるで決まりごとのように声をかけられる。

 あの人とランティスには、何の接点もない筈なのに。

(不思議ですよね、ロッドさん)

 心の中で語りかけるのが、いつしか彼女の癖になっていた。

 姉との間に何があったか。それは今でも分からない。

 しかし、それでも彼女は知っていた。

 彼が心の底から姉を愛していた事。

 その妹である自分も、大切に思っていてくれた事。

 そして――――

(知っていたのに、私は)

 だからこそ、終わらせなければならない。

 あの、真っ赤な雪の降る夜を。未だに続く、悪夢と悲しみを。

 捜さなければ。あの人を。

(まだ、間に合うかしら)

 ずっと悩んでいた。

 それが決意に変わり始めたのは、夏の事件があってからだ。

 ジャスとリア。あの二人の変化は、意図せずとも周囲を巻き込んでいる。

 イリヤもセブンも、そして自分も。

 進まなくては。

 そう思わせる何かが、彼らにはあって。

 このままでいいのか。そう自問した時、すぐに答えは出た。

(立ち止まったままは、もうやめないと)

 進もう。あの二人のように。

 彼らのように、寄り添う相手がいない、独りになってしまっても。

 伝えたい。

 あなたを恨んではいないのだと、ただ一言。









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