イリヤとミナのすれ違いパン工房
好きだと言えば史上最悪最大の嘘になる。しかし、嫌いだというのも本音ではない気がして、彼女は内心で呻いた。
「ね、聞いてる?」
「聞いとりますけど。もう閉店間近ですよ」
「お客を追い出すの? ひっどい看板娘がいたもんだね」
朝から夕方まで粘るお客もどうなのか。肥溜めにでも突き落としてやりたい衝動をなんとか抑え、ミナは顔面に必死で笑みを貼り付けた。
「申し訳ありません」
「はいはい、じゃ、コレ」
「は……はぁっ!?」
受け取った紙に書かれていたものに、ミナは思わず叫んでいた。
「ちょっ……何なんコレ!?」
「マギーからの注文書ダヨ」
「はぁん!? 何がダヨやねん、ふざけんなや! もうちょい早う出さんかいなこんボケが!!」
「えーだってさぁ」
「色々用意があんの分かるやろ!」
「口が悪くなってマセーン?」
「誰のせいや思てんねん、イリヤ!!」
「はーい」
イリヤはニヤリと笑った。やっと呼んだか。
「まーまぁ。いいじゃん。俺も手伝うしさー」
「いらんわカスめが!!」
ミナは吐き捨てた。
この注文書、実はこの国チュニアールを治める女王の居城から寄越されたものである。女王陛下のお口に入るかもしれないパンの注文書を、こんなギリギリまで隠しておくとは。どんだけ根性が腐っているのか。ミナは眦を吊り上げた。
「どういうつもりなん!? これ立派な営業妨害ちゃうん!!」
「うっかりだってば。そんな怒鳴んないでよ」
「怒鳴るに決まっとるわ。しかも、よりにもよって陛下直々のご注文を!! あんたは毎日お顔を拝見してるからええけど、こっちからしたら雲の上のお方やで!? せっかくご指名下さったのに・・・・こんのクソ馬鹿性悪男!! ウッカリで忘れんなや。不敬にも程があるわ」
イリヤはニヤニヤ笑った。人当たりも良く、基本的に温和なミナのこんなにも怒った表情と罵声は自分しか引き出せないだろう。言ってしまえば独り占め。なんていい響きだ。
一方、屈折しまくった愛の視線に、ミナはふと寒気を覚えた。怒りは未だ消えはしないが、なんだか嫌な予感がする。
しばらく迷った末、ミナはイリヤを追い出しに掛かった。小言をぶつけてやりたいが、これ以上は危険だと本能が告げている。
ミナとイリヤの関係は、草食動物と肉食動物のそれに似ている。食物連鎖ともいうべきか。しかしそんな発見をしたところで良いことなど一つもない。結局自分が彼にいじめられているのには変わらないのだから。
「は、早よ帰って」
「えー、なんでー?」
「営業時間終了や!」
「だーかーらー、迷惑かけたお詫びに手伝うってば」
「結構!! お断り、間に合ってます。ウチは大丈夫なんで」
しつこいセールスをあしらうように返され、イリヤはムッとした。
もう少し、構ってくれてもいいではないか。
「しょーがないなぁ」
「はん?」
「ミナ、その紙、日付よく見てみなよ」
ミナは言われた通り、日付に目を通し――、そして絶句した。何だコレ。
「イ、イリヤ」
「うん?」
「あんた性悪にも程あんで!」
日付は、一年前のものであった。
「引っかかる方もどうかと思うよ?」
「やかましいわっ!! もう半年間この店に来んな!」
「常連さんにひどーいぃ」
「キモい喋り方すんなや!」
その時だった。
「はーい、お取り込み中に失礼しまーす。“星空の宴”でーす。騒音の苦情が数件よせられておりまーす」
欠伸交じりに告げられ、二人は硬直した。女王直轄の騎士団。
「ラド」
現れた少年は心底あきれたように眼鏡を掛けなおし、溜息を吐いた。
「ほら、さっさと閉店、解散。僕も聞きたいラジオあるから早く帰りたいんだよ」
一年後。
「げっ、出た」
「ナニその反応」
その男は尊大な態度で、ミナの横に腰を下ろした。
「座っていいって言うたっけ?」
「このベンチはいつから君の所有物になったの?」
ミナは顔を顰めた。
「屁理屈。てかマナーやろ」
「店のエプロンつけたまんま公園でサボる看板娘に言われてもなぁ」
「休憩や! 人聞きの悪い奴やなっ」
「はっは。い・ま・さ・ら」
殴り飛ばしたい。ミナは切に思った。一度でいいからこの男を心ゆくまで殴ってやりたい。誰か人目につかない場所を提供してくれないだろうか。
「はい」
「え?」
ポンと渡されたのは、温かいコーヒーだった。彼――イリヤも同じものを飲んでいる。公園前の屋台で購入したのだろう。
(あ)
一口含んで、少しむっとする。
(やっぱり)
微糖だ。
認めたくないが、イリヤとミナは嗜好が似ている。このコーヒーなどがいい例で、ブラックは飲めないことも無いが苦いだけの液体、といってミルクやらが入ってくるとコーヒーではない気がしてくるのだ。適度な微糖が、二人の好みだった。
更に気に食わないのは、彼もそれを承知しているということだ。顔を合わせれば喧嘩ばかりしているのに、何故か互いが一番の理解者のように感じてしまう。事実、彼がこんな風にミナの好物を片手に寄ってくるのは大抵、精神的に参っていて甘えたい時だ。
(人恋しくなる季節?)
冗談のように考え、ふと気付く。そいえば、もうすぐ秋も終わる。空気も冷えてきて、だからこそ手にある温もりは心地よかった。
(おいしい)
更に言えば店の方が美味しいのだが、流石にそれは贅沢というものだ。どういう企みがあるのかは定かではないが、奢ってくれた相手にそれはあまり失礼だ。イリヤでも一応、礼儀を通すべきだろう。
「ありがとう」
「ん」
とん、と右肩に何かが乗った。見なくても分かる。イリヤが許可なくミナに凭れているのだ。
誰かに見られたらどうしてくれるのか――。そう思いながら、ミナは拒絶を口にしなかった。
「……どしたん?」
コーヒーをまた口に含む。過度の慰めは必要ない。
そう、互いに。
「幼馴染の有難みを噛み締めてます」
「ふーん」
ミナは抑揚なく言った。嘘だ。色んな意味ですぐ分かる。
「そういえば、トロナイルの王様が――」
「っ!」
僅かに硬直する体。ミナは納得した。そうか。
(友達のこと、か)
平素の軽薄さからは想像もつかないが、彼はかなり情深い人間だ。トロナイルの王子である友人を取り巻く環境の変化に不安を感じ、しかし平民たる自分にできることはないと、焦る気持ちを抑えようと必死なのだ。
痛いほど沈黙が降りた。ミナは待った。
どれくらいそうしていただろう。気付けば日暮れになっていた。店に戻る時間はとうに過ぎていたが、イリヤと突き放すこともできない。何より、彼が真っ先に自分の所に来たのであろうことが想像できて、無碍な対応などできようはずもないのだ。
「なあ」
「ん?」
「あいつ、大丈夫かな」
ミナは笑った。彼の望む答えを返す。
「そうなるよう支えるのが友達や。何か言うてきたら、真っ先に話きいたりんか」
「……ん」
こんな時の幼馴染は、普段の憎たらしさからはかけ離れた素直さを持つ。いつもこうなら、ミナだってもっと仲良くできるのに。
「仲良しやなぁ」
「そーか?」
「うん。怪しい関係に見える」
「どういう意味さ?」
「性別という垣根を越えた仲」
珍しく、非常に珍しく、イリヤの方が青筋を浮かべた。ミナは勝利の喜びをかみ締める。弱みに付け込むようで悪いが、こちとらこの不貞の輩には散々と辛酸を嘗めさせられたのだ。一矢報いてやっても罰は当たるまい。
「ミナってさぁ、何気に根性曲がりだよね」
細い肩にその身を委ねたまま、イリヤが皮肉げに切り出した。
「イリヤ程やあらへんよ。そこまで性根歪めんのも難儀やったんちゃうんー?」
「あー、久々にムカついたかも」
「へーぇ?」
余裕綽々な相槌に、イリヤは本格的にムッとした。こちらはミナ以外の女に興味などないというのに、それを無視した挙句に男との仲を疑われては、流石にいい気はしないものだ。
(相変わらずか)
今も昔も、意識しているのは自分だけなのだ。
友人として幼馴染として、大切にしてくれているのは理解している。今もこうして寒空の下で瑣末な愚痴に付き合ってくれた。
それでも。
その先の関係を望むのは、贅沢なのだろうか。
「……ミナ」
「んー?」
一拍の後、イリヤは告げた。
「好きだよ」
ミナが瞠目し、やがて柔らかな微笑で答える。
「うん。ウチも、嫌いやあらへんよ」
それは、友人として、好敵手として、幼馴染としての答え。
自分はやはり男としては見られていないと再認識させられた彼は、いじけながら答える。
「あっそ」
別の日。
ああ、むかつく。ミナは苛立たしげに眉を寄せた。
「ミナ、落ち着いて下さい」
「そうそう。あいつが女に囲まれるの、嫌いじゃないって前から知ってただろう?」
友人のリーシャとランティスが宥めるように言うが、それでもムシャクシャするものだ。
場所はやはりミナの実家であるパン工房【リコリス】で、テラス席には客が数名いる。ランティスとリーシャは比較的ミナから近いが、問題は【奴】である。
【奴】はいつも通りの指定席に、長い足を組んで悠々と佇んでいた。その周辺には、若く可愛らしい年頃の娘たちが侍っている。
いや、侍るというには語弊があり、【奴】――イリヤはただそこに、一人で座っているだけだ。彼の唯一の長所である容姿に騙された街娘達が、一方的に熱を上げている。何年も幼馴染をしていれば、もはや見慣れた光景である。
それでも、やはり不愉快だった。
(興味ないんなら早う断れよ鬱陶しいぃぃ!)
見せ付けるかのように高慢な微笑が、脳裏にちらつく。
『あれ、やきもち?』
過去に何度も言われ、その度に堪忍袋の緒が切れ喧嘩した。他の客が迷惑しているから、だから怒っているのに、何が嫉妬だ。馬鹿じゃないのか。
(いや確かに阿呆やけどな)
つい意地悪な気分で己に突っ込みつつ、ミナはその男を睥睨した。
(消えろー消えろー消えろー)
割と本気でそう念じながら。
こいつの、こういう所が昔から気に食わない。
好きだとか恋愛しようだとか嫉妬だとか。ひどい時には自分の将来の夢はパン屋の婿になることだとか抜かしやがった。明らかに【リコリス】のことを指している。
そうやって散々、思わせぶりな言動を取りながら、ああやって女性に囲まれている時、まるで嫌がる素振りを見せない。
むしろ楽しそうなのだ。これでどうして信じられる。
(消えろー……)
結局はミナのことも、遊びではないのか。からかい煽って、密かに腹を抱えて笑っているのかもしれない。もしかしたら似たようなことを、他の女性に言っている可能性もある。
(消えろ……)
腹が立つ。大嫌いな女誑し。
そんな男に惑わされている軟弱な自分の神経に苛立ち、そして悔しくなる。
(なんで、こんな奴)
正直、長所は容姿だけだ。いや運動神経や頭もいいのだが、人間性の面は壊滅的に悪い。最低だ。
それなのに、自分以外の女といるのを見たくない。
ああ、むかつく。
(コイツらウザい)
イリヤは微笑という名の仮面で、不快さのあまり歪む表情をなんとか押し込めていた。
【星空の宴】という組織に所属する彼は、休日以外は城や国外にいることが多い。朝からこの店に居座れる貴重な時間を、この娘達は見事に邪魔してくれている。
(ランティスはいいよなぁ)
隣に申し分ない恋人がいれば、いかにランティスが整った容姿をしていても近寄れまい。そもそもあの赤毛の彼は、派手な髪を引き立てるような黒衣を好み、見方によれば死神のようでもあって敬遠されることも少なくない。
それに、ミナの澄ました態度も気に食わない。
少しくらい、嫉妬してくれても良いではないか。
(あ)
視界の端で、オレンジの髪が柔らかく揺れる。
触れたい。
そう思うようになったのは、一体いつのことだったろうか。
(覚えてないな)
物心つく頃には、既に好意を抱いていた気がする。自覚するまでは、なんと口の悪い粗野な娘かと思いながら、それでも自分から喧嘩を売るように突っかかった。今にしてみれば、あれが現在ミナに毛嫌いされている最大の要因かもしれない。
(やり直せたらいいのに)
今なら、もっともっと優しく接するよう心がけるべきだったのだと理解できる。それでも、積み重ねたものがあるから、変わることができない。
この関係を壊して、その次は何なのだろう。
ただの幼馴染から、他人になるのか。
それとも。
(やめよう)
考えても、それは頭の中の出来事で現実ではない。
そして、彼女のイリヤに対する無関心は永遠だ。こちらがちょっかいを出さない限り、ミナは近寄りもしてこないのだから。
(ミナ)
ああ、本当に気に食わない。
こちらはこんなにも想っているのに、彼女は少しも理解してくれない。憎たらしくさえなってくる。
たとえ相愛になれずとも、気持ちだけは信じて欲しい。そんな純粋な恋情を、しかし足蹴にする彼女が愛しくて憎い。
(どうすっかな)
どんな言葉を贈れば、想いは君に届くのか。
「あのお二人、両思いに見えるのは私だけでしょうか?」
「大丈夫。それ正解。気付いてないの本人達だけだから」
リーシャとランティスが、苦笑まじりに不器用な二人を眺めていた。
「ね、ジャス」
「んー?」
【リコリス】が店を構える通りを歩いていた少女が、連れの少年を見上げ尋ねた。
「ミナとイリヤは付き合ってるの?」
「まさか。顔合わす度に喧嘩してんだろ。リア、お前の目もう老眼きてんじゃね?」
「はぁん!?」
喧嘩する頻度ならば彼らも噂の二人と良い勝負であるが、本人達に言っても火に油で、仲介に入ろうとした者まで巻き込まれてしまうので、誰も指摘しないでいる。
「でも、それはホラ、よく言うじゃない。“拳で語り合う”とか」
「いや、あれ一方的にミナがイリヤをタコ殴りにしてるだけだろ。語り合えてねーし」
しかも、そういう青春イベントは大概にして男同士のものだというのが一般論ではないだろうか。
少し目を離した隙に、また妙な知識が増えている。ジャスは唸った。
「そんなの、誰に聞いたんだ?」
「マギーさん」
「……あのナマハゲ野郎」
どうでもいいことばっか吹き込みやがって――どうせならもっと役立つ知恵を授けてほしいと切に思う。
この少女の場合、主に常識とか危険察知とか自己防衛とか。
「あ・・・・ジャス」
マギーを後でどうやってシメてやろうかと策を巡らすジャスの腕を、リアがつんと引いた。
「ん?」
噂をすれば、何とやら。
イリヤはいつも通り、【リコリス】のテラス席に陣取っている。ただ少し異なるのは、その周囲で彼に熱っぽい視線を送る若い娘達がいることだ。
「イリヤってモテるの?」
心底意外だ、とリアが目を剥く。ジャスは苦笑した。
「ま、外見は良いし。一応フェニミストらしい」
「でも、なんだか機嫌悪そうじゃない?」
「あー」
女は妙に勘が鋭い。色恋には疎い方のジャスとリアだが、イリヤの様子でなんとなく、事情を察した。
第三者の視点から見れば、なんとも分かりやすいものだ。
「イリヤは、ミナに構ってほしいのね?」
「うん。正解」
あくまで他人事として答え合わせを始める薄情な同僚二人に、しかしイリヤは気付く気配もない。店の奥にいるランティスとリーシャがこちらに手を振っていても、傍らのミナは、しかしやはり気付かない。
流石のリアとジャスも呆れた。
あの二人は、本当に、互いのことしか見えていない。
澄ました顔で平気なふりをしながら、相手の動向が気になって仕様がないという、なんとも不器用な恋情が丸見えだった。
「わかりやすい」
「はは、そうだな」
頷くジャスに、リアもつい苦笑いを浮かべる。
昔の自分も、あんな風だったのかもしれない――そんなことを頭の片隅で考えながら。
「あの二人、お互いが好きなのね」
尋ねる口調ではなく、言葉には確信の響きがあった。
「そーそ。まぁそれでも、俺が憶えてる限り十年以上ずっとあんなんだよ」
「十年もずっと!? え、えーと」
進展の気配は皆無だという呆れ顔に、リアは件の二人をフォローするように言葉を探す。
「ほら、でも。それだけ長い間そばにいて、お互い愛想つかさないって凄いじゃない。嫌な部分だった当然あるだろうし。それでも相愛なんて素敵だと思うわ」
「うーん。もう後退の仕様もないぐらいドン底ってことか」
「ちょっと!」
あえて意地悪な解釈をする少年に少女は声を荒立てる。
そうして彼らも、いつも通りに喧嘩を始めたのだった。
(あいつら何やってんだろ)
往来で喧嘩を始める同僚二人に、イリヤはつい呆れ顔をする。
それにしても、一体いつからいたのだろう。全く気付かなかった。彼らが大声で罵りあいを始めるまでは。
(いいよな、ジャスは)
まだ出逢ったばかりの彼は、あの少女と友好な関係にある。一方のイリヤは、生まれたときから一緒の幼馴染だというのに、意中のミナとは犬猿の仲だ。
多分、性格の差だろうな、と思う。
ジャスはお人好しだ。でなければ、リアを拾って来ることもなかっただろう。
その一方、イリヤは半径外の人間はどうでもいいという冷めた性根をしている。フェニミストを気取っているが、それは己の冷たい素顔を隠す為の仮面に過ぎない。
イリヤが優しくしたいと想う【女】は、今も昔もたった一人だ。
ランティスとリーシャは、その光景に溜息をつく。
「早く引っ付けばいいのになぁ」
「どちらがですか?」
「どっちも。だけど、やっぱイリヤ達に落ち着いて欲しいかも」
ジャスとリアは、既に無意識ながら脈あり、という所。
イリヤとミナの場合、スタート地点にさえ立っていない。喧嘩するほどとよく言うが、あの二人は少々面倒だ。
傍目には想い合っているのは明らかなのに、どうしてあんな喧嘩ばかりしているのか。
焦れったい奴らだという青年の呟きは、傍らの少女の耳にしか届かなかった。




