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雪の女王




 初恋は、十三歳の時。姉さんがどこからか拾ってきた、歳若い青年。 

 見るからに不審者だった。

『ほら、ちゃんと挨拶して』

『メアリー、いいよ。仕方ないって』

 彼からは血の臭気が漂っていた。姉さんはお構いなしに世話をしていたけれど、私はどうしても信用できなかった。

 そして同じくらい、惹かれてもいた。

 優しい穏やかな眼差しが心地よくて、目が合う度にジロリと睨んでばかりいたけれど、本当はそれだけですごく嬉しかった。

『ロッド』

『メア』

 いつからか、姉さんと彼はそう呼び合うようになった。恋人同士、というやつだ。

 私が先に気付いた翳りある横顔も、大好きだったあの瞳も、今となっては姉さんが独占してしまっている。

『どうした、そんな顔して』

『生まれつき、この顔です』

 彼は困ったように笑った。

『参ったな。君は、どうして俺を嫌うんだ?』

 嫌味ではなかった。彼は優しく、そして残酷なのだ。大切な恋人の無二の家族であるその妹とも、友好的な関係を築こうと涙ぐましい努力を惜しまない。

『あなたは、姉さんのどんな所が好きなんですか』

 聞きたくなかった。けど聞きたかった。

『えぇっ?』

 彼は恥ずかしそうに目を泳がせたが、私から声を掛けられるのは珍しいので、これは少しでも印象を良くする好機だと思ったらしく、はぐらかして逃げることはしなかった。

『ありきたりだけど、優しいところかな』

 本人の言う通り、本当にありきたりで陳腐な言葉だった。

 だけど。

 だけど。

 だけど、泣けた。

(私も、あなたの優しいところが大好きでした)

 私は思った。

 もう、いいや。

 苦しいし、嫉妬もしてしまうけれど、私に勝ち目なんかない。姉さんには今までに沢山の苦労と迷惑をかけた分だけ、いやそれ以上に幸せになってほしい。そして彼にも、好きな人には笑顔でいてほしいと、ようやく、そう思えるようになった。

 そんな矢先の出来事だった。

 村が燃えた。

 永久凍土の大地が、紅蓮に染まる。

『姉さん、大変! 村が……っ』

 そして。

 姉さんを殺して立ち尽くす、彼の姿。

『嘘……』

 どうして?

 どうして、どうして、どうして。

 あんなに楽しく、幸せそうに笑い合っていたのに。

『どうして』

『ごめん』

 彼は、小さく簡潔に、ただ詫びた。

 私は理解した。 

 行ってしまう、と。

『待って!』

『ごめん』

 彼は歩きだした。姉さんの返り血を浴びた、その姿のまま。

『ロッドさん、お願いですから……っ』

 独りにしないで。

 両親はもう亡く、唯一の姉は彼が殺してしまった。

 憎み、罵倒すべき相手に、しかし私は縋った。

 たとえ人殺しでも関係ない。姉の恋人でも、その仇でも。

 願ったことは、ただ一つだけ。

『傍にいて下さい……!』

 雪が降っていた。燃え盛る大地を覆うように。

 すべての悲しい痛みと罪を、包み隠すように。





+ + + +






 メアリー・アーゼには、是非とも会ってみたい人がいる。

 それは、雪男。

 この土地はかつて雪の女王が治めていたと語られ、雪の魔法を扱える【雪女】は大勢いる。しかし反対に、何故か男の能力者は殆どいないのだ。いても萎びたおじいちゃん(長老の旦那)だ。

 こんな夢見がち(?)な考えは保護者に矯正してもらいたいものだが、あいにく彼女の肉親は妹が一人残っているだけだ。極寒の北国で暮らしながら、頭はどうも幻想の花畑にいるらしい。妹の苦労が偲ばれるというものだ。

(ルーは怒りんぼだからなー。そんなにあたしって頼りないかしら?)

 妹ルーが聞けば迷わず肯定するに違いない。

「あら?」

 目を凝らす。山育ちで鍛えられた視力には自信がある。

「あれって」

 どう見てもあれは――。

(大変、人が倒れてる!)





「やーい、魔女魔女ー」

「真っ赤な目玉で呪うんだろー?」

 少女はこめかみを押さえた。

 長い銀髪と、雪より白い肌。皆無に等しい色彩の中で異色を放つ大きな瞳。

 呪われた、血色の赤眼。

 姉の瞳は綺麗な菫色なのに、どうして自分はこんな歪なのだろう。

 そう悲観したのは、もう昔の話。

「うるっさいわねぇ。便所虫以下の汚染物質風情が、冷却破棄されてくなかったら今すぐ消えなさいガキども」

 言葉が終わる前に、周囲に降り積もった雪が、彼女を守るように渦を成した。

 やられる前に、やっちまえ。それが彼女の座右の銘だった。

 雪色の村に、子供二人の泣き声がこだました。

『怖いわよねぇ』

『普通の雪女はみんな銀髪紫眼なのに、あの子ったら赤眼なのよ。それも、血みたいな紅』

『あそこの家族は元から怪しいと思ってたのよね』

 ルーは、銀の髪に赤の瞳を持つ北国の雪女だ。姉とは違い赤みの強すぎる色を、村の人々は「不吉を呼ぶ子」だと悪意を込めて囁いた。

『あたしはルーの目が好きよ。だって夕方のお日様みたいじゃない。ふふ、あたしってばお日様を独り占めしちゃった』

 そう言って微笑む姉の存在に、どれだけ救われているか。

 だから、心に決めていた。もし姉が窮地に陥れば、何が何でも自分が助ける。

 ルーにとって姉のメアリーは、世界の全てだった。彼女のいない日々など考えもつかない。依存していると言われても、ルーは姉がさえいてくれれば、それ以外のことはどうでもいいと、ずっと本気で思っていた。

 この日までは。

「姉さん、何それ」

「男の人よ。村はずれで倒れてたの。驚いちゃったわ」

「うん、そうだろうね。でも私はそんな不審物をノコノコ拾ってくる姉さんにビックリだよ」

「ふふ、ありがと。でも褒めても何もでないわよ? あ、昨日のプリンが余ってるから、それをあげるわ」

「姉さん嫌味! 今の嫌味だからっ」

 しっかりプリンはキープしつつ、妹は律儀に突っ込んだ。

「あらあら。でも、倒れているのに無視できないわ。まして、相手はこんな傷だらけなのよ?」

 だからこそ関わるべきではないのだと何故わからない?

 ルーはソファーに横たわる男をつぶさに観察した。ふと顔を顰める。彼女は雪女の中でもかなり有能な術者だが、特に瞳の色と関係するのかもしれないが、血の匂いにひどく敏感だった。

(別の人間の匂い……これ、この人だけの血じゃない)

 つまり、この男は返り血を浴びるような、殺傷行為の類をするような人間なのだ。

 優しい陽だまりのような姉が、関わっていい人間ではない。

 姉が穢れる。

「姉さん、この人のこと捨てる気は?」

「あるわけないでしょう。ちゃんと責任もって面倒みます。せめて、きちんと傷が癒えるまではね」

「ふうん、そう」

 ひとまず様子を見て、彼が自分の足で立てるようになったらどこぞへ捨ててこよう。姉には「自分で立てるようになったからって勝手に出て行った」とでも言えばいい。

「わかった。私も出来る限り手伝うよ」

 ルーは紅い目を細め、優等生の笑みを浮かべた。





「あ、目が覚めたのね!」

「……?」

 やわらかい。真っ先に浮かんだ言葉。

 何が? と疑問に思い、すぐ納得する。

 少女の笑顔、雰囲気。

 自分が今いる部屋の色彩。

 カプセル内で溶媒液に浸かっていた頃とはまるで違う。

「Hvor er jeg?」

「え?」

 紫の双眸が瞬く。その反応に戸惑った。そして気付く。

“担当者”が母国語として多用していた言語が頭に残っていて、咄嗟に口走ってしまったらしい。慌てて、“室長”が奨励していた共用語に言い直す。

「ここは、どこ?」

「あ、えーとね、ここはあんまり知られていない土地なのだけれど、名前はテシアよ」

「テシア?」

「そう。トロナイル最北の町ドルクスより北の山奥」

「地図には?」

「うーん。あんまり載ってないと思うわ。外からのお客さん、見るの初めてだし」

「そうなんだ」

 どうやら、自分は【彼ら】から逃げおおせたようだ。

 そう楽観し、否と警告する。油断してはいけない。

 その時――。

「Det er den uforskammethed folk」

 目の前の少女とよく似た、それでいてやけに冷淡な声が響いた。

『礼儀知らずな人ですね』

 燃える夕日のような赤い眼差しが、此方を睥睨する。

 いきなり喧嘩腰だった。マトモに人と接した経験のない彼は動揺する。

『それは、どういう意味だ?』

『助けられておいて、自己紹介どころか、お礼の一言もないなんて。厚顔無恥の代表例じゃないですか』

 一方、メアリーは異国語での会話についていけず焦っていた。どうしてルーはこんなに何でもできちゃうのかしらと賞賛やら羨望やらを抱きつつ、やっぱり自慢の妹ネとか思いながら。

 そんな彼女でも、二人の様子をみている限り、とても穏やかな内容ではないと理解できた。青年は可哀想なくらい狼狽し、困惑している。ルーは憮然としながら攻撃(というか口撃)を続けていた。

『悪かった。ええと、田舎者だから、そういう礼儀に疎いんだ。すまない』

『謝罪してすぐ言い訳なんて誠意がありません』

『セイイ? それは、どういう意味だ?』

 二度目の質問に、赤目の少女が眉を寄せる。

『そのままの意味です。それで反論のつもりですか』

『いや、あまり他人と会話をしたことがなくて、少し言葉が不自由なんだ。共用語も下手で。上手く説明できない』

『……?』

 流石のルーも、ここに来て怪訝に思った。

 演技には正直、見えなかった。

 だが、流されてはなるものか。脳内が花畑牧場な姉を守らねばならない。それこそが自分の生き甲斐であり、使命であり、唯一の存在理由意義だった。

『あなたは、どこから来たんですか?』

『詳しい位置は、よくわからない。夜中に吹雪に巻き込まれて、気を失ったところまでは覚えてる。けど』

 むしろ自分が何故見知らぬ娘達の世話になっているか知りたいぐらいだった。

 月も星も見えない白銀の嵐の中、このまま全て終えることができたら、それはそれで素晴らしいことのように思えた。自分のような歪者は存在すること自体が、この世に溢れる生命すべてに対する冒涜なのだから。

 厳かな自然の中で眠れるのなら、それは神の施しに違いないと思うほど。

 この銀髪の娘達も、自分の出自を知れば拒絶するだろう。

 そういうものだ、と毎日のように聞かされた。

 だから時たま、母を恨んだ。

 何故、いっそ殺してくれなかったのか。中途半端に生かしたのか。いや、それとも母は関与しておらず、承知してもいないのかもしれないけれど――。

 母は死んだらしいから、確かめようもない。

【彼ら】の本拠地にしてパトロンの【ラジェーテ】が壊滅したと聞いた。脱走者も続出したが、死人はそれらを遥かに上回る数だと言っていた。

 そこに、彼の母親にあたる人物がいた筈だった。

(まさか、会いたかったとか?)

 思わず自嘲が漏れる。お笑いもいいところだ。

 堕胎したはずの胎児が、こんな不自然な形で生きていると知ったら、その人はどんな顔をするだろう。

 異形者だと、侮蔑されるのがオチではないか。

「ねぇ、ルー? この人、さっきからどうしたの?」

「んー」

 ルーは思考を巡らせた。さっさと排除すべき邪魔者であるのは変わりないが、世間体というものがある。自分という不出来な妹がいるだけで、十把一絡げに厄介者の烙印と押されている姉の立場が、より一層悪くなる危険性があった。

 それなら人目のつかない所に捨て置くのもありだが、そうすれば彼はその日のうちに凍死するだろう。ルーは辛辣だが、一応は良心も備えているつもりだし、流石に後味が悪すぎる。大の男を辺境まで担ぐ筋力もない。そして何より、それはもはや殺人行為に等しかった。姉に見つかり悲しませるよりは、しばらく様子を見るべきだと結論づけた。

「目が覚めたばかりで混乱してる。もう少しそっとしよう」

 ルーは後まで考える。

 この時の判断が、果たして正しかったのか、と。


 

「メアリー、おはよう」

「おはよう! すごいわ、すっかりマスターしてる!」

 あれから1ヶ月。青年は教師に恵まれたのか、彼自身の才能や努力か、あるいは全てなのか、共用語をほぼ完璧に習得していた。

 その教師ルーは、呆れたように二人を見た。

(なぁんか)

 姉と青年は、庭で話し込んでいる。力仕事である巻き割りをしてくれている彼に、メアリーが嬉しそうな顔で語りかける姿を見て、ルーはイラッときた。

(面白くないっていうか)

 むかつく。不愉快。うぜぇ。

 どれも似たような意味だと思いながら、ルーは短い髪を弄ぶ。

(私も、伸ばそうかな)

 姉の豊かな銀髪を見やり、思った。そうすれば、少しは女性らしくなれるかもしれない。

「あれ?」

 ふと、青年がルーに気付いて声を上げた。ぎょっと身を堅くする少女に、年上らしく包容力のある笑みで、その名を呼んだ。

「おはよう、シンルー」

 地味で目立たないが、よくよく見れば端正な容姿をしている青年の無邪気な笑顔に、少女は上気する頬を誤魔化そうと、そっぽを向きながら応える。

「おはようございます、ロディーガさん」

 姉妹が暮らすアーゼ家に居候することになった青年の名はロディーガ・シェノフ。

 彼を拾い、後に恋人となる女性の名はメアリー・アーゼ。

 そして、半年後に滅ぶことになるテシア村で生き残った二人のうちの片割れの少女は、真紅の瞳と白銀の髪を持つ呪われた雪女――そう呼ばれていた。

 そんな彼女の名は、シンルー・アーゼ。

 時に魔王と揶揄されたトロナイル王に仕えた後、帰郷し辺境の土地であるテシアを復興させた、今日まで史書にその名を残す女性である。

 


+ + + +




 生まれた時から、自分以外の生命体とは触れ合ったことがなかった。

 母親という存在に興味はあったが、どうも自分は不要な子供だったらしい。堕胎されたお前を俺たちが一個の生命として繋いでやったのだと、恩着せがましく言われたのを覚えている。

 それでも不思議なもので、自分が無意識に使用している言語は母の生まれた故国アラベル語。遺伝子に刻まれたそれが、確かに自分を世界に結びつけた。

 母が、いたのだ。

 嘘ではなく、本当に。

 会ったことはないし、会うこともないだろうけれど、会いたかった。

 どんな人なのか。それだけが気になって。

 だれど、そんな淡い願いも叶わず消える。

 【月下の女王】と謳われた母は、所属していた組織【ラジェーテ】が崩壊した際、その混乱に巻き込まれ命を落としたという。

「真昼間から居眠りとはいいご身分ですね」

 暗い眠りから彼を引きずり上げたのは、少女の冷めた声だった。

「シン、ルー?」

「そうですよ。……ロッドさん、顔色悪いですよ?」

 珍しく案じるように顔を覗きこまれ、ロッドは少し戸惑った。

(優しい子なのに)

 赤い瞳で悪目立ちし、村で疎外されている。本人の不器用さも手伝って、見事な悪循環だった。

「平気だよ。ありがとうシンルー」

 微笑むと、シンルーはやや沈黙した後、ふんと鼻を鳴らした。

「別に。あなたに何かあれば、姉さんが悲しんでしまうかもしれませんので」

 私自身はあなたになんて興味ありませんけど――言外にそう告げられた気がする。ロッドは苦笑した。

「そうだね。メアには心配させたくないし、気をつけるよ」

「当然ですよ。もし姉さんを悲しませたらただじゃおきません」

「はは、怖いな」

 こうして平凡に、慎ましく日々を共に過ごしたい。

 三人仲良く、幸せに。

 ただ、それだけが望みだったのに。

 突然だった。

 村が燃えた。

 ロッドは今でも思う。

 あの日あの時の選択は、果たして正解だったのか。

 答えは今も見つからない。

 あれは三人が出会って、半年が過ぎようとしたある日の事。

「私ね、最初はロッドを雪男だと思ってたの」

「ああ……そういえば、そんなこと言ってたね」

 微笑み混じりに語るメアリーに、ロッドは苦笑する。

「でも、なんで雪男に逢いたいんだ?」

「え? だって」

 メアリーは不思議そうに目を丸くした。

「……かもしれないでしょう?」

 小首を傾げて告げられた答えを、ロッドはきっと忘れない。

 今、この娘はなんて言った?

 聞き間違いだ。きっと。そうに決まってる。

 暗示のように繰り返すロッドの目の前で、メアリーはいつもどおり微笑んでいる。だから、きっと。

『村の人を皆殺しにしてくれるかもしれないでしょう?』

 この純粋無垢な娘が、そんなこと口走るはずがない。

 そう自分に言い聞かせることしかできなかった。

 知らなかった。

 メアが村人を殺したいほど憎んでいた事など何も。

 妹想いの彼女が心を痛めているのは分かっていた。だが、これは?

「村、が……」

 たかが半年、されど初めて訪れた人間の里。

 燃えてゆく。

「ロッド」

「!!」

 呼ばれ、条件反射で身構えた。そこには相変わらず童女のような笑みを浮かべた恋人の姿がある。

「ずっと思ってたの」

「メア」

「どうして私達だけこんな風に虐げられなきゃならないのって」

「メア」

「でも何も出来なくて、私は無力だった」

「メア!!」

 ようやく気付く。彼女の目は、正気の人間のそれではない。

 実験施設で見たことがある。

「あのね、ロッドの昔のお友達っておじさんたちが、お薬くれたの。そしたらすぅっごく気分がよくなってね、魔力も段違いに上がったわ。これなら、私がルーを守ってあげられる」

 悪びれることなく言う彼女に、ロッドは寒気を憶える。

「メア、火を止めろ」

「えぇー?」

「もういいだろう!? これ以上この村を焼くのはやめてくれ!」

 祈りに近かった。

 それでも、叫ばずにはいられない。

 この類の薬物は、一度の摂取でその身を食いつぶす一種の毒だ。

(誰かに操られてるのか?)

 呆然と立ち尽くす。

 この雪原で踊り狂う業火。自然現象とは思えない。

 メアでなければ止められない。

 しかし、彼女にはそんな意思など微塵も存在しなかった。

「メア。戻ってくれ。もうやめるんだ」

「駄目よ。ルーを悲しませてきた人たちを、これ以上は見逃せない」

「お前がこんなことしたって知ったら、あの子はもっと傷つくぞ!」

 優しい娘だ。姉を誰よりも大切に想う誠実な少女。

「大丈夫。あなたと私とルーと、三人で仲良く暮らせば」

「どこが大丈夫だ!? お前が一番よく分かってるだろう」

「じゃあ、そんなに言うなら、ロッド」

 そして彼は、悪魔の囁きを聞く。

 あるいは、雪の女王の残酷で無慈悲な呪いの言葉を。


 わたしをころして  


 後の事は、殆ど記憶にない。

 ただ、彼女が完全に壊れてしまったことは分かった。

 妹の為だと言った舌の根も乾かぬうちに、彼女はこう言ったのだ。

『ああ、綺麗な炎。ルーはどこかしら? 早く帰って来てくれないと、私が殺してあげられないじゃない』

 もう戻らない。

 追われている自覚があった癖に、安穏と村に居座り続けた自分の罪だ。

 もう、メアは自分の所に帰ってこない。

 この細い首を手折って、自分も歪な生命を絶とう。

 そう静かに決めたとき、聞き慣れた足音がする。

 華奢な少女が、厚く降り積もった雪を踏んで走ってくる。

 駄目だ。

 見せてはいけない。

 姉の変わり果てた姿など、あの心優しい自分達の妹には。

 迷っている時間はなかった。そして何より気付いた。

 メアをこんな風に壊した奴らを、炙り出さねばならない。

「メア」

「なあに?」

「俺もすぐ逝く。だから、少しだけ待っててくれ」

 メアは柔らかく微笑み、頷く。

 ほんの少しの自我も、やがて消える。

 だから、その前に。

「ルーは?」

「置いていく。あの子は幸せにならなきゃいけない。憎まれたっていい。いつか誰かと寄り添って、生きてほしいんだ」

 メアを幸せにしてやれなかった己を強く呪いながら、ロッドは愛しい恋人に手をかける。


 そして――――その時は訪れた。


「姉さん、大変! 村が……っ」

 飛び込んできた少女ルーは、シンルー・アーゼは息を呑んだ。

「嘘だ」

 目の前に広がる光景を否定する。

 彼女の最愛の姉。

 そしてその胸に刃を突き立てた、初恋の人。

「どうして……?」

 あんなに仲が良くて、流れる空気も優しくて。

 あんなに楽しく、幸せそうに笑い合っていたのに。

 どうして、と呟く少女に、青年は視線を合わせない。

 出会ってから初めて、あの瞳が恐ろしかった。

 呪いなどではない。

 綺麗な太陽の瞳を、恋人が自慢げに語った宝玉を、自分が悲嘆と憎悪に塗りつぶし、歪ませてしまう。

 その事実を確認するのが、この上なく怖かった。

 だから、幼い彼女の紅い双眸から眼を背けたまま、告げる。

「ごめん」

 これ以上、何も言えなかった。

 間違いなく自分の罪だ。

 自分と関わったせいでメアは死に、ルーは故郷も家族も、全て奪われてしまった。

 そこへ至る経緯はどうであれ、最終的に恋人を手に掛け、その妹は遂に唯一の肉親を失い天涯孤独の身となったのだ。

(やっぱり俺は、雪男じゃなかったよ。メア)

 ただの疫病神だった。

 不自然な形で生まれた歪な命。不幸を撒き散らして、愛する二人を傷つけた。

 去ろう。唐突にそう思った。

 もちろん仇を捜して殺す為に村を出るつもりだったが、せめてメアを始めとする村人達を埋葬してやりたかった。

 しかし、自分にはそうする資格さえないような気がする。

 償うことさえ赦されない。

 断腸の思いで踵を返し、慣れ親しんだ家を出る。

 走りたかった。だが思い出が邪魔をする。振り返る権利もないくせに、足は重く進まない。

「待って!」

 痛いほどの寒風も、燃え盛る炎の音も、全てをかき消す声だった。

 こんな風に呼び止められたのは最初で最後だなと時ならぬ感傷に浸りながら、ロッドは背後を振り返ることなく、声だけ届くようもう一度だけ告げる。

「ごめん」

 今度こそと歩き出す足も、すぐに止まる。

 腕を捕まれていた。小さな白い手。初めて触れたそれは、彼女の姉より冷たかった。

「ロッドさん、お願いですから……っ」

 哀願の響きに、振り返ってしまう。そうさせる力が、彼女にはあって。

 瞳を合わせて、すぐに伝わってくる少女の想い。青年は今度こそ絶望した。

 独りにしないで。

(嗚呼)

 その綺麗な涙は、間違いなく罪の証。

 自分さえいなければ、流れるはずのなかった輝き。

 こんなに心優しい少女に、自分にとっても大切な妹同然だった存在に、姉の仇にさえすがり付きたくなるような苦しみを与えてしまった。

 見惚れるほどの美しさで、少女は青年にとって永遠の呪縛となる。

「傍にいて下さい……!」

 雪が降っていた。燃え盛る大地を覆うように。

 すべての悲しい痛みと罪を、包み隠すように。

 降り積もる雪は、旅立つ青年の足跡を全て消してしまう。

 遂に留まることをしなかった青年の涙さえ、残酷な雪は凍らせて。

 壊れた世界に独り残された少女は、呪われた真紅の瞳を持った自分の運命を知る。

 私がいつも不幸を呼ぶのだ、と。








 殺し方は、どういうわけか知っていた。

 記憶の底に眠る【歌】を口ずさみ、精霊を使役する。そうして生み出された氷の剣で、その者達を元が何か分からないほどの肉塊にしてやった。

 そうしたところで、戻るものなど何もない。理解しながらも、ロッドはやめなかった。

 メアに薬を盛った実行犯はこれで全員。しかし、まだ終わらない。

 レギア・ヒューストン。

 名前以外は何も分からなかったこの男が、今回のことを計画したらしい。仔細は不明だが、組織の研究成果であるロッドを有効利用しようと目論んだのだろう。

 どう甚振って殺そうか。

 かつて穏やかな笑みを浮かべた顔を殺意に歪ませながら、青年はゆっくりと暗い闇に堕ちてゆく。

 その修羅の道さえ、雪は覆い隠す。

 そうして、月日が流れた。







 新暦2476年  初夏

「おーい。ルー起きれー」

「え……?」

 夢を見ていた。

 とても哀しい日の事を。愛しい幸せな時間を。

「ラン? いつ戻ったの」

「ついさっきだよ。人手が足りないからって長旅疲れの俺まで扱き使いやがる」

「そういえば、例の女の子達は?」

 十年が経っていた。思春期を迎えるかどうかだったシンルーも、今や23歳の立派な女になっていた。

 ここは秘された楽園、独立国チュニアール。故郷では排斥された紅眼も、この国では珍しくも何ともない。一国の王太子から元暗殺者、魔物や人魚とそれらの混血種まで、国籍・人種どころか種族まで様々な者達が暮らしている。眼が赤いだけの雪女など通行人Cくらいに何でもない。

「ディディに盗られた」

「みっともないわね。いいじゃない。同郷なんでしょう? ゆっくりさせてあげなさいよ」

 あの頃は短かった髪も、今は随分と伸びていた。鏡を見ると、瞳を除けば姉さん瓜二つだ。

「だからここにいるんだよ。マギーは? 厨房にいないんだ」

「さっきまでここにいたけど。入れ違いだったみたいね」

「面倒だな。あのハゲ頭って結構目立つと思うんだけど」

「それを言うなら、ラン。あんたの赤毛も大概よ」

 チュニアール自警騎士団【星空の宴】。

 これが今のシンルーの職場で、帰るべき家だ。

 そして今日は新しい仲間の誕生を祝う歓迎会の為、昼間から大勢が走り回っている。

「お前の銀髪も目立つけど。なあ、そのラン呼びやめないか?」

「なんでよ。紛らわしいのよ、あんたら義兄弟の名前。“ランティス”に“ジャスティス”って、ほぼ同じじゃない。区別するに丁度いいわよ?」

「ジャスはいいけど、俺なんか女みたいじゃないか」

「いいじゃない。顔はあっちのが女っぽいもの」

 目の前の青年はランティス・ラゴート。同時期にここを訪れたことから、何かとつるむことが多い。もちろん恋人などではなく、健全な友情で結ばれた仲間だが。

「もういい。でも珍しいな、ルーが居眠りしてるなんて。疲れてるのか?」

「最近、暑いから」

「大変だな雪女」

 故郷に夏はなかった。だから、この時期は体調を崩してしまう事がある。しばらくすれば持ち直すので、あまり心配もしていない。

 久々に懐かしい雪原を思い描いていたせいか、仮眠で随分と昔のことを見た。

(ロッドさん)

 好きだった。大切な姉を預けてもいいと思えるほど、愛していた。

 たった半年の短い時間。それなのに、全て奪われてしまった。

 姉も故郷も、この心も。








「ロッド、起きてくれ」

「イア?」

 寝台から起き上がりつつ、ロッドは年下の友人を見た。

 イア・スプラン。少年だった彼を組織の女が子犬感覚で拾ってきたのが始まりだった。帝国貴族を思わせる眩しい金髪にアメジストの瞳が特徴で、本名は別にある。

「聞きたいことがあるんだ」

「うん。何?」

 あれから十年が経ち、ロッドは【黎明の騎士団】という組織の重役に名を連ねていた。

 メアとルーの仇を討つ為に潜入した筈が、今は少し事情が面倒になってきている。

 その一つが、目の前の友人だ。

「帝国の公爵令嬢が失踪? 悪い、初耳だ」

「そうか……」

 放っておけない。そう思わせる危うさが彼にはあった。

「知り合いなのか?」

「え……ぁあ、いや違う」

(嘘ど下手だなぁ)

 指摘するのは可哀想なので、ロッドは気付かぬふりをした。

「情報は? 俺でよければ手伝うけど」

「えっと、関連情報って程じゃないんだけど、怪しいと思ってるのはコレ。神殿の巫女誘拐」

 実行犯の特徴を書き出された紙を見て、ロッドは眼を点にしてしまう。

“赤毛の死神”と“黒髪の悪魔”と“白金の天使”

「………何これ?」

 結局イアの助けにはなれなかった。

 ロッドは申し訳なく感じながら酒を煽る。空になった杯に再び酒が注がれるのを見て、胸焼けすると思った。

(十年か)

 彼女は今どうしているだろう。

 実は村で別れた数ヵ月後に再会したのだが、まともな会話はなかった。

 彼女の姉に贈るつもりだった首飾りを、いざとなれば金に換えろとだけ言って渡した。

 たぶん売るどころか叩き壊しただろう。

 そう思えば、また胸が悪くなる。

「ほら、呑め呑め」

「いいです。勘弁して下さいよ、レギアさん」

 ようやく、この男に近づけた。


 殺してやる。


 目の前で全てを破壊し蹂躙の限りを尽くしたあと、恐怖の底に突き落として嬲り殺す。

 そう決めた。

(もう少しだよ……メア、ルー)

 憎悪の炎は十年の時が流れても鎮まることなく、冷たい心の中で燃え盛る。

 解けない氷と消えない炎。

 矛盾を抱えた青年は、仇と微笑み杯を交わした。

















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