いつか貴方が戻るまで
6歳のシリウスの世界はとても狭い。
母親がこのトロナイル国の王様の妹で、特別な「王女」という身分であったこと。公爵である父親とは恋愛結婚であったこと。
シリウス・ゼナン・ヴァレンティノワ。
トロナイル王位継承権第二位と目されている彼だが、実際にそうなることはない、とシリウスも両親も理解している。特に母に至っては、不思議なほど息子を王位につけたがらない。自身も王族の生まれということから、色々と思うところがあるのかもしれない。
だが、一番の理由は親心ではなく、既に立派な世継ぎの王子がいるからだ。
複雑な「大人の事情」があるらしく、まだ正式に「りったいしき」を挙げたわけではないが、歳の離れた従兄が次代の国王であることは間違いない。
といって、幼いシリウスにとって、それらはやはり遠い出来事で、まるで別世界のように感じる。自分にとっての王子とは、優しく面倒見のよい兄だったからだ。
「シリウス様、まだ殿下はお見えになってませんよ」
「うーん」
初夏だった。従兄は遠い異国に留学している。そんな耳障りのいい説明を無邪気に信じているシリウスは、年に数回という低頻度で帰国する従兄の訪れを、今か今かと待っていた。
たった一人の王子である従兄は、帰国した途端に多忙となる。それでも僅かな合間を縫い、病弱な従弟の顔を見に来てくれるのだ。
「あとどれくらいでおつきになる?」
「まあ。シリウス様は、本当に殿下がお好きですのね」
「うん!」
侍女の言葉に満面の笑みを返し、シリウスはやはり窓辺に張り付く。先触れは数日前に届いているので、従兄の馬車が見えたら、真っ先に玄関へ向かうつもりだった。
「今はまだ、妃殿下のお見舞いではないでしょうか」
「……そっか」
不意に、シリウスは心が沈んだ。
【ひでんか】というのは、自分の伯母にあたる人物で、件の大好きな従兄の生母でもある、特別に尊い女性だ。
しかし。
幼いシリウスでも、従兄と伯母の間には深い溝があると感じていた。
(だいじょうぶかな……)
従兄が泣いているところは見た事がない。けれど、一度だけ立ち会ってしまった伯母との面会の折、従兄は普段の柔らかさを微塵も感じさせない無表情だった。
その時のことを思い出すと、シリウスはたまらなく哀しい気持ちになる。
伯母は酷いのだ。従兄に向かってたくさん嫌な言葉をぶつけ、時には物を投げつける。従兄自身は淡々と避けて無傷だったが、言葉までは回避できないはずだ。それでも、終わった後に自分を抱き上げ、いつものように微笑まれては、シリウスもどうしたらいいか分からない。
といって、何ができるのかと言われたら、それはそれで困るのだが。
「大丈夫ですわ。殿下はお強い方ですもの」
「うん……」
ヴァレンティノワ公爵家の者は使用人も含め、皆が訳ありの王子に好意的だ。身内である気安さも多少はあるだろうが、幼いシリウスを可愛がって共に過ごしている姿は、まるで実の兄弟のようだし、王子自身の人となりも大きい。赤い瞳で敬遠されたのは、もう遥か昔のとととなっている。少なくとも、それがヴァレンティノワ公爵家の認識だった。
結局、昼を過ぎても従兄は現れず、シリウスはぐずりながら昼寝の時刻を迎えた。
正直、眠りたくなどなかった。
もし自分が寝入った途端に従兄が尋ねてきて、そのまま気を遣って帰ってしまったらどうするのだ。多忙な従兄は、いつ留学先に戻るともしれないというのに。
そうした訴えを、しかし侍女達はやんわりと遮った。
「シリウス様のお体にもしものことがあれば、殿下が悲しまれますよ」
否定できない病弱さを指摘され、さすがのシリウスも押し黙った。そして結局、従兄に心配をかけないためだと渋々ベッドに入ったのだ。
最近、微熱が続いている。一昨日からは回復したが、油断すればまだぶり返すことだろう。
そうして、いつの間にかウトウトと瞼が下りてきて、シリウスは不本意な夢の世界へと落ちていった。
「大きくなりましたわね、ラズ」
「はい。叔母上もお変わりないようで何よりです」
途端、貴婦人の目に物騒な光が宿る。
「なんですって?」
「いえ、失礼しました。クラウディア様」
流石に公の場では「叔母上」を貫くが、ジャスの叔母クラウディアはその呼び方を嫌っている。父王の歳の離れた同母妹である彼女は、まだ二十代と若く、ジャスは叔母を消息不明となった実姉ノアリスと重ねるように慕っていた。
「シリスは元気ですか?」
型どおりの挨拶とサロンでの一服を終えた頃、ジャスはちんまりとした従弟について訊ねた。
「最近はね。今はお昼寝中よ。まったく、あなたが来るのが遅いから」
「申し訳ありません」
「あら嫌だ。真面目に謝られては、私が貴方の護衛に睨まれるわ」
ぎょっと背後を振り向けば、頼んでもいないのに年中無休で張り付いてくる、馴染みの護衛官と目が合った。
「クリフ?」
「は」
(は、じゃねーし)
呆れつつ、ジャスは叔母に向き直った。
「俺で遊ぶのはやめてください」
「ふふ、“俺”ねえ」
チュニアールとの「ジャス」と、王宮での「ラズ」。十六歳の少年なりに使い分けているつもりだが、気を許した相手の前ではボロがでる。
「あちらのお友達は元気なの?」
「ええ。相変わらずですよ。鬱陶しいくらい元気で」
「それはよかったわ。女王陛下にもよろしくお伝え頂戴ね」
「はい。それから、その女王陛下から、クラウディア様に贈り物を預かってますので、後で届けさせます」
「ありがとう」
叔母のことは好きだ。幼少期に国のあちこちを盥回しにされたが、叔母だけはジャスを引き取ろうとしてくれたのだ。周囲の反対から
叶わなかったが、以来ジャスは彼女を慕っている。
「ところで、ラズ。お義姉さまには会ったのね?」
「ええ。臥せっておいでと聞いて心配しましたが、まあ大丈夫そうです」
幽鬼のような形相で暴れ始めた時の事を思い出し、「そこそこ運動もできるようですから」と、ジャスは皮肉とも大雑把とも取れる近況報告をした。
しかし、叔母はその事実をすんなり汲み取った。嘆くように頭を振る。
「こんなとき、ノアリスがいてくれたら……」
実姉ノアリスは大層しっかり者で、何よりジャスをとても可愛がっていたらしい。勿論ジャスの方に当時の記憶はないのだが、話にきく姉は、幼少期のジャスにとって、決して無視できない憧れの存在だった。
「私は恵まれてますよ」
「ラズ」
母親に疎まれる事実を受け入れてしまっている甥に、叔母はどこか責めるような瞳を向けてきた。それが負の感情でなく、親愛の情から来るものだと分かるので、ジャスも自然と頬が緩む。
「クラウディア様はよくしてくださいますし、シリスも本当に懐いてくれて、とても嬉しく思います」
誰にも言ったことはないけれど、この公爵家に生まれたかったと望んで泣いた夜がなかったわけではない。シリウスは本当に可愛かったし、公爵も叔母も素晴らしい人物だ。理想の家族を絵に描いたような彼らに、ジャスは憧れずにはいられない。
けれど。
「今もこうして、お心を割いてくださってます。とても光栄です」
叔母が母であれば、どれだけよかっただろう。そう思いながら、ジャスは立ち上がった。
「シリスの様子を見てきます。構いませんか?」
「ええ。はしゃぎ過ぎたら、遠慮なく叱ってやって頂戴」
「了解しました」
叔母との間に流れる時間は穏やかで、ずっと居座ってしまいたくなる。そうなって辛くなるのはジャス自身に他ならない。
「それでは、失礼します」
「ええ。また後ほど」
一礼してサロンを後にしたジャスは、執事の案内でシリウスの住まう棟に向かって歩き始めた。
頬を撫でられた気がした。
優しい手だ。
なんとなく両親ではないと分かって、シリウスはゆっくり瞼を上げる。
すると。
「悪い、起こしちゃったな」
「!」
思わず飛び起きそうになるのを、相手は慌てて抱きとめた。落ち着けさせるように頭を撫でて来るその人物は、シリウスがずっと待ち望んでいた相手だった。
「ラズお兄さま!」
「うん。ただいま、シリス」
シリウスを愛称で呼び、大好きな従兄はいつものように微笑んだ。
「遅くなって悪かったな」
「ううん。大丈夫」
シリウスはいそいそと起き上がり、寝台を降りた。その小さな背に、すかさず声がかけられる。
「こら。まだ寝てないと駄目だろ」
脇をつかまれ、抱き上げられる。足がぷらぷらと揺れて、これはこれで楽しかったりするのだが、シリウスはあえて秘密にしていた。打ち明けたら最後、二度と「だっこ」をねだれなくなる。
「平気だもん。夜ちゃんと寝るよ」
「昼寝は子どもの義務なんだよ」
「でも」
昼寝が終わるまで従兄が待っていてくれても、遊ぶ時間が短くなる。それでは大損だ。
「いいから寝なさい。夜また来るから」
「えっ」
思わぬ吉報に目を丸くする。従兄は大人しくなったシリウスをベッドに戻した。
「公爵閣下にも挨拶したいからな」
「こうしゃくかっか!」
詳しい知識は持たないが、それが父に対する敬称のようなものだと理解しているシリウスは、面映く鸚鵡返しに呟いた。
「じゃあ、夜ごはん一緒?」
「うん。そのまま泊めていただくつもりだよ」
「やったあ!」
弾けるような喜びを抑えきれず、シリウスはぴょんぴょん飛び跳ねた。その姿を見てジャスは、そういえば昔こんな玩具あったなあ、などと考えつつ、幼い従弟を寝かしつける。そのまま、努めて優しい口調で語りかけた。
「ただね、少し手配しなければいけないこともあるし、今から王宮に戻るよ」
「えー…」
「駄々を捏ねない。お土産あげないよ?」
それは困る、と口を押さえてシリウスは、ちらりと期待の眼差しを向ける。
「おみやげってなあに……?」
侍女が聞けば、浅ましいと叱られたかもしれない。けれどジャスは咎めなかった。
「夜までのお楽しみ。ちゃんといい子にしてたら、夕食の後あげるよ」
「うん!」
こっくりと頷き、シリウスは布団に潜り込む。いい子で待つ。それ自体は何の苦痛でもないのだ。言いつけを守れば、従兄はたくさん褒めてくれるから。
「じゃあ、シリスが寝るまでいようかな」
「ほんと?」
「ほんと。はい、目を瞑る」
「はーい」
流れる時間はひたすら穏やかで、シリスは先程と違い、とても幸せな気分で眠りについた。
「殿下」
部屋を出た途端、クリフの責めるような声が突き刺さった。傍から見れば無表情な彼だが、辟易するほどみっちり護衛されては、流石に感情の見分けくらいはついてくる。
「なんだ?」
とぼけつつ、ジャスは時計を確認した。予定より、かなり時間をかけてしまっているのは自覚している。
「セレスフィア公女殿下のお誘いは、どうなさいますか」
「またあの公女か」
トロナイルの南に位置するアルポロメ公国の第二公女セレスフィア・リーゼロッテ・ラフィアルポロメ。ジャスの最も苦手とする相手だった。
「なんで毎回いるんだ」
鬱陶しさを隠さないジャスの態度に、クリフは生真面目に答える。
「僭越ながら、殿下の第二妃を目指しておいでなのでしょう」
「言うな」
帰国した途端、クリフは嬉々としてジャスを「殿下」と呼ぶ。ここまでくるといっそ嫌味だ。
「一夫多妻なんて御免だ」
女は苦手だ。平気なのは、自分にその手の関心を持たないと分かる「仲間」だけだ。
その点、件のセレスフィア公女は終わっている。あからさますぎる好意を、ジャスは上手く回避せねばならない。
そもそも、何故ジャスが帰国する度、トロナイルに滞在しているのだろう。どことなく作為を疑ってしまう。
「帝国ならともかく、ウチじゃもう時代遅れだろ」
女性の地位が周辺諸国より高いこのトロナイルでは、一夫多妻はあまり迎合されることではない。禁じられているわけではないが、現に父王は例え折り合いの悪くとも、正妃以外に妻を娶っていないのだ。
女性が苦手、というより恐怖観念を抱いているジャスは、一夫一妻万歳だ。
けれど、セレスフィア公女はその、殆ど唯一の枠を欲している。あの執着に歪んだ瞳は、どこぞの人魚を彷彿させて気分が悪くなってしまう。
「帝国の皇太子は、従妹姫を許婚に定めたそうです」
「へえ、初耳だな」
「不確定な噂程度ではありますが、話の種にはなりましょう」
言外にセレスフィアとの面会に応じろと告げてられ、ジャスは渋々ながら王宮へと戻ることにした。
「お久しぶりですわあ、殿下。再びお会いできて光栄に思います」
「こちらこそ、ご無沙汰しております。薔薇姫」
リーゼロッテ――――天空神が愛した薔薇の名を持つこの公女は、薔薇姫の愛称で知られている。本人もまさしく大輪の薔薇のごとき美貌の持ち主なのだが、ジャスはさして感銘を受けたことはない。見目の良い者なら珍しくもなんともない上、単純に美貌を比較すればチュニアールにいるシンルーのほうが数段上をいく麗しさだ。
何よりこのセレスフィア公女の場合、ジャスとは致命的なほど相性が悪い。一方的な好意を寄せられても、頬が引き攣るだけだった。
なのに。
「まあ、意地悪な殿下。以前にもお願い申し上げましたのに」
「と、おっしゃると?」
「薔薇姫などではなく、是非“セレス”とお呼びくださいませ、殿下」
勘弁してくださいと頭を下げたくなるジャスだったが、表面上はにこやかに返す。
「そうですか? 姫によくお似合いの、優美な愛称ではありませんか。素晴らしい名をお持ちです」
ありきたりで、という不敬な一言を飲み込み、ジャスは紅茶を口に含んだ。名目上はアルポロメで新しく出来た茶葉をご馳走したい、という茶会なのだから、別段非礼だと咎められる仕草ではない。
「美味しい」
「……それは、ようございましたわ」
呼称の件で上手く逃げられた感のあるセレスフィアは、やや面白くなさげに頷く。曲がりなりにも公女として他国の王宮に滞在している以上、感情的な態度は褒められない。
「そういえば、殿下はいつ頃お戻りになりますの?」
「来週には戻りますよ。姫こそ、兄君が心配なさっておいでではないのですか?」
厄介なことに、この公女はアルポロメ太子レオニード・ルドルフ・ヴァロアルポロメの同母妹だ。だからこそ邪険にもできず、毎度ジャスは彼女のお遊びに付き合わねばならない。
「兄は相変わらず、父の腰巾着として多忙のようですので。妹がどこで何をしていようが、さして興味もないのでしょう」
苛立ちの篭った声だった。
「曲がりなりにも正妃生まれの太子ですのに、いつも妾腹の長兄を敵視して……全く、情けないことですわあ。殿下の半分でも、兄に気概があればよろしいのですけれど」
「姫」
ふん、とそっぽを向きそうな勢いの彼女を、ジャスはやんわりと嗜める。他国の王族相手に家族の愚痴と零すなど、およそ公女の行動ではない。
帝国は長子継承を重んじるが、アルポロメでは母親の身分がそのまま子の身分に反映されると聞く。ちなみに、どちらも女児に継承権は与えられないのだそうだ。
「今は文官でしたか、上の兄君は」
「ええ。……いっそ本当に、挿げ替えたいくらいですわ」
血筋で恵まれた次男より、空気を読んでさっさと臣下の列に加わった長兄のほうが遥かに優れている、と言いたいのだろう。
実際ジャスも同意見だ。何度か顔の合わせた兄弟は、どうにも優劣がついていたように思う。しかし流石に口には出さなかった。
「ところで、殿下」
「はい」
「帝国の姫君とのお話が持ち上がっておいでと窺いましたけれど、本当ですの?」
いささか出すぎた質問であるとは自覚があるらしく、声を潜めて尋ねて来る。ジャスは内心うんざりしたが、やはり愛想よく答える。
「まだ正式なものではありませんよ。ですが、この中央で帝国は無視できぬ相手でしょう」
「あらあ。それでしたら我が国はいかがですの?」
「これはこれは、失言でしたね」
「まあ」
何が楽しいのか分からないまま笑いあう。
早くシリスに会って和みたい、とジャスは心の中で切望していた。
公務を終えて、王宮に替え玉を置いて公爵家に訪れたジャスは、久々の「お忍び」を満喫した。
食事や入浴を終え、後は寝るのみとなった時間、ジャスはシリウスと寝台でカードゲームに興じていた。行儀悪く寝そべったままの状態だったが、咎める侍女はこの場にいない。窮屈な毎日を送る二人の少年は、ここぞとばかりに羽を伸ばしていた。
「ラズお兄様、おみやげありがとう」
シリウスはすこぶる機嫌がいい。ジャスの土産は、女の拳ほどある大きさの黄玉を、鳥の形に加工した笛だった。
シリウス本人は大喜びしてくれたが、叔母と公爵は呆れた顔を見せた。確かにこの大きさの黄玉が採掘されるのは稀だろうが、何もそこまで常識外れではない筈だ、と思う。
子どもには贅沢すぎる――――というのだろうが、ジャスにとってシリウスは、まさしく掌中の玉のように可愛い従弟なのだ。これくらい普通だと思ってしまう。
『そういうものは、もっと特別な女性に贈りなさい』
王女という生まれでありながら恋愛結婚という奇跡を叶えた叔母は、真面目な顔で言ってきた。
『いないので』
『では作りなさい』
『いや、私は一応トロナイルの王子という身分ですし』
婚約前から愛人はまずいだろう。呆れるジャスに、叔母はじれったいわね、と膨れた。
『あなたはせっかく奇跡的にお兄様でなく、お義姉さま譲りの美貌を授かったのよ? 活用しないと天罰が下るわ』
確かに、鷲鼻が特徴的で厳つい顔の父親に似たかったのか、と訊かれたら微妙なところだが、だからといって思春期のジャスに、母親似という評価は嬉しくない。相手と折り合いが悪いのだから尚更だ。
『いざとなれば、私と主人が盾になります。“共にいきたい”と望む相手は、国でなく自分の心で定めなさい』
無茶苦茶な人だと思った。若く奔放な叔母は、時にジャスより幼い、無邪気な少女のようだ。
「できるわけ、ないのに……」
恋愛など――――特定の誰かを深く愛するなど不可能だ。
『ジャス!』
山吹色の髪の少女。残された唯一のイヤリング。
――――そして、あの人魚姫。
少なくとも自分には無理なのだ。あの夜の記憶がある限り、一人の女を求めるなど、きっと生涯ありえない。
思わず声に出してしまったジャス、シリウスが不思議そうに、あるいは心配そうに見上げてくる。
「ラズお兄様?」
「なんでもないよ」
ごめんな、と軽く頭を撫で、ジャスはシリウスに就寝を促した。子どもが起きているには、少しばかり遅い時刻となっている。
シリウスは憮然とした。
「えー」
「えー、じゃないの。ほら、寝るよ」
布団に潜り込む従兄の姿に、シリウスが目を見開く。
「お兄様もいっしょにねてくれるの?」
「うん。今日だけ、特別な」
「ね、ねる! ぼく、ちゃんと寝るっ」
大好きな従兄が添い寝してくれると理解したシリウスは急いで横になった。ジャスは苦笑まじりに布団をかけてやる。
「いい子だな」
「ほんとー?」
「もちろん」
頭を撫でると、シリウスは蕩けるような笑みを浮かべた。その手には黄玉の笛が握られている。
「気に入ってくれたか」
「うん。大事にする!」
「ありがとう」
子ども特有の高い体温と、僅かな湿り気。
しがみついてくる存在を守るように、ジャスはゆっくりと目を閉じた。
2年後 トロナイル王都ヴェーズリーズ
ヴァレンティノワ公爵邸では、8歳になったシリウスが乗馬の訓練を受けていた。
普段なら、まず駄々を捏ねる。けれど、今日だけは別だった。
(まだかなあ、ラズ兄さま)
うきうきと心が躍り、今のシリウスの状態はとても危ない。鞍の上で頬を緩めてしまいそうになり、あわてて表情を引き締めた。
従兄が公務以外で帰国するのは、ここ数年ではついぞないことだ。本国に私用があり、そのままお忍びで遊びに来るというのだから、シリウスのはしゃぎようも仕方ない。
公務がない。つまり、滞在中は思う存分に甘えても良いということだ。
(まだかなあ)
その後ほどなく、シリウスは身が入っていないと教師に叱られた。浮かれていただけに気落ちしそうになったが、従兄にこんな拗ねた表情は見せられない。それでも今日は練習を続ける気になれず、部屋への逃亡を考えたとき、視界が真っ暗になった。
誰かに手で目隠しをされたのだ。
「だーれだっ」
「!」
昔より少し低くなった声。振り返るまでもない。
「ラズ兄さま!」
「はは、正解」
ぱっと振り向き様に抱きつく。「おっ」と従兄は嬉しそうに声を発し、そのままシリウスを抱き上げてしまう。
「大きくなったな」
「うん! もう元気だよ」
以前より体が丈夫になったシリウスは、存分に力を込めて従兄の首にしがみつく。所詮は子どもの力なので、ジャスはいいことだと笑うだけだった。
「兄さま、お土産は?」
「シリウス様!」
無邪気な質問に、教師の叱声が重なる。いかに身内といえど相手は王子、分は弁えろというのだろう。
ジャスは苦笑でそれらを退け、シリウスに笑みを向けた。
「あるよ。サロンに届けてもらったから、一緒に見に行こう」
「うん!」
手渡しでないところを見ると、少し大きさのあるものなのだろうか。どのみち乗馬からは逃げられそうだと、シリウスは子どもらしい邪な安堵を抱いた。
今回はどれくらい滞在するのだろう――――そんなことを思いながら。
淡い色合いの水晶で出来たチェスゲーム一式をシリスに贈り、ジャスは叔母に面会を求めた。
先日、とある事情により、贈られた品の片割れを他の相手に譲渡することになった。けれど、このままではペアルックだ何だと弄られかねない。そういうわけで、宝飾に詳しく、気兼ねのない叔母を頼って密かに帰国した次第だ。
「職人を紹介してほしい?」
クラウディアの復唱に、ジャスは決まり悪い思いで頷く。
「はい。お願いできますか?」
「それは構わないけれど」
叔母の目が訝しみに細められた。
「あなた、お抱えの細工師がいたわよね? ええっと」
「ヒルデガルドのことですか」
「そうそう、あの娘よ。ヒルダちゃん」
やけに親しげなのは、件のヒルデガルドが別の意味で有名だからだ。
「彼女はデザイン専門です。それに、お抱えというほどではありません」
「そうなの? でもあなた、子ども頃はロージャと二人で彼女の子分みたいに後を付いて回っていたじゃない」
本当に不思議そうに言われ、ジャスは咳払いでクラウディアを遮った。
「話を本題に戻してください」
「というより、何を加工したいの?」
「イヤリングです。できれば、スズランの形を取り入れたいのですが」
「スズラン?」
叔母は小首を傾げた。
「確かに可愛らしい花だけれど、女性に贈るのだったら薔薇の方がいいんじゃなくて? 根が毒なのよ。お相手は特別にスズランがお好きなの?」
「えっと、多分」
あの少女が自分の好みを素直に打ち明けるなど極めて稀だから、正直なところ自信はない。
そんな考えを巡らせ生返事をしたジャスは、次の瞬間、強い後悔を覚える。
「本当に女性に贈るのね」
目を丸くされ、どうして自分はこういう場面でヘマをするのかと、少々呪わしくなった。
「……いつもの職人に依頼できない理由は、お分かりいただけましたか」
「ええ」
意外にも叔母はからかうことなく、品のよい笑みで頷いた。
「王子ですものね。自覚あっての判断だわ」
ジャスの立場で女性向けの品を注文すれば、どうしたって勘繰られる。留学中に王子がどこぞの娘に入れ込んでいるなど、醜聞もいいところだ。
「確かに承りましたわ、殿下」
「よろしくお願い致します、叔母上」
互いに好ましくない名で呼び合い、やがて噴き出した。つまらない言葉遊びも、叔母となら普段の「ジャス」として楽しめる。
「ところで、ラズ。そのスズランなのだけれど、どんな風に取り入れるかは考えてあるの? 職人によって得意な加工も技術も違ってくるし、完成して予想と違ったら大変よ」
シリスの土産を頼む職人とは直に言葉を交わすことも珍しくないが、叔母を経由すれば直接的な話し合いはできない。
「はい。そのことでお願いが」
「何かしら」
「ヒルデガルドをこの屋敷に招いて頂けませんか?」
ジャスは本来ここにいないはずなので、おちおち知人に会うこともできない。
「よくってよ。けれど、彼女は多忙なのじゃなくって?」
「内々に連絡はしました。デザイン画を持ってきてくれるそうです」
「わかりました。日時は?」
「明後日の午後です」
「ならば、そのように」
使用人に目配せし、叔母は上機嫌に笑う。
「相変わらずヒルダちゃんと仲がいいのね」
「爪弾き者同士ですから」
「ヒルダちゃんは貴方と違って、素晴らしい絵心をお持ちのようだけれど?」
「……」
芸術方面にはとんと恵まれなかったジャスは、目を泳がせる。絵画の才能は皆無であると自覚はある。というのも、当時のジャスの絵の講師が、同じ年頃の少女を養女として迎えたからだ。それが件のヒルデガルドである。
うまく取り入って養女を妃にするつもりではないか、と邪推を受け、師は任を解かれてしまったのだ。そのまま次の講師が決まる前にチュニアールに留学することとなった。
「随分と彼女に好意的ですね」
成金、拾われっ娘、根無し草――――などとはまだ可愛いほうで、もっと聞くに耐えない陰口を叩かれている娘だ。東洋系の容貌も異国の象徴で、あまり褒められることがないらしい。
大きな黒目が印象的だったが、どことなくサーシェスと面差しが似ている。東洋人が珍しいからそう思うのだろうか。
「彼女の歌は素晴らしいもの。シリスも大好きなのよ」
「はあ」
ヒルデガルドが歌手として活躍しているのは知っていたが、ジャスの中で彼女は「がさつなバカ娘」だ。もちろん嫌いではないので、悪友くらいには思っている。リオンと馬が合いそうだった。
叔母はムッとした。
「信じてないわね」
「どのみち、来年の今頃は披露目の打ち合わせで嫌でも聴くでしょう」
今は夏の終わり。秋が来て、冬が来て――――季節がもう一巡りした頃には、自分はもう王宮へ正式に帰還している筈だ。
「そうなれば毎日のように聞くことができるでしょう」
この生活の終わりが近いことが、たまらなく口惜しいと感じながら、ジャスは曖昧に笑って見せた。
そして二日後の午後、ヴァレンティノワ公爵邸を訪れた黒髪の娘の出で立ちに、ジャスは思わず顔を顰めそうになった。
「そのままで来たのか」
「そう。可愛い?」
「トテモカワイイ」
「絶対うそじゃん! ひっどい秒読みだし!」
からからと笑う娘は、黙って伏し目がちに佇んでいれば、可愛らしい部類の容姿をしている。が、口を開けば己の容姿全ての価値を破壊してしまうのが、このヒルデガルド・コーバッツ男爵令嬢という人物だった。
「相変わらずだな」
「殿下もね。ど? お元気してたかい?」
ジャスは答えず、先に釘を刺すことにしたを
「……呼びつけておいてなんだが、ここは俺の叔母夫婦の屋敷だ。客として訪れた以上、最低限の礼儀は守ってくれないか」
ヒルデガルドは意外そうに瞬いた後、猫のように笑った。
「なーるほど。殿下も相変わらず叔母思いだね」
「シリスや叔母の品性が問われるような真似はやめろと言っている」
彼女が歌手として舞台に出るのは知っていたが、奇抜な衣装のまま王女が嫁ぐほどの名家に踏み込んでくるなど非常識だ。
「しょうがないだろ。殿下の為に着替える間も惜しんで駆けつけたんだから。もう少し妥協してよ、殿下」
殿下と呼びつつ、完璧になめている態度だ。
生まれつきの貴族でない彼女は、どちらかといえば貴族嫌いだ。とにかく口が悪く、王子という肩書きにも興味はないのだろう。
もう慣れているし、彼女のそういう性質をジャスはずっと昔から好ましく思っているので、その点については何も言うつもりはない。
もしヒルデガルドがセレスフィアのような性格で、こちらに一方的な好意を抱き、あまつさえそれを押し付けてくるような娘なら、ジャスは徹底的に拒絶しただろう。
……ある少女と出逢った今では、殆ど眼中に入らないというのも大きいが、それは脇においておく。
ジャスは溜息混じりに口を開いた。
「それで、頼んでいたものは?」
「ふっふーん、見たい? 見たいよね? どうしよっかなー」
ニヤニヤともったいぶる娘を冷めた目で見やり、ジャスは背後の護衛官を呼ぶ。
「クリフ」
「は」
「今すぐこの馬鹿が使おうとしてる劇場を封鎖してこい」
「は」
「ちょっと!?」
ヒルデガルドが目を剥いた。
「卑怯! 卑怯だよ殿下、こんなか弱い女の子に権力を振りかざすなんてっ」
「あんたのどこがか弱いんだよ」
寧ろ図太すぎる。そして面の皮も果てしなく分厚い。一度くらい本気で測ってやろうかと思う。
「柳のように華奢で頼りない乙女だよ」
「なるほど、柳のように強かな雌猿か」
「うっわ、これがほんとに私のご主人様なのかな」
「残念ながら」
下らない応酬をそれからしばらく繰り返し、結局ヒルデガルドが先に折れた。いくつかのデザイン画をテーブル一杯に広げながら呟く。
「ちぇっ。いいじゃんか。教えてくれてもいいだろ。これ、どんな子にあげるのさ」
「あんたと違って慎み深くて可愛い子だよ」
「ふーん? 本気っぽいね」
「俺がいつ女遊びしたんだよ……?」
呆れながら目を細めると、ヒルデガルドは肩を竦めてやり過ごした。
「じゃあ、未来の王妃様かな」
「まさか。さすがに、あんな伏魔殿みたいな王宮にまで連れて行く気はないよ。今だけだ」
「え、じゃあ遊び?」
「そんな相手の為に、わざわざこんな手間のかかる真似はしない」
「だよねー」
ジャスがデザイン画を見比べている間、ヒルデガルドは何かを小さく口ずさんでいた。舞台の練習を切り上げて来たというのはあながち方便ではないのだと気付き、僅かに申し訳なく思う。が、衣装のままで叔母の屋敷を訪れたことは不満なので、結局ジャスは謝罪を口にしなかった。
「これにしようかな」
「え? それでいいの?」
デザイン画はどれも注文通りスズランがモチーフにされていたが、ジャスの選んだものは元の真珠に透明のダイヤを足しただけのものだ。もっと派手なものもある中で、あえて色味のない画を選んだジャスに、ヒルデガルドが首を傾げる。
「若い子なんでしょ? もっと明るい色とかじゃなくていいの?」
優美だが彩りに欠ける、といいたいのだろう。ジャスは苦笑した。
「うーん……ただ、白が似合いそうな子だから」
正直、彼女なら何でも似合う気がしたが、惚れ込んでしまっている自分では目が曇っているかもしれない。それなら、セレナが託してくれた真珠を引き立てる、この意匠が一番適していると感じられた。
「わかったよ。じゃあ、どーぞ」
「ありがとう」
今度は素直に礼を述べる。ヒルデガルドは擽ったそうに笑った。
「どういたしまして。相手は留学先の子なんだよね?」
「やたら詮索してくるな」
「違うよ。もしトロナイルの子なら、一緒に舞台を見に来てねって誘えたのにって」
「なんだ、営業か」
苦笑いして言うと、やはりヒルデガルドは最初のように、からからと元気よく笑った。
クラウディアの勧めで夕食を公爵家でご馳走になると決めたヒルデガルドは、王子をお供に中庭で茶の時間を楽しんでいた。
王子のお供ではなく、あくまで自身を主体におく。貴族の娘として考えられない振る舞いだったが、当の王子本人もヒルデガルドを対等な悪友だと評している。人の目だけ気にしていれば、彼はあれこれ口出ししないのだ。
「でもさあ、殿下」
「その“殿下”っていうの、あんたが言うと白々しいな」
最上級の敬称であるはずなのに、彼女が言うと馬鹿にしているような印象を受ける。実際、王侯貴族を尊ぶ気持ちが薄いからだと知っているからかもしれない。
ヒルデガルドは肩を竦めた。
「それは殿下の心が荒んでるからさ。ぼく悲しいなあ」
「その“ぼく”っていうの、禁止だろ」
上機嫌に頷きつつも、ヒルデガルドの顔が僅かに強張ったのをジャスは見過ごさなかった。養父であるコーバッツ男爵に拾われるまで、彼女は男装して生き延びていた。その時のくせが、時折このような形でぽろりと出てしまうのだ。
「そういえば、留学先じゃ“ジャス”って呼ばれてるんだっけ? 私もそう呼ぼっか」
「なんでもいいよ」
貴族の養女でありながら貴族嫌いな彼女は、トロナイルの王宮事情にも疎い。というか興味がないし、関わりたくもないのだろう。王太子の称号を略称で呼び捨てることがどれだけの不敬に値するか、ヒルデガルドは気にも留めない様子だった。
「なんか変わったね、ジャス」
「は?」
いきなり呼び捨てか、と思わなくもなかったが、へんに「さま」など付けられても小馬鹿にされたと感じたかもしれない。唐突な話題に戸惑いながら、ジャスは首を傾げた。
「背はもう伸びてないと思うけど」
「そりゃね。ていうか、それ以上でかくなった巨人だよ」
「今でも壁扱いされてるけどな」
「ああ、あっちの仲良しさんたちだ?」
「ランティスとイリヤな」
ジャスの留学先が独立国チュニアールであることは特秘事項となっている。暗殺を逃れるためという本来の目的は公然の秘密で、国王は故意に多くの噂を流した。
懇意にしている叔母の夫たるヴァレンティノワ公爵の領地に匿われているとか、王家所有の離宮で療養しているとか、南方の学園都市で貴族の子弟として勉学に励んでいるとか、実は王宮の最奥に隠れているだけだとか、はたまた最初からそんな王子は存在しないのだとか、その他色々な嘘話が囁かれている。
古くからの親しい間柄であるヒルデガルドも例外ではなく、本当のことは明かせない。言ったところで口外するような娘ではないと信頼しているが、流石に彼女も心得ているらしく、留学先を詮索したりはしなかった。
「でも、なんでかな。その二人とは昔から一緒にいたんだろ?」
「ああ」
それがどうした、と目で問うと、ヒルデガルドはにんまり笑った。
「やっぱ恋人ができたからなんじゃないの」
「その下品な笑いはなんとかならないのか」
色恋に興味があるというより、ジャスをからかうのを楽しんでいる顔だ。
「ねーねー、今度その子に会わせてよ。イヤリングの子」
「絶対お断りだ」
「別に襲ったりしないよ? 確かにぼくは女の子が大好きだけど、最終的には美しー友情に留めるから」
「おい」
「はい、私だね」
「そこじゃない」
こうなると、ヒルデガルドは変人というか変態だ。芝居か本性か看破できず、ジャスは思わず身を引いた。
「ひどいなあ」
「怖いんだよ、あんた」
レティアとは違う意味で恐ろしい。得体が知れないという点では、あの人魚姫より数段上をいく令嬢だ。
「だって、興味あるんだもん。ジャスを変えた女の子なんだし」
「具体的にどこが変わったんだ」
ジャスは自分が特に何らかの変化に見舞われたとは思っていない。ヒルデガルドの言わんとしていることが分からなかった。
「やっぱり、一番は雰囲気かな」
「あんたの主観だろ。人によって受ける印象も違うんだから、久しぶりでそう感じるんじゃないのか」
「そうかなー」
ヒルデガルドは茶を啜りつつ、真正面にある訝しげな顔を見つめる。相変わらず、男には勿体無い美貌だ。
(逞しくなった、ていうか)
以前はどこか危うさを漂わせ、それが人間離れした美貌に儚げな印象を加えて、朽ちる寸前の薔薇を思わせた。
けれど、今はどうだろう。
美しさは変わらない。けれど精悍さが増して、瞳には活力がある。以前のような演技ではない、本物の意思が宿っていた。
よほど大切な、守りたいものができたのだろう。
そう思うと、また奇妙な笑みが浮かんだ。ジャスが気味悪いと言いたげに青褪める。弄り甲斐があるところは相変わらずで何よりだ。
一方ジャスは、ヒルデガルドを見て呆れていた。黙って伏し目がちに佇んでいれば愛らしい容姿をしているのに、奇天烈な本性を剥き出しにしているのはどうなのだろう。外見の価値を中身が破壊している。勿体無い限りだと、自分を棚上げしてジャスは思った。
それからしばらくして、ヒルデガルドが街に行こうと言い出した。思わず渋面を作るジャスだったが、デザインのお礼に付き合えと言われ、仕方なく服を着替え、彼女の馬車に乗り込んだ。
「じゃ、一度ちょっと劇場に行っていい? 流石にこのまま街に出たらヒルダってばれちゃうし、衣装を汚すと義母さんに叱られるから」
ヒルデガルドは愛称のヒルダを歌手としての名前として活動している。貴族の養女という顔を隠す為でなく、本人が長い名前を好いていないのだ。
【ヒルデガルド】は彼女の本名ではなく、養女となったときコーバッツ夫婦から贈られたものだ。今はもう、自分と彼女の他に知るものは男爵しかいない。
ヒルデガルドは何も言わないが、自分の名を取り上げられるというのはどういう気分だったのだろう。当時はジャスも幼く、あまり深く考えなかったが、そう思うと、いくら彼女を守るためとはいえ、かの男爵夫婦が取った行動はなかなに残酷な行為ではないか。
「ていうか、あんた有名なんだろ? いいのか、男と二人で出かけて」
ジャスの顔を知っているのは貴族の中でも極僅かで、街を出歩いたとて派手な容姿が悪目立ちするくらいだ。が、横に話題の歌姫がいるとなると事情が違う。彼女のゴシップになるし、ジャスもあれこれ騒がれるのは避けたい。お互い特別な感情は微塵も存在していないが、部外者にそんな言葉は届かないだろう。
「平気平気。ちゃんと男装するから」
「コーバッツ男爵の立場はどうなる」
「どうせ成金だし」
「それが養女の台詞か」
呆れつつ、ジャスはもういいやと首を振る。彼女はなんと言うか、時々ジャスが及びもつかない世界にいるようだった。
現コーバッツ男爵は、トロナイルの歴史に残る音楽家の孫だ。男爵の父親は音楽に興味がなく、早々に方向転換して商人となった。トロナイルの経済発展に著しく貢献したとして、先王から男爵位を下賜されたと聞く。コーバッツ男爵はその息子で、ジャスの絵の講師でもあった。芸術を愛する血筋なのだろう。
父の代で莫大な富と名誉を得たコーバッツ家。確かに成金といえば、まあ否定はできない。が、あの人の良さそうな肉達磨を成金、とは。
どちらかといえば、東の果てにある島国でいう、「シチフクジン」なるものに近い。毒気がないのだ。そして丸い。とにかくぽっちゃりしている。
口ごもったジャスに何かを感じたのか、ヒルデガルドは口角を上げる。
「まあ、確かに。成金の息子の割に、狡猾さは見当たらないよね」
「だな……」
ジャスとて、久しぶりにかつての講師と顔を合わせた時は、言いようも無い衝撃を受けた。どちらかといえばスタイルが良かった、あの頃の紳士はどこへ行ったのか。枕やクッションの代用品にでもできそうな脂肪がついた腹は正直、妊婦と五十歩百歩だった。
あのままでは、寿命が訪れる前に肥満が病を呼んで早死にする。ジャスは青褪めた。
「少しは減量できたのか」
「義母さんが奮闘してるけど、本人の意思が弱いからねえ」
「……次に帰ったら、ダイエットに効果がありそうなものを男爵に贈るよ」
「うん。お願い」
ヒルデガルドも神妙に頷く。そうこうしていると、馬車が止まった。
「ついたね」
「ん」
御者が扉を開け、ヒルデガルドはその手を借りて車を降りる。と思ったら、不思議そうな顔で振り返った。
「何してるの?」
「……行っていいのか?」
部外者に公開前の舞台練習を見られるのは、他の役者が迷惑するだろう。こうした場所はあまり訪れる機会がないので興味はあったが、ジャスは遠慮してしまった。
「いいじゃん。広い意味で将来は君の持ち物なんだし」
「あのなぁ」
「そうだ。君のこと“ジャス”って呼ぶけど、大丈夫? ばれたりするかな?」
その点は問題ない。まさか王子をそのように呼ぶなど、不敬すぎて思い付きもしないだろう。そもそも、護衛もつけずに(例によってクリフは姿を隠している)王子が城下をうろついているなど誰も信じないはずだ。
「大丈夫だけど、本当にいいのか?」
「平気だよ」
そう言うや、ヒルデガルドはジャスを引きずるように歩き始めたのだった。
控え室で手早く着替えたヒルデガルドは、先程とはまるで別人になって現れた。
「はい! “貴族の御曹司とその使用人”完成だね」
「嫌味かよ」
「仕方ないだろ。他にどう言えばいいのさ」
「組み合わせにタイトルをつける意味が分からない」
「あーもう、うるさいな」
ジャスは庶民の平服を纏っているが、結果として容姿が引き立ってしまっている。そこに何の嫌がらせか、いかにも小姓といった小柄な少年が加われば、確かに【貴族の御曹司とその使用人】だった。
ヒルデガルドは今、黒髪を縛って薄茶のカツラを被り、黒縁の伊達めがねをかけている。起伏に乏しい胸にも更に晒を巻いたのか、成長期に差し掛かった少年に見えた。
手馴れている。
変装してあちこち出歩く姿な容易に思い浮かび、ジャスは呆れた。
「男爵の放任ぶりも困ったもんだな」
「あ、何さ。君ん家だってそうだろ」
「放任じゃない。あれは放置だ」
げんなりしながら言うジャスの耳に、ふと歌声が響いてきた。
星の燃え尽きた空
遥か遠くに響くのは
押して返す波の音
いつか逢えるだろうか
また逢えるだろうか
伝えられるだろうか 今度こそ
生まれてきた 朝の光
夜天 照らす明日の色
見失わぬよう もっと抱きしめて
言えなかった 「さよなら」
渡せなかった 「愛してる」
たとえ この身が朽ち果てても
忘れないよ 君の名前
この想い 花と咲くまでは
光の花が降る頃
僕と君は出逢うだろう
きっと また この場所で
歌声を辿り振り向くと、スクリーンに【ヒルダ】が映っていた。歌姫の姿で、朗々と声を響かせている。
「ほんとに歌手だったんだな、あんた」
感心したように言う王子に、ヒルダはムッとする。
「信じてなかったの?」
「今から信じる」
「あそ」
面白くないとヒルデガルドは口を尖らせる。
「あれね、“光の花が降る頃に”って曲なんだ」
「……光の花?」
「うん。あれ、どしたの」
なんだかジャスが過剰反応を示した気がして、ヒルデガルドは首を傾げた。
「いや」
なんでもない、と目を泳がせるジャスだが、じっとスクリーンを見上げている。らしくない仕草だったが、不思議とからかう気は起きなかった。
彼の目は、スクリーンの【ヒルダ】を見ているようで、違う。別の何か、誰かを想っているように見えた。
(好きな子かなあ?)
ヒルデガルドは、この見目麗しい王子に恋愛感情は持っていない。家族と同じくらい大切で、気の許せる貴重な相手だが、どうにも熱っぽい気持ちにはなれないのだ。彼が美人すぎるので、並んだとき比べられて落ち込むのが目に見えているし、何よりヒルデガルドにも過去があった。
養父母は、忘れなさいと優しく言ってくれる。けれど、それはできないことだ。
『僕は人殺しなんだ!!』
いつか出逢った、翡翠のような瞳の少年。
泣いていた。叫んでいた。死んで楽になりたいと言っていた。
『ここに人殺しじゃない奴なんかいないでしょ』
慰めようと思ったわけではないが、出てきた言葉は、いくら子どもで思慮が浅かったとはいえ、我ながら最悪の内容だった。傷口を抉った挙句、塩を刷り込んでいるに等しい。
『きみは誰を殺したの?』
『昨日、赤ん坊の首をグイッてしたよ』
女は子どもに甘い。それを自分の手で縊ることができたなら、精神的に丈夫になるだろうと教えられたから。詳しく言うと、折れた首の感触を思い出してしまいそうで、少年にはぼかして伝えた。
もし躊躇う素振りを見せたなら、きっと自分が監督役に殺されていただろう。申し訳ないと思う。けれど、ヒルデガルドは未来ある子どもの命を奪った。それだけは変わることの無い事実だ。
『……家族?』
『ううん。偉い人が拾ってきた赤ちゃん』
『僕は、従兄だったよ』
翡翠の瞳を伏せ、少年は言った。罪深さに怯えるように。
『従兄だろうが見知らぬ赤ん坊だろうが、命は命。殺した時点で悪人じゃん。君と私は同じだよ』
『一緒に育った相手を殺したんだ』
『だから何なのさ。ちゃんと力をつけないと、ここでは生き残れないよ』
『……罰を受けるべきだと思わないの?』
軽蔑を孕んだ眼差しに、ヒルデガルドは鼻を鳴らしたものだ。
『自分の人生なんだよ。抗えない力に押さえつけられたまま、死んで逃げ出すの? 私は嫌だな、そんな生き方』
『は……?』
少年の声が徐々に怒気を帯びていく。生き恥を晒すのかと、目が問うていた。
『私は殺す。いつかあいつらを殺して自由になれる日まで、力を蓄えるの。嘆くばかりなんて絶対に嫌。慈悲をくれる神様なんていないんだから』
『え……』
少年が絶句し、次に青褪めた。慌てて周囲を窺い、誰も聞き耳を立てていないことに安堵する。
『馬鹿なの? 大きな声で言うと、今すぐ君が殺されるよ』
『ふん。神様はいないって言ったら、逆に褒められそうだけどね』
『あのさぁ!』
少年は不気味そうにこちらを見て、その日はまるで逃げるようにして帰っていった。
それなのに、どうしてだろう。
数日後、また同じ場所に現れた。また殺しをさせられたらしい。
愚痴係のようで複雑だったが、まあいいかとヒルデガルドは少年の話を聞きいてやった。
まさに激励叱咤で、いつの間にか少年はすっかりこちらに懐いてしまったが、別れは唐突に訪れた。周りの大人達に引き離され、そのままとある事件に巻き込まれて、目の前の王子と出会い、紆余曲折を経て貴族の養女となったのだ。
ヒルデガルドは頭を振り、追憶を打ち切った。スクリーンを見ているジャスの背を叩く。
「そろそろ行こっか、ジャス!」
「ん、ああ」
あの少年はどうしたのだろう。あの事件で死んだのだろうか。
それとも、今もどこかで――――――。
王都を出歩くのは久々だ。
帰国する際は大抵の場合、必要な公務をこなすときだけだ。この半年は特に、チュニアールから出るのが億劫だった。
残り時間が少ないのなら、せめて一日でも長く【彼女】のそばにいたいのだ。
「そういえば、あのイヤリングっていつ頃できるの?」
「んー……叔母上は急がせるから、って言ってたし、そんなに時間はかからないと思うけど」
そう語るジャスの左耳に、あのイヤリングはない。
少女に譲る右――――何故かセレナが指定してきた――――には、女物の装飾を加え、ジャスは自分に残った左のイヤリングをペンダントにすることにした。やや長い髪に隠れるにしても、男でイヤリングはどうなのだとヒルデガルドが無遠慮に指摘してきたのだ。チュニアールの皆はそれがセレナの形見だと察しているため何も言わなかったが、先日の事件以降ジャスも正直どうなのかと思い始めていたので、ついでに加工してもらっている次第だ。
今、ジャスの耳には何も残っていない。叔母が守り石のピアスもついでに用意させると言ってくれたが、しばらくはこのままでもいいかと思っている。
かつてセレナからイヤリングを譲られてから、それまでずっと耳につけていたトロナイルの貴色である青のピアスを、彼女の死後しばらくしてから、海に投げ入れた。
セレナからしてみれば、どんな気持ちだっただろう。
彼女は命を散らして、それでもずっと傍にいてくれたのに。
「できたら見せて?」
「ああ。ええっと……じゃあ、三日後にまた叔母上の屋敷に頼む」
「はーい」
上機嫌で頷くヒルデガルドは、何の違和感もなく男装している。こうしていると幼く、十代半ばくらいの少年に見えた。
「さーて、何を奢ってもらおうかな」
「俺は財布か」
「世の中の男は女の財布になるため生まれて来るんだよ。知らないの?」
「初耳だよ。確かに、男爵と夫人なら言いかねないけど」
呆れるジャスにヒルデガルドは屈託の無い笑みを浮かべ、さっさと歩き始めてしまう。使用人を自称する割には奔放だ。
「あのな」
「ねーねー! ハーブティーの茶葉買って? みんなに差し入れでもってくから」
「ちょっと待て。頼むから」
ようやく追いついて腕を掴むと、不思議そうな一瞥が返る。
「駄目?」
「それはいいけど、あんまり一人でほいほい進むな。あんたに何かあったら男爵に合わせる顔がない」
短い付き合いだったとはいえ、コーバッツ男爵は恩師だ。当時ジャスの嫌な噂を知らない者はいなかった。関われば自身も後ろ指を差されかねない中、彼は実に親身な教師だったのだ。
最初は皆が言うように、下心を疑った。けれど実際には真逆で、彼は養女を愛娘としてとても大切にしていて、どこにも嫁に出す気はないと照れ笑いしたものだ。
「やだなぁ。ぼくは貴族のお姫様じゃないんだよ?」
「少なくとも男爵は掌中の玉だと思ってるぞ」
「ジャスにとってのシリス様だね」
揶揄するように言いつつも、彼女はすんなり従った。
「……ね、いつ正式に帰国するの?」
「未定」
いきなり何だと目で問うと、曖昧な笑みが視界に入る。
「噂、聞いたから」
「噂?」
「王様の体調が思わしくないって」
「ああ」
興味なさげな相槌に、しかしヒルデガルドは気にした風もなく続けた。
「ちょっと心配なんだよ。まだ王様はさほど高齢でもないけど、もしもの時、即位するのは君だろ?」
「唯一の直系王子だからな。シリスがいるけどまだ小さいし、体も丈夫とは言い難い」
チュニアールを守りたい想いもあるが、シリスに全てを押し付けることはできないという責任感も大きい。幼く無邪気な従弟は、醜い思惑に毒されて参ってしまうだろう。
「シリス様、何も言わないの?」
「うん。……けど、何も分かってないわけじゃない」
大人達の微妙な空気を、子どもは存外敏感に感じ取る。ジャスもヒルデガルドも、経験上よく知っていた。
「待ってるんだよ」
いつか貴方が戻るまで。
「そうだな」
病弱なのは体質だ。けれど、いかにも幼稚な子どもといった振る舞いや甘え方は、8歳という割にはどうなのだろう。
あの従弟は、ジャスの為に自尊心を殺している気がした。本当は乗馬も下手ではない。ここ数日こっそり見ていたが、筋はいい方だろう。
褒められるため、子どもは普通そういう面を見せたがる。なのに、シリスにはそれがない。
第二の継承権を持つ自分が聡いなどと言わてしまえば、留学という名目で王宮を空けている赤眼の従兄が蔑まれ、立場を悪くするのではないかと危ぶんでいるのだ。
ずっとチュニアールで、想う少女と過ごしたい。けれど、そうすれば可愛い従弟を苦しめ続けることになる。ジャスは瞑目した。
(もう少しだけ、許してくれ)
シリスの笑顔が浮かんで消える。胸に苦く広がるのは、小さな少年への確かな愛情だった。
3日後の午前、ヴァレンティノワ公爵邸に再びヒルデガルドが現れた。今度は貴族の令嬢らしく、夏に相応しい涼しげなドレスに身を包んでいる。
が。
「あ! 殿下ーっ!」
「そんな格好で走るな! ていうか裾を結ぶな馬鹿!」
裾を多少からげる程度ならまだいいが、邪魔だからと精緻なレースを皺くちゃにするのは見過ごせない。へんなところで庶民派かつ貧乏性のジャスは、半ば本気で職人に謝れと思った。
「いいじゃん。それより見て、ちゃんとドレス着たんだよ。それもこれも殿下の為に! ああ、なんて優しい私」
「なんて喧しい、の間違いだろ」
「うるさいなぁ」
「どっちが!?」
下らないことで騒いでいると、聞きつけたのかシリウスがひょっこりと顔を出した。
「あ、歌のお姉さんだ!」
「はーい、ヒルダですよ。お久しぶりです、シリス様」
膝を折ってシリウスに視線を合わせ、ヒルデガルドはにっこり笑った。奇天烈さで周囲に頭痛を齎す変人だが、子ども好きという(まるで)普通の女性の(ような)面も(一応)あるらしい。
「ヒルダお姉さん、ラズ兄さまとお友達なの?」
「ええ。とっても仲良しです」
「違うぞ、シリス。このお姉さんは悪い友達だから、あまり近づかないように」
「えぇー?」
「いいから、ほら。おいで」
困惑したように首を捻るシリウスを抱き上げ、ジャスはさっさと歩き始める。そうなるとシリウスは嬉しくなったのか、直前までの会話など無かったように笑みを浮かべた。
「ちょっと、殿下?」
棘のある声でヒルデガルドが呼び止めるので、ジャスは大真面目に言った。
「シリスにあんたの馬鹿が感染ったら困る」
「あ、ひどい。酷いよ殿下! あんまりだ!」
頬を膨らませつつも横に並ぶヒルデガルドは、いそいそとドレスの裾を解き始めた。さすがにクラウディアを慕っているだけあって、彼女にはこの姿を見られたくないらしい。
「んで? イヤリングは?」
「昼過ぎに届くから、叔母上が軽食を是非ご一緒にって言ってるけど、どうする?」
「わーい! なんだか悪いねえ」
遠慮する気はさらさらないらしく、彼女の足取りは軽やかだ。
「やっぱりアレかな。殿下の貴重な友人だと思って下さってるのかな」
「人が友達いないみたいに言うな」
「そりゃ私より少ないってことはないだろうけど」
だったら言動を改めたらどうだと思ったが、喉の辺りでなんとか自制を利かせたジャスだった。
「そういえば昔、義父さんの授業に一緒に来てた、あの子は?」
「ロージャ?」
「ああ、そうそう。えーと、ナントカって一族の人」
「まるで覚えてないじゃないか」
ロジオン・フィジー・ルートバルス。
前国王の義理の甥で、ジャスやシリウスとは再従兄弟の関係になる。
「普通、国母の生家を忘れるか?」
「しょうがないだろ、会ったことないんだから」
「当たり前だ」
孫の一人であるシリウスでさえ、病弱さゆえ赤ん坊の頃に会っただけだ。もちろん記憶にもないだろう。ジャスも食わせ者の祖母はどこか苦手だった。
どうして自分の周囲にいる女性は、こうも「強い」のだろう。思わず溜息が漏れた。
「なにさ、嫌味に溜息?」
「違うよ。で、そのロージャがどうした?」
「今でも仲良しなの?」
いや、と短い否定をして、ジャスは思い出すように続ける。
「仲良しというか、あんたの家で世話になってた頃から会ってないから何とも。風の噂で、領地から殆どでないとは聞いたけど」
ふうん、と相槌を打つヒルデガルドだったが、急に「あ!」と声を上げた。腕の中のシリウスは吃驚したように身を硬直させ、思わずジャスは彼女を睨む。
「おい」
「あ……ごめんね、シリス様」
慌てて詫びると、彼女は反省の色が見えない笑顔で続けた。
「噂といえばさ、春先にちょっと国境で騒ぎが起きたんだ」
「どんな?」
「帝国のお姫様が攫われて、しかも教会の巫女様まで行方不明なんだって!」
「――――――――」
物凄く身に覚えのある話に、ジャスは思わず沈黙した。
「皇女か何か?」
とりあえず、とぼけることにした。
「さあ、そこまでは。でもすごく身分あるお嬢様だってのは聞いたよ。帝国も隠そうと躍起になってるけど、噂話は時々、矢より早いからね」
「へー……」
流石のヒルデガルドも、まさかその誘拐犯がすぐ隣にいる自国の王子だとは思うまい。世間から同情を集めているらしい娘二人が、現在どれだけ伸び伸びと生活しているかを知るジャスは、彼女らに逃亡の嫌疑がかけられていないことに安堵すべきか、国民を騙していることを心苦しく思うべきかで、実に複雑だ。
「しかも帝国のお姫様、皇太子の婚約者だったらしいの」
「……ウン」
声が裏返ってきた。
「それでね、噂じゃ皇太子を嫌っての出奔なんじゃないかって!」
正解だと心の中で答え、ジャスは無難に相槌を打った。
昼が過ぎ、夏の暑気に当てられてしまったシリスを寝かしつけ、侍女に任せたジャスは、再びサロンへと足を向けた。正直クラウディアとヒルデガルドの間に一人で放り込まれるのは精神的に疲れるので、叶うことならシリウスと昼寝でもしたかった。けれど頼み込んだのは自分なのだからと言い聞かせ、扉を叩く。
「ジャ……いえ、ラズです。クラウディア様」
「はい、どうぞ」
「失礼します」
この屋敷は相変わらず、使用人が少ない。
普通の貴族と比べれば充分に多いほうだが、トロナイルが誇る三大公爵家の当主と、直系の王女が住んでいるにしては無用心だ。シリウスの気性を慮っているのもあるだろうが、領地の方に人員を割きすぎているのかもしれない。いざという時が心配だった。
「やあ、殿下。シリス様は?」
「寝たよ。ちょっとはしゃいで大変だったけど」
だからこそ、ヒルデガルドのような信頼のおける人物が、叔母たちと親しくしてくれるのは有り難い。
ジャスはヒルデガルドを見た。
無意識下での視線の配り方や身のこなしが、武の心得を裏付けている。それを隠し切れていない未熟さは自覚しているらしく、本人もジャスが疑惑の目を向けた時は珍しく、弱ったように苦笑を零した。彼女が男装で生き延びた過去と、男爵やジャスと出会うまで、どのようにして育てられたか。それを詳しく聞いたのはその時だ。
幼少期の栄養不足が影響してか、彼女は華奢な体格で、筋力そのものは平均な女性のそれより少し上回る程度。だが、周囲の動きには非常に敏感で、自分の気配を消すのも上手いのだ。身辺警護程度にはうってつけの人材だといえるし、シリウスも懐いてしまっている。
「ラズ、これを」
「拝見します」
テーブルの上には、二つの小物があった。加工が終わり、ジャスがシリウスを寝かしつけている間に職人が持ってきたそうだ。わざわざ専用のスタンドまで作ってくれたらしく、ジャスは申し訳ない気分になる。
(あんなんで渡したら、余計に遠慮されそうだな)
しかし、セレナの名前を出せば最終的に【彼女】は受け取るだろう。あまり高価なものは身につけたがらない庶民派の某公爵令嬢には、頑固に振る舞いながらも流されやすい単純さを持つ。
ジャスがつける予定のペンダントは、純銀で彫られた小鳥のスタンドに、まるで啄まれた木の実のように映った。少女に譲るイヤリングには、女物の装飾を加えたので、逆にスタンドの方がシンプルになっていた。優美な曲線を描く白金の蔦が、見事に本体を引き立てている。
「ねねね、殿下」
「ん?」
流石にクラウディアやシリウスの前では気を遣って「殿下」と呼ぶヒルデガルドを見ると、彼女はいやに上機嫌だった。
「その子、どんな子なの?」
「……前に言っただろ」
叔母がいる場で惚気るほど馬鹿ではない。
「そうじゃなくて、髪とか瞳とか肌! 次の贈り物の参考に」
「あら、いいわねヒルダちゃん」
クラウディアまで目を輝かせ、期待の眼差しを向けてくる。ジャスは身を引いた。
「別に恋人のような関係ではありませんので、そう頻繁に物を贈ったりは」
「まあ素敵! 片想いね!?」
恋愛は人生の至宝などと、真顔で恥ずかしいことを言ってしまえる叔母に良くない火が点いた。
「出会いはいつなの?」
「あの」
「お歳は?」
「ちょっと」
「今度ぜひ連れてきて頂戴」
「叔母上」
「その呼び方はやめなさい」
「そこだけ聞いてるんですか!?」
なんて都合の良い耳だと愕然とするジャスは、背後で笑いを堪えているクリフに気付かなかった。
それから数日後にトロナイルを出国し、ジャスはチュニアールの首都に聳える白亜の宮殿、ブロレッティーガ城に戻った。
(疲れた……)
叔母は好きだし、ヒルデガルドも嫌いではないが、喧しい。
(公爵も男爵も大したもんだ)
自分はあんな妻も娘も要らない。というか欲しくない。
「あれ、ジャス兄?」
「ラド」
中庭を突っ切っていると、最近姿が見えない事に気付いていたらしいラディールが声をかけてきた。伊達眼鏡の奥から、不思議そうな目を向けてくる。
「お土産は?」
「あるよ。食堂に魚を届けたから、今日の夕飯は食べて帰れな」
名前は忘れたが、煮ても焼いても、揚げても美味だと評判の淡水魚だ。大量に差し入れたし、こうして耳に入れておけば食いっぱぐれることもないだろう。
ラディールは、セブンを始めとするスラム時代からの友人と、城下でホームシェアをして暮らしている。ルフィスが城に部屋を与えようとしたのだが、当時の彼らは、完全に大人を信じることができなかったのだ。
「家の方にも持って帰るか」
「貰えるなら喜んで。いいの?」
「構わないけど、夏だから傷み易いのに気をつけろよ」
市場で術式を施したので大丈夫だとは思うが、念のためだ。
「了解。今日中に調理する」
「クリフ」
護衛に食堂への言伝を命じ、ジャスはついでに付け加えた。
「マギーに、孤児院の分も残しておけと言っておいてくれ」
「畏まりました」
一礼した次の瞬間には、堅物武官は風のような速さで去っていく。
「言い忘れてたけど、おかえり」
「全くだよ」
二言目には土産と来た。これがシリウスならと思ったところで、ヒルデガルドの言葉が蘇る。
いつか貴方が戻るまで。
あの従弟は、ジャスが在るべき場所に還るその時まで、自分を殺し続けるだろう。
彼の振る舞いはきっと無意識で、生来の甘えん坊な性分も大きい。けれど、褒められるだけの能力をひた隠しする姿には胸が痛んだ。
幼い頃のジャスは褒められてくて仕方なかった。その為に勉学も武術も魔法も、その他多くの教養を必死に身につけた。一瞬でも両親がこちらを見てくれることを期待し続けたのだ。
結局それは叶わなかったけれど、シリウスは違う。
賞賛されるべき才能も、よくやったと褒めて抱きしめてくれる両親がいる。
幸せ――――ジャスが幼い日に描いた夢のような世界。
それを翳らせてしまっているのは、間違いなくこの自分だ。
(シリス)
無邪気に慕ってくれる従弟に、いつか恨まれるのではないか。
その事が、今から怖くて仕方がない。
罪悪感から、息が詰まりそうになる。
「ジャス!」
鼓動が跳ねた。
振り返ると、長い亜麻色の髪を靡かせた少女が駆け寄ってくる所だった。
「リア」
「おかえりなさい」
僅か十日程度だというのに、やけに懐かしい香りがする。彼女の柔らかな雰囲気は、何故かジャスに僅かな酩酊感を与えた。
……ごめん、シリス。
心の底からそう思った。
もう少しだけ、この木漏れ日のような少女を見つめていたい。触れられてくても構わないから、どうかもう少しだけ。
咄嗟にイヤリングを今この場で渡してしまおうかと思ったが、ラディールの手前やめておく。夕方には件の魚に舌鼓を打ちながら、尾ひれをつけて噂の流布に努めるであろう、腹黒い眼鏡少年の姿がありありと思い浮かんだのだ。
「ジャス?」
不思議そうに、少女が首を傾げる。さらりと流れる髪に目を奪われながら、ジャスはなんとか微笑んだ。
「ただいま、リア」
離れたくない。くるくると変わる表情を、ずっと近くで見つめていたい。
だからこそ、必ず帰る。
想いの全てを断ち切ってこそ、この決意に重みが生まれるはずだから。
ヒルデガルド・コーバッツ
5月5日生まれ
誕生花はスズラン 花言葉【幸福の再来】
・ヒルダの愛称で知られるトロナイルの歌手。
・男爵家の養女。東洋系の容姿をもつ。
・国境を越えて注目を浴びており、中世の“戦場の歌姫”レオナ・ヴェランチェと対の“平和の歌姫”と呼ばれている。
・ジャスの個人的な友人で男装の達人。
・変態的な言動の目立つ奇天烈な令嬢だが、芯が強く義理堅い性格の持ち主でもある。
・稀少価値の高い古代魔法【メロディア】の使い手だが、戦闘の際には三角錐剣を用いることが多く、また、全身のいたるところに暗殺者が使うような凶器を忍ばせている。
・大人の女性を慕い、可愛らしい娘を愛でる性癖。
・養父母に深い恩義を感じており、それが弱味でもある。
・現名前は養女となってから改めて付けられたもので本名ではない。
・王公貴族を嫌っているが、ジャスの事は主として認めており、過去の秘密を共有する関係。彼が信頼できる貴重な味方。




