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鳥籠姫と黒い翼の魔法使い  作者: 飛翔生姜
第二章 楽園の扉を開く鍵
25/118

迷宮に響く声

 




 室内に、乾いた音が響いた。

「最低」

 リアの吐き出すような罵声は、まっすぐレティアに向けられている。

「あなた、最低だわ。自分の欲を満たすために、セレナさんを殺してジャスを傷つけて!」

 声が震える。リアは気が狂いそうな戦慄きの中、青い髪の娘を睨みつけた。

 ずっと不思議に思っていたことがある。

【星空の宴】の皆は、ジャスが連れてきたリアに驚いていた。

 ジャスが他人――それも、女に興味を持つなんて珍しい、と。

 口々に言われた感嘆の言葉の意味が、全く異なる重さを持って蘇る。

 思えば、チュニアールにたどり着くまでの間、彼は目立つ美貌から女性に言い寄られるとこも多かった。それでも喜ぶ素振りは微塵もみせず、むしろ怯えたようにリアを楯に逃げようとした。最初は反発したリアも、やがて大人しく恋人の演技で窮地を脱したものだ。

 その理由が、ようやく掴めた。

 ジャスは、【女】を苦手というにも生易しいほど恐れているのだ。

 幼い日、友の死を見せ付けられながら、誰よりも信頼した相手から強要された、悪夢の行為。

 これほど残酷なことがあるだろうか。

 彼が仲間達と距離を置いているのには気付いていた。それも、この出来事が端を発している。リアは直感した。

 おそらく【星空の宴】の皆は、ジャスとレティアの間に起きたことを少なからず知っている。仔細までは伏せただろうが、レティアがセレナを殺めたことは聞き知っている可能性が高い。

 結果として、傷心のジャスを、彼らは腫れ物のように扱い育てた。愛情は確かにあっただろう。しかし、その環境はジャスにとって苦痛でしかなかった筈だ。

 いつかの日、そう、リーシャを神殿から救い出す直前に、彼がランティスと交わしていた会話が蘇る。


『助けた後は連れて帰るつもりなのか?』

『そのつもり。アイモダ出身者はウチにもいるし、寄る辺のない者をオレたちの“理想郷”は決して拒まない』

『まーな』


 どんな気持ちで、あの時。

 ジャスが祖国に嫌悪めいた感情を持っているのには、随分と前から知っていた。そのくせ、仲間達にもどこか遠慮のようなものがあって。

 レティアの一件で、ジャスは最後の砦ともいうべき、一切の居場所を失ったのだ。

 幼い心を打ち砕いたレティアはこの十年間、見事な呪縛で彼を手中に収めた。

 そして、この今でさえも、ジャスを傷付け続けている。その事に、リアは燃えるような怒りを覚えた。

 出来るものなら今すぐにでも、この娘を引きずってジャスの前に蹴り飛ばしてやりたいとさえ思った。

 両親の友人だろうが、知ったことではない。今そばにいる彼の心が大切だ。

 これほど強い怒りを感じたのは、サズを喪って以来始めてのことだった。

(それでも)

 思わず舌打ちする。

 ジャスは、レティアが傷つくことを望まない。

 どれだけの苦しみを与えられたとしても、彼はレティアを責めることは出来ない。

 そういう人なのだ。時折リアには理解できない寛容さが苛立たしい。

 もっと、感情を露にしてくれたらいいのに。

 できないのは、心に根深く残る古傷が痛むからなのか。

「……もう、帰ります」

「待ってリアちゃん!」

「―――気安く呼ばないで!!」

 良い人だと思って、自分でも珍しいほど好意的に見ていた。

 両親の友人が自分と親しい関係を望んでくれて、嬉しかった。

 しかし、彼女の過去の行いが全てを壊した。

 ジャスを傷つけた。それだけは許せない。

 彼が自分と似た部分を持っているのは知っていた。己の命を悔いているように、寂しげな瞳。

「待って、お願い。少しでいいの。私はもう」

「知らない! あんたなんか大嫌いよ。軽蔑したわ。二度とジャスに近づかないで!!」

「リアちゃん!」

 ――――この時、リアは常にないほど感情が高ぶっていた。荒れていた、とも言える。

「落ち着いて。今は……」

 レティアの宥めるような声が、更に神経を逆撫でする。

「もう帰る! 早く地上に帰してください!」

「駄目! まだ駄目!」

 強情な態度に、リアの中で完全に、何かが切れた。

「今度はあたしを殺して、またジャスを苦しませるつもりなの!?」

「違う!!」

 レティアが半ば青ざめていることに、リアはまだ気付かない。

(どうしよう、ここでリアちゃん魔法を使ったら)

 力ずくで抑えようとしたレティアを、リアが避ける。

 リアは、レティアを殴り飛ばしてでも、ここから出ようと思った。

 己が体内に眠る魔力を、ゆっくりと開放する。

 翻る髪が白金の光の帯び、鳶色の瞳に炎が宿った。

 ――――【最後の将軍】の称号を冠する者の、真の姿。

 そして、同じ頃。

 二人のいる離宮の最奥に眠る【それ】が、ゆっくりと光を放ち、

 封じ込まれていた魔力が、暴発する。

「駄目ーーっ!」

 轟音が、レティアの叫びをかき消した。








+ + + +






 老婆は、ふと顔を上げた。

 もう長らく解いていない自身最高の結界魔法に、どういうわけか、大穴があいている。

 由々しき事態に、しかし慌てず首を傾げる。

 何故?

 このチュニアールという国は存在自体が秘された幻の楽園であり、保有する武装部隊、通称【蒼天歌劇団】は世界最強とさえ囁かれている。他国の侵略など、まず考えられなかった。

(ルフィスの嬢は知っとるのかのぅ)

 この国を統治する女王を思い、老婆は嘆息する。

 ルフィスは昔から攻撃専門で、何年かけても苦手分野はそのままだ。

 むしろ結界の綻びに気付いても、まあ【蒼天歌劇団】所属の結界担当者――つまり、この老婆である――が勝手に修復してくれるだろう、と玉座に胡坐をかいているかもしれなかった。

 幸い、海側のようだ。これならば【海の一族】が上手く誤魔化して市民を避難させるだろう――――そう思った瞬間だった。

「ジジイ、どした?」

「ジジイじゃのうてババアじゃ、うつけ」

 ああそうかい――豪快に笑い飛ばす大男、【蒼天歌劇団】所属の大剣使い、イクス・テェルロは老婆の傍らに立ち、その手にある水晶を覗き込んだ。

「何か見えんのか?」

「阿呆。これは雰囲気を出すための飾りじゃわい。やーい、アホウ」

 心の底からバカにしているのがよくわかる声に、イクスの顔がひきつった。

「ほんっと、歳の割に元気だよなぁ」

「ふん。己が年齢を弁えてから物申せ。お前も大概にしてジジイじゃぞ」

「否定はせんが、あんた外見が年上すぎ―――ぃだっ」

 バチッ……紫電が光り、イクスの手を軽く焼いた。

「女を歳と外見で判断するのは、いつの世も変わらぬ男の悪癖じゃの」

「ジジイにしか見えないババアが何を寝言ぬかすか。見苦しい」

「ほう。今の言葉、しかと聞き届けた。どれ、音声を少しばかり改竄してミュイの耳にいれてくれよう。“ミュイや、イクスがお前さんをこんな風に悪く言っておったぞ”と」

「やめーい!!」

 イクスはあっさり降伏した。ミュイだけは勘弁だといわんばかりに。

「悪かった。で? 何かあったのか」

 老婆も言葉遊びに飽きたようで、すぐ答えた。

「ふぅむ。何らかの要因で結界に穴が生じたようじゃ」

「魔物の侵入は?」

「さてのう。あそこはイーヴァの身内の領域じゃ。下手に探れば奴の立場に障ろうて」

「後継者は奴だけだ。多少の不和などよいではないか」

 真顔で言い切る昔馴染みに、老婆は溜め息をつく。

「その大雑把さが常に己の首を絞めると学習せぬのは、いっそ才能かの。無論アホウの才じゃが」

 イクスはこめかみに青筋を浮かべたが、さすがに自覚があるので食い下がるのは控えた。どうせ反論したところで、言い負かされるのは目に見えている。

 それからしばらく、沈黙が続いた。互いに口を開こうとせず、イクスはただ時を待つ。必要とあれば、久々に外へ出向くことになるかもしれない。

 そして。

「む」

 老婆が唸った。

「お、どしたシュワルツ」

 教訓を活かし名で呼ぶイクスに老婆――シュワルツ・ボルツは、やや堅い表情で告げる。

「お前の教え子が、現場におるようじゃ」

 海を恐れていたはずの王子の予想外の動きに、イクスの目が見開かれた。

「ジャスが?」






 + + + +






 忌まわしい記憶を刻み込まれた深海の離宮。セレナを失った場所。

 ジャスは走った。もう二度とあんな思いはしたくない。

 リアを失いたくない――そればかりを考えながら。

 海へと入る直前、チュニアール全土を守護するシュワルツ・ボルツの特殊結界魔法【天の揺り籠】に異常が起きたことを、ジャスは肌で感じていた。

 そしてその中心にいるのが、おそらくレティアとリアだ。

 現に、海底遺跡へと足を踏み入れた瞬間、違和感が強くなった。因縁の場所ゆえ神経質になっているというのもありえたが、それで済ますには異常が大きすぎる。

(ばーちゃんに何かあったって考えるのが自然だけど、“蒼天歌劇団”だしな。想定外の何かが起こってると考えるのが妥当か)

 それにしても、と。ジャスは身震いする。

 離宮の奥へと進むにつれ、高貴な【何か】感じる。痛いほどに。

 神々しい――と言えばよいのだろうか。とても、とてもとても大きな魔力の気配。

 恐らくその魔力の塊である【何か】が、チュニアールの結界にかつてない異常を与えている。

(あの時には、なかった)

 妙な話だと思う。レティアはずっとこの離宮に封印されていて、動けるようになったのはここ数日だ。これほど大きな魔力を、どうやって手に入れたのだろう。

 それに、先程の轟音も気になる。得体の知れない魔力の塊も同じ方向から気配を感じる。ジャスは嫌な予感がした。

「クリフ」

「は」

 こんな場面でも律儀に一歩下がって走っているクリフだが、密かに疲労が溜まっているのは長年の付き合いで嗅ぎ取れる。

 【海の一族】でもなければその招きも受けていない彼らは、少々手荒いと感じながらも、魔法仕掛けの扉やらを強引に解除して来た。クリフがいて良かった、と久々にジャスは思った。

 しかし強力な魔法を解除するには、時にその倍の魔力を持っていかれる。クリフは近衛の意地でジャスに付いてきているが、常人ならとっくに魔力負荷で昏倒している筈だ。

「ここまで付いて来させて悪いけど、あんた帰れ」

 相変わらず足を休める事をしない主の命令に、しかしクリフは頷かない。

「お赦し下さいジャスティス様」

 遠回しに「却下」と言われ、ジャスは主従関係って何だっけと項垂れる。

「不本意だろうとは思うよ。でも、首尾よくリアを回収できたとして、その時あんたにまで倒れられちゃ途方に暮れるしかないんだ」

「そのような失態を演じるつもりはございません」

 珍しく攻撃的な言葉を吐くクリフに、腹は立たなかった。

 彼は己の役目を忠実に果たしているだけだ。【王子】の護衛を。

(馬鹿か俺は)

 こんな時まで何を考えているのだ。

 そもそも、王族が一個人として扱われないなど当然だ。人間としてよりも果たすべき役目に重きを置く。公人とはそういうものだ。

 なのに、チュニアールの皆は優しすぎて。

 【王子だから】この国にいることが許されたジャスを、皆が最初どう思っていたのかは分からない。無責任な奴だと密かに蔑まれていたかもしれない。それでもいい。この国の人々が大好きだった。

 自分の価値が分からない。そんなときに出逢った少女セレナ。

 少しずつでいいから、自分の為すべきことを見つけていこう。そう思った矢先、自分のせいでセレナは死んだ。

 悲嘆に暮れる間もなく、ジャスはレティアに犯された。世間で一般的な男女の被害者と加害者の立場が逆転しているが、当時十にも満たなかったジャスの心を砕くには充分すぎる事件だった。

 心が壊れたまま、彼は歳を重ねた。

 レティアがこの地に封印され、ジャスは腫れ物のように扱われながら日々を過ごす。皆の優しさが痛かった。

 それもまやかしだと、いつか思うようになった。

 セレナの最期を想う時、ジャスは命の呆気なさを嘆く。

 どんなに大切に想い合う相手がいても、どんなに偉大な人物でも、結局は死ぬ。

 死んだまま、戻ってこない。

 理解した瞬間、人生とはなんと虚しいものなのだろうと少年は思った。

 そうやって生と死という二つの不合理に悩むうち、生きることさえ億劫になってくる。

 リアと出逢ったのは、そんな時だった。

 紅い月の光が降り注ぐ夜空の園で、彼女は一人いた。暗殺されそうになって、本能でなく理性で立ち向かう。ジャスは思った。ああ、この娘は生きることを望んでいるのだなと。

 だがその数分後に、彼女は淡々と呟く。

『どうせ、長くないのにね』

 自嘲というにはあまりにも感情の篭っていない声。しかし、だからこそ本音と察することが出来た。

 彼女は自身の死を望んでいた。後で皇太子を殺して自害するつもりだったと聞いて更に仰天することになるのだが、それはまた別の話だ。

 生きたいのか、逝きたいのか。

 リアの言動はジャスの長年の暗鬱とした思想と重なるようで違っていた。

 不意に思った。

 手元に置いてみれば、自分も何か分かるだろうか。答えは出るだろうか、と。

 そう考えた瞬間、ジャスは俄然リアが欲しくなった。

 軽蔑されるのを覚悟で言えば、最初はリアをあまり人間とは思っていなかった。あくまで観察対象のようなもの。もっとひどい言い方をすれば、動物実験のつもりだったのかもしれない。壊れた心は、それが間違いとさえ気付かなかった。罪悪感も何もなく、子供が玩具を抱えるように傍に置いた。

 そんな【道具】にしか過ぎなかった存在が、一人の少女になったのは、一体いつのことだろう。明確には思い出せない。気持ちは本当に少しずつ、ジャス本人さえ気付かぬほどにゆっくりと。

【側に置く】つもりが、いつしか【そばにいてほしい】と、そう思うようになっていた。

 いや、もしかしたら最初からかもしれない。

 誰にも抱いたことのない感情だったから、持て余すように突き放した考え方をした。

(? じゃあ、何なんだ)

 かつてセレナが自分に向けてくれた眼差しの意味を未だ本当の意味で理解していない少年は、己が抱える不可解な感情の大きさに首を傾げる。

「ジャスティス様」

「あ?」

 まだ付いてきたのかという嫌味を込めて返事をするが、当然この護衛はふてぶてしい鉄扉面で臆すこともない。

「通路を抜けます。しばしお待ちを――」

 必要ない、とジャスが退けようと口を開いた瞬間だった。

 二人はほぼ同時、左右に跳んで分かれた。



 ドゴッ



 紙一重で避けた槍は、先程までクリフがいた場所を貫いている。

 油断していれば予備動作で自分も頭をカチ割られただろうな、と値踏みのように相手の戦闘力を測りつつ、ジャスは背後に突然現れた襲撃者を見上げた。

「ゴーレム?」

「そのようです」

 主を庇うように立つクリフが同意を示した。トロナイルやチュニアールでもゴーレムは珍しくない。ただ目の前にいる動く石像は、どの国でも見ない様式だった。

 そういえば。ジャスは思い出す。

 ずっと昔、【海の一族】は罪人を離宮の下人として死ぬまで働かせるとレティアが言っていた。罰則の一部として姿を歪められ、痛みを感じない兵士として使役される。

(それが、このゴーレムか)

 罪――人間を食い殺した一族のならずもの【海魔】。

 大昔の物語として教えられた存在がまだ稼動していたことに感心するが、ジャスは唸った。

(でも、“あの時”は見なかったよな)

 首を捻った瞬間、ジャスは分かりたくもなかった真相に気付き呻く。

「クリフ」

「はい」

 従者も同じことを考えたのだろう。歯切れが悪い。

「もしかしなくても、アレか? 俺たちが勝手に踏み込んできたから封印が解けて侵入者を排除しようっていう……」

「おそらく、仰せの通りかと存じます」

「はは、やっちゃったなー」

 ジャスは半ばやけっぱちで笑った。

 ただでさえ先を急がねばならないのに、厄介ごとが増えた。警備兵を兼ねているということは、この類のゴーレムは離宮中にごまんといるだろう。そのすべてが敵となるのだ。流石に骨が折れそうだと嘆息する。

 ジャスとしては、一刻も早くリアの無事を確認したかった。それに、気になることもある。

 レティアがジャスを害そうとするとは、どうしても思えない。あの事件さえ、ジャスへの歪んだ執着によるものだ。彼女ならジャスがこの場にいることに気付いているだろうが、このように手荒な真似はしないだろう。

 この宮殿を統括している筈のレティアの意思に関係なく、ゴーレムが動いている。これは今以上の危険が迫っていると示唆しているような気がしてならない。

「クリフ。行けるか」

「お一人で行かれると言い出されるのではないかと危惧しておりましたが」

 この状況でも釘刺しを忘れない有能で嫌味な従者に、ジャスは知らず顔を背ける。

「早く片付けるぞ」

「御意」

 クリフが剣を抜き、ジャスはその背に黒い翼を顕現させる。

 そこから、一方的な破壊が始まった。





+ + + +








 ようやくの思いで駆け込んだそこは、ジャスにとって最悪の傷を刻まれた因縁の場所だった。踏み込んだ瞬間、強烈な吐き気にジャスは膝をつく。

 ここは居間だ。ジャスは手を握りしめた。

 あの扉の向こうに、レティアの私室がある。

 そこでセレナは、理不尽な最期を迎えたのだ。

「ジャスティス様」

「……大丈夫だ。リアは?」

 どこまでもリアリアと煩い主人をからかうことなく、クリフは冷静に室内を見回し、報告する。

「いらっしゃらないようです。奥を見て参りますので、どうかこちらでお休みを」

「いや」

 寧ろこんな所に放置されては、記憶に苛まれて失神しかねない。強がりでなく、自衛心から立ち上がる。

「行く」

「お体は」

「大事ない」

 そうして二人、居間から私室へと足を踏み入れたところで――


「ジャスティス様!」

「げっ」


 パラリと、瓦礫が転がる音がする。


 どういうわけか、その部屋は爆破されたように悲惨な有様だった。

 よもやリアが暴れたのだろうか。彼女の気性をよく知る主従は、図らずとも同じ推測をした。

「床が抜けてる」

 懐かしくもない記憶を辿れば、あそこは確か――本当に、思い出すのも吐き気が沸いてくる――寝台があった所だ。

 ジャスは床の崩落で生じた穴を覗き込んだ。かなり深い。

「行けるか?」

「なりません。危険です」

「安全の確認じゃない。俺は行くけど、あんたの仕事を遂行するのに、体調の問題は?」

「……ございません」

 苦虫を噛み潰したような声で遠回しに諌められているのは分かったが、ここまで来て大人しく待機などできそうにない。心の中で謝罪しつつ、しかし表面上はふてぶてしく告げる。

「行くぞ。着いて来い」





 + + + +




 秋。

 なんとなくそう思った。

 雪のように降る銀杏の葉。とても綺麗な山吹色の光。

『起きて』

 やわらかな声が、眠りに落ちていたリアの意識をそっと揺さぶった。

(誰?)

『誰でもいいの。とにかく起きて』

(どうして)

 山吹色の光が、ほんの少し揺らめいた。ややして躊躇ったような、哀しそうな空白を置いて答えが返ってくる。

『あなたの大切なひとが、あなたを迎えに来てるよ。早く元気な顔を見せてあげて』

(たいせつなひと?)

 そんなもの、三年半前に失った。

『違うよ』

 リアの心を読んだように、光が――――十年前にこの場所で命を失った少女が、強い調子で言う。

『そうじゃない。あなたは生きてる。今そばにいる特別なひと』

(今そばにいる特別なひと?)

 ああ、【彼】のことだ。急に納得する。

 寂しいのに強がりで、人の心にはずかずか踏み込んでくる癖に、自分は難攻不落の城砦に引きこもってる黒い翼の魔法使い。ひとりぼっちの王子様。

 ふざけんなと思った。

 そうやって弱ってしまうくらいなら、八つ当たりでも何でもしてくれたらいいのに。じれったい。

 心配で、離れられないではないか。

 そのくせ、こちらを気遣う眼差しはとても綺麗で。

 無条件で与えられる優しさに溺れてしまう。

 心地よくて、幸せで。

 そばにいたいと願ってしまう、魔性の男。

 餌付けだけして逃げていく無責任な男。

 好みとは真逆の妖艶な美貌が妬ましい男。

 粗野で強引で人の話を聞かない傲慢な男。

 いつも揚げ足をとってからかってくる意地悪な男。

 優しすぎて、時々とても寂しそうなひと。

 気付けば、リアは叫んでいた。

 実際に声は出なくとも、込み上げてくる衝動が抑えられない。

 逢いたい。

 どこにいるのか、そして、自分はここにいるのだと伝える為に。

「ジャス!!」








 飛び込んだそこは、まるで迷路だった。

 ジャスの特殊な広域感知魔法【魔女の眼差し】で周囲を警戒しながら進んでいた二人だが、少年は急に足を止めてしまう。

 どこか心あらずといった主の様子に内心戸惑いながら、クリフはその名を呼んだ。

「ジャスティス様? 如何なされました」

「いや」

 ふと、名を呼ばれた気がした。呼ぶというより怒鳴りつけられているような感覚。そう、まるで【彼女】のような。

 鼓膜には何も届いていない。それでも、何故か響くこの声は。

「リア……?」

 そして。

 己の足音以外は何も存在しない。風の音さえもありえない、深海の迷宮で。

 確かに響く、“もうひとり”の声。

『こっちだよ』

 叶わぬ恋に命を散らし、それでも今なお愛する少年の為。

 セレナ・シュニックは、出会う筈のなかった少女を守りながら、最愛の少年を、ただ静かに待つ。






+ + + +





 ああ、死んだのか。

 レティアは思う。

『お前は本当にどうしようもなく愚かな娘だな』

 父の声。続いて浮かぶ異母兄イーヴァの呆れ顔と、その妻ユーナから受けた平手の痛みが、今更になって蘇る。

(だって、そうでもしなきゃ私は)

 幼いジャスに出会って、レティアは【孤独】から解放された。世界が広がり、誰かと共に在る喜びに打ち奮えた。

 それなのに、急に彼はよそよそしくなった。

 ずっとずっと年下の少年。決して同じ速さで生きることは叶わないと最初から分かっていた人間の子供。

 同情だとばかり思っていた自分の気持ちが、紛れもない恋情だったと気付いた。

 気付いてしまったら、もう戻れない。

 それでも、リアに危害を加えるつもりがなかったのは本当だ。

 彼女は大切な友らの娘で、形見でもある。

 どうして傷などつけられようか。

 それは、長年かけて守り続けた亡き友との約束を反故にするようなものだ。ありえない。

 ただ渡したかった。友の想いを。

 レティアは願う。たとえリアに嫌われても。

 どうか、憶えていてほしい。

 あなたのお母さんは、あなたを憎んでなどいない。

 心の底から愛していたことを、どうか忘れないで。




+ + + +



 リアが目を覚ますと、そこは先ほどまでいた部屋とはまるで違う空間だった。

「ジャス?」

 しかし、リアは自分が今いる場所がどこであるかを考えるよりより先に、何故か彼の名を呼んだ。

 逢いたい。そう想った。だから大声で怒鳴るように呼んだのを、夢うつつに憶えている。

 そうして、確かに応えがあった。不思議な光の中に響く、聞き覚えのない少女の声も。

(それにしても、ヘンな場所ね)

 深海とは思えぬほど広く、澄んだ清浄な空気が肌を包む。部屋全体から滲み出る魔力が体の傷を癒していることに、呆けるリアは気付かない。

 先刻まで見ていた離宮の内装が質素だったのに対し、厳かでありながらも豪奢な印象を受ける。

 第一印象は神殿に近いかもしれない。しかし、資料で見た古代の聖堂にも似ている。

 海底離宮の最深部だろう。意識が途切れる寸前、部屋の崩落でかなり下の方まで放り出された。

 そこまで思い出したところでリアは、闘技場のように中央から外側にかけて階段のようになっている空間の中央に、輝く水晶を見つけた。

「?」

 そこに聳える水晶は、高純度な魔力の塊だった。これほど巨大な気配なら、同じ屋内にいれば分かるはずだ。それなのに、リアは何も感じ取ることはできなかった。

 どころか、懐かしいとさえ思う。

 そう、これはまるで。

(かあさま……?)

 生まれてこなければよかったと散々なじられた。

 それでも。

 まるで、優しく抱かれていた赤子の頃の記憶。

 思い出の中の母を求めるように、無意識で手を伸ばした瞬間。


『ミツケタ』


 通路が存在していたことに今更驚くリアだが、そこから聞こえる呻くような声に背筋が冷えた。

 何か来る。

 本能で悟り、危険信号が全身を駆け巡った。

 ややして地鳴りのような足音と共に現れた、見上げるほどの巨体に目を剥く。

「ゴーレム?」

 嘘でしょ。思わず呟く。

(参ったわね)

 勘弁してほしい。

 リアの使用する魔法は、大概にして広範囲なものだ。こんな由緒ありそうな場所で発動させては、歴史的な建造物を壊してしまうかもしれない。

 そして何より。

(コントロールできないのよ!)

 下手すれば自滅する。いや、寧ろ高い確率でそうなる。リアは情けなさのあまり眩暈がした。

『チカラ』

「!?」

 振り落とされた斧をひらりと避ける。人間としての身体能力はかなりいい方だ。

 何か語りかけてくるが、同時に攻撃もしてくるような相手に聞く耳など持ってたまるか。リアは隙を窺って通路から逃げることを選んだ。

 しかし、目の前の石像兵は巨体に似合わぬ俊敏さでリアを追い詰めてくる。向こうが疲れ知らずなら、確実に生身であるこちらが不利だった。

 どうしようか、と思考を巡らせた瞬間、目の前のゴーレムが、後方へ飛んだ。

 攻撃の予備動作かと身構えるリアの上に、また別の影が覆いかぶさる。

「な!?」

 振り返ると、そこにはもう一体のゴーレムが、槍を振り下ろすところだった。

 一体どこからと思う視界の隅に、柱の影で見えなかった場所にもう一つの通路が映る。あそこからやって来たようだ。

 しかし、理解した時には遅かった。

 間に合わない。


「リア!!」


 硬直したリアを守るように、彼女の足元から現れた無数の槍。色は血のような真紅。

 一瞬で串刺しとなったゴーレムは、その場で砕けた。

 少女は静かに振り返り、その名を呼ぶ。

「ジャス!!」

 呼ばれた少年は、安堵したように、それでいてまだ少女を案ずるように応える。

「やっと見つけた」

 優しい声に、リアは頭を下げた。

 中途半端な覚悟で首を突っ込み、挙句このような事態を引き起こしてしまった。

 何より、ジャスにここまで足を運ばせてしまった己が呪わしくてならなかった。

 来たくなかった筈なのに。

 今だって顔色が悪い。その指先は僅かに震えている。

「ごめんなさい」

「……別にいいよ。あんたが気にすることじゃない。レティアに巧いこと唆されたんだろ。そんなことより怪我は?」

「よくないの!」

 湧き上がる激情を抑えているであろうジャスの気遣いを、しかしリアは跳ね除けた。

 謝罪は、迷惑をかけてしまったという、一点のみではないのだから。

「聞いたの。レティア……さんに。ジャスと、セレナさんのこと」

 ジャスが身をこわばらせた。それを見て、リアは自分を八つ裂きにしたくなる。それくらい、彼の表情は恐怖と悲嘆で歪んでいた。

 思わず俯く。逃げてはならない。そう思うのに、息苦しくて叶わない。目を見て謝りたいと思う。でも、こんな勝手な真似をして、どんな顔をすればいい?

 嫌われても仕方ない。幻滅したと切り捨てられるかもしれなかった。

「本当に、ごめんなさい」

 いくら言っても足りないと理解しつつ、深く深く、頭を下げる。

 ジャスは何も言わず、ただリアを見つめた。

 俯く少女は、少年の眼差しと、そこに宿る光に気付かない。

 訪れたのは、永遠にも似た沈黙の時間だ。

 ジャスの魔法で砕かれたゴーレム達は、再生する気配もない。

 清浄な空気が、二人の無言を守っていた。



 どれほどの時が経っただろうか。

 やがてジャスが、ゆっくりと口を開いた。

「ごめんって言ったな」

「……うん」

 ここにきてようやく、リアは顔を上げた。そして驚く。

 そこにあったのは、変わらない優しい眼差し。綺麗な真紅。

 どんな時でも見惚れてしまう。

「じゃあ、目、瞑れ」

「は?」

 首を傾げる少女の頭を、少年はやや乱暴に撫でる。そのぶっきらぼうな仕草に、リアは泣きたくなった。

 一体どこまで優しいのか。お人好しにも程がある。

「わかった。けど、何するの?」

「いいからいいから」

 よくないわよと思いながら、リアは素直に瞼を下ろす。

 何のつもりだろう。お仕置き、だろうか。

 ああでも、いっそ殴ってくれたら気が楽になるかもしれない。

 しかし彼が無抵抗の女に手を挙げるとは――

 次の瞬間リアが感じたのは、想像した痛みとは程遠い温もりだった。

(は?)

 きょとんとして、つい許可もなく目を開ける。

 そして、体内の水分すべてが沸騰したかのような感覚を味わった。

「………!?」

 リアはジャスの腕の中に閉じ込められていた。彼とは親しい間柄だから、確かに体に触れたことは何度もある。しかし、この状況は明らかに今までと雰囲気が異なる。

「ジャ、ジャス?」

 すっぽりと抱きしめられ、身動きさえままならない。

 熱い。

 真っ赤な顔で硬直するリアは、ややしてようやく声をあげた。

「なにこれ!」

「罰ゲーム?」

「な、なんで疑問系なの」

 一方、顔を真っ赤にする少女に、ジャスは忍び笑いを漏らした。

(かわいいな)

 初めてそう思ったのは、確か歓迎会の夜。あどけない寝顔が無垢な小動物のようで、ついつい頬に触れたくなったのを憶えている。

 だが今は、それ以上の大きさで感情の波が押し寄せる。その意味を、ジャスはようやく理解した。

 自分はリアのことが好きなのだ。

(我ながら回りくどい遠回りしたなぁ)

 想いを自覚した今、過去を知られたことに怒りはない。あるのはただ、この腕の中にいる少女の無事と存在に対する感謝だけ。

 仲間達のひやかすような態度を思い出し、内心で苦笑する。きっと周囲から見れば一目瞭然で、皆どうしようもなく愚鈍な王子に呆れていたのだろう。

「い、いつまでこのままなの?」

「じゃあ、クリフが戻って来るまで」

「本当にいつ!?」

 周囲の警戒と脱出経路の探索で、クリフは今この場にいない。戻ったとしても主であるジャスにしか報せてこないのが大概だった。そんな状況ではないのだが、なかなか美味しい体勢なので、あまり動きたくない。しかし腕の中の少女は真っ赤になっていた。

 どうしようどうしようと今にも知恵熱で倒れそうな少女に、少年はしぶしぶ告げる。

「大丈夫だって。あいつ、あんたのこと珍しく気に入ってるみたいだから」

「え?」

 不思議そうなリアに、ジャスも同意を抱く。

(リアのことだけ“様”って呼ぶしな)

 兄役であるランティスや、秘された国とはいえ君主たる女王ルフィスにでさえ、【様】と呼んでいるのは見たことがない。

 ただ、彼は堅物だ。時折、誰よりも冷酷な思考を巡らせる。

 腕も立つ忠義者だが、頭から信頼しては痛い目を見る。それがジャスの護衛武官に対する認識だった。

 

「見つけた」


 互い体温を分かち合うような抱擁は、突然に離れた。

 いつかのように。あの時のように。

 反射的にリアを背後に庇う。

「レティ……」

 これほど自分の声が震えているのを、ジャスは初めて耳にした。







+ + + +





『ジャスは姫様を選びません』

 自分が殺した少女。

 哀れむような笑みを遺し、消えたはずの娘。

「セレナ……!」

 どこまで、一体どこまで邪魔すれば気がすむのか。

 一方、地を這うようなレティアの声に、ジャスは首を傾げた。

(リアとセレナを見間違うほど耄碌したか?)

 無礼も何もなく思う彼に、もはや恐怖はない。あるのは躊躇いと悲しみだった。

 ジャスはレティアが大切だった。リアにとってジャスが世界の鍵なら、レティアは間違いなくジャスにとってのそれだったから。

 なのに、どうしてこうなったのだろう。

 優しくて温かくて無茶苦茶で面白くて。

 初めてジャスを見てくれた特別なひと。

「レティ」

 呼んで、ジャスは今更気付いた。

 いつまでたっても、懐かしい愛称。突き放すように「レティア」と呼べばいいものを、これでは何も変わらない。

 嫌いになれない。どうやっても。

 セレナを殺したのは赦せないし、リアを巻き込んだことへの怒りもある。

 それでも、きっと嫌うことは出来ない。

 何があっても、誰に何を言われても。

 たとえセレナが何か言ったとしても、ジャスにレティアを憎むことなど出来ないのだ。

 傍らのリアをちらりと見る。

 彼女なら、こんな時どうするのだろう。

「!?」

 ジャスは目を剥いた。

 背後のリアから、一切の感情が抜け落ちたように感じた。

 絶句した瞬間、レティアの声が飛ぶ。

「ジャス! リアちゃんから離れて!!」

 白金の光が世界を埋め尽くし、爆ぜた。






+ + + +




 遠い、どこか遠くで声がする。

 ジャスの知らない声。

 だが、知っている。

 これは、誰かを愛する者の声だと。

 大切なものの為に生きる、あるいは命を捨てる覚悟さえ感じさせる光。



19年前  ファディロディア大帝国 ストレイ公爵邸

『“最後の将軍”?』

『ああ。お前の腹にいる子が女児であったなら……』

 それは恐ろしい未来だった。父に聞かされた話を、女性――アルナリア・フェラリーズ・ストレイは頭の中で整理する。

『お父様。このお話、あの方にはもう?』

『いや、お前から先にと思ってな。閣下にはこれからお話し申し上げるつもりだ。お前は』

『お父様』

 澄んだ瞳で、アルナリアは父を遮った。

 凄絶な決意を声に宿し、言う。

『産みます』

 それがたとえ、命を落とすことになっても。

 最愛の人と結ばれた証である我が子の為なら、自分はどうなっても構わない。

『どうかこのことは、あの方……ギルバード様には内密にして頂きたいのです』

『閣下はお前の夫だぞ? ましてやあの方は、古くからの許婚を捨てお前を選んでくださった。そのような方に、それはあまりにも不誠実ではないか?』

『お怒りは覚悟の上です。ですが……』

 あの人は優しい。遅かれ早かれ、きっと悲しませる。

 産んで自分が死ねば、きっと泣かせてしまうだろう。

 けれど、もし「堕ろせ」と言われてしまったら?

 言ったあの人も、言われた自分も苦しむことになる。何より、その言葉には従えない。

『お願いです、お父様』

『しかし、生まれたところで、長くは生きられぬ子だぞ? 仮に長じたとして、いずれ己が宿命に疲れ、生まれたことを悔やむやもしれん。それでもいいのか?』

『構いません。手は打っておきます』

 その言葉を最後に、景色は変わる。

 夜の海。

 満天の星空の下、白銀の欠けた月が二人を見ていた。

『え、アルナちゃん!?』

『久しぶり、レティ』

『どうしたの? 本当に久しぶり……あれ、太った?』

『妊娠です!』

 久しぶりに、人外の友を頼った。

 他に、宛てはなかった。

『この水晶を守ればいいの?』

『ええ。出来れば、誰の目にも触れないように。あと、なるべく広い場所で。これからどんどん大きくなるから』

『じゃ、私の離宮でそういう祭壇用意するよ。名づけて“アルナちゃん御殿”だね!』

『いえ、それはちょっと』

『赤ちゃんが生まれたら、ギル君と一緒に三人で来て。ドドンと案内しちゃうよ!』

 幸せな瞬間。

 親友がまだ見ぬ我が子を祝福してくれる。

 しかし、その願いは、叶わなかった。

『共鳴?』

『ええ。この水晶は私と、この子の魔力そのものだから。せめてこの子が十を越したくらいでないと』

『えー? 残念だなぁ。そうだ、名前は? もう決めたの?』

『ええ。女の子だから、私そっくりの名前をね。親子らしいでしょ』

 愛している。

 だから、どうか健やかに生きて。

 私の可愛い、大切な娘。

 リア。

 レリアル・ウルフラーナ。

 それが、彼女の愛娘の名前だった。




 + + + +




 真っ白で柔らかい、不思議な夢だった。

 まるで春の木漏れ日の中、優しい笑みに出会ったような、そんな雰囲気で。

 あの女性がリアの生母だとするなら、辻褄が合わない。彼女は母にひどく憎まれていた。それは周知の事実の筈だった。

(まさか、あの女性は産褥で事切れて、別の女がリアの母“アルナ”になりすましたのか?)

 それはそれで奇妙だ、と思考を巡らせたところで、ジャスはようやく、完全に覚醒した。

「……リア?」

 光が周囲を包んで、全身に叩き付けるような衝撃が走った。そして意識を失い、例の女性が現れて――。

「リア!!」

 しかし、ジャスはあっさり思惟を放棄し、地に伏す少女に駆け寄った。

 頭が真っ白だった。ただでさえ自分にとって因縁の地、しかも立て続けに訳の分からないトラブルが起こっている。そろそろ精神的にも参ってきた。

「おい」

「大丈夫だよ。見たでしょう?」

 やんわりと遮るような声に、ジャスは視線を上げた。離れた所で、レティアが呻きながら頭を振っている。

「今のは、アルナちゃんの記憶。濃い血の繋がりを持つリアちゃんの存在に反応したんじゃないかな」

「……レティ」

 視界の隅で、クリフがゆっくりと立ち上がるのが見えた。しかし、今は彼の力を借りようと思えない。

「今のは何だ? 説明しろ」

 表情は険しく、つい声も低くなる。そうした詰問の傍ら、【魔女の児】の体内に宿る魔力を具現化し、血色の武器を作り出す【罪業の槍】をレティアの周囲に張り巡らせた。

 殺すつもりはない。

 だが、ことによってはいかに恩人の彼女とて、赦すことができなくなる。

 レティアは初めて受けるジャスの冷たい眼差しに小さく眼を瞠り、やがて溜息混じりに呟いた。

「完敗か」

「?」

 鈍感を絵に描いたような少年は言葉の真意に当然ながら気付かず、ただ不可解な彼女の様子に怪訝な表情を浮かべる。

 背後でクリフがリアを慎重に抱き上げているのを気配で感じつつ、ジャスはもう一度言った。

「レティ、答えろ。今のは何だ?」

「うん。いいよ、話してあげる」

 どこか疲れたように微笑み、レティアは聳える水晶塔を愛おしげに見上げる。

「ねぇ、ジャス。“最後の将軍”ってどれくらいに一人の確立で現れるとされてるか、知ってる?」

「いや、知らないな」

 誤魔化しに類する話ではないと判断し、ジャスは用心深く頷いた。クリフがリアを守っている以上は安心だ、と自身に言い聞かせるようにして。

「千年に一度の奇跡なんだって」

「へぇ。それはまた。随分と稀少なんだな」

「おかしくない?」

 適当な相槌に間髪入れず問われ、眉間に皺が寄る。

「何が、どんな風におかしいんだ?」

「いくら何でも、少なすぎると思うの」

「?」

「千年に一人? おかしいでしょう。リアちゃんが先祖返りだっていうのなら、もう少し系譜にそんな人がいてもおかしくないでしょう。それなのに、実際には誰もいない。これって不自然じゃない?」

「それは」

 確かに、言われてみれば妙だった。

 いかに偉大な魔導師でも、実在したとして当時を知る者など既にいない。しかも台頭の時代は遥か太古。にも関わらず今なお風化せず語り継がれ信奉され続けている。

 不可解、と言われればその通りだった。

 千年に一度の奇跡。しかし公的に認められているのは初代の姫将軍ステラ・フィール・ラフィマギルと、当代のリアのみ。順当に考えれば、その数千年の間に称号を継ぐ者は多くいた筈だ。

 この矛盾は一体?

 その時、ふと一つの可能性が脳裏を掠めた。

 まさか。

「死んだのか?」

 レティアが頷いた。

「そう、沢山ね。その尋常ならざる魔力を制御できない子ども時代に」

「でもリアは? あいつはそれこそ制御なんてド下手で」

 言いかけたジャスは、ようやく気付いた。様々な情報、物事の断片が一つの真実として結びついてゆく。

「だから、リアの母親は」

 リアを死なせない為に。愛しい我が子を、先祖達の二の舞にさせないように。

 レティアが、親友に取り残された者として、寂しく悲しげな笑みで肯定する。

「アルナちゃんは死を選んだ。……生まれてからでは遅い。だからリアちゃんがお腹にいる間に、可能な限り魔力を体外へと流した。その塊が、この水晶」

 ジャスが息を呑む中、レティアは友の姿を思い描く。

「これは、リアちゃんとアルナちゃん、二人の魔力が融合したものでもある。だけど、割合としてはリアちゃんの方が強い。リアちゃんの感情に影響されて暴発することだってある」

 娘の為に。愛の為に。

 親友の全てが、この美しい水晶に詰まっている。

『名前はね、“レリアル”にするの』

 それは、忘れられた国の古語。

 意味するものは――――――。

「レリアルってね、大昔に消えた幻のお花の名前なんだよ」

 今や亡国と化したアラベル王国の伝承で語られる白い光の花。

 神話の時代、神々の戦において最後の一輪となった孤高の花。

「アルナちゃんは、自分と同じ“リア”の音を残すことにすっごく拘っててね、本当に悩んで、たっくさん考えて、リアちゃんにこの名前をつけたんだと思うの」

【レリアル】――――“光り輝く愛の花”として、古い神話の、ほんの一部に存在を記された幻の花の名前。

 花言葉は、【愛在る者の幸福】。

「“リア”は自分と同じ音であると同時に、古代アラベル語で“愛情”や“絆”って意味がある。それにもう一つの“ウルフラーナ”はね、“ウル”は“高貴” “穢れなき”、“フ”は大昔のアラベル人が用いた女性に対する最上級の敬称。“ラーナ”は“光の花”・・・・これも神話だね。元は豊かな自然や神仙の土地を表すらしくて、“天空の楽園ラーナ”が一般的だったみたいだよ」

 憎い相手に、こんな名を与える者がどこにいる?

 ただでさえ知名度が低く、忘れ去られた亡国の神話。どうでもいい相手なら、嫌悪の対象となるような娘なら、こんな名前は与えない。

 娘に贈る名の由来を語るアルナの表情を、レティアは今でも覚えている。

 そう、あれはまさしく“幸福”だった。愛する者を想う、その幸せそうな笑顔は、まぎれもなく。

「アルナちゃんはリアちゃんを愛していた。本当に、心の底から。産まれる前から大切で、それはもう夫のギル君よりも優先すべき唯一無二の存在だった」

「じゃあ」

「うん?」

 気付けば、口を挟んでいた。

 レティアの話には、自分が調べ思い描いた【アルナリア】とは全く別の女性がいる。

「じゃあ、なんでリアを拒絶した? こいつは、母から憎まれていたと信じて疑ってない。自分のせいで死んだんだと」

「やっぱり、そうなんだね」

 レティアは呟いた。悲しい予想が当たってしまったように。

「リアちゃんと初めて会ったとき、違和感はあったんだけど……やっぱり、そうやって自分を責めて来たんだね」

「違うのか、真相は」

「どうかな」

 レティアは難しい、と小さく唸った。

「立場や見解、個人の感情によっては、色んな見方が出てくる。というか、これから先の話は私の推測も混ざってくるんだ。だから、絶対とは言い切れない。一番の当事者のアルナちゃんは、もう、いないわけだから」

 その通りだった。十年以上が経過した今になって……いや、既に死した者の心を討論した所で、明確な答えなど返ってこない。

「それでもいい。話せ」

 リアの心に燻る埋み火を鎮めることが可能かもしれない。

 長年の苦しみから、解放してやれるなら。

 そう思い、ジャスは続きを促した。



 + + + +



「さっき言ったとおり、この水晶はアルナちゃんと、残り殆どが、お腹の中にいたリアちゃんの魔力。元々体の弱いアルナちゃんは妊娠だけでも命がけだったのに、更に危険な綱渡りをした。それが、リアちゃんの魔力を体外に流すこと。そうした高度な術の行使と“最後の将軍”特有の魔力が与える尋常ならざる負担に、アルナちゃんの生命力は見事なくらい食い潰された」

 それでも、止めることはしなかった。遠く深海に安置されているであろう水晶に、魔力を遠隔操作で送り続ける。その精神力には感服を越えて、畏怖さえ感じた。

「封印されていた私は、目覚めて最初にこの水晶を見に来た。事情を知らない父さんやお兄に、壊されたり撤去されてたらって思ってね。それで驚いた。私が封印されたあの頃より、ずっと大きくなってたから。気付いたの、アルナちゃんの覚悟に」

 だが遅すぎた。目覚めた世界に、友はもういなかったのだ。

「でもね、しばらくして……この水晶が何かに強い反応を示すようになったの。それで、もしかしてアルナちゃんがギル君や、まだ会ったことのないあの時の赤ちゃんを連れて、遊びに来たのかもって」

 現実逃避だと理解していた。人間が、あれほどの魔術を行使できる筈がない。叶ったとしても、その身に待つのは破滅のみ。

「そうして、出逢った」

 友と似た魔力の気配を辿り、見つけた。


『あなたの名前、もしかしてウルフラーナっていうんじゃない?』


 光の花が舞う天上の楽園。人々を祝福する女神の愛称でもある名前。

 友の腹を元気よく蹴っていた、あの時の赤ん坊。いつか抱き上げたいと願った娘。

 まだ会ったこともなかったけれど。

 その時に、分かった。

 私は、【これ】が欲しかったんだ。

 死してなお続く、生命の絆。愛の結晶。心と心の結びつき。

 過ちに気付き、リアに全てを話そうと思った。

 思った瞬間にもうひとつ気付く。

 理解して、邪魔だと本気で苛立った。

 しかし、それはリアに対してではない。

 殺した筈なのに、どうしてお前が、まだジャスの傍らにいるのだと。




「は?」

 レティアの言葉に、ジャスはいよいよ混乱を極めた。何?

「セレナがここにいるって……大丈夫か?」

 主に頭が、と付け加えるジャスはこの十年の間に随分と口が悪くなったようだが、レティアは黙って頷いた。

「いるよ。私も最初は気付かなかった。……ああ、私も本当に莫迦だったよ。踏んだり蹴ったり」

「?」

 分かるように喋ってくれないだろうか――困惑するジャスだったが、徐々に興味が殺がれている。レティアが冷静さを欠いているのは宜しくない傾向だが、それ以前に一度リアを安全な場所で休ませてやりたかった。

「なあ、話の途中で悪いんだけど、ちょっと出直していいか?」

「なんで?」

「リアが眼を覚まさないんだ。共鳴どうこうとか言ってたよな? 体に何か良くない影響があるかもしれない。一度リアを休ませたいんだ」

 レティアがリアに危害を与えることはないと踏んだジャスは、正直に答えた。レティアも少し寂しそうな顔をしたが、別段取り乱したりはせず、ただ面白くない、という風に口を開く。

 しかし、それはある意味で爆弾だった。

「ジャスって好きな子には過保護なんだね」

 背後のクリフが噴き出した。

 ジャスは無言で振り返り、普段は生真面目で寡黙な従者を睨むと、彼は必死に鉄扉面を繕っていた。

 絶対に笑ってる。彼は図星を指され途方に暮れるジャスを見て、面白がっているのだ。

 むかつく。ジャスは久々に思った。コイツむかつく。

 ムスッとむくれるジャスを見て、レティアは不思議そうに首を傾げた。そして無意識に追い込んでいく。

「もしかしてジャス、周りの人たちにはバレてないって思ってたの?」

「……別に思ってはないけど」

 そこまで分かりやす過ぎるのだろうか。

 もしや自分は無意識にとても恥ずかしいことをしていたのかもしれない。久々に会ったレティアにさえこの言われよう。

「えっと、あ、そうだ」

 上手く話を変えようとしたジャスは、ふと思い出した。

「チュニアールの結界に穴が開いてる。何か知らないか?」

「知ってるよー」

 苦し紛れの問いに、しかしレティアはあっさり答えた。期待していなかったジャスは瞠目する。

「え? 知ってんの?」

「うん。リアちゃんとこの水晶の共鳴が原因だよ」

 本当はそれだけではないのだけれど。流石にこれ以上ジャスを混乱させるのは忍びないと思ったレティアは、いかにも軽く笑って言った。

 一方のジャスは、さらりとした即答に卒倒したくなる。何それ。

「どうすればいい? リアがここにいるといいことないんだろ?」

「そうでもないよ。さっきの魔力の暴発は、リアちゃんの感情が荒れたから、その影響を受けただけ」

「あんたが荒らしたんだろ!」

 他人事のような顔でしゃあしゃあと告げるレティアの図太さに少なからず呆れつつ、ジャスは背後のリアを振り返った。

「でも、早くしないとばーちゃんの“天の揺り籠”は防衛面よりも、この国の正確な位置を周辺諸国に感知させない隠蔽としての役割が強い」

 事が大きくなれば、リアは責任を感じるだろう。そして何より、またしても厄介ごとを起こしたレティアに、次なるお目こぼしは期待できなくなる。そうなる前に片をつけたいとジャスは思っていた。

「うーん、そうだねぇ……あれ?」

「?」

「?」

 レティアだけではない。ジャスもクリフも、その異変に気付いた。

嫌な予感が背筋を冷やして、不気味な事この上ない。

 まさか。

 平和の楽園を脅かすその存在を否定したくて、認めたくなくて、ジャスは広域感知魔法【魔女の眼差し】を開いた。

 そして、見えた現実に絶句する。

 この独立国【理想郷(チュニアール)】建国以来、初めての敵襲とも呼ぶべき異常事態だ。


「魔物の群れが、チュニアールに近づいてる」











 やった。

 ようやく、この日が来た。

 やっと逢えるね、ジャス。


 聳える水晶に溶けた、少女の心。

 僅かに揺らめく山吹色の光に、まだ誰も気付かずに。
















シュワルツ・ボルツ

(ジジイと見せかけババア/一応女/雷の鉾/7月19日生)

誕生花はコレオプシス  花言葉【一度だけでも逢いたい】

・老紳士の装いをした食えない性悪老婆。

・チュニアールの守護を司り、特殊な大結界【天の揺り籠】を維持するだけの力を持つ。

・ルフィスを子供扱いする唯一の存在。

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