僕たちは独りじゃなかった
室内は静まり返っていた。喉が渇いているのに気付き、どれだけ声を張り上げたのだと自分に呆れる。
「気が済んだか?」
対面で腰掛けたままの紅夜が、呑気に聞いてきた。頷き、ジャスは力なく椅子に座る。
「自分が嫌いなんだ」
守られてばかり。報いたくても、自分という存在は誰にとっても迷惑だった。
「どうしようもなく、未熟で」
紅夜が自分のことを案じてくれているのは、わかる。それなのに、八つ当たりのように怒鳴ってしまう幼稚さが腹立たしい。
感情のまま喚くなんて、今まで一度もなかったのに。
そうして唇を噛んだとき、紅夜が立ち上がった。
「俺と出会った時、お前の姉は、もう化け物になっていた」
唐突な昔話に面食らう。だからこそ、次の言葉に更に戸惑った。
「だけど、それ以上に、ただの女だった」
「女?」
「ああ。すぐに泣く、拗ねる、怒る。そして、遠くに置いてきた弟のことばかり案じていた」
「え・・・」
何を言われたのか理解できなかった。
再会してからも、姉はジャスに対してあまり関心を示さなかったから。
「あいつは言わないだろうから、俺が言っておく。あいつは、お前が生まれたから、ただの人間の女になれたんだ。そうでなければ、俺は初めて会った時に殺されていた」
「は・・・はぁ?」
混乱するジャスに、紅夜は一つの物語を話してくれた。
ある金髪の少年は、家族と恩人の復讐を誓い修羅の道を生きていた。しかしある夜、オッドアイの少女に出逢い、運命が狂い始める。殺戮の世に在りながら、二人は互いを想い、救い合った。
そして全てを捨てて共に生きていく、そんな物語。
「・・・すみません。え、いや、確かにそういう話を聞けて弟としては嬉しいかもしれないんですけど、え? 初対面で臓器めった刺しにして抉ってくるような女に惚れたんですか」
「口調が崩れてるぞ、王子どの」
「もう疲れました」
そもそも年上相手にふんぞり返るのは、あまり得意ではない。ましてや彼は臣下でないどころか、姉の夫なのだから。公の場ではないし、もういいやというのが本音だった。
「我ながら奇妙な話だが、事実だ」
皇太子の婚約者を誘拐した自分だが、それでも出逢い方としてはまだ普通な気がしてくる異常な馴れ初めである。ジャスは少し現実逃避した。
「グレルで暮らし始めてから、少しずつお前の話をきいた」
「え・・・」
「まあ、お前が生まれてすぐあいつは王室を去ったから、一緒にいた時間は本当に短いものだったと思うが。それでも、あいつはお前を、“最初の宝物”だと自慢していた」
そんな話、姉は一言も言っていなかった。だが、不意に気づく。
言えなかったのだ。
何もかも、ジャスのことを慮って。
「あいつが王室を去って“ラジェーテ”に入ったのは、確かに国民のためもあるだろう。だが一番は、お前を守りたかったからだ」
それは王女の決断ではない。
どこにでもいる、ただの姉だ。
「さっき俺が言ったこと、覚えているか?」
「・・・身分は、器?」
「そう。もう一度言う。俺はお前の他人だ。だからこそ言えることがある」
身分は器、ただの道具、駒であると。
あまりにもあっさり言われ、ジャスは思考が停止した。
「そんなに軽く言われても」
反発というよりも、付いていけない。途方にくれるジャスに、紅夜は続ける。
「だってそうだろう。極端な話をするが、そうだな。たとえば、あのランティスはお前にとって兄に等しいと聞いたが」
「はい」
本当に内情が筒抜けなのだと知り、観念する気分でうなずく。
「もっと単純に考えろ。お前が王子なのは仕方ないし、特別な意味もない、そこらに雑草が生える程度になんでもない。どうしようもない、とも言える」
「ざ・・・?」
さすがに雑草扱いされたのは初めてだったが、紅夜の顔は冗談を言っている風ではなかった。
「だが、お前がランティスを慕っていること、逆にランティスがお前を可愛がっていること。この2つに、お前の出生がどう関与してるんだ」
ジャスは言葉を失った。
絶句しているジャスを見ながら、紅夜は続ける。
「確かに王子だからこそ繋がった。だけど、それは星の数ほどある出会いの形の、ほんの1つに過ぎない」
お前は身分というものに洗脳されている。そう語る紅夜は、もう目の前に立っていた。しかしクリフが止めようとはしない。その意味に気づいた時、紅夜がジャスの髪を乱暴に撫でた。
「お前は、お前でしかない。あの使節団の連中は、殆どお前のためにここにいるんだ。ただの王子が相手なら、わざわざこんな面倒な式典前に来たりしない。お前がお前らしく、あいつらと生きてきた証だろ」
いいか、と紅夜が前置きする。
「お前が自分の役割だと思っている王子という身分は、ただのオマケだ。お前という人間を構成する欠片みたいなもので、たかがその程度のものに支配されるなんて馬鹿げてる。お前はランティスの弟、使節団のガキ共の仲間、あのヒルダとかいう奴の友人、ウルフラーナが惚れた男、俺の妻の弟だ」
俺もお前も同じだと、紅夜は言った。
「どこにでもいる、ただの人間だ」
その言葉に、泣きたいような、笑いたいような、不思議な感覚を覚える。
脳裏に蘇るのは、チュニアールでの日々。
下らない戯れ言を交わした酒場。異臭を撒き散らす酔いどれ女王。百鬼夜行のような異種族たちと共存していた、ちいさな楽園。
そこにはいつだって、仲間達の姿があった。
距離があると思っていた。しかし、本当に距離をとっていたのは、自分の方だったのか。
「自分が嫌いなら、それでもいい。だからこそ、自分を好いてくれる奴を蔑ろにするな。自分でなく、相手を信じろ」
いつだったか、似たような言葉を、聞いた気がする。
そうだ、【彼女】だ。
『 あいつが好きだって言ってくれた“あたし”に、逢ってみたいのかもしれない』
なぜ死にたくないのか。そんな馬鹿げた問いかけに、リアは真面目に答えてくれた。
彼女は自分自身よりも、自分を好きになってくれた相手を信じていた。
「俺は・・・」
本当に子どもだった。
今になってようやく、あの日のリアの気持ちに追い付いたのだ。
しかし、呆然とするジャスに紅夜は何か誤解をしたらしく、とんでもないことを言ってくれた。
「どうしても身分が重いというなら、その時は声をかけろ。姉のついでに拐ってやる」
「え?」
「紅夜どの!」
耳を疑うジャスの背後で、クリフが珍しく、慌てたように声をあげる。ジャスは振り返り、馴染みの護衛官を見た。
今に至るまでクリフは、紅夜の話を遮らなかった。王に忠誠を誓ったお役目命の騎士が、王子を唆しているともとれる発言を、黙認したのだ。
それは、つまりーー。
「クリフ」
「は」
「・・・ありがとう」
クリフの目が泳いだ。その姿を見て確信する。
ずっと、父からの監視役だと。そう思って接してきた。
だが実際のクリフは、真実ジャスを案じてくれていたのだ。だからこそ、王家に仕える自身では、決して言葉にできないことを口にした紅夜の話を、遮らなかった。
お前はお前だ。紅夜と同時に、クリフもそう言ってくれている。
「俺、本当に子どもだな。すぐ忘れるんだ。可哀想なふりが得意で」
こうして思い返すと、仲間たちはそれぞれに、形のない言葉をくれていたのではないか。
ここにいろ、家族だろう、と。
きっと彼らにとって、ジャスが王子であってもなくても関係なかったのだ。
拘って、壁をつくり閉じ籠っていたのは、自分の方だった。
「・・・紅夜さん」
「せわしない呼び方だ」
紅夜はどこか楽しそうに笑った。たしかに呼び方がころころ変わっているが、それこそこだわるものではない気がした。
「全て片付いたら、その時は姉を東大陸・・・八洲へ連れて行ってやって下さい。一度、飛鳥国の昊宇城を見てみたいと言っていましたから」
「お前は来ないのか」
先程の優しい戯れ言を思い出す。ある意味とても魅力的な提案だった。
だからこそ、迷いはない。
「ええ。行きません」
「なんだ、弟を手懐けようと思ったのに」
こちらの答えなど分かっていただろうに、冗談めかして紅夜が笑う。即答したジャスも微笑んだ。
心の氷が、小さく溶けていくのを感じる。それは思った以上に心地よく、きっかけとなる言葉をくれた男に、ジャスは感謝した。
俺はお前の他人。紅夜はそう言った。
きっと身近な関係になればなるほど、誰もジャスに言えなくなる。だからこそ紅夜は、王位継承権の破棄を示唆しているとさえ解釈されそうな話ができた。
いや、案外それだけではないのかもしれない。
「紅夜さん。あなたにとって、俺は何ですか?」
金髪金眼の男は笑ってくれた。
「決まっている。妻の弟だ」
これから一国の王女を拐うと宣言しているのも同義なのに、紅夜は何の気負いもなく言い切った。残酷なくらい奔放な姉と寄り添えるのは、傲慢なほど真っ直ぐな、この男しかいない。それを理解できたことが嬉しかった。
「紅夜さん」
「なんだ?」
ジャスは立ち上がり、頭を下げた。
「姉をよろしくお願いします」
ノアリス殿下、とは、もう呼ばない。
姉の名前は蒼姫だ。
家族として寄り添えなくても、個人として少しずつ繋がっていけたらいい。人の輪とはそんなものだと思う。
目の前にいるもう一人の義兄が、教えてくれた。
「承った」
紅夜が、ジャスの肩に拳を押し当てる。先ほどのように髪を撫でるわけでもなく、かといって殴るわけでもない。対等な男同士のような振る舞いに、ようやく一歩、大人に近づけたのだろうかと、ジャスは少し嬉しくなった。
問題は山積みのままで、何かが解決したというわけではない。王子として抱える厄介事の数々に加え、リアと元許嫁の件に関しては腸が煮え繰り返る気分だし、リーシャの延命についても未だ有力な手掛かりが掴めていない。ジャスの気持ちが楽になっただけで、現状は依然として逃げ出したくなるほど苦しい。
だからこそ、すべての鬱憤を吐き出させてくれた紅夜に、心から感謝したのだ。
立ち向かわねば。
全ての大切なものに報いるために。
+ + + +
王子が出ていったサロンでは、各々が沈痛な面持ちで席についていた。誰も立ち上がらず、静寂だけが場を支配している。
そんな空気を壊すのは、やはりというか、ヒルダだった。
「お腹すいたねぇ」
「えっ」
第一声がそれか。戸惑いながらも、確かに彼女と共に摂った夕食は、緊張のせいで殆ど喉を通らなかった。しかし今も胃が縮みそうな気分のリアは同意もできない。ヒルダは夕食を残らず平らげていたと思うのだが。
「まー、殿下がいないし。改めて自己紹介しとこうか。仲介できる人がいないもの」
空気を読んでいるのかいないのか。ヒルダは立ち上がり、赤いドレスを摘まんで一礼する。その優雅な所作は、完璧な貴族令嬢だった。
「私はヒルデガルド・コーバッツ。殿下に仕えている立場だけど、友人でもあるつもりだよ。職業は歌手だけど今お休み中。こちらの可愛いお姫様とは、昨夜から仲良くさせてもらってます」
悪戯っぽく微笑むと、ヒルダはリアに向けて片目を伏せた。心が軽くなるのを感じ、リアも微笑む。
「チュニアールの面々は、あたしから紹介できるんだけど」
リアは視線をセトに向けた。
春先に、このトロナイル王国の東隣にあるリトレイズ共和国の港町で出会った青年だ。
確かーー。
「えっと、恋人を探して各地を旅してるのよね?」
「うん。そのことで王子殿下と取引したんだ。だからここにもいるわけで。ああ、王宮にはリトレイズ共和国の使節団として正式に入城してるから」
そこは心配するなと言われる。頷き、リアはヒルダ、リオン、アラン、ランティスを順に見て口を開いた。
「彼はセト。ランティスは擦れ違いみたいなものなんだけど。前にリトレイズで出会った旅人よ」
名を呼ばれ、ランティスが血の気の失せた顔を上げた。
「・・・鍵を落としたっていう?」
「あ、それは連れの女。キーアっていうんだけど」
「そう! その人がすっごく綺麗なの!」
思い出して、力強く訴える。男たちの反応は鈍かったが、ヒルダは目を輝かせてくれた。
「え、どんなタイプ?」
「派手な感じではないの。控えめなんだけど、でもだからこそ、いつまでも見つめていたい類いっていうか」
「うっわぁ。お姫様がそこまで褒めちぎるなら、一度お目にかかりたいかも」
美しい女に目がないらしいヒルダが、期待の籠った眼差しをセトに向ける。一方のセトは顔をひきつらせ、逃げ腰だった。さすがにここで仲間を差し出そうとは思わないらしい。
「それはそうと! さっきそこの天パ君が何か言いかけてたけど、ヒルダとは知り合いなのか?」
天パと言われたからか、それとも何かしらの関係があるらしいヒルダを呼び捨てにされたからか。いつも軽薄そうな笑みを張り付けているリオンが、珍しくムッとした顔でセトを睨む。
「馴れ馴れしくしないでくれる?」
・・・ヒルダの言葉を借りるわけではないが、本当に空気を悪くするのが上手かったらしい。目付役のランティスが意気消沈している状態であり、ここは自分が仲裁すべきかと焦るリアだったが、セトが微笑んで言い直す。
「じゃあピアス君」
穏和そうに見えて意外にも意地が悪いのか、セトはどこか腹黒い笑みを浮かべた。性格どうこうというよりも、感情を剥き出しにしているリオンの反応を楽しんでいる風に見える。
無論リオンは更に表情を険しくした。
「ちょっと、馬鹿にしてるでしょ」
「彼はリオンよ、セト」
慌てて言い添える。王族が絡む事態だというのに、こんな下らないことで内輪揉めするわけにはいかなかった。
「リオンね。リオンはヒルダと知り合いなのか?」
「幼馴染みだよ! だけど」
勢いよく言いかけたリオンは、しかし言葉を切った。
先程ジャスに釘を刺されたこともあるし、何よりヒルダ自身が貴族令嬢として振る舞い、リオンからの追及を態度で拒んでいるからだろう。彼女は自分からは口を開くのに、今も話題の中心にいながら無関心を装っていた。
「ヒルダ」
「なあに、お姫様?」
「・・・なんでもないわ」
これは事情も知らぬ者が口を挟んでいいものではない。そう判断し、リアはため息をついた。
「ねえ、アラン」
「なんだ?」
未だ生気の失せた顔をしているランティスはそっとしておくべきだと思い、リアは彼の隣のアランに声をかけた。
「他の皆はどうしてる?」
「元気だよ。ただ、セブンがリアをすごく心配してたかな。最初はあんなに毛嫌いしてたのになあ」
どこか懐かしむように語るアランに、リアも同意した。頷き、微笑む。
「セブンに伝言をお願いしてもいい? ちゃんと元気よ、すぐ帰るからって」
「了解」
アランは薄く笑って応じてくれる。この雰囲気が好きなのだ。仲間であり家族である彼らを守りたい。
帰る場所が、ある。
「一度ノアリス殿下にも、ちゃんと自分でお礼を申し上げたいわ」
「あ、いいね。その時はお供するよ」
「ありがとう」
ヒルダと約束したとき、サロンの扉が開いた。
てっきりジャスが戻ってきたのだと思ったリアは緊張する。しかし、現れたのは見知らぬ青年だった。
誰もが警戒心を露にするなか、その中の一人が立ち上がる。リアの隣にいたヒルダだった。
「ロージャさま? どうしたの」
誰だ、と首を傾げたのはリアとセトだけで、ランティスとアランはヒルダと同じく、どこか気まずそうな顔をしている。知り合いなのだろうか。
「殿下のご友人方には、突然ご無礼を・・・ヒルダどの、殿下は?」
「あ、今はいないよ。ちょうどさっき出ていった。行き違いだね」
ジャスと縁ある人間らしい。仕えの者でも兵でも騎士でもなく、立派な貴族の装束が様になっている。もしかしたら、彼もトロナイルにおけるジャスの友人なのかもしれない。だからこそ、私的な集まりであるこのサロンに、警備兵は彼を通したのではないか。他国の者が複数含まれるこの場に、自国の貴族が招かれていても不思議はないと思ったのだろう。
「少し、良いだろうか。急ぎ耳にいれておきたい。殿下にもお知らせしなければならない」
しかし、ロージャと呼ばれた青年の用件は深刻なものらしい。険しい表情で、ヒルダを部屋の外へ呼び出す。リオンが顔をしかめる一方で、ランティスの瞳に力が戻る。セトもアランも、それまでの砕けた空気を一瞬で脱ぎ捨てた。
突然の呼び出しに、ヒルダは少し戸惑っているようだったが、それでも迷ったのはほんの数秒だ。待っててねと言い残し、サロンの外へ出る。
そして。
「はあ!?」
扉の向こうから、ヒルダの裏返った大声が聞こえた。
リアは胸騒ぎがした。もしや、もうサズ達が行動を? いや、昨日の傷がそう容易く治癒するはずがない。ならば一体どうしたのか。
煩い心臓を手で押さえたとき、ランティスとリオンが息を飲んだのが分かった。幼い頃から暗殺者として育てられた彼らは五感に優れ、聴覚も研ぎ澄まされている。見ればアランも呆気にとられたような、それでいて驚いたような顔をしていた。訳がわかっていないのは、この場でおそらくリアとセトだけだ。
「どうしたの?」
小声で尋ねる。ランティスが強ばった顔で教えてくれた。
「ジャスの母妃であるレメリー様の姿が、見当たらないと」
聞きたくなかったかもしれない。
天は一体どこまでジャスを苦しめるのか。再びそんな怒りが、胸に宿った。




