蒼と紅の間で
サロンを出て、姉ノアリスが滞在している貴賓室に向かいながら、ジャスは先ほどのリアについて考えていた。
無理は、していると思う。だが、それは彼女が己の意思で自らに課したものであって、他者に強要されたわけではないのだ。
だから、止められない。
安全なところで能天気に笑っていてくれたらいいのに、リアは見据えた先へ勝手に羽ばたいてしまう女だった。
(ヒルダの奴)
あんなにも弱りきっていたリアが、たった一日で驚異の復活ぶりを発揮しているのは、間違いなくヒルダが絡んでいる。本質はそのままに、しかし以前よりも強く輝く琥珀色の眼差しを思い出し、苦笑した。
(・・・ありがとう)
素直に言うのは、自分たちの柄ではない。だから、心の中で囁いた。
友でいてくれて、感謝する。
その時だった。
「失礼いたします、殿下。お客様のことですが」
前方から女官が駆け寄ってきた。確か紅夜の世話を命じている。女官が距離を置いて一礼したので、ジャスは頷く。
「変わりは?」
「ございません。さすが殿下のお客様と申しましょうか、とても礼儀正しく所作も洗練されていて、上品な装いが本当に優美でお似合いになります」
論点がおかしい。思わずジャスは噴き出した。
確かに紅夜は目映い黄金のような男だ。女にとっては眼福というより他ないだろう。しかし、王子相手に気が緩みすぎていないか。見ればクリフも渋い顔をしている。
陽翼宮は主不在の時が多いためか、仕える者達は少しばかり奔放だ。そんな自由な連中だからこそ、ジャスの型破りな振る舞いを支持してくれているのもわかっている。
「そうか。引き続き頼む。不自由はさせないように」
「畏まりました」
恭しく頭を下げられても、こういう空気なら嫌ではないのに。そう惜しみつつ、今度こそ姉の元に向かう。そのとき、背後の気配に笑ってしまった。
「そう怖い顔をするな」
「殿下は少しお甘いのでは」
女官の言動を軽率だと思っているらしく、背後でクリフは顔をしかめていた。お前が堅物すぎるのだと呆れながら、ジャスは応じる。
「お前が俺に甘いらしいから、丁度いい」
レイチェルからすれば、クリフはジャスに甘いのだという。お似合いの主従だと冗談めかして笑えば、クリフの顔がますます渋くなった。
「殿下」
「はいはい。悪かったよ」
その気のない軽口だと笑って流した頃、姉のいる部屋が見えてきた。
部屋の中へ入り、そのまま応接室まで進むと、すでにノアリスがいた。
「あ、王子さま!」
訪れた弟に、姉は朗らかな笑みを向けてくれる。しかし、無垢な娘のようなノアリスが、実際は残忍な手段も辞さない玄人であり、それでいて、ところ構わず夫と睦言や唇を交わす恋に盲目な乙女の面も持っていると、ジャスは昨日この目で見てしまった。幼少の頃に思い描いた憧れの姉とは色んな意味で異なる現実に、さすがに戸惑っている。
「琥珀ちゃんの様子は?」
「落ち着いています。概ね事情は分かりましたので、お伝えします」
それからジャスは、先程リアがした話をノアリスにも伝えた。リアの安全を最優先に考えるなら、狙われていると承知で護衛も付けず出歩く姉を、彼女に近づけるのは危険だと判断し、二人の部屋はひきはなしてある。
「・・・そっか。琥珀ちゃん、つらいね」
全てを聞き終えたノアリスが俯いた。ヒルダもリアに対してやけに同情的だったし、やはり女としては他人事には思えないのかもしれない。過去のことを考えると、寧ろジャスも同じ被害者として彼女の苦痛は理解できる。未遂で済んだのが唯一の救いだった。
そこまで考え、知らず自嘲が漏れる。
(誰にとっての救いなんだか)
リアの心を案じているのは本当だ。しかし、いくら元許嫁だとはいえ、相手の男に対する嫉妬や怒りは、未だジャスの胸で鎮まることなく存在している。彼女を想いながらも、結局は自分の感情を優先しているようなものではないかと気づくと、さすがに情けない。
(こんな俺のどこがいいんだか)
自分を好いてくれる人間たちの顔が思い浮かび、すぐに消えた。下らない。
だって、どうせ皆はーーーー。
「王子さま。琥珀ちゃんのこと、守ってあげてね」
思考を打ち破ったのは、ノアリスの声だった。彼女はもう下を向いてはおらず、真っ直ぐジャスを見つめている。
「やけに琥珀を気にしますね」
「うん。・・・どうしても、ね」
歯切れ悪く笑うノアリスだったが、答えるつもりはないようだった。線引きされた、ともいう。
そのことに気づいた瞬間、ジャスは落胆した。
ノアリスにではなく、自分自身に。
自分が歩み寄ることもしなかったのに、姉から距離を取られた途端に、悲しさを覚えた幼さが許せなかった。
「あ、そだ。ねね、王子さま」
「はい」
「わたしの旦那さまはどうしてるかな? 寂しがってない?」
「えっと」
問題なく過ごしている、としか聞いていない。しかし、こんな風にキラキラした目で問われると、それはどうも素っ気ない返答になってしまう気がした。意図せずとも、まるで当てこすりのようだと思い、ジャスは別のことを口にした。
「この後で様子を見てこようかと」
「えっ、そうなの!? ありがとう!」
夫の話になった途端、ノアリスの頬が薔薇色に染まる。こうも嬉しそうに微笑まれると、卑屈な自分が恥ずかしかった。
「お部屋をご一緒に、とは仰らないのですね」
「え、うん。だって、ほんとは巻き込みたくないし」
だからこそ紅夜は「首を突っ込む」と宣言したのだろう。なにがあっても離れないし放さない。その想いの強さが、ジャスには痛いほど眩しかった。
「では、これにて失礼いたします」
「うん。わざわざありがとうね」
紅夜をよろしく。そう笑う姉の顔は、恋する乙女そのものだった。
+ + + +
紅夜には宮殿のなかでも外部に近い部屋を宛がっていた。リアや姉と扱いが違うことは否定できないが、こうでもしないと煩い護衛官を説得できなかったのだ。
外へ気軽に抜け出せるその部屋は、紅夜への配慮が半分、観察半分だったのだが、彼は意外にもおとなしく過ごしているのだという。元は貴族の家柄ならば高位の者としての立ち居振る舞いも心得ているのだろうが、堂々とした態度は性格ではないかと思いつつ、ジャスは紅夜を訪ねた。
クリフを伴い、応接室に入る。ちょうど紅夜も奥の部屋から出てきたところだったが、それを見たクリフの顔は険しくなった。本来なら王子を伏して待っているべきだ、とでも言いたげな護衛に、ジャスは辟易せざるをえない。非公式とはいえノアリスが自ら夫と認めた男なのだから、それなりの敬意は払うべきだと思う自分がおかしいのだろうか。
「夜分に申し訳ない、紅夜どの」
「いや。寧ろ忙しいだろうに、わざわざ来てくれて感謝する」
言うなり、紅夜は真っ直ぐジャスを見据えた。
「ウルフラーナは見つかったのか?」
それがリアの名前だと思い出すのに数秒を要した。
「あ、ああ。見つかったが。その名で呼んでおられるのか?」
ファーストネームではないことに驚いていると、逆に不思議そうな顔をされる。
「呼んでいいのか? リアと」
ジャスは頭の中で想像し、すぐに答えた。
「ウルフラーナでいい」
これ以上リアと親しくする男は増えてほしくない。我ながら醜いが、これが本心だ。
「そうだろうな」
意外なことに、紅夜は笑った。それは柔らかく、温かなものを感じさせる表情で、さすがに面食らった。
「・・・紅夜どのは意地が悪い」
「別に呼び捨てでも構わないが。それに、気を使ったつもりだった」
ジャスとリアのややこしい関係を知っているとでもいいたいのか。そんなまさかと思う反面、チュニアール使節団で友人達に何かしら吹き込まれている可能性は高く、咄嗟の言葉に詰まる。
「ウルフラーナは、お前に伝えたいことがあると。ちゃんと話せたのか?」
お前、という呼び方に、背後のクリフが物言いたげな空気を放つ。チュニアールの面々にはもう何の文句も言わない彼だが、さすがに王宮内ではそう甘くない。
「いや、まだ落ち着いて話したりは」
ひとまずクリフは無視して答えた。紅夜はリアの身に起きた元許嫁との件について知らないはず。ならば、リアの心と名誉のためにも、仔細は伏せるべきだった。
「そうか。・・・お前は?」
「え?」
「拗ねた時の姉と同じ顔をしている」
真顔で言われ、最初は意味がわからなかった。
「え、拗ねて・・・?」
「お前の方は随分と複雑そうだが。それにしても姉弟だな。良くない考え方をしているのが顔に出ている」
同じ表情だと目を細める紅夜は、確かに姉が恋慕う唯一の男なのだろう。無邪気な妻と物静かな夫。よく似合っている。
「別に拗ねてなんか」
「ああ、不適切だったなら詫びる」
悪かったと言う口調は平坦なのに、向けられる眼差しは心地よい。気づけばジャスは問うていた。
「姉を王女と知っておられたのか?」
「ああ」
それがどうしたと言わんばかりの態度だった。だからこそ、更に質問を重ねる。
「どうして好きになれた? 相手が王女と知っていて」
「身分差のことか? まあ確かに最初は、あいつは浮世離れしていて、俺とは違う場所にいる気がした」
ふと紅夜が視線を逸らした。その先を辿ったジャスの目に映るのは、生けられた蒼い花。
「あれがどうか?」
気に入らないのだろうか。蒼はトロナイルで貴ばれる色なので、至るところに見受けられる色彩だ。しかし花なぞに拘る男にも見えないのだが。
「いや、綺麗な色だ。一番、好きな色だ」
何かを思い出すように目を閉じて言う紅夜が誰を想っているか、なんとなく分かる。あの蒼は姉の瞳の色。だから紅夜は、姉に「蒼姫」と名付けたのか。
「ところで。話を逸らすつもりはないが、何故いきなりこんなことを聞く?」
「えっ・・・」
「誤解するな。純粋な疑問であって、言いたくないなら答えなくていい」
先回りして逃げ道をくれる紅夜の気遣いが、どうも居心地悪い。
「姉が身分に囚われないのは、あなたがいるからなのかと」
その様が羨ましい。そう白状すると、紅夜は首を捻った。
「どうだかな。お前の目にどう見えているかは知らないが、蒼姫はかなり我が儘で頑固だ。情けないが、生き方を左右できたとは思ってない」
「・・・でも、身分を越えて結ばれている」
責める気持ちはない。ただ、話すうちに、ジャスはまたしても、自分の嫌な部分を知ってしまった。
妬んでいるのだろうか、姉夫婦を。
これ以上、まだ醜い感情が胸にあるというのか。だが、もう吐き出さないと潰れそうだった。
そんな葛藤に苛まれるジャスは、紅夜がまじまじと自分を見つめるのに気づかなかった。ようやく視線が合ったとき、彼はため息をつく。
「・・・お前の言いたいことが、なんとなく分かった。ウルフラーナといい、お前らの洗脳は根深いな」
「洗脳?」
不穏な響きに、驚きより反発がわく。自分を世話してくれた周囲の人間を非難された気がしたのだ。
「俺は洗脳なんかされてない」
「はいはい。まあ、聞け。それから胆に銘じろ。俺はお前から見て他人だから言えることだと」
何を言うつもりだと、半ば睨むように紅夜を見た。強い視線を受けながらも、彼はどこまでも自然体で口を開く。
「身分なんてものは器に過ぎない。現に今ここに、太古から続く由緒ある侯爵家の生まれだというのに、殺し屋に身をやつし果ては偏狭国の田舎で荷台の運転手してる奴がいるだろう」
お前達は深く考えすぎだと言われ、思わずジャスは立ち上がった。
「視野が狭いとでも言いたいのか!? 何がおかしいんだ! 俺は国民の税で生かされてきた! 国家間の友好の証として留学生にもなった! 衣食住も友人も仲間も、すべてこの王子という身分がなければ得られなかったんだ」
愛国心なんてない。寧ろ、どこまでも自分を惨めな傀儡に貶めるものとして、きっと心の隅では恨んでいる。
「だけど、俺には身分しかないんだよ」
声が震えた。そのとき、ようやく悟る。
本当はずっと不満だった。この期に及んで、まだ聞き分けのいいふりをして、誰かに誉めてほしかったのかもしれない。
それが、ノアリスの自由奔放さに触れて、決壊した。
「好きで王子になんか生まれたんじゃない。義務だ使命だと、鬱陶しいんだよ。望んで背負ったわけでもない重荷を、どうして周りは俺の命ごと奪おうとするんだ? 欲しいならくれてやる。誰か代わってくれ、頼むから!」
誰にも言ったことのない、これがジャスの本心だった。
国も玉座も興味はない。国民だって、自分たちが養ってきた王子が赤目だと知れば、一転して殺せと叫ぶ。そして反発は謀叛に繋がり、ジャスはただ王家に生まれたというだけで憎まれるのだ。存在自体が罪なのだと。
だから、こんな【生】は早く終えてしまいたかった。自分が民のために背負った重荷を、その民が相応しくないと罰し殺そうとしてくる未來が、聡いジャスには幼い頃から見えていた。
だからチュニアールを愛した。
それでも、チュニアールとてジャスが王子だからこそ引き取ってくれたのだ。束の間の平穏。まやかしに過ぎないと理解はしていた。更に、セレナと出会い喪ってから、世界は灰色に褪せていく。
それなのに、と。
(リア)
脳裏で靡く長い茶髪。木漏れ日の中で柔らかく揺れる。
照れた頬、拗ねる唇、小さな耳、華奢な肩。いつだって心を射抜かれそうなほど真っ直ぐな、琥珀色の瞳。
あの笑顔を見ると、いつも嬉しくて、そして本当は、何度も泣きたくなっていた。
きっと自分たちは、出会ってはいけなかったのだ。
こんな気持ちは知りたくなかった。愛したくなかった。
醜悪かつ惰弱な自分を、認めたくなかった。




