春満ちて
拙作『黄泉夜譚』第二九話「散りぬる風のなごりには」の前日譚に位置する話ともなっております。
「私は、桜になりとうございます」
病魔に侵されて死んだ彼女は、私に良くそんなことを言っていた。妖でありながら人である私を愛してくれた春乃と言う名のその女性は、とても桜が好きだった。
私はすっかり軽くなってしまった女の亡骸を背負い、山道を歩いている。空はまだ高く、陽は暖かい。
「ほら、着いたよ春乃」
私は物言わぬ亡骸にそう語り掛ける。そこはすっかり花の散った葉桜の森。木々の間に谺する鳥たちの声だけが私を出迎える。
私はそっと女の亡骸を地面に下ろした。ここはかつて、彼女とともに何度か訪れた場所。桜が好きだと言う彼女のために見つけたこの桜の森に、私は春になる度に彼女とともに訪れた。その喜ぶ顔を見たいがために。
だが数ヶ月前、春乃は私の前から姿を消した。その時にまず訪れたのもこの場所だった。ここに来ればまた会えるかもしれないと、そう思って。だが彼女は結局現れなかった。
寝食も忘れて探し回って、やっと私が春乃を見つけた時、私は彼女が私の元を離れた理由を知った。人ならざるものであった彼女は、自身の体が不治の病に侵されていることを知り、妖の世界で死ぬことを選んだ。私に自分が妖であったことを知られたくなかった故に。
だが彼女が妖であると知った後でも私の想いは変わらなかった。絵描きだった私はその最後の姿を残すため、桜の下に佇む彼女を描いた。
春乃が桜を好きになったきっかけになったという、その妖の世界に咲く一本の桜木。そこに私たちは毎日のように通った。それは丘の上に咲いたとても綺麗な山桜だったことを覚えている。
私は精魂を込めてキャンバスの上に筆を滑らせた。だがその絵が描き終わる前に、彼女の命は散ってしまった。
その絵は今この手元にある。キャンバスの中に描かれた、桜の木の下に佇む一人の女性。その姿は薄ぼんやりとしていて、これだけでは誰を描いたのか分からなかった。私は死に行く彼女を見るのが怖かったから、だから描けなかったのかもしれない。
今、目の前で永遠の眠りについた春乃のことをじっと見ていても、やはり筆を取る気にはなれなかった。私はその絵を桜の幹に立て掛ける。
私はしばらくその場所に座り込んでいた。春乃の亡骸は物を言わず、動くこともなく、ただそこに横たわっている。当たり前のことだけれど、それが堪らなく寂しかった。
「この世界のどこかには、夢桜と呼ばれる桜があるのだそうです」
あの妖の世界の山桜の下で、春乃がそう口にしていたことを思い出す。
「普通の桜と違って、季節を問わず咲き続けるとても大きな桜。それは永遠を生き続ける花なのでしょうね。そうでなくとも、散ってしまった桜は春になればまた美しい花を咲かせます」
憂いに満ちた目で満開の桜花を見つめて、春乃はそう話していた。もう自分が長くないことを知っていたのだろう。
「私は桜になりとうございます。一度散ってもまた次の季節に再び花を咲かせる桜に。ただ今は死んでしまったらもうお前様に会えぬことが恐ろしくて堪りません」
春乃は震える声で私に言った。私は答える言葉を持たなかった。それは私だって恐ろしい。だが人ならざる彼女の体を人である私が看ることは出来ぬし、妖たちもまた彼女を治す術を持たぬようだった。
それならばもう、祈ることしかできないではないか。だが神も仏も彼女を助けてはくれなかった。
「ねえお前様、私が死んだら、私の体は桜に囲まれた場所に埋めてほしいと願います」
春乃はそう青い顔で小さく笑ったことを覚えている。その唇は微かに震えていたけれど。
「その私が埋められた土の上に、あの丘の桜の枝をひとつ植えて下さいませ。いつか桜木となって、私はお前様のために花を咲かせとうございます。そうすれば春が来る度に、何度だってお前様に会えますもの」
それは彼女の最後の願いであったから、私は頷いた。女はとても安堵したような顔をした。私はそれがとても嬉しくて、同時に悲しかった。
「お前様が私との約束を守って下さるならば、四年の後、私は他の桜がみな散ってしまった春の終わりに花を咲かせましょう。私がどの桜木となったのか、お前様に分かるように」
そう彼女は私に告げた。それはまだ、たった数日の前のこと。それなのにもう春乃が言葉を発することはない。だけれど彼女は人ではないのだから、死んだあとにだってあるいは桜になることもあるかもしれない。そんな幻想に縋りながら、私は一人穴を掘っていた。
やがて春乃一人ならばすっかり収まりそうな穴が出来上がった。私は彼女をその穴に納め、そして今度は土を被せて行く。
少しずつ春乃の姿が見えなくなる。私はその度に胸が締め付けられる痛みを感じながら、やっと土を元の通りに大地にならした。そしてその土の真ん中に、私はあの妖の世界から持ってきた桜の枝をひとつ立てる。
これがいつか、たくさんの花を咲かせる時が来るのだろうか。私はこの胸に微かな希望が灯るのを感じながら、その場を後にする。春の終わりの空はもう、陽が沈みかけていた。
それから四年が過ぎた頃、私は約束通りに彼女を埋めた山へと足を踏み入れていた。彼女の亡骸を埋めたあの季節と同じ頃に。
すっかり葉桜となってしまった木々の間を進んでいると、不意に風に運ばれて来た薄紅色の花びらが私の顔に掛かった。
それは私が進んで行く方から流れて来る。私は自然に早足となり、桜の森を進んだ。少しずつ視界が開け、そして私は四年前に訪れたあの場所で目を見開いた。そこに私は、ただひとつだけ咲く満開の桜を見た。
山が緑に染まる季節において、その一本の桜木だけは春に満ちていた。
私と約束したように、彼女は私のためにあの花を咲かせてくれたのだ。その桜の木は彼女が好きだった、そして私が最後に彼女とともに描こうとした妖の世界の山桜と同じ姿をしていた。あの桜の枝が、この人の世界に再び彼女の居場所を作ってくれたのだ。
私はずっとそこに立ち竦み、ただ散り行く桜花を眺めていた。それは彼女が死んでから私に訪れた、初めての穏やかな時間だったかもしれない。
あの桜は彼女が咲かせてくれた、そしてこの世に残してくれた最後の名残だ。薄紅に染まったその時間の中で、私は彼女とともに過ごした記憶を蘇らせる。
私は飽きることなく、ずっとその桜を眺め続けた。
それから春の終わりは、私と彼女の逢瀬の季節となった。春乃の時はもう止まってしまっているから、その桜は言葉を発することも、私の言葉に反応することもない。ただ春の風の名残であるかのように、季節の終わりに繰り返し花を咲かせるだけ。
それでも私は構わなかった。あの桜の下には彼女が埋まっている。それは確かなことだったから、彼女が咲かせた花を見るだけで私は癒された。春乃は彼女が願った通りに桜になったのだと思えば救われた。そうやって毎年この桜の森を訪れて、何十年かの時が過ぎた。私ももう、年老いてしまった。
だけどひとつだけ、私には後悔があった。春乃が死ぬ直前描いていた桜の下に佇む彼女の絵。それを完成させることができなかったこと。それだけは悔やんでも悔やみきれない。私は持って来た絵を見つめる。
私はもうこの絵を完成させることはできないだろう。春乃の時は止まり、そして彼女は桜になってしまった。だから私にはもう桜の下に佇む彼女を描くことができない。桜とともに立つ彼女の姿を描いてしまったら、この桜が彼女ではなくなってしまうから。生きていた頃の彼女の姿を描いてしまえば、桜となった彼女の今を否定してしまうように思えたから。
彼女が私のために花を咲かせてくれることがなくなってしまうことを恐れて、私は筆を握ることができなくなった。
それは私の身勝手な思いであろう。作者である私が完成させることができなければ、この絵は描き上げられることなく存在し続けることとなる。一つの絵画としての存在を否定され続けることとなる。
私は桜の根元にその絵を立て掛けた。その上に花びらが落ち、そして滑り落ちて行く。
私はもう長くはないだろう。願わくば、私が春乃の元へと去った後、誰かがこの絵を完成させてくれることを。そんな想いを私は抱き、そしてこの絵を手放すこととした。
私の手によって描き上げられることのなかったこの絵画は、もう私の作品とは認められない。だから私の名は残すことはしない。これが様々な人々の手を渡り、そしていつかこの絵の続きを描いてくれる誰かが現れたのなら、それはとても幸福なことだろうと思う。この絵がひとつの絵画として完成する時が来るのならば。それは私の勝手な願いでしかないけれど。
私は月を背にした桜を見上げる。風のない夜に、桜の花びらは春の雪のように降り続く。