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私のアリスに捧ぐ――。
「本当に見たの?」
「本当に見たの! 幽霊!」
「どこに?」
小学校には怪談が付き物である。少し自分を大きく見せたい年頃だけに、学校で怪しいものを見かけたなどのネタに皆よく喰らいつく。
ここにも、怪談に魅せられた少女が一人。
「図書室にいたの!」
中休みの教室で、少女は数人のクラスメイトに囲まれていた。もともと少女は友達の多い児童であっただけに、彼女の怪談に耳を傾けるクラスメイトは少なくなかった。
少女を囲むクラスメイトの一人が声を上げる。
「でもさー、普通図書室に幽霊って出なくね? やっぱ嘘だろ」
「あー、やっぱりトイレとか音楽室とか?」
「本当だってば!」
クラスメイトの少年二人の言葉に、少女は机を叩いて反論する。
「昨日本当に見たもん! 隅っこで金髪の女の子がじーっとしてたの!」
「人形とかじゃないの?」
「違うってば!」
少女は両腕をぱたぱたとさせて主張。発育のよい胸に付けた名札が腕に合わせて揺れる。バランスの悪い字で『五年一組 御前崎聖花』と書かれた名札はまだ新しい。
そこでふと、今まで黙って聖花の派手な動きを見ていたクラスメイトの男子児童が顔を上げて言った。
「じゃあ見に行くぞ。それではっきりするじゃんか」
男子児童の意見に対し、女子児童の一人が反論した。
「え? 今? 聖花ちゃんは放課後って言ってるのに」
「どうせ人形だって。それなら今行ってもわかるじゃん」
「人形じゃないよ!」
「いいから行くぞ!」
男子児童、鶴崎大和はぱたぱたを続けている聖花の腕を掴み、強引に立ち上がらせると廊下へ引っ張って行ってしまった。仕方なく、残りのクラスメイト数人もそれに続く。
廊下を進んで階段を下り、辿り着いた図書室の古い戸を前にして、大和が聖花に問うた。
「で、どこにいたんだ?」
「手、放してよ」
大和はまだ聖花の腕を握ったままだった。気付いた大和は慌てて手を放す。
「わ、悪い」
どもりながら、大和は謝った。
聖花は自由になった右手で、中休みで混み合う図書室の隅を指差した。
「あのへん」
聖花の指が示した先は、窓際の角であった。図書室の隅で二つの本棚が直角にぶつかっている。
すかさずクラスメイト達が図書室の中を覗き込む。中休みであり数人の児童がいたが、聖花が指差した付近には誰もいなかった。
そして、無論人形やそれに類するものもなかった。
「ほら、人形とかないし」
聖花は大和を睨んで言ったが、サッカークラブで日焼けした大和の顔はまっすぐ図書室の奥に向いたままだった。
「まだわからねえよ」
大和が図書室の戸をくぐった。その後に続いて、立て続けに五年一組の児童が六人も図書室へ入って来たためか、カウンターにいた学校司書は少し驚いた様子である。
集団の先頭を行く大和と聖花は、一直線に図書室の隅を目指した。図書室は背の高い本棚によって四方の壁が覆われており、カウンターのある右奥を除く三つの角ではそれらが直角にぶつかる。ただし、窓側の面の本棚は光を遮らないよう、低いものになっていた。
聖花が指差したのは、図書室の左奥、窓際だった。背の高い本棚と低い本棚が、隅でぶつかった地点。
間もなくその位置に着いた大和は、すぐさまその場所を調べた。そして一つ息を吐いて言った。
「何もないな……あ、いや待て」
大和は上を向いた。壁側の、背の高い本棚を見回し、そしてにやりと笑う。
「ほら見ろ! 人形があるじゃないか!」
大和が指差したのは、背の高い本棚の最上段に置かれた人形……否、くまのぬいぐるみだった。
「たぶんあれが落ちてたんだよ、ここに」
「なんだ、そうだったの」
「えっ?」
聖花は驚いた。ついさっき、教室で聖花の目撃時間について言及した女子児童が、呆れ返ったように肩を落としていた。
「違うよ! 私が見たの女の子だったよ? ここでじーっと佇んでて!」
女の子。長い金髪を二つに結び、優しい微笑みを浮かべる少女だったと聖花は記憶していた。記憶にあるビジョンとあのくまのぬいぐるみには、金髪以外の共通点がない。
しかし、聖花の声は大和にカットされた。
「見間違いだろ」
「そうだよ」
他のクラスメイトも大和に同調する。やがて彼らの視線は、呆れや無念の色を失い、聖花を責めるかのようなものへと変貌していった。その場にいた全員を敵に回してしまった気分になった聖花は孤独と敗北の苦みを味わい、自然、目に涙が浮かんできてしまった。
それを見た大和が狼狽しかけたが、それでも、聖花は頑なに反論をしようと口を開く。
「だって……本当に……」
だが、そこに司書が割って入った。
「はいはい、図書室では静かにね。それと、中休みもう終わるよ」
「あ、やっべ!」
壁に掲げられた時計を見れば、二十分間の中休みはすでに九割以上を消費しており、大和以下、クラスメイトは小走りに教室へ戻っていった。
「ほら、聖花ちゃんも早く」
大和についていく気にならなかった聖花はその場で立ち尽くしていたが、司書に言われてゆっくりと頷いた。
「はい」
最後にもう一度、図書室の隅を振り返ってから、聖花は図書室を出た。
その日の昼休み。聖花は再び図書室にいた。ただし、今度は一人である。
目指すはやはり、問題となっている左奥の隅であった。
先程見たものを確認しに、聖花は昼休みもここへ来たのだった。
「えーっと」
部屋の角で本棚と本棚がぶつかると、その角には死角が生じる。大和は何もないと言ったが、中休みに図書室を去る寸前、聖花はそこに何かを見た気がしたのであった。
聖花は窓際の低い棚の方から近寄り、問題の死角を覗き込む。予想はしていたが、埃が大量に溜まっていた。図書室の掃除は四年生が担当しているものの、さすがに大掃除の時でもなければ、こんなところまでは掃除しないのだろう。
そしてその埃にまみれて、そこにはそれがあった。
「……んっ」
聖花は埃の中に手を突っ込んだ。本棚を動かすことはできないので、背の低い本棚の上から肩より先だけを使って、手探りでそれを掴み、引っ張り出す。
「よいしょ!」
勢いよく手を引き出すと同時に埃が死角から吐き出され、窓から差し込む光の中を舞った。間もなく聖花の顔にも埃が降り注ぎ、独特の匂いと不快感が彼女を襲った。
「うえっ、ぺっぺっ」
顔を顰めながら自分の鼻先を手で払い、落ち着くと聖花は手にしたものを見た。
人形ではなかった。当然、女の子でもなかった。
「……本?」
それは本だった。埃にまみれた表紙を叩くと、また埃が舞い上がった。側にいた六年生が迷惑そうな顔をするが、聖花は構わず本に付着した埃を払う。図書室の本を助け出したのだから、これは我に正義ありと自分に言い聞かせた。
やがて、本の表紙が綺麗になった。半ば隠れていたその表紙は、絵こそないが実に見事な真紅。題名はそこに金文字で書かれていた。
題名は英語で聖花には読めなかったが、それでも感じるものがあった。
「綺麗……」
思わず聖花は口に出す。ただ赤い地に金文字で題名を書いただけの表紙が、聖花にはまるで美術品のように感じられた。
しばらく表紙に見惚れた後、聖花はその本を開いた。どうやら、小説の短編集らしい。紙の状態はあまり良くはなかった。中扉には改めて題名が書かれ、その下に七人の名が連ねてある。これはヘボン式のローマ字であったため聖花にも読むことができた。全員日本人の名で、この七人がそれぞれ短編を持ち寄ったとみられる。
しかしそこで、ふと聖花の動きが止まった。そのまま数秒間固まった後、聖花は急に立ち上がってカウンターに向かう。司書は何やら作業中で、そのため聖花の救出作業には気付かなかったらしい。
「すみません、貸出をお願いします」
「あ、はいはい」
司書が本に手早く貸出期限を記した紙を挟み、聖花は貸出カードに自分の名前を、ゆっくりと丁寧に書いた。
古そうな本ではあったが、聖花より以前にこの本を借りたものはいなかった。
その夜、午前一時頃。
聖花はまだ起きていた。
ベッドに潜り込み、電気屋のキャンペーンでもらった小さな読書灯を初めて使って、必死でページをめくっていた。
面白い。
小学五年生の聖花には難しい漢字もあったが、どうにかこうにか読み進めていく。幸い翌日は休日なので、多少の夜更かしは問題ない。
やがて、聖花のベッドから漏れる明かりが無くなった。
読み終えた。
素晴らしかった。
聖花も小学生としてはそれなりに多くの本を読んできたが、これほどまでに面白い小説は読んだことがなかった。特に、短編集ながら各作品に共通して登場する少女のキャラクターの魅力的なことと言ったら、まるで本当に心を持った少女がそこにいるかのようであった。挿絵もない文章だけの小説がこんなにも人を感動させることができるのだと思うと、聖花はむしろ恐怖さえ覚えた。
まだ興奮の冷めない聖花だったが、そこはまだ小学生の体である。間もなく夢の中へと落ちていった。
不思議な夢だった。
あの少女がいる。
「……」
あの少女が何か言いたげにしている。
「……」
翌朝。
夜更かしをしていたにも関わらず聖花は早く起きることができた。
理由は、何かが自分の体を揺り動かしたからであった。
「ん……」
まどろみから醒めていく聖花は、妙に暖かいものが体に触れているのを感じた。
「……? うっ!」
眼を開いた聖花は、気付いた。
自分のベッドで、自分の隣に眠る者があることに!
「ひっ……きゃぐ!」
慌てて飛び起き、叫び声を上げそうになった聖花の口を、いきなり白い手が塞いだ。
「んっ……!」
必死でその手を振り払おうとした聖花だったが、相手の力が強く抵抗できない。
それでもなお自分の口を押える手を払わんと、聖花が両手でその白い手首を掴むと同時に、静かな、それでいて強い意思の篭った声がした。
「暴れちゃ、だめですよ?」
「!」
声は聖花の布団の中からした。見れば、白い手もそこ中から伸びてきている。
やがてその布団の中から、ゆらりと金髪を揺らして起き上がってきたのは。
「……!」
前日借りたあの本に出てきた、あの少女だった。
「……! ……!」
聖花はもがいた。眼前に在る恐怖に、口を押さえられて息ができない恐怖に、体は無意識に抵抗する。
怖い。怖い。逃げなきゃ。逃げなきゃ。
だが、少女の白い手は変わらず力強く聖花を押し止めたままで、終いには彼女を再びベッドに押し倒してしまった。
「……」
抵抗はできない。呼吸も苦しくなる。依然として恐怖は眼前に在り、聖花の目は大きく見開かれた。
しかし、次の瞬間に少女の顔を見た聖花は、ふと緊張の糸が切れるのを感じた。
少女は微笑んでいた。しかも、母のような慈愛に満ち、父のような優しさに満ちた、平和と幸福を代弁するかのような温かい微笑みで。
すると、少女が口を開いた。
「驚かせてごめんなさい」
「!」
「あなたが私を助けてくれたのよね。ありがとう」
少女は優しい微笑みを湛えたまま言い、押し倒した聖花に体を重ねた。白く細い少女の脚が聖花の脚を絡めとりながら、空いた手で自分の髪を弄ぶ。
「……」
聖花は薄らいだ恐怖に取って代わった混乱に思考を支配され、開いているはずの目にも何も映らなくなっていた。
そんな聖花を見ながら、少女はゆっくりと体をくねらせた。人肌の温かさが聖花の下腹部に触れ、その感触から少女が全裸であることが感じ取れた。
「去年、私は本棚からあの埃まみれの隅っこに落ちて、ずっと助けを待ってたの」
「……」
「あなたのおかげ。ありがとう」
そして、少女は聖花の口から手を放した。聖花はもう暴れておらず、叫び声を上げることもなかった。
恐怖が混乱と優しさに陥落した。
その隙は大きかった。
聖花に覆い被さるようにして体を重ね、今は両手をベッドについて上半身を起こした状態の少女は、その優しい微笑みに、わずかな妖艶の色を溶かし込んだ。
「お礼に、あなたを導くわ」
「導く……?」
聖花は少女の顔を見た。はて、そういえば何故だろう。
あの本に挿絵はなかったのに。
服装や髪型はともかく、顔のつくりまでは聖花が知ることなどできないのに。
何故、この目の前の少女が、あの本に出てきた少女だと聖花は確信できたのだろう。
「あなたは私を助けてくれた」
この顔は、著者が思い描いた顔と同じなのだろうか?
「あなたはこの先、私を使って歴史に名を残す」
否……。
この顔は、聖花が自身で作ったものだ。
聖花自身が心の中に描いた、少女の像だった。
それはまさしく、聖花が放課後の図書室で見た、あの少女で。
Ah... That was an illusion after all...
「『あなたの私』を作っていくの。『あなたの中の私』を、つまりは『この私』を、ね……」
少女は笑った。そして起こしていた上半身をゆっくりと下ろし、はだけた乳房を聖花に押し付ける。
「本当にありがとう。私をこんなに美しく |11vz|0/v してくれて」
少女の顔は聖花の顔と十センチと離れていない。存在しないはずの少女の吐息が聖花に触れ、上気した頬は小学生の聖花にさえ色を感じさせるに十分すぎるほどだった。
「ああ、そうか……あなたがこんなにも美しいから、私も美しくなれたのね……」
そう言って少女は目を閉じ、静かに聖花と唇を重ねた。つい先程までその手で塞いでいた聖花の口を口で塞ぎ、わずかに開かせた隙間から舌を送る。衣擦れとベッドの軋む音に混ざって、聖花と少女の繋がれた口元から、紅く濡れた舌が絡み合う音がする。
やがて離した二人の口と口とに艶めかしい糸が張り、それが滴り落ちると同時に、聖花の思考から恐怖は完全に消え去っていた。
「さあ、おいで聖花……一緒に紡いでいきましょう……あなたと私、あなたの中の私を」
「……」
聖花は小さく頷き、少女の導きに乗った。
鶴崎大和が彼女のアパートを尋ねると、玄関先だというのにまた本が増えていた。
あちこちに山積みにされた、本、本、本。書店のビニール袋と、ネットで購入した商品が梱包されていた段ボールの数々。
大和が片付けても二日経てばすぐにまたこれである。大和も自身の勤めがある関係上毎日来るわけにもいかないので、この部屋が綺麗なままであったのを見たことは一度もなかったのであった。
だからこそ、彼女は大和に合鍵を持たせて、数日に一度来てもらうことで掃除をすることを思い出すようにしているのであった。
「聖花、俺だ。起きてるか?」
大和は無断で上がる。まだ長月だというのに、アパートにはしっかりと暖房が入っていた。
「おいおい聖花、さすがに暑いだろこりゃあ」
言いながら奥の部屋に入ると、そこにはより大量の本が置かれていた。壁一面は背の高い本棚で埋められ、それだけでは収まらず床に平積みされる本の山も、標高一メートルを超えるものが多数。
「うは、また買いも買ったりだな」
大和はスーパーで買って来た食材をてきぱきと冷蔵庫に収めていく。冷蔵庫の中には一万円札が入っていた。
大和がそれを手に取ると、そこでやっと部屋の主が口を開いた。しかし大和の方を向くことはなく、じっとパソコンを睨みつけたままであったが。
「いつもありがとうね、鶴崎くん」
毎度のことながら大和は呆れる。全く、もう二十年も一緒にいるにもかかわらず、いまだに苗字で自分を呼ぶのだ、この女性は。
大和は意を決した。
「なあ聖花……俺と結婚してくれ」
「……」
「俺、お前より収入は少ないけどさ、その分こうしてお前の仕事を支えてやれると思うんだ。実際そうやってきたんだからよ……だから、結婚しよう」
聖花は黙っていた。互いに硬直した時間が流れる。
一分。
二分。
ようやく聖花が口を開いた。
「……一人が結婚して、そして誰もいなくなった。やっぱり死ぬよりそっちのほうがいいよね」
聖花は睨みつけていたパソコンに素早く文字を打ち込んだ。
「ありがとう、大和。私で良ければ、結婚しましょう」
「……ああ」
大和が立ち上がり、聖花も立ち上がった。互いに歩み寄った二人は、抱き合うでもなく互いを見つめて微笑むだけだった。大和から口を開いた。
「お前はやっぱりここが落ち着くか? それとも新居を探そうか?」
聖花が笑いながら答える。
「私たちもう三十だよ。マイホームを買ってもいいんじゃないかな。私お金持ちだし」
「そうか……」
大和もそれなりに収入はあるのだが、聖花には遠く及ばない。どうにも、男としてのプライドが傷付く。
「あ、それとね」
聖花は思い出したように拍手を打ち、大和の背後、部屋の隅を指差した。
「何?」
大和は振り返った。
聖花の指差した先は、部屋の隅に本棚と本棚でできた、四角い死角だった。
大和の脳裏に、一つの光景が浮かんだ。
「あ……」
二十年も前、とうに忘れているのが普通であろう小学生時代の記憶。それが断片的ながらも唐突に蘇ったのであった。
あのとき、大和は何も見えなかったのだが……。
聖花は変わらぬ調子で言った。
「でも……この子も一緒にね?」
大和は、はっきりと見た。
二十年前、見えなかったもの。
断じて人形やぬいぐるみなどではないもの。
御前崎聖花の人生を変えたもの。
金髪の少女はじっと、部屋の隅で佇んでいた。
また本の中で。