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PIRASTRO -E-

作者: 凛音

バチン。


そいつは私の手の中で勢いよく弾けたかと思うと、次の瞬間力なくふにゃふにゃと曲がり、間抜けに垂れ下がった。


「ちくしょー……」


痛みに呻き、目尻に涙を浮かべながら、私はそいつを睨みつけた。ぶっつりと切れた、金色の細い針金。E線が切れたのだ。

掌を見ると、赤い痕が細く残っている。腹が立ち、私はペグを狂ったように回すと、切れた弦を乱暴に外してゴミ箱に投げ入れた。

そしてヴァイオリンを抱きかかえて泣いた。涙が幾筋も幾筋も頬を伝い、ヴァイオリンのネックに落ちる。まずい、また塩を吹いてしまう。私は急いでティッシュを取ると、ヴァイオリンを拭いた。幼稚園の頃使っていた1/4サイズの小さなヴァイオリンには、顎当てのところに白い跡がある。母に叱られて泣きながら弾いた時に、涙が付いて塩を吹いてしまったのだ。


今では大学生になった私にとって、このヴァイオリンは抱くには少し小さすぎる。よく、チェロパートの後輩の木下美穂がチェロにもたれて寝ているのを見るけど、実はかなり羨ましかったりする。あのがっしりしたネックが頼もしくて好きだ。ヴァイオリンの形は女性の身体のラインに模して作られたと言われるぐらいだから、細くて小さくて頼りない。


ひとしきり泣いた後、私は新しいE線を取り出して、丁寧に張り替えた。E線はとても細いから、古くなったり乱暴に扱ったりするとすぐに切れる。コントラバスの有村に言わせれば、コンバスのE線と比べるとヴァイオリンのE線など「納豆のネバネバの糸」のようなものだそうだ。嫌な例えだが的を射ている。



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私が今泣いていた理由は二つ。一つ目は、自分のヴァイオリンの下手さに辟易したから。二つ目は、香山と喧嘩したからだ。


一つ目から説明すると、私は実は五歳の頃からヴァイオリンを弾いている。ピアノもギターも弾けないが、ヴァイオリンは弾けるので、一応音楽的な知識はあると思っている。中学校も高校も管弦楽部に所属していて、ずっとコンサートミストレスという、いわばオケ全体のリーダーのようなものを務めてきた。今だから解ったが、やはり中高のオケなどレベルの点ではたかが知れていた。うちの部活にはファゴットもハープもなかったし、編成もめちゃめちゃだったので、まともな演奏は出来なかった。私はまさに井の中の蛙で、まったく大学のオケを舐めていたのだ。


いざ大学に入り、念願通り管弦楽のサークルに入ったは良かったが、すぐに現実に打ちのめされた。自惚れていた私は、同級生の梨花ちゃんという天才的にヴァイオリンが上手い女の子に出会い、撃沈したのだった。未来のコンミス(コンサートミストレスの略称)は、間違いなく彼女で決定だった。梨花ちゃんはファーストヴァイオリンに、私はセカンドヴァイオリンになった。でも私のちっぽけなプライドはそれを許さなかった。私は猛烈に練習して練習しまくったが、梨花ちゃんは明らかに格が違うということは認めざるを得なかった。


まず何より彼女は、弾き方がとても美しかった。無駄な力やおかしな癖のない、完璧で自然な弾き方をしているのだ。私が血を吐くほど練習しても、彼女の弾き方を会得することは出来ないだろう。あれは天性のものなのだ。

そして弾き方の美しい人で、技術が中途半端な人はいない。難しいパッセージもハーモニクスも、梨花ちゃんは楽しそうに弾きこなしてしまう。音が本当に綺麗で澄み切っていて、彼女の性格のよさが如実に表れている。


でも私はそんな梨花ちゃんがムカつく。どうしようもなくムカつくのだ。


そしてそれよりももっと、どうしようもない自分がムカついた。



だから私は今、部室で寂しく一人で練習していた。指は転ぶしボーイング(運弓法、弓の動かし方)も酷い。見られたもんじゃない。情けなさ過ぎて少し涙ぐんでいたところで、このアホなE線が切れたのだった。




(※ファーストヴァイオリン・セカンドヴァイオリン……オーケストラの中でヴァイオリンの人数が占める割合はとても高いので、ヴァイオリンパートはもともとファーストパートとセカンドパートの二つに分けられています。ファーストは主旋律を、セカンドは低音域を担当することが多く、大学などアマチュアのオケでは、ファーストヴァイオリンパートの首席奏者(トップ)がコンサートマスター/コンサートミストレスになることがほとんどです。)



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二つ目。


香山は同じオケでオーボエのトップをやっている同級生だ。そして私の彼氏でもある。

彼は私のことを「琴音」と名前で呼んでくれるが、私は「香山」という苗字でしか呼べない。周りには変だと言われるが、香山は許してくれるから別にいいかなと思っている。たまーに名前で呼ぶと驚いたような照れたような嬉しそうな顔になるから、それを見るのも楽しいのだ。


香山はさっぱりしたいい性格をしている。頭は結構いいが、運動神経は私と同じぐらいない。ちなみに私は逆上がりも二重跳びも出来ない。

顔は至って普通だ。イケメンでも不細工でもない。背は高くてひょろりとしている。趣味はオーボエ演奏と、パンク・ロックのライブに行くこと。実家は山梨で、一人暮らしをしている。

私が彼を好きになったのは、ひとえにその性格からだ。とにかくさっぱりしていて優しい。細かいことにはこだわらず、かと言って放置し過ぎず適度に構ってくれる感じが、一緒にいてたまらなく心地いいのだ。あと、容貌的には香山のひょろひょろした体格と長くて細い指がかなり好きだ。あ、それとめちゃくちゃオーボエ上手いところも!


付き合い始めたのは一年生の秋からだから、もうすぐ二年目になる。

私も香山も、誕生日とか記念日とかを祝うのが嫌いなので、いつ付き合い始めたのかを二人ともしっかり把握していない。

のんびりとした付き合いだ。大体はオケで会うから、互いに会えなくて寂しくなったことはほとんどない。オケの練習のない日に、二人で何となく遠出してみたり、ライブに行ってみたり、ただ香山の家でぼんやりくつろいだりする日々。セックスをすることはあまりないが、その分やる時は一日中いつまでもやっている。


……こんな話はどうでもいいんだ。


香山と喧嘩したのは初めてだった。原因は私の逆ギレ。ただそれだけだ。香山は真理を突いただけで、何も悪くない。



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さっき、私が練習しているところへ、香山がふらりと入ってきた。


「何だっけ、その曲。誰のソナタ?」

「フランク」

「そうだそうだ。フランクだ。お前ホント好きだなー」


大好きだ。このソナタを嫌いなヴァイオリニストなどいないと私は信じている。オーディションの課題曲でもないのに、私はうっかりこればかり弾いてしまうほどこの曲が好きだ。

私はヴァイオリンを肩から下ろすと、傍らのケースにそっと置いた。疲れていたし、少し休もうと思ったのだ。

すると、香山が私の鎖骨あたりを見て驚いたように言った。


「琴音、それ……」


言われて鏡で見てみると、驚くべきことに血が滲んでいた。ほとんどのヴァイオリニストは肩当てというものを付けるのだが、私は音が籠るような気がして付けていない。だから普段はタオルを当てて弾いている。そうしないと、私のヴァイオリンは金具がちょうど鎖骨に当たるように出来ているので、痛くて仕方がないのだ。だが最近は慣れてきたので、当てるのをサボっていた。まさかこんなことになっているとは思わず、私は驚いたが、心のどこかでそれを嬉しく思っていた。自分の練習量の証であるような気がしたのだ。


「嬉しがってるだろ」


香山がぽつりと鋭い一言を言った。私がちょっと固まっていると、香山は怒っているような目で私を見た。


「何か最近変だぞ。前から練習はすごいしてたけど、最近のお前の音、何か焦ってる。明日コンミスのオーディションがあるからか?」

「うるさいなー、香山は」


私は真相を見抜かれた気がして半ば焦り、そして半ば香山に腹が立った。梨花ちゃんと今更争ったところで、彼女のヴァイオリンこそがコンミスにふさわしいのだということは、この二年間たっぷり解らせてもらってきた。それでも挑戦したいのだ。練習すれば、いつか梨花ちゃんを抜かせるかもしれないと思って、ずっと頑張ってきたのだから。


香山はため息をついた。そのため息が妙に私を苛立たせた。



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「何よ、私は梨花ちゃんに敵いっこないって言うの?」


「そんなこと言ってないだろ。でもそろそろ、固執するのやめたらどうだ。琴音は他のところではあっさりしてるのに、このことになると執念がすごくて見てるこっちが困るよ。二回もコンミスをやってきた琴音にもプライドがあるのは解るけど、別にこだわることないだろ。琴音はせっかくいい音を持ってるのに、そんなに焦ったらもったいないって」


香山の諌めの言葉が逆に私の苛立ちに火をつけ、心の中でやり場のない怒りとなって燻っていく。


「……いい音なんかじゃない」


私は低い声で呟いた。香山は聞き取れなかったのか、え? という顔をした。それが余計に腹立たしく、私は顔を上げていきなり怒鳴った。


「私の音は良くなんかない! 雑だし、汚いし、音程も不確かだし、姿勢もボーイングもなってないし、ヴィブラートの掛け方一つとっても梨花ちゃんにはまるで敵わない……あの子は私が十回やってやっと習得することを、一発で簡単に成し遂げちゃうのよ。そんな子と争うのが愚かなのは解ってるけど、それでも練習せずにはいられない。そうよ、私にだってプライドがあるんだよ……どうでもいいプライドだけど、なぜか捨てられないの。それが私に諦めさせてくれないんだよ。コンミスという座に固執させるんだよ。自分が下手なのは解ってるのに、どうしても諦められない……傍から見ればただのアホなのも解ってるけど、私は自分の下手さを心から認められないんだよ!」


「下手下手言うな、バカ!」


香山が私の声を圧倒する大声で怒鳴った。私はびっくりして黙り込んだ。のんびりとした彼が声を荒らげるのを見るのは初めてだった。


「俺がお前の音が好きなのはおかしいって言うのか? 汚いとか、下手だとか、片桐には敵わないとか……卑屈すぎて聞いてらんねえよ。コンミスが何だよ。客から見れば、ただ舞台の手前ぎりぎりに座ってるだけの存在じゃねえかよ。そんなに見栄ばっかり張ってどうすんだよ。俺なんていつも指揮者から遥か彼方の存在だよ。セカンドのトップやってるだけでも凄いんじゃないのか? そんなお前の様子見たら、お前のこと崇めてる後輩皆離れてくぞ。いつもの……いつもの琴音はどこに行ったんだよ!」


香山はそのまま部屋を出て行ってしまった。後に残された私はただ呆然として、彼の残した言葉の余韻にいつまでも衝撃を受けていた。



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ふと時計を見ると、十時になっていた。私は松脂をふき取ると、こき使ったヴァイオリンをケースにしまって部室を出た。


春の夜の風は涼しく、私の髪を爽やかに揺らしていった。その爽やかさまでもが憎かった。

香山はまだ怒っているだろうか――私は携帯を取り出して見たが、着信もメールも何一つとしてなかった。

落胆しながら携帯をしまった。こちらから連絡を取る勇気はまるでなかった。


これで、終わっちゃうのかな――ぼんやりとそう考えた途端、喉の奥から熱いものがこみ上げてきた。

私は慌てて物陰に隠れると、ヴァイオリンケースを胸に抱えて泣きじゃくった。香山と別れることなど、絶対に考えられなかった。彼の持つ安心感はそれほど大きかったのだと、今更になって実感した。


明日のオーディションなどどうでも良くなっていた。こんな思いになったのは初めてだった。オーディションの日程が発表されてからというもの、それだけに執念を燃やして練習し続けてきたのに、今ではすっかり醒めてしまっていた。香山の言葉がいまだに胸に刺さっているせいもあった。


――俺がお前の音を好きなのはおかしいって言うのか?


思い出して、胸がざわめいた。香山が私の音を好きだと言ってくれたのは、初めてだった。あの言い方からすれば、きっと今まで照れて言いたくなかったのが、咄嗟に出てきてしまったのだろう。もっと前から言ってくれていればよかったのに――私は泣きながら笑った。そうしたら、香山と喧嘩する前に諦められていたかもしれない。


涙に濡れた顔を風に晒しながら、私はヴァイオリンを背負ってとぼとぼ歩いた。どこかのサークルが、ハイテンションで飲み会に向かっているのが聞こえてきた。私はイヤホンを耳にぐさりと差し込み、ウォークマンを再生した。流れてきたのが香山に借りたCDであることを思い出して、また涙が溢れそうになった。



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オーディションは、翌日の朝の十時から行われた。

寝不足の私は、ぼんやりと弓に松脂を塗りたくりながら順番を待っていた。隣の部屋から梨花ちゃんの弾くすばらしいバッハのパルティータが流れてきて、その音のあまりの美しさに思わずうっとりした。やっぱりコンミスはこの人だな、と変に楽な気分になった。梨花ちゃんほど無伴奏を美しく弾く人はいない。今度ぜひイザイの無伴奏を弾いて欲しいと言ってみよう。


部屋から梨花ちゃんが出てきた。心なしか上気した頬をしている。私は「めっちゃ綺麗だった」と小声で言った。初めて、何の卑屈な気持ちもなく、心から賛辞を贈れた。梨花ちゃんは無邪気に嬉しそうに笑うと、頑張れ、というように私の肩を軽く叩いていった。


美しい友情だ――としみじみ浸っていると、「橋本さーん」と、音楽監督の平和な声が聞こえてきた。

不思議な事にちっとも緊張することなく、私はその部屋へ入っていった。


バッハの無伴奏パルティータ第三番、プレリュード。素人が聴けば簡単そうに聴こえるのかもしれないが、これを何の雑音もなく完璧に弾くには、確立された技術と基礎的能力が必要不可欠だ。私には残念ながらいくつか欠けていたので、完璧な演奏からは程遠かった。


それでも、今まで私が弾いたプレリュードの中では間違いなく最もいい演奏だった。肩の力を抜いて、楽に弾く事ができたと自分でも思った。


私は弾き終えると、審査員の先生たちがどんな反応をしているのかなど気にも止めずに、満足して部屋から出て行った。何だか重圧から解放された気がした。セカンドのトップだって、この上なく名誉も責任もある地位だ。それにもう今は地位は気にならない。ただヴァイオリン奏者の一員として、オケの一員として音を奏でられていれば、それでいい――オーケストラというものに入って九年目にしてやっと、私はこの最も正しい真実に辿りつくことが出来た。香山のおかげで――


「ぎゃっ」


誰かが私の手を乱暴に引っ張り、私を変な部屋に無理やり引き入れた。一瞬、部屋の中に山積みにされた汚いダンボールが目に入った。そしてその次の瞬間、懐かしい匂いがふわっと漂い、私を強く抱き締めた。



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「……やっぱ、いい音だった。今までの中で一番良かった」


ぶっきらぼうな声が頭上から聞こえてきた。香山がこんな風に褒めて、こんな風に抱き締めてくれるなんて、十年に二、三度しかないほどレアなことだ。私は嬉しくて思わず笑った。香山は私を離すと、気恥ずかしそうに目を逸らした。


「何を今更照れてんのよ」


私はヴァイオリンを傍らの机に置くと、笑いながら香山に抱きついた。香山の耳が真っ赤になっているのが見えた。


「琴音、昨日俺……」

「ごめんね、逆ギレして」


私は謝った。香山は所在なさげにもぞもぞ動いたが、私は放さなかった。そのうち香山の腕が私の背中に回り、彼は私をしっかり抱き締めてくれた。


「……もったいないけど、今日から名前で呼ぶね」

「ええっ、マジで? ちょっと恥ずかしいかも」


そう言いながらも、香山は嬉しそうだった。私は香山を放すと、オーボエのせいでまめだらけな手にそっとキスした。この手も、真っ赤になった耳も、ひょろりと長い手足も、全てが愛しく感じた。


「好きです、秋宏くん」


私がおごそかな調子でそう言うと、彼は顔を綻ばせた。


「……俺も」










              


                         Fin.

ご読了ありがとうございました。

よろしければ、スピンオフの「INFELD -G-」もどうぞ!

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