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白猫が、昼下がりの町をふらふら歩いていた。
揶揄ではなく、本当にふらふらだった。放っておけば数分後にでもぱたりと倒れてしまいそうな足取りだ。
野良犬にでも襲われればすぐにぽっくりだろう。
猫は歩く。どこへ行こうというのか。
猫自身にも、もうそれは分からなかった。
ただただ歩く。
まだ自分は死ねない。死にたくない。
それだけが明白だった。
「はああ」
ため息が初夏の町に吐き出された。
ため息の主は真次である。
原因は簡単。今日も寝坊して朝の授業をすっぽかしたのである。
彼は自転車に乗って大学からマンションに帰る途中だった。
「やっぱ、二度寝がいけないんだよな」
彼は目覚めてから三十分間、大切なことを思い出せない脳の持ち主だった。
「なんかいい方法はないかな」
くだらない悩みをかかえて、自転車はマンションに向けて走っていく。
猫は歩く。
その目には、もはや何も映ってはいない。
夏の太陽に灼熱したアスファルト。足の裏が熱い。
死にたくない。
自転車は、商店街の交差点にさしかかった。
ほとんど車も通らないような場所だから、真次は減速もしなかった。
なにげなく交差点を通過しようとした、そのとき、白い小さな影が目に飛び込んできた。
「!!」
とっさにハンドルを左に。バランスを崩し、そのままのスピードで対面のガードレールに突っ込んだ。
がっしゃん!
彼は地面にしこたま打ち付けられた。
「いってえ!」
彼は喚いて身を起こした。奇跡的にも、特にひどい怪我は見当たらなかった。
が、 いきなり強いショックを食らったせいで、視界がなんだかぐにゃりと歪んでいる。
「ううう、なんなんだ」
歪んだ視界の片隅に、さっきの白い影が見えた。
猫だ。
「ああ、このクソ猫!痛いじゃないか……って、あれ?」
猫は横になって倒れていた。動いていない。
真次は背筋を冷やした。
ひょっとして、轢いちゃった?
おそるおそる確認してみる。
目立った外傷はなかった。それにさっきも、特に轢いちゃったような感触はなかったし。
「ああ、よかった」
彼は安堵したが、目の前で猫が倒れているという事実を思い出して思案した。
「生きてるか?」
とりあえずよく見てみる。おなかの辺りが一定のリズムで動いている。
息はあるようだ。
「どうしよ?とりあえず、近所の獣医にでも…」
「水……」
「あ、水か。ちょっと待ってよ」
彼は倒れた自転車のかごから鞄を引っ張り出すと、ペットボトルを取り出して猫の口にあてがった。
ちょっとずつ傾けてやる。スポーツドリンクが口の周りに滴った。
小さな口がもにょもにょと動いて、水を口腔に流していった。
「ん?」
真次はなにかちょっとした違和感を覚えたが、気にしないことにした。
まずは人命救助が先だ。猫だけど。
しばらくそうしながら、彼は昔のことを思い出していた。
思えば昔から猫が好きだった。
幼稚園の頃から目に付いた猫の後を追いまわしては迷子になっていた。
そのたびに大泣きして、大人に救助されたものだった。
大泣きしてる最中、おしっこが我慢しきれずにスプラッシュしてしまったこともある。
懐かしいなあ。
真次は遠い目をしたが、それがいい思い出と言えるかどうかは微妙なところだった。
十五分ほどたった頃、ようやく猫は活力を取り戻した。まだ頼りない動きではあったが。
「ふう、よかった」
猫好きとしては感慨深い。
「ああ、助かったわ。あんがとね、兄ちゃん」
「ああ、気をつけろよ」
真次は手を振る。猫はすぐそばの垣根の中に消えていった。
「?」
何か強い違和感を再び覚えたが、彼は気にしなかった。
理由は二つ。
大破した自転車が目の前に倒れていること。
そして彼の脳みそが、人並みに稼動していなかったことである。