最終話 淡い想いのゆくえ
「いい匂いがするね、美沙ちゃん」
薫は美沙と並んでファーストフード店の表通りに面したカウンター席に腰掛けながら、さりげなく言ってみた。
いつものように美沙の事務所を訪ねたところ、一階の入り口でバッタリ出くわし、すぐ横のこの店に入ったのだった。
ガラス越しに、正面の歩道を見つめ、美沙は柔らかく笑った。
「分かる? 昨日、春樹がプレゼントしてくれたの。誕生日だったから。今までそんなことしてくれたこと無かったから、びっくりしちゃった」
「へえ、香水を? いいチョイスだね」
「なんだか、あの子らしくないでしょ? でも、いい香りなんで、気に入ってる」
美沙は今日ばかりはいつもの堅い鎧を外し、若い女性のフワリとした色気を纏っていた。
きっとそれは、春樹の贈り物のせいなのだろう。
薫は満足でもあり、少々複雑でもあった。
2日前、春樹が「付き合って欲しい」と言ってきた買い物とは、まさにこれ。
美沙へのバースデープレゼントだった。
『美沙くらいの歳の人って、何をプレゼントすればいいのか分からなくて・・・』
少し照れながら、少し不安げに、春樹は薫に言ったのだ。
正直がっかりもしたが、美沙は春樹にとって上司という以前に、一番世話になっている姉がわりの人間だ。
その彼女に感謝の気持ちを記したいのだ。なんという純真。
薫は無難なところで香水を薦めてやった。
ランバンのエクラ・ドゥ・アルページュ オード パルファム。
優しく柔らかで、透明感のある香りは、女性にとても人気だ。
最初こそ自分の思い違いに凹んでいた薫だったが、嬉しそうに礼を言う春樹はとても可愛かったし、夕食を奢ってやると、始終楽しそうにいろんな話をしてくれた。
それは薫自身も少年にもどったような高揚感のある、至福の時間だった。
「春樹は良い子だな。純粋で、真っすぐで」
薫がそう言うと、美沙も口元をフッと緩めた。
手を伸ばして、それがまるで春樹自身ででもあるかのように、カウンターに乗ったホットコーヒーを優しく両手で包み込む。
「ええ、そうでしょ。だから放っておけなくてね」
美沙の言葉には、薫の想像の及ばない『何か』を感じたが、薫はそれ以上詮索するのをやめ、黙って正面の街路樹を見つめた。
白に黒ブチの痩せた猫が、ゆるりゆるりと街路樹の下を歩いてゆく。
それを目で追いながら、薫はふと思い立ち、美沙に訊いてみた。
「そう言えば、春樹って、ひどい猫アレルギーなんだってね。大変だろうな、この辺ノラ猫多いから」
「え?」
美沙はキョトンとした顔で薫を見、カップから手を放した。
「春樹が?」
「知らない? 猫を飼ってる人に触っただけで、もうダメらしいよ。俺、猫飼ってるからさ、まるで病原体のように距離を置かれたよ。あれってさ、治療して治らないもんなのかね。将来恋人ができたとして、そいつが猫飼ってたらどうすんだ? 大変だよ」
俺の心も疼いて大変だよ・・・とはさすがに言えず、薫はそこで止めた。
美沙は美沙で、薫の顔を気の毒そうにじっと見つめ、固まったままだ。
そのあと、ひとつ大きく息を吸うと、「そうだったかもしれないわね・・・春樹」と、ポツリと呟いた。
「美沙、俺の猫いらない?」
冗談っぽくそう言うと、美沙は笑って「要らないわよ、バカ」と返してきた。
そりゃそうだよな。おれも手放せない。
ひとつため息をついて薫は、まだ目の前で街路樹の根元に座り、顔を洗っている野良猫を見つめた。
人慣れしているらしく、道行く人に怯えるそぶりは無く、頭をなでて行く通行人には、好きにさせている。
何人かの若者をやり過ごした後、野良猫はクイと頭を上げた。
その視線の先に、一人の少年。
少年は自然な仕草で猫の横にしゃがみ込むと、その頭をなで始めた。
飲んでいたコーヒーにむせる美沙。
薫は危うくアイスティをひっくり返しそうになった。
「春樹・・・」
薫は目の前の出来事を理解しようと小さく呟いたが、それはかなり難しい作業だった。
ヒタヒタと、絶望感が胃の当たりから広がっていく。
「春樹は・・・・・・猫アレルギーでは、・・・ないんだね」
喉から漏れる空気のように、やっとの事で薫がそう言うと、横で美沙が慌てたように薫を覗き込んできた。
「違うの! ・・・ええと、きっとあれは、あの野良猫が特別な猫なのよ。あの猫だけ、きっと大丈夫なのよ。そうよ、きっとそうよ」
こんなに慌てて慰めてくる美沙を、薫は初めて見た。
「そうかな」
「そうよ、きっとそう」
「うん・・・。美沙ちゃんがそう言うのなら、そんな気もしてきた。春樹はうちのヒマラヤンはダメなんだ」
「そうでしょ?」
なんとも滑稽なやり取りだったが、取りあえず薫はその方向で落胆を鎮めることにした。
そうでもしないと、悲しくてやり切れない。
春樹が嘘をついて、自分を遠ざけるなんて、思いたくない。
2日前、あんなに親しげに懐いてきてくれた春樹が。あの笑顔が嘘だなんて思いたくない。
猫が何だ! アレルギーが何だ! なあ、そうだろう? 春樹。
薫は自分を励ますように心で叫び、ガラス越しの春樹を見つめ続けた。
横で美沙が、この状況を笑って良いのか、悲しんであげればいいのか分からずに、困惑していたことなど、つゆほども知らず・・・。
(END)