第6話 ラブホテルの前で
薫がぶつかったのは、まさに尾行中の鈴木だった。
薫も思わず「あ」と、漏らしそうになった声を飲み込んだ。
「すみません、大丈夫ですか? ごめんなさい、いきなり飛び出して」
冴えないが人の良さそうな表情で鈴木は薫に詫びた。
その横には、さっきのヒョロリとした中年男も所在なさげに立っている。
その男もやはり気が弱そうで、しきりに目を泳がせ、気まずさを物語っていた。
それはそうだろう。
“休憩1時間3000円から”などと書かれた看板の横で、どんなすました顔ができよう。
薫は驚きと、納得と、自分の失態への後悔が同時に頭の中でマーブル状になる中、取りあえず落ち着いた声を絞り出した。
「いえ、私の方こそ不注意でした。申し訳ない」
そう言っては見たものの、その場はなんとも奇妙な空気で満たされ、4人を動けなくした。
薫は気まずくて後ろの春樹を振り向くことも出来ないほど動揺していたが、すぐにそのターゲットから「じゃあ」と、立ち去るのもどうかと思った。
自分は、徹底的現場のまっただ中にいるのだ。
宝探しに来た盗賊が足を取られ、うっかり落ちた穴が、たまたま宝の埋蔵場所だったのだ。
しかしその後、意外なことに鈴木が口を開いた。
「残念ですが、今、満室のようですよ。他を当たった方が良さそうです。お互いにね」
ねぎらうようにささやかれたその言葉と優しげな笑みが一瞬理解出来なかった薫だが、意が通じるやいなや、咄嗟に頭の中でボンと何かが弾ける音を聞き、春樹を振り返った。
春樹は相変わらず寝ぼけ顔のクマを抱き、キョトンとした顔で薫を見ている。
「い、いや、そうじゃないんです。俺たちは・・・」
咄嗟にそう弁解しようと再び鈴木に向き直ったが、更なる優しげな言葉が鈴木の口からこぼれた。
「だけど、気をつけた方がいいですよ。その子未成年でしょ? けっこう補導員が目を光らせてますからね、この界隈は。見つかれば、面倒なことになりますよ。何より、その子を傷つけないためにも、くれぐれも・・・ね。まあ、同じ穴のムジナが、えらそうに言えた義理じゃないですが」
鈴木は慈愛に満ちた笑みを薫と春樹に投げかけると、連れの男と共にゆっくりと去って行った。
その姿が角を曲がって見えなくなる頃には、薫の肩には『敗北』の二文字がズンとのし掛かっていた。
調査員としての敗北。そして、男としての敗北。
世間的には罵られて当然の不貞を働いてはいるのだけれど、何故か鈴木にはモラルを越えた人間愛、恋するものとしての達観が感じられた。
「まだ追いますか?」
春樹がそっと声を掛けてきた。
「いや、もう終わりだ」
「え・・・でも」
「鈴木の嫁は、鈴木に『女』がいるかどうかを調査しろって言ったんだ」
「でもそれは・・・」
困惑したように見上げてくる春樹の目を見つめながら、半ば薫は懇願するように返した。
「すまない春樹。俺はあの男達を写真に撮れない。報告できない。調査員失格だ。一番やっちゃいけない依頼人への裏切りだ。最低だよまったく。俺がやらなくったって、他の調査員がきっと付きとめるだろうに・・・。なさけない。言い訳はしないよ。俺は偉そうに、君に先輩面できるような調査員じゃない。・・・ごめんな、春樹」
本当に情けないほどすらすらと敗北の言葉が出てきた。
自分の弱みを見せないのがダンディズムだと信じている自分が、どうしたと言うことだ。
薫は春樹の視線を感じながら、しだいに肩が落ちて行くのを止められなかった。
春樹はきっと失望していることだろう。
薫は目を上げるのが怖かった。
「薫さん、行きましょう?」
ふいに春樹のカラリとした明るい声が降ってきた。
「・・・え」
「もう仕事の時間は終わりです。ほら、買い物に付き合ってくれるって言ってくれたでしょ? 僕、楽しみに待ってたのに。・・・違うんですか?」
顔を上げると、相変わらず秋の陽射しを受けて天使の輪を光らせながら、屈託のない笑顔で春樹が薫を見つめていた。
薫の弱腰の選択に、正しいとも違うとも言わず、世俗の汚れの届かぬ所からそっと手を差し伸べてくれているように見えた。
思わず手を伸ばしそうになったが、思いとどまった。
そうだ、俺は猫を飼っている。
春樹に触れられない。
これも神の意志か。
春樹は聖域なのか。
俺が触れていい存在ではないのかもしれない。
ぎこちなく手を引っ込めると、薫は心の中だけで小さくため息をついた後、精一杯笑顔を作った。
「よし、春樹。どこに行きたい? 買い物なら、どこでも付き合ってやるぞ。そのあとは・・・遅くならないうちに帰れ」
そう薫が言ってやると、春樹はうれしそうに頷いた。