第2話 尾行
「・・・猫?」
猫がいったいどうしたと思いながら春樹を見ると、その目はまるで一か八かの勝負に出たと言わんばかりの真剣な光を宿していた。
「ああ、猫なら飼ってるよ。ペット禁止のマンションなんで、内緒だけどな」
「やっぱり?」
春樹は一瞬ホッとしたように息を吐いた。
「猫がどうかしたか?」
「あの、僕、猫アレルギーなんです。だから猫を飼ってる人に触れられると、蕁麻疹が出てきてしまって」
「ああ・・・それで?」
それであれほど避けられたのか。
なるほど、薫のスーツにはほんの数本、白いヒマラヤンの毛がついていた。
薫は自らも安堵した表情を浮かべ、横に座る少年を見た。
「だけど、そんなに酷いもんなのか? 猫アレルギーって。俺、手はちゃんと洗ってるぞ?」
「・・・ごめんなさい」
春樹は気まずそうに視線を泳がせた。
その白く柔らかそうな頬や首筋の皮膚は少しもアトピー体質には見えなかったが、きっとそれは本人の努力に寄るものなのだろうと、薫は納得した。
「ふーん、大変だな。そう言うことなら気にしなくていいさ。しかし俺もさあ、猫ってそんなに好きじゃないから、飼うつもりなんか無かったんだけどな」
「へえ・・・。じゃあ、どうして?」
「知り合いの水商売の女が急に飼えなくなったとか言ってさ、俺のマンションのドアの前にこっそり捨てて行ったんだ。バスケットに『お願いしま~~す』ってメモだけ付けて、トンズラ」
「それだけ?」
「ああ、それだけ。けど、飼ってみたら意外と可愛いもんだな。あいつが待ってると思うと、帰るのがちょっと楽しい」
薫が少し笑いながらそう言うと、春樹はふっくらと桜色をした唇を少し開いたまま、じっと薫の目を見つめてきた。
アーモンド形の優しげな瞳に、純真な喜びが浮かんでいる。
「優しいんですね。薫さん。なんか、嬉しい。・・・そう言う人、好きです」
一瞬薫の心臓が跳ね上がり、体中が発汗した。
いったいこいつは、唐突に何を言い出すんだ!
慌てて視線を書店の入り口に戻した。
「くそっ。まだ出てきやしない!」 苦し紛れに、そう毒づいてみた。
取り乱したよう見えはしなかったろうか。
横で春樹がふわりと笑ったような気がしたのは気のせいだったのだろうか。
「え・・・と。春樹くんはどっかに行く途中?」
話を切り替えようとして薫は切り出した。
「ええ。ちょっと買い物に」
「へ~、一人で?」
「はい。友達とは、なかなか休みが合わなくて」
「そうか。君の友達はほとんどが大学生だもんな。ちと、さびしいな」
「いえ、そんなことはないです。僕が望んだ事ですから」
「・・・そうだったな」
春樹の家の事は兄の聡から聞いて知っていた。
こうやって話している分には信じられないほどの悲しい事故によって、家族と死別している。
ほんの3年前だ。
この少年に会っても、それを思い出して変に気を遣ってしまうことが無いのは、この少年から伝わる前向きなエネルギーのせいだろう。
無闇に哀れんで気を遣うのは、かえって失礼なことだ。
薫は早い段階でそう割り切って、努めて自然に春樹と接していた。
「あーー、くそっ。こんないい天気に、俺はなんだってあんな中年男のケツを追っかけて過ごさなきゃいかんのかなあ。あの書店に鍵掛けて出られないようにしちまおうか。でもって、俺は春樹君の買い物に付き合うんだ」
「そんなこと言ってるとまた立花所長に怒られますよ」
春樹は可笑しそうに笑った。
「兄貴は俺に小言言うのが趣味だからいいんだよ。大体だな、あの鈴木が浮気なんかしなきゃいいんだ。コソコソ浮気なんかするから、俺が忙しい目に遭う」
「その理屈、ちょっと変だけど・・・」
「そもそも、浮気したって女は女。あの男が家で虐げられてる事には同情するが、そんな根性でつかむ女は十中八九、鬼嫁と大差はないさ。女なんて皆、似たり寄ったりなんだって」
「へえ・・・。薫さんがそんなこと言うなんて。女の人、すごく好きなんだと思ってた」
春樹は少し驚いたように薫を見つめた。
「いや、・・・鈴木の話だよ。俺みたいな独身男はまた別さ。志が違う」
よく分からない言い訳をしながら、薫はなんとか誤魔化した。
気を許すとつい、墓穴を掘ってしまう。
「でも、浮気現場を押さえなきゃ成功報酬が貰えない僕らの仕事って、考えたら悲しいですよね。現場を捉えても、どちらも幸せにならない気がする」
春樹が声を沈ませ、向かいの書店に視線を置きながらポツリと言った。
「まあね。それで食ってる以上仕方ないさ。世の中汚れ役も必要なんだって割り切らなきゃね。ともかく、しがない調査員の俺には本日、あのサラリーマンの尻を追っかけるコースしか用意されてないってわけ」
「僕としては・・・」
「僕としては?」
「あの鈴木さんにずっと書店に居てもらって、清く一日を過ごしてもらいたい。そしたら薫さんに買い物、付き合って貰えるのに」
カーンと何かで頭を殴られたような衝撃があった。いや、鐘が鳴ったのか。
春樹、今のは何のつもりだ。どういうつもりでそんなことを言った?
薫は聞かなかった振りをして視線を前の車道に走らせたが、じわりと滲み出した汗に、ぶるりと体を震わせた。
「あ、あの人?」
いきなり春樹が声を殺して言った。
書店の入り口を見ると、出てきたのはまさしく鈴木だ。
しかしどうやら連れがいるらしく、鈴木のあとから、やはり冴えない風体のヒョロリとした男がついて出てきた。
「春樹、行くぞ」
薫はさりげない仕草でコーヒーのカップを横の屑かごに放り込むと、立ちあがった。
「・・・え?」
「尾行、尾行」
「なんで僕も?」
「いいから。ほら、騒ぐと気付かれるよ。いずれ浮気調査も導入するんだろ? 予行演習だよ」
「はあ・・・」
無茶苦茶な冗談だったが、驚いたことに、春樹は素直に立ち上がった。
“お? 本当に付いてくるのか?”
薫の心の声が聞こえたのか、春樹は薫の目を見て小さく頷いた。
おーっし。いいぞ、面白い。
今日の尾行は空振りかもしれないが、退屈だけはしなさそうだ。
薫はにわかに嬉しくなって、道の向こう側に顔を向けたまま、ニタリと笑った。