第1話 雑踏に咲く花
立花薫はファーストフード店のテラスの椅子に座り、ただ熱いだけが取り柄の薄いコーヒーをチビチビ啜った。
狭い道路を挟んだ向かい側には小さな書店があり、その入り口を見張りながら、もう45分が過ぎた。
尾行中の男は本の虫なのだろうか。出てくる気配が無い。
うんざりする思いで薫はまたひとつため息をついた。
本日のターゲットはしがない42歳のサラリーマン、鈴木。
一目で恐妻と分かる妻からの浮気調査依頼だった。
『このまえ携帯にロック掛けてたんで叱り倒したら、こんどは携帯変えてきやがってさ。あれは巷で人気の“浮気ケイタイ”なのよ。二重構造になってるヤツ。あのバカ、私が知らないと思ってやがる。
最近じゃ休日には一時も家に居ないで出歩いてるし、100%女がいるのよ。あんな裏なりのヘチマみたいな顔してさ。証拠突きつけて慰謝料でもふんだくってやんないと、気が収まらないのよ!』
あれだね、奥さん。それは愛故の嫉妬なんてもんじゃなくて、ただ支配欲の誇示だね。
サル山のサルのほうが、あんたより何万倍も気高い。
そんなことを腹の中で呟きながら、2日前、薫はその依頼を(しぶしぶ)請け負った。
過去、二度ほど尾行中に不審車両の通報で警察沙汰になった薫は、それ以来、車での尾行は一切やめた。
今回のターゲットが滅多に車に乗らない男で助かったが、こうのんびりとした移動に付き合わされては、暇で仕方ない。
特に精神がナーバスなこんな日は、何かしていないと嫌なことばかりが頭をぐるぐると巡る。
『私だからダメなの? それとも“女”がダメなの? どっちにしたって馬鹿にしてるわ!』
昨夜浴びせられた言葉が不意に脳裏に沸き上がり、薫はがっくり肩を落とした。
『いや待て! そうじゃない。そんなはずは無いんだ』
ホテルの部屋を出ていく女の背に、素っ裸で掛けた自分の言葉。その情けない状況を思い出すたび、ますます気が滅入った。
“そんなはずじゃない”
こんな滑稽な言葉があるだろうか。じゃあ、どんなはずだったのか。
確かに彼女にはすまないと思った。
出会った時、いい女だと思ったのだ。もしかしたら、今度こそこイケるかもと。
そう思う事にときめいた。自分はちゃんと女を愛せるのだ、と。けれども、身体は残酷だった。
バリバリ仕事をこなし、男からも女からも信頼と好感を得、幸せな家庭を持ちつつも、たまには健全に羽目を外す。
それが自分の描いていた理想では無かったか。
いや、違う。
それは、「そう有らねばならぬ」という馬鹿げたひとつの強迫観念だったのだ。
実際の自分はまるで違う。早くに気付いていた。
けれども自分の中に染みついた安っぽい虚栄心が、常に三文芝居を演じさせた。
“自分は女好きのプレイボーイなのだ”
いつしか自分がノーマルでありたいのか、ただそれを知られたくないだけなのか、分からなくなった。
そして今日も不毛な溜め息に暮れる。
薫は自分の中の澱んだ空気を排除するべく、正面の書店入り口をじっと睨みつけながら、大きく深呼吸した。
ふとその時、目の端に見知った人物を見つけ、薫はテラスの前の歩道に目を移した。
男でも女でも似合いそうな、フード付きチェックのシャツを着たその少年は、時折街路樹のハナミズキを見上げながら、柔らかい光を浴びて雑踏の中に咲いていた。
殺風景な美沙の事務所に居るときには見せない少年らしい瑞々しさを、太陽の下では惜しげもなく開放している。
今日は休日なのだろうか。
「春樹くんじゃないか?」
声を掛けると、春樹は驚いたように薫を見、一瞬辺りを見回した後、少し戸惑った笑顔で近づいてきた。
「こんにちは。薫さんもお休みですか? 一人でこんな所に来られるんですね」
「似合わない?」
「いえ・・・そんなこと」
薫は今日の自分の装いを見た。
確かにイタリア製のぴしりとしたダークブラウンのスーツは、中高生で賑わうこんな店の前では浮くのかもしれない。
「なるほど。尾行するには不的確だったかな?」
「尾行中なんですか!?」
春樹は驚きの声を上げながらも、そのトーンを抑えた。
そしてさり気なく、目だけで四方を伺う。
「大丈夫。本日の俺のお相手は今、あの向かいの書店の中なんだ。もう小一時間も出て来なくてね。退屈至極。あと一時間も居座られたら、俺はここで石になっちまうよ」
「素行調査ですか?」
「不貞のほう」
春樹はちらりと書店に視線を送った後、薫の横の椅子に腰掛けた。
「美沙が言ってました。そのうち鴻上支店も行方調査だけじゃなくて、素行や浮気調査もしなきゃいけなくなるから、その覚悟しといてって。大変なんでしょうね」
春樹はそう言うと、椅子の背に体を沈め、前の通りに視線を移した。
美沙の名を出した時、その綺麗な目に憂いが浮かんだように思えたのは、気のせいだろうか。
白くキメの細かい少女のような肌と、色素の薄い、琥珀色の瞳、長い睫毛。
そう言えば美沙がうらやましいと言っていた艶やかなストレートの亜麻色の髪。
何気なく、吸い寄せられるように細い顎のラインを見ていた薫は、小さな耳たぶにホクロを見つけた。
「ピアスみたいなホクロがあるね、君」
少しふざけた調子で言い、何気なくその耳に手を伸ばした瞬間、春樹は弾かれたように立ち上がり、体を離した。
まるで怯えたウサギだ。
ガタリと椅子が大きな音を立て、近くに座る数人の客がチラリと視線を向けた。
「え…」
驚いて声を出したのは薫の方だった。まさかそこまで引かれるとは思っても見なかった。
こんなじゃれあいは、いつものことだった。
「いや、ごめん春樹くん。なんか…驚かせた? 別に変なことしようと思ったわけじゃないから」
慌てて薫が弁解すると、春樹も申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんなさい。そうじゃないんです。僕もつい・・・」
春樹はその後の言葉を探すように、薫の胸あたりに視線を泳がせていたが、そのうち小さな声で、ためらいがちに呟いた。
「薫さん・・・。猫、飼ってますか?」