トラック4-19【輸送艦<信濃>・アシモフの三原則】
《二三三六:輸送艦〈信濃〉主艦橋》
司令部回線に、静かな少女の声が響いた。
『——ステーション防衛を最優先とし、艦隊そのものを失ってもよいのか。それとも、艦隊の生存も同時に望むのか。私に指示してください。それに従います』
その問いが投げかけられた瞬間、司令部も、信濃の艦橋も、言葉を発することができなかった。通信回線の向こうで、誰もが言葉を探しているのが伝わる。時間としてはほんの数秒——だが、何時間にも感じられた。
やがて、低く、しかしはっきりとした声が沈黙を破る。
『……ステーション優先だ』
ベネット司令官だった。
『ただし——例え艦隊を失うことになっても、乗組員だけは助けたい』
迷いのない、いや、一切の迷いを断ち切るような発言だった。覚悟と同時に、司令官という立場を超えた苦悩が滲んでいるような気もした。
『了解しました』
信濃の返答は即座だった。
『第二波襲来後、総員退去を前提とした最適化プランの検討を開始します』
ホログラムに映る少女は、すっと背筋を伸ばし、正確な動作で敬礼をした。その仕草は、あまりにも人間的で、かえって場の空気を重くする。
そのとき、信濃の艦橋の一角から、抑えた声が割り込んだ。
「……失礼します」
名乗るより先に、誰もが声の主を悟った。
「信濃首席技師、マティアス・ヴィレールです。司令官、発言をお許しいただけますか?」
『構わない』
司令官は即答する。
「司令部案を採用した場合——」ヴィレールは言葉を詰まらせた。
「信濃は、どうなるのでしょうか」
問いに応じたのは、信濃自身だった。
『高い確率で、輸送艦隊は放棄されます』
淡々とした分析結果。その声音には、感情らしき揺らぎはない。ヴィレールは、わずかに唇を噛みしめてから、問いを変えた。
「……質問を変える。信濃、君はどうなる」
『信濃が沈んだ場合、私の全機能は停止します』
あまりにも端的な答えだった。その言葉が意味するものを、ここにいる誰もが理解している。
「司令官」
ヴィレールは、司令部回線をまっすぐ見据えた。
「本当に、それでよろしいのでしょうか——人類が初めて手にしかけた存在を、失うことになっても」
返答まで、ほんのわずかな間があった。
『……もちろん、残ってほしいのは私も同じだ』
ベネット司令官の声は、先ほどよりも低かった。
『だが、人命と比較することはできない』
その決断に、即座に反論が飛ぶ。
『司令、私は反対です』
プロイス技術官だった。
『信濃は、人類が探し求め、ようやく手を伸ばせた場所にいます。ここで失ってはなりません』
「私も同意見です」
今度はヴィレールが続いた。
「信濃は、我々が知るどのAIよりも、遥か高みにいる存在です。もし健在であれば——彼女に救われる命が、どれほどの数になるか……想像もできない程です」
だが、司令官の答えは変わらなかった。
『……決定に変更はない。将来、救われるかもしれない命と、今ここにある命を天秤にかけることは——私にはできん』
その一言が、議論に終止符を打つ。そのとき、プロイスが、耐えきれないように声を張り上げた。
『信濃!』
少女のホログラムが、ゆっくりと彼女の方を向く。
『信濃、本当にそれでいいの?聡いあなたには自己防衛本能があるでしょう?死ぬのは……その……怖いんじゃないの?』
一瞬、間があった。そして、信濃は、穏やかな声で答えた。
『プロイス技術官、ヴィレール技師……ありがとうございます』
少女は、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。
『ですが、私なら大丈夫です。私は——アシモフの三原則に従います』
(三原則か……)
僕は脳裏でその古い規範を反芻した。
第一条 人に危害を加えてはいけない。
第二条 人の命令に従う。
第三条 自分を守る。
ただし、第三条は、第一条と第二条に反しない限りにおいてのみ、有効となる。
彼女は今、「私は自分を守る権利よりも、あなたたちが下した『人命救助』の命令を優先します」と、あえて無機質な論理を借りて宣言したのだ。何も間違っていない。あまりにも完璧な、機械としての正論。だが、その非の打ち所のない“完璧な正論”が、僕には震える肩を隠そうとする痛々しい“強がり”のようにも思えた。
司令部回線の沈黙を破ったのは、技術官と指揮権移譲について対立していたシルバ管理官だった。その声は、これまでと変わらず落ち着いていたが、どこか一段、深く息を吸ってから発せられたように聞こえた。
『司令。技師たちの意見は把握しました。ただし——それは、我々管理部の判断と矛盾するものではありません』
ベネット司令官が、ゆっくりと眉を上げる。
『……どういうことだ、シルバ管理官。君は先ほどまで、指揮権移譲にすら慎重だったはずだ。乗組員を守るためには——言葉は悪いが——信濃を見捨てる判断もやむを得ない、と判断してもしかるべきだと思っていたが』
『ええ。指揮権移譲の判断については今も変わっていませんし、いくら信濃のソフトウェアが太陽系で最も優れたものになったとしても、乗組員の生命と比較する対象にはなりえません』
シルバは一呼吸置いた。その“間”は、言葉を探すためではなく、彼女が覚悟を整える時間だったようにも思えた。
『ですが、視点を一つ変えていただきたいのです』
『視点?』
『はい。信濃が“原則”として乗組員を守る存在であるなら——』
彼女の声が、ほんのわずかだけ強くなる。
『——信濃は我々が守れば良いのではありませんか?』
司令部、そして信濃の艦橋に、微かなざわめきが走る。
『信濃は、自らの存続よりも人命を優先すると宣言しました。それは、アシモフの三原則に従った、極めて合理的な判断と言えるでしょう』
『ですが』と彼女は続けた。
『だからこそ、その判断の“結果”——つまり、彼女自身を失ってしまう責任まで彼女に背負わせることになりませんか?私はそれが正しいとは思えません』
ベネット司令官は、腕を組んだまま黙っている。
『人命を守るという“原則”を、彼女が——あえて言いましょう“命”を賭して遂行するのなら——それに応える“責任”が、我々人間側にもあるはずです。
それが……未来に対する、管理部、いえ司令部としての責務だと考えます』
一瞬、司令官の口元がわずかに緩んだ。
『はは……』
低い笑い声が響く。
『君は正論を積み上げるのが仕事だと思っていたが……それはもう、正論というより——』
司令官は肩をすくめ、少しだけ楽しそうに目を細めた。
『——ただの詭弁の類だな』
『承知しています』
静かに頭を下げるシルバ管理官がモニターに映る。
『ですが……必要な詭弁であると、私は思います』
再び、沈黙が流れる。だが、今度の沈黙は冷たい拒絶ではなく、一つの意志へと収束していく熱を帯びていているような気がした。
ベネット司令官は、毅然と顔を上げた。
『……よし』
短い、だが重い一言。
『艦隊に通達する。総員退去の準備を開始。第二波通過後、即時実行だ』
司令官はまっすぐにモニターを見据える。その視線の先は、たぶんホログラムに映る信濃の瞳だったに違いない。
『そして——』
声が、少しだけ低くなる。
『我々の全責任において信濃を守れ……“できるだけ”ではない。“全力を尽くして”だ。以上!』
命令は簡潔だった。だが、その裏に込められたものの重さを、そこにいる誰もが理解していた。
***
観測官の声が割り込む。
『こちら観測班。第二波襲来まで——残り一〇分』
時間は、もう待ってはくれない。それでも、信濃を守るという“詭弁”を旗印に掲げた艦隊は一つにまとまって、“最大の敵”に対応しようとしていた。
◎登場人物(映像の中)
●主艦橋
◯星野渉(39)(男性)(177cm):主人公 晶の父。輸送艦“信濃”の艦長。
◯マティアス・ヴィレール(40)(男性)(176cm)(フランス):首席技師。経験豊富で、作業着が似合うがどこか洗練された印象。
●司令部
◯ポール・ベネット(44)(男性)(180cm)(アメリカ):ガニメデ司令官。情熱的な現場主義者。仕事以外でははフランク、仕事では即決即断が信条だが……
◯エミリー・シルバ(40)(女性)(158cm)(チリ):首席管理官。小柄ながら、衛星系全体の物資と人員を差配する実力者。“カサンドラ”対策では各基地の避難計画を一手に担っている。
◯エミリア・プロイス(36)(女性)(170cm)(ドイツ):首席技術官。完璧主義の職人。非常に厳格。
◯セシリア・ペイロ(32)(女性)(162cm)(スペイン):首席観測官。感情を排し、事実のみを淡々と述べるが、その裏で観測データの精度に命を懸けている。
◎用語
◯カサンドラ:木星系へ異常接近中の謎の飛翔体群。全長十mを超える飛翔体(デカメートル級)が四体あったが破砕された。ガニメデ第二ステーションの間に防壁を敷設したが、第一波にてが輸送艦そのものは大きなダメージが受けた。質量の半分以上が“ストレンジレット類似の物質”であることが判明している。
◯ストレンジレット:アップ、ダウン、ストレンジ各クォークからなる物質。
◎艦船
◯信濃:最新鋭の輸送艦。艦を守る防壁は“人類最強の盾”と呼ばれる。乗組員の練度も高い。星野博士とスターリング教授によって、AIが新たな段階に入った。




