トラック4-17【輸送艦<信濃>・目覚め】
《二三一八:輸送艦〈信濃〉技術室》
低く唸る冷却ファンの音。周期的に刻まれるリレーの作動音。端末が発する、抑えられた通知音。それらが重なり合い、技術室には機械特有の“音楽”が流れていた。
配管とケーブルは装飾もなく無骨に露出し、壁面にはホログラムパネルが浮かぶ。そこには手書きのメモや数式が無秩序に並び、取り囲むように端末が配置されている。
(ここが……技術室なんだ)
僕は映像を眺めながら、なんとなく学校の技術家庭室や視聴覚室を思い出していた。ただし、そこにあるのは工作や教材ではなく、第二ステーション存亡を左右する機器たちではあるが。
***
中央に据えられた二つの端末には、母とスターリング教授が並んで座っていた。二人は互いに画面を覗き込み、ほとんど間を置かずに言葉を投げ合いながら、指先だけは休むことなくキーボードを叩き続けている。
「既存の学習モデルで“侵食”が学習できない原因が分かった」
スターリング教授の声は冷静だった。
「推論エンジンが、ゲーデルの壁に正面衝突して自己崩壊してる。特異点の発生が避けられない構造ね。
幸、この物質——ストレンジレットもどきって、物質として扱うより、空間位相の改変として捉え直した方がいいんじゃない?」
母はモニターに走る波形を凝視したまま、わずかに頷く。
「なるほど……だから自己修復の“修復プロセス”そのものを、バグとして排除してしまったのね。さすが、ヘレナ」
ほんの一瞬、母の口元が緩む。
「でも、原因が分かったなら……“教える”必要は、もうないかもしれない」
スターリング教授が、わずかに眉を上げる。
「どういう意味?」
「ヘレナが提唱していた“高次元位相幾何学による意識の非局所性”、あったでしょ?」
母はキーボードに手を伸ばしながら言った。
「信濃が“正しい答え”を探そうとするから壊れる。だったら——答えを探す前提そのものを、広げてしまえばいい」
スターリング教授の瞳が、すっと細くなる。
「……認知バイアスを複素平面へ拡張する?」
「そう、“理解できない”ことを“理解不能として保持する”ための空間を与える」
彼女は一瞬、言葉を切る。思考を加速させているようにも見えた。
「ああ、思いつかなかった。さすがね。でも、それには不完全性定理をバイパスする論理階梯を、数式で定義し直す必要があるんじゃない?」
「そうね、そこはヘレナを信じる」
母は即座に応じた。
「私は、ヘレナが定義した数式を最深層ネットワークに埋め込む方に回る。“外科手術”みたいに。信濃と防壁システムの仮想自我は、一度いったん破棄する——そして、新しく生まれ変わらせる」
言葉を続ける。
「学び方だけを与える。あとは……この子自身に、考えさせる」
スターリング教授は、その言葉を噛みしめるように、静かに頷いた。
「ええ、この子が扉を開けるのを、ちょっぴり手伝うだけ」
二人の会話は、まるで同じ地図を別々の言語で読み上げているかのようだった。
***
中央のテーブルでエイド博士とマーク博士が並んで腰を下ろしていると、ヴィレール首席技師が後ろから五人分のコーヒーを運んできた。
「サンキュ!それにしても、ここは重力あるんだな。助かったぜ」
マーク博士はヴィレール技師に礼を言うと、肩を回しながら息をつく。
「いい加減、無重力にも慣れてほしいものだがな」
ヴィレールがコーヒーを配り終え、両博士の正面に座ると、小さく息を吐く。
「それにしても……」
「どうした?」
エイド博士が首を向ける。
「スターリング博士は、うちの次席技師——ロブに『信濃の技術者は研究機関でも十分通用する』と言ってくださったそうですね。あいつ、随分と喜んでいましたけど」
「ああ、お世辞ではないさ。むしろ、その考えはもっと強くなってるくらいだ……それが?」
エイド博士は即答した。
「……いえね」
ヴィレールは苦笑し続ける。
「星野博士とスターリング教授の会話が、ほとんど理解できないのが悔しいです」
マーク博士が声を上げて笑った。
「はは、奇遇だな。俺もだ」
「同感だ」
エイド博士も肩をすくめる。
「お二人は異なる分野の専門家です。我々は万能選手であることを求められている……正直、もう少しお役に立ちたかったですね」
エイド博士は、しばらく二人の背中を見つめてから、静かに言った。
「なあ、マーク。彼女たちの会話を“完全に理解できる人間”が、この太陽系に何人いると思う?」
マーク博士は、即答した。
「賭けてもいい、“二人だけ”だ」
***
端末の一つが、これまでとは異なる通知音を鳴らした。警告でも、完了報告でもない——あえて言うなら、問いかけに近い音だった。
中央の立体ホログラムに、少女の姿が浮かび上がる。
「あれ……?」
ヴィレール首席技師が顔を上げ、反射的にモニターを見直す。
「信濃……?」
表示されたメッセージを確認し、彼は思わず声に出した。
「星野博士、スターリング教授。モニターに『おはようございます』と表示されていますが……これは、どういう——」
その言葉の続きを、誰も促さなかった。エイド博士とマーク博士も、同時に異変に気づいたらしい。二人の視線が、無言のまま母とスターリング教授へ向けられる。母はキーボードから手を離さず、画面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……できたのかな?」
スターリング教授は、走り書きされた数式とプログラムコードをぱらぱらと見返し、静かに頷く。
「今はまだ“完璧”とは言えないけどね」
ほんのわずか、安堵とも喜びともつかない微笑みを浮かべて、彼女は続けた。
「でも——ちゃんと“目覚めた”みたい」
その瞬間、技術室の照明が、気のせいか、ほんの一段だけ明るくなった。ホログラムに浮かぶ少女は、ゆっくりと瞳を開く。そして、これまでよりも明確な抑揚を伴った声で語り始めた。
『重力子防壁の状況を確認します』
『通常防壁の状況を確認します』
『両防壁を、私たちの最終防衛ラインと認識しました』
少し間が空く。
『防壁損傷部位について——損傷状態を“学習対象”として再定義します』
『完了まで、約五分を想定しています』
そして。
『私が守ります』
『安心してください』
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
(……すごい)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(信濃が……変わった)
「こいつは……」
かろうじて絞り出したように、エイド博士が呟くと、マーク博士も続く。
「ああ……すごいな」
“天才”という称号を欲しいままにしてきた二人でさえ、この現実を前にしては、それ以上の言葉を見つけられなかったようだ。
冷却ファン、リレーの作動音、通知音……技術室には変わらず音が満ちている。だが、少し前までとは異なる“音楽”を奏でていた。
第二波襲来までの時間が、確実に減っていく中、この艦に新しい“意志”が宿った瞬間だった。
◎登場人物(映像の中)
●技術室
◯星野幸(37)(女性)(157cm):冷凍睡眠実用化研究の第一人者。客員医師として信濃に乗艦中。星野艦長の妻。
◯ヘレナ・スターリング(25)(女性)(165cm)(イギリス):数学教授。エイドリアンの妻。双子の女の子を身ごもっている。信濃では医務室にて医師や看護師のお手伝いをしている。
◯エイドリアン・スターリング(30)(男性)(イギリス):物理博士。ヘレナの夫。重力子研究の第一人者。客員技師として乗艦中。ステーションを守るために、実験用に持ち込んでいた重量子防壁を提供した。通称“エイド”。
◯マーカス・ヘイル(28)(男性)(185cm)(アメリカ):物理博士。真空エネルギー研究の第一人者。客員技師として乗艦中。通称“マーク”。
◯マティアス・ヴィレール(40)(男性)(176cm)(フランス):首席技師。経験豊富で、作業着が似合うがどこか洗練された印象。
◎用語
◯カサンドラ:木星系へ異常接近中の謎の飛翔体群。全長十mを超える飛翔体(デカメートル級)が四体あったが破砕された。ガニメデ第二ステーションの間に防壁を敷設したが、第一波にてが輸送艦そのものは大きなダメージが受けた。質量の半分以上が“既知の元素ではない”ことが判明している。
◯ストレンジレット:アップ、ダウン、ストレンジからなる物質。
◎艦船
◯信濃:最新鋭の輸送艦。艦を守る防壁は“人類最強の盾”と呼ばれる。乗組員の練度も高い。




