トラック4-14【輸送艦<信濃>・退去命令】
《二二〇二:輸送艦〈信濃〉医務室》
視界が見慣れた艦橋から医務室へと変わった。映像中央には医療用と思われるポッドが映し出され、その中には左脚を失った一人の男性が横たわっている。その傍らでは、心電図らしきデータを横目に母が真剣な表情で端末を操作している。
「ベッカー、陳……来てくれたのか」
エディ副隊長がハッチの脇では心配そうに見つめる二人に話しかける。
「私なら大丈夫だ。元気いっぱいとはいかないが、そんな心配そうな顔はしなくていい」
エディ副隊長は明るく言った。だが、次の言葉を抑えきれない。
「それより、隊長は?隊長はどうなった。最後の衝撃を受けて振り返ったとき……姿がなかった。何があったんだ」
答えたのは、ベッカーだ。
「……はい。まだ、見つかっていません」
陳が言葉を重ねる。
「でも、技術室のメンバーが必死で探しています。博士たちも、できる限りのことを……」
「そうか……」
副隊長は、それ以上を聞かなかった。
「……ベアトリスは?」
「治療は終わりました。このあと、脱出艇で艦を降ります」
「分かった……」
少し間を置いて、エディは二人を見た。
「お前たちは、どうするんだ?」
「EVAでは、俺たち二人が残ることにしました」
副隊長は目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
「……ありがとう。お前たち二人なら、心配はいらないな」
かすかに、笑った。
「全部が片付いたら、話を聞かせてくれ……もちろん、隊長と一緒に」
「……了解」
「了解です」
そのとき、陳はふと背後の気配に気づいたのか、振り返る。映像が広角側に切り替わると、別の女性の姿があった。彼女は不安を隠しきれない表情で、医務室の入り口に立っている。
陳は一歩前に出て、あえて明るく言った。
「副隊長、少し話が長くなりましたね。後がつかえていますので、我々はこの辺で」
肘でベッカーを軽くつつく。
「あっ……そうだな」
二人は揃って敬礼した。
「では」
入れ替わるように、二人目の女性が医務室に入ってくる。
(この人は分かる。航おじさんの部下の、ゴールドバーグ次席機関士だ)
エディは冷凍睡眠ポッドの縁に手をかけたまま、天井を見上げて言った。
「ローラ……君からさ。“無傷で帰ってこなかったら婚約破棄”って、言われてたのに。残念だな」
ローラは、首を横に振った。
「そんなこと……言ったかしら」
エディは小さく笑い、宇宙服のポケットに手を伸ばす。取り出したのは、小さなケースだった。
「そうか……」
ケースを開くと、そこには婚約指輪があった。
「返すつもりは、最初からなかったけどな」
「当たり前じゃない」
ローラは、即座に言った。そして、少し声の調子を変える。
「ねえ。帰りの航海が終わったら、リハビリなんでしょう?」
「……まだ正式には聞いてないけど。たぶん、そうなる気がする」
「じゃあ、私も休暇を取るわ」
彼女は、まるで業務予定を調整するかのように、淡々と続けた。
「新婚旅行には、ちょっと早いけどね。私が左脚の代わりになる。おんぶでも、抱っこでもしてあげる」
「……ありがとう」
副隊長の声が、ほんの少し揺れた。ローラもまた、目を伏せる。
「私のリハビリは厳しいから。覚悟しておいて」
その声も、わずかに震えていた。副隊長は、ふと気づいたことを口にする。
「分かった。でも……君は聞かないんだな。僕が、この先もこの艦に戻って来るのか……つまり、これからも乗り続けるどうかを」
ローラは、顔を上げて、少し困ったように笑った。
「だって……」
笑いながら、泣いていた。
「あなたが艦を降りる姿を想像できないもの。それに、私たちがいなくなったら、お互いのボスの面倒、誰がみるのよ」
「……確かに、その通りだな」
副隊長も、同じように笑う。
「だったら……早く現場復帰するため、一緒に汗を流してくれるかい?」
「もちろんよ」
ローラは身を屈め、そっと彼の頬にキスをした。
「じゃあ……部下が待ってるから。またね」
そう言って、彼女は一度だけ振り返り、医務室を出ていった。透明なポッドの向こうで、きっと副隊長は指輪を強く握りしめているに違いない。
失ったものは大きい。それでも二人の帰る場所は確かに残っていた……少なくとも、このときは。
ローラが母へ視線を送ると、医務室の照明が一段落ち、柔らかな青色に変わった。ローラ次席船外作業員は、端末を操作する母へ向き直る。
「……では、よろしくお願いします」
言葉は短い。だが、その言葉に込められているものが、単なる医療上の依頼でないことは、互いに分かっているに違いなかった。
母は小さく頷き、一言「ええ。必ず、次の場所まで連れて行くわ」とだけ応えた。そこには慰めも、励ましもない。おそらく、その言葉だけで、分かり合えたのだろう。
ローラはもう一度だけ、ポッドの中を見つめる。エディ副隊長の顔は穏やかで、痛みも恐怖も忘れ、既に眠りの底に沈んでいるようだった。
「……また、後でね」
返事はない。それでも彼女は、微かに笑った。
母が操作すると、低い作動音とともに、透明なハッチが静かに降りてきた。
『カチリ』
密閉完了を示す小さな音が、医務室に響く。ローラは、その音を背中で聞きながら、一歩、後ろへ下がった。
彼女は顔を上げた。一区切りついたからか、表情は決意に満ちている。まるで、「次は自分が頑張る番だ」と言わんばかりに。そして踵を返し、颯爽と医務室を出ていった。
***
《二二一三:輸送艦〈信濃〉副艦橋》
(あっ、ここは……副艦橋だ……でも、誰もいないと、こんなにも静かなんだな)
そこには音がなかった。低く響いているはずの冷却音も、主艦橋よりも活気を感じる乗組員同士が交わす短い確認の声も、今はない。
サティ副長は、自分の席の前に立ち呟く。
「この椅子に、何時間座ったのかしら?」
彼女はゆっくりと手を伸ばし、肘掛けに触れた。
「この艦橋で、いくつの決断を下したのかしらね?」
管理画面に触れる。
「ふふっ……いろいろあったわ」
誰に向けた言葉でもない。けれど、その声は確かに、この場所に溶けていった。
「つらいことも……楽しいことも」
短く息を吐き、彼女は微笑む。きっと、心のなかでは、いろんなことが思い返されているだろう。
「信濃、ありがとう」
間を置かず、応答が返ってくる。
『どういたしまして』
その声は、いつも通りだった。感情の揺らぎのない人口音声。それなのに、僕には少しだけ、優しく聞こえた。
「これからも……私を助けてね」
『もちろんです、サティ副長』
彼女は小さく頷く。
「では、副長として命じます。副艦橋の機能を一時停止。必要に応じて、あなたが代替して」
『了解』
主画面の中央に人型のキャラクターが表示される。それは人間の仕草を模した動きで、静かに敬礼した。次の瞬間、機能停止プロセスが始まる。
表示が一つ、また一つと消えていく。計器の光が落ち、スクリーンが暗転し、艦橋は徐々に“役目を終えた場所”へと変わっていった。そして、最後に非常用の最低限の表示だけが残る。
副長はそれを見届けると、背筋を伸ばし敬礼する。
「大丈夫。また、帰って来るから」
静かに眠りについた副艦橋に、そう小さく呟いた。
***
《二二二五:輸送艦〈信濃〉主艦橋》
副艦橋の静けさをよそに、主艦橋には、報告の声が次々と積み重なっていく。
それは数字の羅列であり、同時に——ここにいた人間たちが、この艦を去るという証明でもあった。
「朝比奈機関長。機関員の退去準備、完了しました」
ゴールドバーグ次席機関士は、背筋を伸ばして報告した。その声には、わずかな緊張と、確かな決意が混じっている。
「了解」
航おじさんは一拍置いてから、静かに言った。
「ゴールドバーグ次席機関士。これより君を機関長代理に任命する。この席を預けるので、よろしく頼む」
ローラは一瞬、目を伏せる。そして、はっきりと顔を上げた。
「まかせてください、朝比奈機関長。信濃の心臓は——私が守ります」
その言葉に、航おじさんは小さく頷いた。
「よし。各班、状況を報告してくれ」
「操舵班、次席以下四名、退去準備、完了しています」
首席操舵士からの発言を引き金に、報告は淡々と続く。
事務班、技術局、通信班、航宙班、主計室、そして機関室。
それぞれの「退去準備完了」という言葉が、信濃から一人、また一人と、人が消えていく現実を突きつけてくる。
「了解。報告、ご苦労」
航おじさんの声は、最後まで落ち着いていた。そして、艦長席の前に立ち、敬礼する。
「艦長。名簿に従い、九十一名。退去準備、完了しました」
「了解」
父は短く答えた。
「朝比奈首席機関士の指揮のもと、各員の退去を命ずる」
「了解」
その瞬間、主艦橋にいる全員が敬礼をした。父が敬礼を返した後、ふと声を落とす。
「……航。がんばれよ」
一瞬、役職も立場も消えた。航おじさんは苦笑し、同じ調子で返す。
「渉。それは俺の台詞だ」
短い沈黙。口を開いたのは航おじさんだった。
「遅くとも、三時間後には再会できるだろう」
「ああ。その予定だ」
「お前のことだ。心配はしてない」
「大丈夫だ」
父は、ほんの一瞬だけ視線を逸らし——そして言った。
「乾杯の酒、準備しといてくれ」
航おじさんは、いつもの笑みを浮かべる。
「まかせろ」
二人は敬礼ではなく、握手を交わす。
「じゃあな」
「じゃあ、また」
その言葉が交わされたあとは、二人とも振り返らなかった。たぶん、それぞれの役割を果たすために。
***
主画面には、暗黒の宇宙へ放り出された二隻の脱出艇が映っていた。青白いプラズマの尾を引きながら、それらは瞬く間に小さな光となり、遠ざかっていく。
(あの中に、航おじさんや、たくさんの人達が乗ってるんだ)
会ったこともない、名前すら知らなかった乗組員たち。けれど、ここまで映像を観てきた今の僕には、もう彼らを「見ず知らずの人たち」だとは思えなかった。
映像の中では、操舵桿を握る首席操舵士も、ヘッドセットをつけた首席通信士も、誰もが作業の手を止め、ただ黙って画面を見つめている。そして、誰が合図したわけでもなく、一人、また一人と、遠ざかる小さな光に向かって、静かに手を振り始めた。
叫ぶ者はいない。
泣き崩れる者もいない。
ただ、自分たちが死力を尽くして作り出した“安全な空間”へと駆けていく仲間たちの無事を、一途に祈るような仕草だった。大きく、ゆっくりと——まるで「また会おう」と言葉をかけるように、掌が揺れる。
映像には映らないけれど、医務室でも機関室でも、そして脱出艇でも、たぶん同じように誰かが手を振っている。
結果として、その約束が果たされることはなかった。それを知っている僕に、画面の中で誇らしげに手を振る彼らの背中は、冷たい絶望ではなく、熱い篝火を灯していく。
(……そうだよね。みんな、生きるつもりだったんだ)
手を振る彼ら同士が繋がっているのは「命を差し出して他人を助ける」自己犠牲によってじゃない。「必ず生きて再会する」という、あまりにも当たり前で、あまりにも純粋で、そして何より尊い——“生きる意志”によってじゃないだろうか——そんな気がした。
僕は、当時よりも大きくなった手のひらを、ぎゅっと握りしめる。映像の中の父と、時を越えて手を繋ぐように。
彼らが命を懸けて守り抜いた、この「今」を——僕は、決して無駄にはしない。
◎登場人物(映像の中)
●主艦橋
◯星野渉(39)(男性)(177cm):主人公 晶の父。輸送艦“信濃”の艦長。
◯朝比奈航(39)(男性)(181cm):首席機関士。艦長の渉とは親友で右腕。退去の指揮官。
◯エックハルト・フライシャー(32)(男性)(188cm)(ドイツ):首席操舵士。精密な操作を行う「鋼の理性」を感じさせる佇まい。
●副艦橋
◯グレース・サティ(42)(女性)(170cm)(フランス):副長。頼れる艦長のもう一人の右腕。
●医務室
◯エディ・ウッドマン(28)(男性)(182cm)(イギリス):次席船外作業員。物理学の学位を持つ。船外作業中に左足を喪失する重傷を負った。ゴールドバーグ次席機関士と婚約中。
◯ヤコブ・ベッカー(38)(男性)(185cm)(ドイツ):船外作業一班の班長。元建築エンジニア。機器の扱いが上手い。無口だが責任感は人一倍強く、オニール隊長の教えを忠実に守る。
◯陳芳華(35)(女性)(168cm)(台湾):船外作業三班の班長。構造計算が得意で、状況判断能力にも優れる。オニール隊長とエディ副隊長をバランスよく支えてきた。
◯ローラ・ゴールドバーグ(32)(女性)(170cm)(イスラエル):次席機関士。粘り強さが信条。ウッドマン次席船外作業員とは恋人同士で婚約中。
◯星野幸(37)(女性)(157cm):冷凍睡眠実用化研究の第一人者。客員医師として乗艦中。医療用冷凍睡眠ポッドを提供し、自ら操作する。星野艦長の妻。
◎用語
◯カサンドラ:木星系へ異常接近中の謎の飛翔体群。全長十mを超える飛翔体(デカメートル級)が四体あったが破砕された。このままだと、ガニメデ第二ステーションを直撃する。質量の半分以上が“既知の元素ではない”ことが判明している。
◎艦船
◯信濃:最新鋭の輸送艦。艦を守る防壁は“人類最強の盾”と呼ばれる。乗組員の練度も高い。




