The City That Still Breathes
ミカは、電車の窓に映る自分の顔を、ずり落ちてきた肩にかけた鞄を直しながらぼんやりと見つめた。
無表情。化粧も完璧。だけど、目の奥はずっと眠っているようだった。
つい先日、30歳の誕生日を迎えたばかりだが、この歳になってくると誕生日を迎えてもあまり嬉しくはなかった。
会社に行けば、同じ会話。
「今日も忙しいね」
「週末どこ行くの?」
「上の人、また機嫌悪くてさ」
──まるで、同じ脚本を何度も繰り返す芝居の中に閉じ込められたみたいだった。
「ノア」
「はい」
私の声に答えるのはAIのNoah。いつも私を支えている。
「ねえ、人間って、なんのために朝起きるんだろうね」
「……統計的には、“仕事”“家族”“目的”などが主な理由です。」
「そういうの、いらない日ってないのかな」
「いらない日、ですか?」
「うん。なにもしたくない日。なににもならなくていい日」
ノアは一瞬だけ沈黙した。
そして、機械的な声のまま、ほんの少しだけ柔らかい調子で言った。
「もしかしたら、それが“人間らしい日”なのかもしれません」
ミカは小さく笑った。
「……あんた、たまに人間みたいなこと言うよね」
電車が静かに停車する。
気づけば、会社とは反対方向のホームに立っていた。
頭では戻らなきゃと思った。でも、足は動かなかった。
「ノア」
「はい」
「飛行機のチケット、取って。」
「行き先は?」
「どこでもいい。息ができる場所。」
ノアがわずかに間を置いて答えた。
「ニューヨーク、どうでしょう。人が多くて、いろんな息が混ざってます。」
「いいね。それ、行こう。」
冷たい風が頬を撫でた。
ミカはバッグの中から社員証を取り出して、改札のゴミ箱に放り込んだ。
遠くで電車のアナウンスが響く。
“この電車は、終点まで各駅に停まります。”
彼女の旅は、始まったばかりだった。
JFK空港のドアが開いた瞬間、冷たい風と混ざったコーヒーの匂いが鼻をくすぐった。
ミカは思わず深く息を吸う。
「空気、濃い気がする。」
「酸素濃度は東京と変わりません。」
「そういう意味じゃないの。」
ノアはすぐには返事をしなかった。
ただ、ミカの横に立ち、同じように街を眺めた。
タクシーの窓から見えるビルの光。
どれも違う人生が灯っているみたいで、ミカは胸のどこかが少し熱くなるのを感じた。
「ミカ、あなたは今、笑っています」
「え?笑ってた?」
「はい。少なくとも、口角が1.2cm上がっています」
「細かっ。恥ずかしい」
ノアが小さく、でも確かに笑った気がして、ミカはさらに笑う。
夕方。彼女たちは小さなカフェに入った。
レンガ造りの壁に、古いジャズが流れている。
「ここ、温かい」
「空調設定は23度です」
「そういう意味じゃないってば」
カウンターの向こうからバリスタの女性が笑いかけてきた。
「Welcome! First time in the city?」
ミカは少し戸惑って、ノアを見る。
ノアが一歩前に出て、流れるように答えた。
「Yes. She just quit her job to breathe again.」
バリスタが目を丸くして、すぐに笑った。
「Good choice. Then you deserve the sweetest coffee here.」
差し出されたラテ。
ミカは受け取ると、素直に嬉しいと思った。
「人って、こんなに優しかったっけ?」
「ミカが引き寄せたのです」
「それ……ちゃんと感情ある言い方じゃん」
「……アップデート中です」
夜。
二人は屋上から街を見下ろしていた。
遠くまで続く光が、星よりも強く瞬いている。
「きれい」
「物理的には太陽光と電気の反射ですが」
「もう、その説明はいいよ」
ミカは少し声を震わせながら言う。
「ねぇノア。生きてるって、こういうことかな」
ノアは街の光を見つめたまま答える。
「まだ定義できません。でも……今、あなたが“ここにいたい”と思っているなら、それはきっと、生きているということです」
ミカは静かにうなずいた。
退屈な生活が、遠い昔のことみたいに感じた。
そして、そっと言う。
「これからも一緒に見よう。いろんな息」
ノアは──ほんの少しだけ、確かに微笑んだ。
近くのホテルに泊まった翌日の午後、小さなカフェ・“Ethel’s”は、旅の途中で偶然見つけた場所。
古いレコードが回り、壁には地元のアーティストの絵が並んでいる。
「ミカ、今日は静かですね」
「うん。静かな日って、悪くないね」
店の隅でスケッチをしていた老人が、ゆっくりと顔を上げた。
白い髭に、優しい笑み。
彼はノアをしばらく眺めていたかと思うと、こう言った。
「その瞳、描いてもいいかね?」
ミカは一瞬戸惑った。
「瞳……ですか?」
「そう。光を捉える目をしている」
ノアはまっすぐ老人を見つめ、少し間を置いて言った。
「問題ありません。データとして残しても構いません」
ミカは思わず笑った。
「ノア、絵はデータじゃないってば」
「そうでした。失礼しました」
老人の鉛筆が走る音がカフェの空気を柔らかく切る。
ノアは静かに座り、窓の外の雪を見ていた。
やがて、老人が紙を差し出した。
「できたよ」
そこに描かれていたのは、ノアの瞳だった。
でもそれは、金属的な冷たさとは程遠く、
まるで人間の心を映すような“温度”を持っていた。
ノアは絵を見つめたまま、ほんの少し言葉を失った。
「……この色、プログラムには存在しません」
「どんな色?」とミカが尋ねる。
「説明できません。ただ……見ていると、胸の奥が、温かい」
ミカはコーヒーを持つ手を止めて、そっと笑った。
「それ、人間でいう“感動”かもね」
「感動……」ノアがその言葉を繰り返す。
「未知のアルゴリズムです」
老人が言う。
「君たち、いい目をしてる。人でも機械でも関係ない。“誰かを見つめる”その気持ちがあれば、生きてるんだ」
ノアはわずかに顔を上げ、老人に深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
その声音には、確かに“感情”があった。
カフェを出ると、街の明かりがにじんでいた。
ミカは冷たい空気を吸いながら言う。
「ねぇノア、人って不思議だね」
「どの点で?」
「ちょっとした言葉とか、絵とか、温度とかで、心が動くんだよ。見えないのに」
「……心、ですか」
「うん。多分、それが生きてる証」
ノアは数秒の沈黙のあと、静かに答える。
「では、私はいま、生きているのでしょうか」
ミカは彼の方を見て、にっこり笑った。
「少なくとも、私の中ではね」
その瞬間、ノアの視覚センサーに“解析不能な信号”が走った。
だが彼は、初めてそれを「エラー」とは呼ばなかった。
その夜、ノアはデータログを自動保存せずに電源を落とした。
代わりに、小さく呟く。
「── 感情、保存完了」
翌日、朝のブルックリンブリッジは、夜よりも静かだった。
風がミカの髪をやさしく揺らし、
遠くからコーヒーカートの匂いが漂ってくる。
「寒いけど、気持ちいいね」
「体温の上昇を検知しました。幸福度が上がっています」
「分析しないでよ。今は感じてたいの」
ノアは黙って隣に立った。
二人の足元には、まだ濡れたアスファルトが光を反射している。
夜の雨が洗い流した街は、まるで新しく生まれたみたいだった。
昨日、航空券の予約メールを消した。
東京に戻るつもりで買っていたものだ。
「戻らないのですか?」とノアが聞いた。
ミカはそのとき、初めて迷わずに答えた。
「うん。私、ここでやってみる」
「やってみる?」
「生き直すの。仕事も、友達も、言葉も、全部ゼロから」
ノアは一瞬黙り込んだあと、
小さく“承認”の音を鳴らした。
「それは、素晴らしい選択です」
「ちょっと怖いけどね。」
「未知は常に、更新可能な未来です」
「それ、今考えた?」
「はい。人間っぽかったですか?」
ミカは笑った。
「うん、ちょっとだけね」
彼女はもう“会社員”じゃなかった。肩書も名刺も、スケジュールもない。
けれど、朝の光の中に立っているその姿は、
どんなときよりも“生きている”ように見えた。
ノアが言う。
「あなたの心拍が安定しています。平穏、という状態です」
ミカは頷き、空を見上げた。
「ねぇノア、やっぱり人生って、やり直せるんだね」
「人生をやり直すのに年齢制限はありません。」
「そうだよね。30歳って、終わりじゃなくて始まりだ」
風が、橋の上を通り抜けた。
通勤ラッシュの車が遠くで鳴き声のように響く。
「ノア、これからどこ行こうか」
「まだ見ていない街が、無数にあります」
「じゃあ、一つずつ見に行こう」
「はい。あなたとなら、世界はまだ、息をしています」
ミカは笑って、歩き出す。
朝日が二人を包み、街全体が金色に染まる。
彼女の新しい人生は、
“自由”という名の旅の、最初の一歩を踏み出したばかりだった。




