準備は万全?
陸がまぶたを開けると、視界いっぱいに広がるのは、どこまでも澄んだ青空と光沢を帯びた銀色の床だった。
無限に続くかのような無機質な空間。
天井も壁もなく、青空だけが支配する。
陸はそっと足を下ろし、コンコンと乾いた音を響かせる。
本物の床を蹴っているかのようなリアルな感触に、思わず感心したように声が漏れた。
「へぇ、面白れぇ」
ふいに空間が揺らぎ、グリーンのジャケットを着た海がスッと姿を現した。
「ふぅ~ん、こうなってるんだ」
空気の流れが変わった気がして、陸は反射的に手をギュッと握る。
ほんの一瞬だけ目が合い、次の瞬間にはお互い笑い合うような気配を残して、陸は海に拳を振り上げた。
海は素早く身をかわし、そのまま右足で蹴り返してくる。
陸は腕を胸の前でクロスさせて受け止めた。
剣道の稽古のような一瞬の攻防――軽い衝撃が全身に伝わる。
リアルと変わらない手応えに、胸の奥がざわつき、ワクワクが膨らむ。
「うわっ、なっ、なにやってるんですか?! 二人とも?!」
何もない空間に、凛の驚いた声が響き渡った。その声音に、ほんのり空気が和らぐ。
「えっ? 何って、軽く確認だよ」
「んなの、決まってんだろ。肩慣らし」
二人ともケロリとしている。凛は困惑したまま、周囲を見渡した。
「肩慣らしって……ここでそんなことしてる人、初めて見ました」
「そういえば、ここってなんだ?」
陸が首をかしげると、凛は少し照れたように言葉を探す。
「簡単に言えば作戦ルームです。部屋にしてはちょっと広いかんじですけど」
凛は淡々と説明を続ける。少しだけ口調は固いが、その目は真剣だ。
「開始まで五分間、作戦タイムって感じです」
陸がじっと凛を見つめる。
凛は少し戸惑いながらも、説明を続けようとした。
「う~ん、固い」
「え?」
陸が一歩近づき、凛に顔を寄せる。
「もっと軽いかんじで話してくんない?」
「えっ、でも……」
「これから一緒に戦う仲間、だろ。俺たち」
人懐っこい笑みを浮かべてみせる陸。
その空気に海も微笑みを浮かべる。
「そうだね。もう少し軽い感じの方が一緒に戦いやすいかな」
凛は戸惑いつつも、少しだけ口元を緩めた。
「わ、わかりました……善処しま、じゃなくて……するね」
ぎこちない笑いがこぼれ、二人はそれを見てつい笑ってしまう。
「全然固いけど、ま、そのうち慣れるか」
「無理はしなくていいからね」
「はい、じゃなくて……うん」
そんなやりとりの合間に、三人の距離が自然と近づいていく。
海は周囲を見渡してぽつりとつぶやく。
「リン、このゲームはかなりフリーなんだね」
「普通はこういう部屋で戦闘行為はできない。なのにさっき私とリクは軽くジャレることができた」
凛はさっきの攻防を思い出すが、とてもじゃれあいには見えなかった。
だが、その言葉に少しだけ気が楽になる。
「ここは動きなども確認できる場所、って認識でいいのかな?」
海が周囲を一度ぐるりと見渡しながら問いかける。
青空がどこまでも続く無機質な空間に、三人の影だけがぽつんと浮かんでいる。
「うん、正解です。エイリアルギアは1ゲームごとにパラメータを設定できるから、その動きを確認する場所でもあるんです。なんか動きがおかしいとか違和感とかってありますか?」
凛は胸の前でそっと手を組み、やや緊張した面持ちで二人の反応を待った。
「別に違和感ねぇけど?」
陸は足元を軽く蹴ってみたり、肩をまわして確かめるように体を揺らす。
さっきの一瞬の攻防を思い返して、口元がわずかに緩んだ。
「そうだね。私も問題ないよ」
海は身体をひねりながら、指先でバングルを弄ぶ。その表情はリラックスした笑み。
凛はホッとしたように、小さく息を吐き、表情を和らげた。
「それじゃ、説明します。二人は【ソード】で僕が【ガンナー】というのはいいですか?」
凛が視線を上げて問いかけると、陸は勢いよく腕をぶんと振る。
「おう! 前に出て、アイツらボコればいいんだな」
目を細めてニヤリと笑う陸に、海も苦笑しながら肩をすくめる。
「うん、前衛ってことだね」
海の目線が自然と陸に合わさり、息の合ったやりとりにほんのりとした安心感が広がる。
「僕は後衛で二人をサポートします。勝利条件は敵の全滅か目標である『フローティング・フラッグ』を奪取すること」
凛の声は落ち着いているが、その奥に静かな決意がにじむ。
「ボコれば勝ちってことでいいだろ」
陸は拳を軽く突き上げる。
「それができれば簡単なんだろうけど」
海は小さく笑い、指で髪をかきあげながら少しだけ首を傾げる。
「はぁ? 俺が負けるとでも???」
陸は冗談めかして腕を組み、凛を見下ろすようにして言う。
「そういうことじゃないよ。相手はそれなりに名の知れたプレイヤーみたいだし、フラッグを狙ってくるかもってことだよ」
凛は両手を軽く広げて言い訳するような仕草を見せる。
「させねぇよ。それともカイは自信ないとか?」
陸がニヤリと意地悪くからかうように言うと、海は唇の端を上げて挑むように見返す。
「それは聞き捨てならないね」
空気が少しだけ張り詰め、三人の視線が静かに交差した。
言葉のやりとりに熱が帯びる。
そのとき、電子音のブザーが空間に響いた。
「あと一分で開始です」
緊張が走り、二人の表情が引き締まる。
「武器はバングルの青いボタンを押すと出ます。赤いボタンで地図が出て、自分たちの場所がわかります。会話はインカムでいつでもできます」
「了解」
「了解したよ」
二人が青いボタンを押した。
小さな電子音とともに、手のひらに冷たい重みが生まれる。
細身の剣は、想像以上に手にしっくりくる。
「軽いな、これ」
陸が無意識に剣のバランスを確かめると、海も同じように剣をひらひらと回してみせる。
「軽いものにしました。扱いやすいかと思って」
二人は剣を軽く振り、バランスを確かめる。
「まあ、いいんじゃね」
「だね、いいかんじだ」
凛も青いボタンを押す。
手のひらに現れたのは、光沢のある筒身が三十センチほどのシルバーの銃だった。
滑らかな金属が、指先を包み込むようにひんやりと馴染む。
角度によって微かに光が踊り、洗練された曲線が手にしっくりと収まった。
「ガンナーって言うからもっとこう、ごっついのかと思った」
陸が腕使ってライフル銃を表した。
「そういうのも選べるけど、僕はコレが使いやすいんです」
そのとき、《試合開始》の文字が浮かび上がる。
「「――リン」」
名を呼ばれて、凛ははっと顔を上げた。
心臓がドクンと脈打った。
微かな息を呑む。
(またアノとき、みたいに……二人の、足引っ張ったら……)
一瞬だけ胸が締めつけられる。
陸が拳を突き上げる。
「勝つぞ」
海が穏やかに微笑む。
「勝つよ」
二人が凛の背中を両サイドから軽く叩いた。
「俺たちにゲームが遊びじゃないってこと、証明してみせろ!」
「楽しみにしてるよ」
その一言一言が胸の奥に響き、さっきまで強ばっていた全身からふっと力が抜けていく。
凛は深く息を吸い込み、まっすぐ二人を見つめて答えた。
「……はい」
柔らかな決意が、ほんのりと表情に灯る。
目が合った瞬間、小さな笑顔が三人の間を結んだ。
次の瞬間、三人の姿は銀色の床の上から、そっと霞のように消えていった。
その余韻だけが、虚空に微かに残っていた。