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第七章 そして夜が明ける

夏の終わりが近づくある日曜日。少し曇った空の下、悠馬と梢は街のベビー用品店に足を運んでいた。

 

 「ほら、これ。あなたの顔にそっくりなベビー服見つけた」

 梢が笑いながら差し出したのは、小さな動物の耳がついた白いロンパース。悠馬は眉をしかめ、だがすぐに笑った。

 「いや、これ完全にウサギだろ。俺に似てたら困るって」

 

 そんな他愛もないやりとりを交わしながら、ふたりは慎重に、でも楽しそうに必要なものを選んでいった。哺乳瓶、おくるみ、小さな靴下。ベビーカーの前で真剣に悩む梢の横顔を見て、悠馬はふと、その輪郭が柔らかくなったような気がした。

 

 「もうすぐなんだな、って、思う」

 ぽつりと呟くと、梢は頷いた。

 「うん。あと、もう少しだよ」

 

 彼女のお腹は大きく膨らみ、歩く速度もゆっくりになっていた。それでも、目の奥に宿る光は以前よりも力強く感じられた。

 

 帰宅後、学童の子どもたちが作ってくれた「赤ちゃんへのメッセージカード」を、ふたりで広げた。色とりどりの紙に、拙いひらがなで書かれた言葉。

 

 「げんきにうまれてきてね」

 「おかあさんといっしょにあそんでね」

 「ぼくのつくったえほん、あかちゃんにもよんであげて」

 ひとつひとつ読みながら、梢は涙ぐんだ。

 「……ねえ、こういうの、ちゃんと残しておこう」

 「うん、アルバムに入れよう。俺も写真、いっぱい撮っておく」

 

 日常が、少しずつ「家族」へと近づいている実感。洗濯機の横に干されたベビー服、棚の上に置かれた小さな靴、買ってきた育児本に折り目がついている様子――そのどれもが、ふたりの未来を静かに照らしていた。

 

 夜、梢がソファでウトウトと眠ってしまったあと、悠馬はそっと膝掛けをかけた。彼女の手には、赤ちゃんの名前の候補が書かれたメモ帳が握られていた。

 (あたたかい家庭にしたい)

 そう思った瞬間、彼の胸の奥で何かが静かに灯った。


 11月の風が少しずつ冬の気配を運びはじめた頃、梢の身体に変化があらわれはじめた。

 朝、ベッドから起き上がるのがつらい日が増えた。目覚ましの音に反応はするものの、布団の中でしばらくじっとしていないと身体がついてこない。手足のむくみや軽い息切れ。けれど、それ以上に彼女を悩ませたのは、何でもないような瞬間に突然訪れる、胸の奥に沈むような鈍い痛みだった。

 

 ある朝、キッチンで味噌汁の味見をしていた梢は、ふと手を止めてしゃがみ込んだ。胸を押さえ、目を閉じて深呼吸する。

 (大丈夫、大丈夫。すぐに治まるから)

 リビングでは、悠馬が洗濯物をたたんでいる音が聞こえていた。見つからないように、梢はすぐに立ち上がり、何事もなかったかのように味噌を溶かす作業に戻った。

 

 「ごはん、もうすぐできるよ」

 「おっけー。今日の味噌汁、ちょっと楽しみかも」

 

 そんな悠馬の明るい声に、梢は笑って返事をする。でもその笑みの裏には、確かに「恐れ」があった。

 

 その日の午後、再び病院を訪れた梢は、診察室の中で主治医と向かい合っていた。優しい表情の女性医師は、検査結果のファイルをめくりながら静かに口を開いた。

 

 「持病の数値、また少し悪化しています。……これまで頑張ってこられたのはわかります。ただ、いまの状態だと、出産まで無事に辿り着ける保証は……正直、ありません」

 

 梢は唇を噛んだ。

 「……赤ちゃんは?」

 

 「胎児の成長は、今のところ順調です。ただし、この先、お母さんの体調次第でリスクが出てきます。無理は絶対にしないでください。場合によっては、早めに帝王切開も検討する必要があります」

 

 医師の言葉は、優しいトーンでありながらも、はっきりと重く響いた。

 「おひとりで抱え込まないように。ご主人にも、状況を正直に伝えてください」

 

 梢は、小さく頷いた。――でも、その頷きには、どこかで「できない」と知っている自分がいた。

 帰り道、薬局で処方薬を受け取ったあと、梢はまたひとりで海沿いの道を歩いた。風が静かに頬をなでる。

 

 (この子を、無事に産みたい。でも……)

 

 立ち止まり、波音に耳を澄ませる。どこかで、誰かの笑い声が聞こえた。

 (悠馬と、もっと生きていたい)

 そのどちらかしか選べないとしたら。そんな極端な問いが、胸の奥に棘のように突き刺さっていた。


ふたりで選んだベビーグッズが少しずつ家に届きはじめた頃、梢はひとりで再診の為、病院を訪れていた。

 診察室に入り、エコーで赤ちゃんの様子を確認すると、モニターには小さな心臓が元気に動く姿が映っていた。外では、木々の若葉が風に揺れ、春の陽射しがやわらかく差し込んでいる。待合室から見えた空は、どこか透明感を湛えていて、季節の移り変わりを感じさせた。

 

 「順調に大きくなってきてますね。お腹の張りはどうですか?」

 「ときどき、強めに張る感じがあります。でも、横になるとおさまるので……」

 

 医師はカルテに目を落としながら、少しだけ口調を落とした。

 

 「実は、前回の血液検査の結果ですが、持病の数値が少しずつ悪化してきています。これまでの経過から見ても、やはりこの妊娠はあなたの体にとって大きな負担になっているようです」

 

 梢は一瞬、息を詰めた。

 

 「このまま出産まで進んだ場合、帝王切開になる可能性がとても高いです。自然分娩は……かなりリスクが高い。母体への影響だけでなく、胎児への影響も無視できません。心臓や腎臓への負担も、妊娠後期には顕著に表れやすくなります」

 

 医師の言葉は冷静だったが、そのひとつひとつが梢の心に沈んでいく。

 

 「今すぐ何か処置を、という段階ではありません。でも、入院のタイミングは慎重に見極める必要がありますし、最悪の場合、早期に出産を決断しなければならないかもしれません」

 

 「……赤ちゃんは、大丈夫なんですか」

 

 医師は静かにうなずいた。

 「今のところ元気に育っています。ただ、あなたの持病の薬は胎児にも少なからず影響を及ぼします。服用を続けることは命を守るために必要ですが、そのぶん注意深く管理していかなければならない。自己判断で中断することも、逆に危険なんです。ストレスや疲労も、薬の効果を不安定にすることがあります。今後は特に、環境や体調の変化に気を配ってください」

 

 梢は、思わず指先を握りしめた。怖かった。でも、それ以上に――胸の奥に沈む迷いの影が大きくなるのを感じていた。

 

 帰り道、駅前の花屋に立ち寄って、小さな鉢植えをひとつ買った。まだ名前も決めていないその子のために、自分にできることを少しでもしておきたかった。

 

 この子に、夜明けを見せてあげたい。

 だけど、もしそれが――。

 家に戻ると、玄関の明かりがついていた。音を立てずにドアを開けると、リビングでは悠馬が眠そうにソファに座っていた。

 

 「……遅かったね。大丈夫?」

 「うん。ちょっと寄り道してただけ」

 嘘じゃない。だけど、全部じゃない。

 そっと近づいて、彼の隣に腰を下ろす。肩が触れ合う距離で、しばらく黙っていた。春の夜風が窓からすこしだけ入り込み、部屋の空気を優しく揺らした。


週のはじめ、学童では子どもたちの誕生日を祝う準備が進んでいた。壁に貼られたカレンダーには、色とりどりのシールで「おめでとう!」の印が付けられている。その隣には、梢が書いた「〇〇くん、お誕生日おめでとう!」の手書きカードがひらひらと揺れていた。

 教室の隅で、悠馬は紙を切りながら、子どもたちに声をかけた。

 

 「なあ、命ってさ、どうやってはじまると思う?」

 突然の問いに、近くにいた子たちは目を見開いた。「え?」「赤ちゃんってこと?」「ママのおなか!」と口々に答える。

 

 悠馬は微笑み、手を止めた。

 「そう。赤ちゃんは、おなかの中で少しずつ育っていくんだ。でもね、ちゃんと生まれてくるまでには、すごくいろんなことがある。お母さんって、すごいんだよ」

 

 子どもたちはしんと静まり、彼の話に耳を傾ける。

 「小さな命を守るために、何ヶ月も体の中で大事にして、苦しくても、眠れなくても、頑張る。それって、ほんとに……すごいことだよな」

 

 その言葉の裏にある思いは、誰にも告げていなかった。でも――梢のことを考えていた。毎朝、ゆっくりとしか起き上がれない彼女。食欲が落ち、ふとした拍子にしゃがみこんでしまう姿。笑顔の裏に、無理を重ねていることに、悠馬は気づいていた。

 

 彼女のいない場所で、自分にできることは何か。子どもたちに命の話をすることは、どこかで自分自身に語りかけているようでもあった。

 

 「だから、これから生まれてくる子のこと、すごく大切にしたいって思ってるんだ。まだ会ったことないのに、不思議と……もう、大好きなんだよな」

 

 言葉にしてはじめて、胸の奥が熱くなった。

 子どもたちの中のひとりが言った。

 

 「せんせい、パパになるの?」

 悠馬は、ほんの少しだけ照れて、それでもまっすぐに頷いた。

 「うん。なるよ」

 それは、まだ不安定な現実の上に立つ、けれど確かな宣言だった。未来に向かって、父になる覚悟。その言葉が、彼の中で少しずつ輪郭をもちはじめていた。


夜風が海の匂いを運んでくる。 港の灯りが、静かに水面を照らしていた。

 その日は、ふたりにとって特別な夜だった。 夏の終わりを告げるように、潮の香りはどこか懐かしさを含んでいる。かつて、ふたりが言葉を交わしたあの波止場のベンチ。今、そこに寄り添って座っているのは、かけがえのない時間を分かち合った恋人ではなく――もうすぐ、家族になろうとしているふたりだった。

 

 「風、気持ちいいね」

 

 梢が微笑んだ。 長めのカーディガンに包まれた小さな肩が、ふわりと揺れる。お腹は前よりもふっくらとしていて、無理をして歩いてきたことを、悠馬はわかっていた。

 「……無理してないか?」

 気づかないふりはできなかった。 梢は、少しだけ視線を下げてから、首を振った。

 「歩いて、ここに来たかったの。ちゃんと、言いたかったから」

 

 彼女の手が、悠馬の手に重なる。 指先は少し冷えていたが、その温度が、彼の胸にまっすぐ届いた。

 「ありがとう。ここまで、いろんなことあったけど……私、幸せだったよ」

 その言葉は、やさしい笑顔に包まれていたけれど、どこか儚さも滲んでいた。

 「やめろよ、そんな言い方」

 悠馬は、苦笑しながらも、目を伏せる。

 梢はそっと彼の肩に頭を預けた。

 「この子に、夜明けを見せてあげたいなって、思うの」

 夜明け。 それは希望の象徴であり、ふたりにとっての新しい始まり。

 「きっと、大丈夫だよ。俺たちがついてる」

 そう言いながら、悠馬はそっとポケットに手を伸ばす。


 小さな箱を取り出し、震える指で蓋を開けた。

 「……俺、ちゃんと伝えてなかったなって思ってさ」

 梢が驚いたように顔を上げる。

 「俺と、結婚してください。あなたと家族になりたい。ちゃんと……これからも、ずっと一緒にいたいんだ」

 差し出されたのは、飾り気のない小さな指輪。 それでも、そこに込められた想いは、何よりもまっすぐだった。

 

 梢の目に、涙が溜まっていく。 ぽろぽろと、夜の海に溶けていくその涙は、悲しみではなく――温かな決意だった。

 「うん……ありがとう。わたしも、ずっと一緒にいたい」

 手を取り合ったふたりの背後で、波の音がやさしく寄せていた。

 星が、ふたりを見守るように瞬いている。 夏の終わり、静かな夜――けれど確かな未来が、ここにあった。

 

**************************


 空が、ゆっくりと白みはじめていた。 波止場の向こうに、夜と朝の境が淡くにじむ。 潮の香りが、いつのまにかやわらかくなっていた。

 ベンチには、ふたりの姿。 梢は悠馬の肩に寄りかかり、静かに目を閉じていた。彼女はすでに眠っていたのかもしれない。あるいは、ただ、寄せる波の音に耳を澄ませていただけなのかもしれない。

 悠馬は、そっとその手を握りしめた。

 「……ありがとう、梢」

 声に出した言葉に、彼女は小さく笑みを返す。目を閉じたまま、頷くように。

 しばらくして、彼女はゆっくりと瞼を開いた。

 「朝……来たんだね」

 「うん。ちゃんと来たよ」

 港を吹き抜ける風が、ふたりの髪を揺らす。 その風が、少しだけ冷たかった。けれど、手のぬくもりは変わらない。

 「わたし、幸せだったよ。あなたの横にいられて」

 ぽつりと、梢が呟く。 それは、夜の終わりに捧げられた、ささやかな祈りのようでもあった。

 悠馬は何も言わず、その言葉を胸に刻んだ。 ただ、その手を握りしめる力をほんの少しだけ強めた。

 遠く、地平線から、朝日が差し込む。

 夜が明けた。 ふたりは立ち上がり、並んで歩き出す。帰る場所は、もう決まっていた。

 背後で、波の音が静かに響いていた。 新しい朝を祝福するように。


**************************

 

家へ戻る道すがら、梢は何度か立ち止まりながら歩いた。 夜通し外にいたせいか、それとも冷たい風のせいか、足元がふわりと頼りなかった。

 「大丈夫?」 悠馬が心配そうに声をかける。

 「うん、大丈夫。ただ……ちょっと張るだけ」

 そう言って笑ってみせるその顔には、少しだけ汗が滲んでいた。

 家に戻ると、朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。 梢は「ちょっとだけ横になるね」と言って、寝室の布団に身を沈めた。 悠馬は静かに彼女の肩に毛布をかけ、そっと部屋を出る。

 

 それから数時間後。 小さな呻き声で、彼は目を覚ました。

 「……ん、梢?」

 寝室の方から、小さく押し殺したような呼吸の音が聞こえた。 ドアを開けると、梢がベッドの端に手をついてうずくまっていた。

 「……ごめん、たぶん……陣痛、来たかも」

 その顔には苦しさと、そして確かな決意が浮かんでいた。 悠馬は一瞬固まったが、すぐに深く息を吸い込み、頷いた。

 「……行こう、病院に」

 夏の終わりの、やわらかな朝だった。 海の町に、新しい命の兆しが訪れていた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

あなたと歩いた港の道、灯り、潮の匂い。

すべてが宝物。

私の心は、もう十分に満たされました。

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