第四章 届かなかった手紙
薄曇りの空の下、悠馬のスマートフォンが震えた。番号は登録されていないが、どこか懐かしい気配をまとっていた。躊躇いながらも通話ボタンを押すと、懐かしい女性の声が耳を打った。
「悠馬くん……。お久しぶりです、日菜子の母です」
一瞬、時が止まったようだった。
「――どうして、今になって」
「…ごめんなさい。ずっと、連絡することをためらっていました。でも……ようやく、日菜子の状態が少し落ち着いたので、あなたに伝えたくて」
心がざわついた。あの別れの日以来、日菜子の消息は途絶えたままだった。手紙も、電話も、何一つ返ってこなかった。
もう戻ってくることはない。そう信じることで、なんとかやり過ごしてきた。
「彼女は今、施設にいます。心の病でずっと保護されていました。…あの別れの後、すべてを閉ざしてしまって。誰とも会おうとしなかったんです。……」
悠馬は言葉を失った。
「でも最近、あなたのことを少し話すようになったんです。…会ってくれるかもしれない、そう思って。勝手を承知で、ごめんなさい」
胸の奥にしまい込んだはずの痛みが、音を立てて崩れ始めていた。
「……わかりました。会いに行きます」
それが、正しいことかどうかなんて、まだわからなかった。
ただ、あのとき交わしきれなかった言葉が、今でも心のどこかでくすぶり続けていた。
静かな施設の面会室。白い壁と天井が、息苦しいほどの静寂を際立たせていた。椅子に座ると、ガラスの向こうに彼女の姿が見えた。
その人影は、昔と同じで、でも確かに違っていた。
「……悠馬、くん?」
か細い声がマイク越しに響いた。目の前のガラスを隔てて、日菜子がこちらを見ている。
髪は短くなり、顔も少しやつれていた。だが、その目に浮かぶ不安と、どこか懐かしい光は、確かに彼女のものだった。
「……うん。久しぶり」
一瞬、日菜子の目が潤んだ。言葉の代わりに何かを探すように彼を見つめている。沈黙がふたりを包んだまま、時だけが過ぎていった。
「……なんで、来たの?」
「……ああ。君のお母さんから、連絡をもらって」
日菜子は小さくうなずいた。うつむき、声を絞るように続けた。
「……あのとき、私、自分が壊れそうだった。怖かったの。結婚が、未来が、幸せになることが……怖くて、どうしたらいいか分からなくなって……」
悠馬は言葉を挟まず、ただ彼女の言葉を受け止めていた。
「ずっと、ずっと幸せになりたかったのに……それを目の前にしたとき、心が悲鳴を上げたの。何もかもが現実になるのが怖かった。自分の弱さがすべてを壊すような気がして」
彼女の声が震える。目には涙がにじみ、頬をすべってガラスに当たった。
「あなたのこと、愛してた。今でも、あの時のあなたの言葉を全部覚えてる。――『一緒に未来を作ろう』って言ってくれたこと。嬉しかった。怖かった。幸せだった。全部一緒に来たから、私の心はどうしていいか分からなくなって……」
「……日菜子」
悠馬はゆっくり言葉を選ぶようにして、話し始めた。
「俺も、あのときは正直、自分がどれだけ追い詰めていたか分かってなかった。君の苦しさにも気づいていたのに、ちゃんと向き合わなかった。『一緒にいれば大丈夫』って、言葉だけで済まそうとしてた」
「そんなことない。……優しかった。私にはもったいないくらい。でも、それが逆に怖かった。あなたはいつも真っすぐで、強くて、ちゃんとしてて……。私は、あなたの隣に立つのが怖かったの」
日菜子は拳を握り、肩を震わせながら続けた。
「本当はね、手紙を書いたの。別れたあと、何通も。でも、出せなかった。読んでほしいと思うたびに、あなたのことを思い出して……また、自分の弱さが嫌になって」
悠馬は目を伏せ、そしてゆっくりと彼女を見つめた。
「……たとえ届かなかったとしても、その手紙があっただけで、今こうして話せてよかったと思えるよ」
「そんなふうに言ってもらえる資格、私にはないのに……」
「資格なんていらないよ。君が今ここで話してくれてる。それだけで、十分だ」
言葉の間に流れる沈黙が、やがて優しい余韻へと変わっていく。過去の傷は消えない。けれど、それに向き合おうとする二人の姿が、確かにそこにあった。
「……ありがとう、悠馬くん。会いに来てくれて。本当に、ありがとう」
彼女の微笑みは、かつて見たそれよりも少し弱々しかったけれど、どこか穏やかで、安らいで見えた
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日菜子との面会から数日が経っても、悠馬の中に残ったものは、澱のように重く沈んでいた。
彼女の笑顔は、どこか遠くを見ていた。何かを許し、何かを諦め、何かを願っているような目だった。
その夜、リビングに戻ると、梢がコップを片手に座っていた。
「……会ってきたんだよね」
「うん」
「どうだった?」
素直に答えられるほど、感情は整理されていなかった。でも、梢の目を見て、何かを隠すのも違うと思った。
「……彼女、もう別人だったよ。あの頃とは、何もかも違った」
「ふうん」
その短い返事に、微かな棘があった。気づかぬふりをしていたけれど、梢はずっと不安だったのだろう。過去の影に、今の自分が負けてしまうんじゃないかという不安。
「でも、それでも……向き合わなきゃいけないと思った。ちゃんと、自分の過去と。彼女と話して、全部が終わったわけじゃない。でも、俺の中では……」
「まだ終わってないんだ?」
梢の声が、少し震えた。彼女の指先が、コップの縁をなぞるように揺れている。
「違う。終わらせようとしてる。だけど、簡単にはできなかった」
「……どうして私には何も言ってくれなかったの?」
その言葉には、怒りよりも、寂しさが滲んでいた。
「話そうとしてた。でも、言葉が見つからなかったんだ。梢を、傷つけたくなくて」
「結局、私を信じてないってことでしょ?」
「そうじゃない」
「じゃあ何? 一人で全部背負って、私には見せない。黙って苦しんで……結局、私が入る余地なんてないんじゃないの?」
その瞬間、空気が張り詰めた。梢の目には、涙が滲んでいた。
「……違うんだよ、梢」
「じゃあ言ってよ。私に、ちゃんと。私は、あなたの“今”を愛してるのに……あなたは、まだ“昔”にいる」
悠馬は言葉を失った。何も返せなかった。
自分でもわからなかった。
梢と交わした会話のひとつひとつが胸に刺さって、言葉にできないものが喉の奥で詰まり続けていた。
「わかってほしかった」なんて、今さら子どもみたいなことを言いたいわけじゃない。 けれど、どうしても、彼女の瞳の奥に――自分を信じきれていない迷いを感じてしまった。
それが、苦しかった。
「……ごめん。ちょっと外に出る」
玄関の扉を開けて、静かに閉めた。 バタン、という音が、耳の奥で何度も反響する。
夜の空気は冷たく、頬を刺す風が妙に現実感を持たせた。
なのに、心の中は空洞だった。歩いても歩いても、重いものが胸に居座ったままだった。
どこへ向かうでもなく、ただ足が勝手に動いていた。
やがて辿り着いたのは、あの場所。 波止場の、ベンチの前。
あの夜。 告白をした夜。 風が強くて、梢の髪がやたらと舞って。 それでも、彼女はまっすぐに自分の言葉を聞いてくれた。
「……バカだな、俺」
つぶやいた声が、波にかき消された。
心の中には、日菜子のことが渦を巻いていた。 彼女の傷、彼女の言葉、過去のすべてが、自分を試しているように思えて――それを「今の幸せ」で上書きすることが、怖かった。
それでも、逃げ出したのは自分だ。 梢の差し伸べた手から、目をそらしたのも、自分だった。
……電話が鳴った。ポケットでスマホが震えた。 画面を見るまでもない。梢だった。
けれど、指は動かなかった。
出る資格なんて、自分にあるのか――そんな言い訳を心が勝手に探し始める。
数回目の着信。 そして次も、次も。 涙ぐましいほど、彼女は自分を探してくれている。それが痛いほど伝わる。
怖かった。 会いたいのに、情けなくて、ただの「弱さ」でしかない自分が。
そして、次の瞬間だった。
「……悠馬くんっ!」
風を割って、声が聞こえた。
振り向くと、そこには――息を切らし、ぐしゃぐしゃに泣きはらした顔の梢がいた。
「……梢……?」
「バカ……バカ……バカ……っ!」
叫ぶように言って、彼女はこっちへ駆け寄ると、力いっぱい抱きついてきた。 涙と嗚咽で声が震えていて、でもその腕には、強い意志があった。
「どこにもいなかった……! 何回電話しても、出てくれなくて……!お願いだから……もう、いなくならないでよ……!」
悠馬は、一瞬、言葉を失った。 こんなにも、自分を――
「……ごめん」
それだけしか言えなかった。でも、それがすべてだった。
「……俺も怖かった。過去を話して、君を悲しませたくなかった。でも……そうやって自分のなかだけで閉じてるのって、やっぱり卑怯だった」
「だったら……ちゃんと、言ってよ……!」
彼女の手が、ぎゅっと背中を掴む。
「一人で抱え込まないで、ちゃんと、言ってよ。 私、ずっとそばにいるって、言ったよね……?」
悠馬の胸に、ぽとぽとと涙が落ちた。
「……ごめん。これからは、ちゃんと話すよ。梢、お前がいてくれなきゃ……俺、だめだ」
「うん……私も……どこにも行かない……逃げても無駄だよ。絶対見つけてやるんだから……!」
それは、まるで誓いのような言葉だった。
夜の港。潮の香りと、遠くから聞こえる船の汽笛。 その中で、二人はしっかりと抱き合っていた。
あのとき伝えた「好き」は、今、新しい意味を持って、もう一度胸の奥に灯った。
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怖い。あなたの過去が私を追い越していく気がする。
でも、置いていかないで。
私はまだ、あなたの隣にいたいの。
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