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第三章 梢の過去

目覚めたとき、部屋の隅に差し込む朝の光が、畳の上で静かに揺れていた。微かに潮の匂いを含んだ風が、障子の隙間からそっと流れ込む。


 悠馬は寝ぼけたままの視界で天井を見つめ、ゆっくりと身体を起こす。となりの部屋からは、小さな音を立てて食器が触れ合う音がしていた。


 ――ここは、港町。そしてあの音の先には、恋人になったばかりの梢がいる。


 夢ではない。あの灯篭流しの夜の告白は、確かに現実だった。


 胸の奥に、じわりと温かさが広がっていく。こんなにも穏やかで優しい朝が、自分の人生に訪れるとは思っていなかった。元婚約者との破局。あの絶望の夜を思い返すたび、自分が生きていることが奇跡のように感じられた。


 台所に立つ梢は、エプロン姿でフライパンを振っていた。髪を一つに結び、顔の横に流した後れ毛が、朝の光を柔らかく反射している。湯気の立ちのぼるフライパンの中で、卵焼きがこんがりと焼かれていた。


「おはよう、悠馬くん」


 くるりと振り返った彼女が、少し照れくさそうに笑う。


「ああ……おはよう」

「だし巻き玉子、焦がさずに焼けたの。すごいでしょ」

「お、それはすごい。朝から才能爆発してるな」

「ふふ、ちょっとだけ練習したんだよ?」


 梢がそう言って笑うたび、悠馬の心は少しずつ、しかし確かに溶けていく。誰かに向けて笑いたくなるような朝を、自分もまた過ごしていいのだと、ようやく思えるようになっていた。


 テーブルに並ぶ味噌汁と焼き魚、そしてほんの少し焦げただし巻き玉子。どれもが温かくて、まるで「おかえり」と言ってくれているようだった。


「……こういう朝、久しぶりだな」


「そう?」


「うん。誰かのために用意された朝食を食べるのって、なんだかすごく久しぶりで……。ああ、俺、生きてるんだなって思える」


 梢は一瞬だけ動きを止め、静かに頬を緩めた。


「そう感じてもらえたなら、よかった。……生きててくれて、ありがとう」


 不意に言われたその言葉が、胸にじんと染みた。


 付き合い始めて、まだ1日しか経っていない。だからこそ、こうして同じ朝を迎え、同じ食卓を囲むことが、なんだかくすぐったいような、照れくさいような気持ちになる。湯気の立つ味噌汁をすすりながら顔を上げると、梢も同じようにこちらを見ていた。視線がぶつかって、二人とも小さく笑う。


「……なんか、まだちょっと不思議な感じがする」


「うん、私も。夢みたいだなって思う」


 ゆっくり、でも確かに「恋人」という関係に馴染もうとしている。そんな静かな歩みのひとときが、今この朝の空気に満ちていた。


 港町での生活は、ゆっくりとだが確かに馴染み始めていた。


 日々の仕事。放課後、子どもたちに囲まれて笑い合う梢。たまに手が空いたときに一緒に市場へ出かけ、新鮮な魚を買って料理し合う時間。休日には港沿いのベンチに並んで座り、あたたかい缶コーヒーを分け合いながら、沈んでいく夕陽を見送るだけでも幸せだった。何も特別なことはなかった。けれど、その穏やかな時間が、何よりも愛おしいと思えた。


 けれど、日常の中には見過ごせない“翳り”もあった。


 梢は、ときおり黙り込んで、遠くを見つめることがあった。笑っていても、その瞳の奥に、ふと影が差す瞬間がある。まるで胸の奥に隠した痛みが、時折ふいに波のように押し寄せてくるかのようだった。


(まだ何か、抱えてる……)


 悠馬はそう感じていたが、それを無理に問いただすことはなかった。恋人になったからといって、すべてをすぐに知れるわけではない。人の心は、鍵のない扉みたいなものだ。開くには、時と、勇気と、信頼が要る。


 そして、その扉が開いたのは、ある静かな夜のことだった。


 その夜、二人は港の堤防に腰かけていた。波は穏やかで、潮の香りが心地よかった。遠くには、灯台の明かりがぽつりと瞬いていた。


「ねえ、悠馬くん」


 梢がぽつりと呟いた。


「もしも、私に……言ってないことがあったら、嫌?」


 その問いかけに、悠馬は少しだけ考えてから答えた。


「ううん。すぐに全部わかる必要なんてないよ。ただ、いつか話してくれたら、うれしいな」


 梢は小さくうなずき、波間に視線を落とした。


「3年前にね、付き合ってた人がいたの」


 その声は、まるでひとりごとのように静かだった。


「彼は、町の外から来た人で。海が好きで、絵を描くのが上手で……。私、初めて誰かに『生きてるって、素敵だな』って思わせてもらえたの。その人といるだけで、世界がカラフルに見えた」


 風が少し強く吹き、梢の髪を揺らした。


「でも、ある日突然いなくなった。海で事故に遭って……、遺体も見つからなかった。夢みたいだった。朝起きて、何度も『まだ夢だ』って思った。でも夢じゃなかった」


 その言葉には、淡々としながらも、決して拭いきれない悲しみが滲んでいた。胸の奥でずっと疼いていた傷。それを言葉にすること自体が、きっと梢にとって勇気のいることだった。


 悠馬は何も言わなかった。ただ静かに、彼女の手を握った。


「私ね、それからしばらくの間、人とちゃんと向き合えなくなった。誰かに心を預けるのが怖くて……。でも、それでも毎日を生きなきゃいけなくて、笑って、働いて……。そんなときに、あなたが来てくれた」


 言葉は、波の音に混じりながら続いた。


「だからね、もし私がときどき遠くを見てたら、それは……思い出してるんだと思う。でも、それはあなたに心を向けてないってことじゃないの。ただ、私の一部になってるだけ」


 悠馬は、そっと頷いた。


「俺も、過去を完全に消せたわけじゃない。きっと、誰もが何かを抱えながら生きてるんだと思う。……でも、今の俺は、君といたい。君の手を握って、一緒に前に進みたい」


 梢は、涙をこらえながら微笑んだ。


「ありがとう。……私、あなたに出会えてよかった」


 その夜、二人は黙って堤防に座り続けた。言葉よりも手のぬくもりが、心の奥深くまで染み渡るようだった。


 梢の過去を知ったことで、悠馬の中の何かが変わり始めていた。

 自分だけが傷ついていたわけじゃない。自分だけが苦しんでいたわけじゃない。

 あの絶望の夜、命を終えようとした自分に、手を差し伸べてくれた人がいる。

 そして今、自分にも、差し出せる手がある。


 港町の夜は深く、静かだった。

 でも、その静けさは決して孤独ではない。隣にいる誰かの体温が、確かにそこにあることを教えてくれる。


 未来のことはまだわからない。でも、少なくともこの瞬間は、確かに幸せだった。


 人は、誰かの痛みを知ることで、初めて本当に優しくなれるのかもしれない。

 

 *************

 

翌朝、梢はいつもより早く目を覚まし、海辺を散歩しようと悠馬を誘った。

 二人で並んで歩く浜辺。打ち寄せる波に足を濡らしながら、時折目を合わせて笑い合う。その姿はまるで、何年も寄り添ってきた夫婦のようだった。

 未来のことはまだわからない。でも、少なくともこの瞬間は、確かに幸せだった。


 「……もうすぐ夏も終わりだね」


 梢が、波打ち際を見つめながらつぶやいた。


 「うん。あっという間だった気がする」


 「灯篭流しのとき、こうして歩くことになるなんて、思ってなかったな」


 「俺も。というか、そのときは、まだちゃんと顔も見えてなかった気がする」


 ふたりで笑った。潮の匂いが、かすかに鼻をかすめる。


 「今度、一緒に灯台まで行かない?」


 梢がふいに言った。


 「願掛け灯台? あそこ、なんだかちょっと観光地っぽくて、行ったことなかった」


 「地元の人って、意外と行かないよね。私もちゃんと登ったのって、子供の時かな」


 「いいよ、行こう。いつにする?」


 「そうだな……来週の日曜、晴れたら」


 「了解。晴れますように、って今日から願掛けしておこうかな」


 梢は、はにかんだように笑った。その笑顔を、悠馬はひどく愛おしく思った。


 ――何気ない約束。けれど、それは、二人にとって新しい日々を築くための、小さな積み重ねだった。


 浜辺の散歩のあと、二人は市場へ立ち寄った。今日は漁港での小さな朝市が開かれているらしく、賑わいの中に子どもたちの笑い声が混じっていた。


 「ほら、あの子たち、学童の子たちじゃない?」


 梢が手を振ると、三人ほどの子どもたちが「こずえ先生ー!」と駆け寄ってきた。


 「先生、今日お魚買うの? ぼくんち、カレイ買ったよ!」

 「うちはエビ! パパがフライにするって!」


 口々に話す子どもたちの声に、悠馬は微笑んだ。梢の横顔が、自然にほどけていく。


 「元気でいいなあ」


 悠馬がつぶやくと、梢は照れたように笑った。


 「こうやってね、子どもたちと関わってるとね、ほんと、いろんなこと考えさせられるよ」


 「たとえば?」


 「……明日も、明後日も、ちゃんと生きてたいなって思う」


 その言葉に、悠馬は一瞬だけ胸を衝かれた。

 生きていたい、という願い。それは裏を返せば、かつて「生きたくない」と思ったことがある、ということだ。


 「俺も……そう思えるようになったよ。君に出会って」


 言葉にするのは少し照れくさい。

 でも、ちゃんと伝えたかった。


 買い物を終え、ふたりはアパートへ戻った。昼過ぎには、洗濯物が風に揺れている。畳の上でごろんと横になると、梢が小さなため息をついて言った。


 「ねえ、悠馬くん」

 「うん?」

 「もしね、もしだけど……わたしに、まだ言ってないことがあったら、どうする?」


 それは、あの夜に続くような問いだった。


 「昨日も言ったけどさ。全部を今、無理に知ろうとは思わない。でも、君が話してくれるなら、ちゃんと聞くよ」


 梢は少しだけ黙って、それから言った。


 「いつか、話す。……そのときが来たら、ちゃんと」

 「うん」

 「……それからね」

 「ん?」


 「私、あなたと一緒にいる未来を、ちゃんと考えてる。これからも、毎日を大事にしたいなって思ってる」


 悠馬は、ゆっくりと頷いた。

 かつて何も見えなかった未来に、今は、誰かと生きるという希望がある。


 「……俺も。君といられるなら、それだけでいい」


 そのまま、静かな午後の光の中で、二人はうとうとと眠りについた。梢の指先が、そっと悠馬の手を握ったまま。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 あの人のこと、やっと少しだけ話せた。

私は誰かに抱きしめてほしかっただけなんだ。

あなたがそれをしてくれるなら、もう十分。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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