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第一章 港町の灯り

ねえ、君にとって“帰る場所”ってどこ?

その言葉が、ふと頭の中をよぎった。

 誰が言ったのかも、いつ聞いたのかも覚えていない。

 ただ耳の奥にずっと、残っているようなそんな声だった。


俺――神谷悠馬(かみやゆうま)、二十四歳。

六年近く付き合い、婚約まで交わした恋人に振られたのはたった二か月前のことだ。

 

「ごめん、やっぱり一緒にはいられない」

 

彼女はそう言って、泣きながら指輪を置いて出ていきその後、全く連絡はつかなくなった。

理由は聞けなかった。

聞く資格もないと思った。

仕事を理由に何度もデートを断り、将来の話を避け続けたのは、

俺の方だったから。

自業自得だ。

なのに、頭ではそう理解していても、心がついてこなかった。


最初は、ただぼんやりとしていた。

日常が、霞がかったように感じられて、どんなにまぶしい朝日も胸に突き刺さるだけだった。

そのうち、何も食べられなくなって眠れなくなって、息をするのも億劫になった。

会社は辞めた、、、というか行けなくなった。

心療内科にかかってみたけれど、薬を出されただけで何も変わらなかった。

家にいると彼女との思い出が襲ってくる。

出かけてもすれ違うカップルを見るたびに胸が痛くなる。

俺の居場所なんて、もうどこにもない。

そう思った時、自分でも驚くほどあっさりと「死」を選択肢に入れていた。


――だったら、どこか遠くで、誰にも知られずに終わらせよう。

そう思って、電車に飛び乗った。

あてもなく、ただ、東京から遠くへ遠くへ。

 乗り換えを繰り返し、気づけば海の見える小さな町に辿り着いていた。


午後の陽が傾きかけたころ、無人駅に降り立つ。

風は生ぬるく、セミの鳴き声が遠くに聞こえた。

潮の匂いが鼻をくすぐる。

観光地でもなければ、特別に有名な場所でもない。

ただの小さな港町。

ここなら、誰も俺のことなんて知らない。

静かに終われる場所としては、悪くない。


駅を出て、潮風に吹かれながら海辺を歩いた。

足元の砂は細かく、歩くたびにかさかさと音がする。

体は重く、足取りは自然と遅くなっていった。

やがて、浜辺の岩場に腰を下ろし、遠く水平線を見つめる。

「……このまま、全部終わらせられたら楽なのに」

そう呟いた声は、誰にも届かない。

 

そんな時、不意に背後から声がした。

「……あの、大丈夫ですか?」

振り返ると、そこには一人の女性がいた。

年の頃は二十代後半くらいだろうか。

黒髪を後ろでゆるく束ね、白いブラウスとジーンズというシンプルな格好。

だが、その表情はどこか柔らかく、まぶしいほどに明るかった。


「顔、真っ青ですよ。……よかったら、これ」

彼女はそう言って、ペットボトルの水を差し出してきた。


「……ありがとう。でも、大丈夫です」

かすれた声でそう答えると、彼女は眉をひそめた。


「全然大丈夫じゃない顔してますけど?」

「……知らない人に、そんなに親切にするの?」

「だって、放っておけない顔してたから」

 

その一言で、なぜか胸の奥がきゅっとなった。

俺のことなんて、何も知らない人間が、当たり前のように優しくしてくる。

今の俺には、それがとても痛かった。


「ここ、地元なんですか?」

「うん、ずっと住んでます。見ての通り、なんにもないけど、海と空だけはきれいなんですよ」

 

そう言って、彼女は砂浜に視線を向けた。

風が吹いて、彼女の髪がふわりと揺れる。


「旅の途中……ですか?」

「……そんなところ」

「泊まる場所、もう決めてるんですか?」

「いや、特に」

彼女は少し黙ってから、ぽつりと独り言のように言った。

「この辺、宿ないし……」


しばらくの間、二人は波音を聞いていた。

それから、彼女が柔らかく言った。


「ちょうど晩ご飯の準備しようと思ってて……もしよかったら、オムライス食べていきませんか?」


「は? 知らない男を家に呼ぶなんて、不用心だろ」

「んー、そうかも知れません。でも……これでも人を見る目、あるんです。それに、そんな今にも消えそうな顔してたら、見捨てられないでしょ」


彼女の笑顔はあたたかくて、どこか懐かしいようだった。


「……オムライス、うまいの?」

「自信はないけど、気持ちは込めるよ」

「……じゃあ、休んでく」

「はーい、ひとまず保護成功~ってことで」


一ノ瀬梢いちのせこずえ――彼女はそう名乗った。

俺は、自分の名前を言うのに少しだけ躊躇したが、結局「神谷悠馬」とだけ答えた。


梢さんの家は、浜辺から歩いて10分ほどの場所にあった。

木造二階建てのアパート、どこか懐かしい匂いがした。


「どうぞ、靴脱いで上がってください。汗もかいてるだろうし、シャワー使っていいですよ」

「……そこまでされる義理はないだろ」

「うーん、義理とかじゃなくて、なんだろ。困ってる人を放っておけない性分?」


言いながら、彼女は台所へ向かっていった。

俺は居間の畳に腰を下ろし、深く息をつく。天井を見上げると、柱時計がコチコチと時を刻んでいた。まるで、止まっていた時間が少しだけ動き始めたようだった。


やがて、ふわりと香ばしい匂いが漂ってくる。


「お待たせ、口に合うといいけど」

そう言って出されたのは、ふわふわに焼かれた卵に包まれた、王道のオムライスだった。

ケチャップで「ようこそ」と丁寧に書かれている。文字の端々が少しにじんでいるのが、なんだか温かみを感じさせた。


「……わざわざ書かなくても」

「だって、お客さんだもん。サービスですよ!」


嬉しそうに笑うその顔に、思わず吹き出しそうになる。


「なんか……子どもっぽいな」

「なにそれ! 失礼!」

梢さんが頬を膨らませて抗議する。その背後、棚の上には三体のうさぎのぬいぐるみが整列していた。白、ピンク、水色。それぞれ表情が微妙に違う。


「……あれもサービスか?」

「ち、違うし! あれは……子どもたちが遊びに来た時用!」

「子ども?」

「うん。私、学童保育で働いてて。小学生と毎日わちゃわちゃしてるの。あのぬいぐるみ、人気なんだよ」


そう言いながらも、頬がほんのり赤く染まっている。

本当は、彼女が“好き”だから置いてあるんだろう。だが、それを隠したいらしい。その無理な言い訳が、どこかかわいらしくて、俺は黙ってうなずいた。


食後、梢は「お風呂、使ってください」と言って自室に引っ込んだ。


シャワーの音にまぎれて、ふと涙がこぼれそうになる。

なぜ、俺なんかにここまでしてくれるのか。その理由がわからない。


風呂から上がると、清潔なパジャマとタオルが置かれていた。男物のものだった。

なぜ男物なのかと少し疑問に思いながらも、「まぁ、父親のかな?」と呟いてみる。気遣いが伝わってくる。


畳の部屋に布団が敷かれ、蚊取り線香の香りがほのかに漂っていた。


「明日は朝から仕事だから、悠馬くんは、ゆっくり寝ててくださいね。鍵、ここに置いておきます。自由に出入りして大丈夫だから」

そう言って、梢は布団の横に小さな鍵を置いた。


「……ずっといるわけにもいかないだろ」

「別にいつまででもいいですよ。無理に居場所を決める必要、ないんじゃないかな」


その一言に、なぜか胸がぎゅっと締めつけられた。

居場所なんて、もうないと思っていた。けれど今、目の前のこの部屋、この空気の中に、ほんのわずかでも「いてもいい」と思える何かがあった。


夜、布団に横になると、遠くから波の音が聞こえた。

東京では決して聞こえない音だった。

このまま、時間が止まればいいのに――そんなことを思いながら、俺は静かに目を閉じた。

 

**************

 

朝、目を覚ますと、障子越しの光が柔らかく差し込んでいた。潮の匂いに混じって、どこか甘く香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


「……夢じゃなかったんだな」


ぼんやりと天井を見上げながら、昨夜の出来事を思い返す。見知らぬ町で、見知らぬ女性の家に泊めてもらった――まともに考えたら、あり得ない展開だ。でも今、敷かれた布団の感触も、隣の部屋から聞こえる包丁の音も、現実だった。


「おはようございます、よく眠れましたか?」


襖を少し開けて、梢さんが顔をのぞかせた。エプロン姿で、髪をゆるくまとめている。その笑顔が、昨日より少しだけ身近に感じた。


「まあ、なんとか」


「よかった。朝ごはん、もう少しでできるので、顔洗ってきてくださいね」


居間の隅に置かれた洗面器で顔を洗い、タオルでぬぐう。昨日と同じ風が、窓の隙間からそっと吹き込んだ。どこか、懐かしい朝の匂いだった。


食卓には、焼き魚と味噌汁、卵焼きに漬物という素朴な朝ごはんが並んでいた。まるで実家に帰ったような、そんな錯覚に陥る。


「こういうの、久しぶりだ」


そう呟いた俺に、梢さんはにこっと笑った。


「朝ごはんは元気のもとですからね。今日は私、午前中は学童の準備で、午後から出勤なんです。悠真さん、どこか行きたい場所とかあれば、地図とかありますけど……」


「いや……まだ、何も考えてない。ていうか、何にもないだろ、こんな町」


「ひどいなぁ。でもまあ、確かに観光名所とかはないかも。でも、海とか港とか、散歩するにはいい場所はありますよ。私のおすすめ、あとでメモしておきますね」


彼女は何気ない調子で話す。でも、その一言一言が、どこか優しかった。


「……ありがとう」


その言葉が、自然と口から出たことに自分でも驚く。感謝なんて、最近まともに言った記憶もなかったのに。


朝食を終えると、梢さんは出勤の支度を始めた。彼女の背中を見送りながら、俺はようやく「生きている」という実感をかすかに取り戻していた。


家に一人残されたあと、ふと思い立って外に出てみる。潮風が肌に心地よく、どこか重かった胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなるようだった。


ここは、まだ俺にとって「帰る場所」ではないかもしれない。


でも――。


その始まりくらいには、なってくれてもいい気がした。


昼下がりの陽射しが、舗装の甘い細道をじりじりと焼いていた。

港を少し外れた先、町外れの小さな小学校のそばに、平屋の建物がぽつんと建っている。入口のプレートには、「つばめ学童クラブ」と手書きの文字。


俺はふと思い立って、そこまで足を運んでいた。


あてもなく歩いていたはずが、梢さんの言っていた「学童保育」という言葉が、どこか頭に残っていたのかもしれない。彼女がどういうふうに、どんな顔で子どもと接しているのか――ただ、それを知りたかった。


金網越しに中をのぞくと、十人くらいの子どもたちが、芝生の庭で元気に遊んでいた。鬼ごっこ、ボール遊び、砂遊び。どこにでもある放課後の風景。


その中に、梢さんの姿を見つけた。


いつものゆるいポニーテールが、子どもたちに混ざって軽やかに揺れている。ひとりの男の子が泣きそうな顔で何かを訴えていた。梢さんはしゃがみこみ、目線を合わせて、ゆっくりと話を聞いていた。


その表情は、昨夜見たものよりも、もっと柔らかく、そして強かった。


やがて男の子はうなずき、指をさして何かを説明する。梢さんはくすりと笑って、それからそっとその子の背中を押した。少しだけ照れたような顔で、その子はまた遊びに戻っていった。


「……すごいな」


思わず、口の中で呟いていた。

子どもを相手にするのは、思っている以上に大変だ。感情はまっすぐだし、言葉もうまく伝わらない。下手に出ればなめられるし、上から叱れば心が離れる。

でも彼女は、どちらでもなかった。ただ、同じ目線で、ちゃんと向き合っていた。


ふいに、梢さんがこちらに気づいた。


一瞬、目を丸くしてから、手を振る。


「悠真さーん! どうしたんですか、こんなところで!」


俺は少しばつが悪くなりながらも、金網越しに答える。


「いや……散歩してたら、たまたま通りかかって」


「ふーん? たまたま、ね」

ちょっといたずらっぽい顔で笑ってから、子どもたちに「ちょっと待っててね」と声をかけて、門のところまでやってくる。


「中、見てく? って言いたいけど、今日は保護者以外入れない日なんです、ごめん」


「いや、別に……のぞいただけだし」


「でも、嬉しかったよ。わざわざ来てくれて」


その言葉に、少しだけ胸が熱くなる。

梢は続ける。


「ここに来る子たち、家庭の事情とかいろいろあってね。寂しい思いしてる子も多いんだ。だから、できるだけ、ひとりひとりの話をちゃんと聞いてあげたいなって思ってるの」


その目はまっすぐで、静かな情熱を湛えていた。


俺はふと、自分が何かを「まっすぐ」見たのはいつだったろう、と考える。仕事も、恋愛も、どこかで言い訳ばかりしていた自分とは、まるで違う生き方だった。


「……なんで、そんなに頑張れるんだ」


ぼそりとこぼした俺の声に、梢さんは肩をすくめる。


「うーん、私も昔ちょっとね、いろいろあって。だからかなぁ……帰る場所がちゃんとあるって、すごく大事なことなんだって思ってて。私にできることなんて少ないけど、せめてこの場所だけは、誰かの“帰ってきていい場所”にしたいの」


その言葉に、あの夜、頭をよぎった声が重なる。


――ねえ、君にとって“帰る場所”ってどこ?


答えはまだ出ない。でも、少なくとも今、目の前にあるこの景色は、俺にとって何かの「始まり」にはなってくれそうな気がした。


夕焼けが空をゆっくり茜に染めていく頃、つばめ学童の門が閉じられた。

校庭の隅にまだ少し子どもたちの笑い声の余韻が残っているようで、それが風に溶けて遠くへ流れていく。


「お疲れさま。今日も大変そうだったな」


俺は学童の前の電柱にもたれ、梢さんが出てくるのを待っていた。


「あれ? まだいたんだ」


少し驚いたような声。けれど、笑顔だった。


「ただの散歩。帰り道、一緒に帰りたいなって思って」


「ふふ、素直だね。いいよ、こっちの道、海まで出られるから」


並んで歩き出す。ふたりの影が長く伸びて、アスファルトに重なる。

話すことがあるような、ないような。だけど不思議とその沈黙が居心地悪くない。


「……今日の子、泣きそうだったね」


「うん。お母さんが約束してたのに、迎えに来られなくなっちゃって。それで、ちょっと荒れちゃってた」


「そっか。……偉いよな、そういうの、全部受け止めて」


「ううん、そんなに立派なもんじゃないよ。ただ――昔の自分を思い出すだけ」


そう言って、梢は前を向いたまま、小さく息をついた。


「私ね、小さい頃、親が忙しくてほとんど家にいなかったの。寂しいって言えなかった。言っちゃいけない気がして」


「……」


「だから、あの子みたいな気持ち、ちょっとわかるんだ。迎えを待つ時間の長さとか、ひとりで我慢するあの感じとか」


その言葉に、胸がじわりと熱くなる。


いつも明るくて、余裕があって、人に優しくて。

だけど、その裏には、ちゃんと痛みがあるんだ。人を支えられるのは、痛みを知ってる人なんだ。きっと。


「……そんなふうに言えるの、すごいな」


ぽつりと漏れた言葉に、梢はちょっとだけ笑った。


「悠馬くんは? 子どもの頃、どんなだった?」


「……んー、覚えてるのは、あんまり騒がしい家じゃなかったな。親も無口で。感情のやりとりとか、少なかったかも」


「そっか。だから今、寂しさに気づいちゃったのかもね」


「気づきたくなんかなかったけどな……」


海が見えてきた。

水平線の向こう、沈みかけた太陽がオレンジ色に滲んでいる。波の音が、ゆるやかに足元へ寄せては返していた。


「でも、今日の君、少しだけ明るい顔してる」


そう言って、梢さんがちらと俺を見た。


「……そう見える?」


「うん。昨日より、ちょっとだけ」


その言葉が、なぜか胸の奥で反響する。

「昨日よりちょっとだけ」。その小さな変化が、今の俺にはとても大きかった。


「じゃあ、明日はもうちょっとだけマシな顔、できるかな」


「うん、きっとできるよ」


梢さんはそう言って、俺の隣で足を止めた。

風が吹く。彼女の髪がさらりと揺れる。


「海って、何も言わないけど、全部受け止めてくれるみたいで、好きなんだ」


「わかる気がする」


沈黙。けれど、言葉よりも静かに、何かがふたりの間を満たしていた。


この町に来て、初めて心から「誰かと並んでいる」と思えた瞬間だった。


夕暮れの柔らかな光が梢さんの頬をほんのり染めていた。

彼女がぽつりと呟いた言葉が、ふいに俺の胸を揺らす。


「……無理に居場所を決める必要、ないんじゃないかな」


その声は優しくて、どこか頼もしくて。

この小さな町の空気の中で、俺は初めて、少しだけ「ここにいてもいいのかもしれない」と思った。


海の向こうで暮れる夕陽が、ひときわ赤く輝いている。

まるで、これまで閉ざしていた心の扉が、静かに開き始めたみたいに。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今日、知らない男の人を泊めた。

すごく寂しそうな目だった。

きっと、私と同じで行き場がないんだと思う。

もう少し、ここにいてくれたらいいのに。

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