第三部 魚身求神篇 その二
シャカシャカシャカシャカシャカ……
「お痒いところはございますか?」
「大丈夫。気持ちいいよ。このまま続けてコマッチモ」
「かしこまりました」
そう答えるとコマッチモが俺の髪をシャンプーでゆっくりと撫でるように洗い始める。仰向けになった俺は少し伸びた髪を洗ってもらいながら宙に浮かせた本を見る。
浮かせた本。
正確には〝吊るした〟本。
送られてきたカディシン教の聖典16冊と農耕器具のカタログ14冊、そして播種の指南書13冊が宙を泳ぎ、魚の鰭のようにページがペラペラとめくられる。やっぱり「観る」のと「思い出す」のとでは違う。「観る」方が〝その場〟のイメージは強くなる。
2. ジェラート
「なるほどね」
午前八時。
俺の今いる場所はアントピウス聖皇国の北の片田舎。
ハルシャ州カナウジ市。
首都アスクレピオスから五百キロも北北東に離れているこの場所はルバート大森林やロンシャーン大山脈の傍ということもあって、朝は肌寒い。けれど日中は温かくて湿度もそこそこ。二か月も居ると結構住みやすく感じる。
シャー……
体からシャワーノズルを生やし、優しく両手で泡を洗い流してくれるコマッチモ。
屋敷の外まで伸ばしたコマッチモの体の一部は貝の水管みたいに井戸から水を吸い上げ、しかも吸い上げながら激しく水を振動させてお湯にしてくれる。だからとても心地良い。
モフ、モフ、モフ、モフ、モフ……
バスタオルで髪を拭いてくれるコマッチモ。
俺はその間、目を閉じ、本の各ページの枠の装飾を全て思い出す。モールス信号の内容をもう一度整理する。整理するには「観る」はよくない。やっぱり闇がいい。
ふう……。
どこかのふざけた奴が人の家に金属棒を落としてから、二か月半が経つ。
アントピウス聖皇国の中枢でその話題が出るかどうかを待っているけれど出ない。「季節通りの流星群以外に観測記録がない」の報告だけ。
白々(しらじら)しい。
それとも本当にシロ?
天文観測に関しては無理もないか。
星の運行を記録できても流星群の正体や遠心力、無重力が何かも分からない連中に軍事衛星や周回軌道の説明を求めても仕方ない。軍事兵器「神の杖」なんて知る由もない。
腸が煮えたぎる思いだけれど、仕方ない。
まあ、いい。
こちらはこちらで、妖しい奴の目星はついた。
思うに犯人は、単独でやった。やりやがった。
「では、一度椅子に移動します」
「お願い」
コマッチモに運ばれて、俺は肘掛椅子に移動する。
「苦しくないですか?」
「全然苦しくない。大丈夫だよ」
午前八時三十分。
俺は首にタオルを巻かれ、カットクロスをそっと着せられる。
チャキッチャキッチャキッ。
左手の櫛と右手のシザーを器用に使い、俺の髪はカットされていく。その俺の前には大きな鏡が置かれている。
銀髪に、白い角膜、桃色の瞳。
マルコジェノバ連邦に向かったマソラ2号とは違い、俺に売名行為は必要ない。むしろやってはダメ。分裂体であることが化れる可能性があるから。
マソラ3号である俺の仕事はつねに秘匿行動を伴う。
ナガツマソラらしくあってはダメ。
だから当然俺は変装し整形してある……とはいえ。
元が魔物ヴァルキリースライムの魔獣コマッチモの場合は年がら年中変装しているようなものだから平気かもしれないけれど、俺の場合慣れていないからどうしても違和感を覚えちゃう。まあでも、他の分裂体の三人が頑張っているからそこは我慢。
1号、2号それに4号。みんなお疲れ様。
「こんなに面白い食い物を食べたのは初めてだ!」
「冷たい!それにこれ……ポテトサラダの味じゃないか!」
屋敷の外は連日賑やか。
冒険者や商人、はては貴族に仕える魔法使いが朝早くから辺境の片田舎に続々足を運んでくれる。この屋敷の使用人と荘園の小作人たちの弾むような声と商品の匂いが漂ってくる。ついでに孤独で憐れな糞臭と、傲慢で虫歯だらけの不細工な口臭も。
やれやれ、封印されし言葉「カンダチ」はハイスペックだからどうしてもこういうことが起きちゃう。好きな匂いばかりは拾えない。
〝匂い〟といえば香料達人の2号。がんばってね。
匂いを操れば世界はきっと一回くらいめくり返せるよ。めくり返せば「神の杖」を落としたバカもきっと見つかる。そっちにいれば、の話だけれど。
「このような感じでよろしいでしょうか?」
「完璧。コマッチモは何をやらせても完璧だね」
シザー、セニング、スライドを使い分けたコマッチモのヘアカットが終わる。
「有難いお言葉。それでは二回目のシャンプーに移らせていただきます」
午前九時三十分。
ヘアカットを終えた俺は椅子に座ったままでシャンプーマッサージを受ける。
ピュー。ピュー。シャッシャッシャ……
サロンシャンプーを俺の髪にたっぷりかけたコマッチモが両手の指と手で、ゆっくりとそれを髪にからませていく。
鏡に映る魔獣コマッチモの姿は、緩めで毛先をのこしたクラシカルシニヨン。ブロンドの髪の下には白い角膜、青い瞳がある。Eカップの胸を包み込んだエプロンドレスがたまらない、なんて邪念を俺は一切抱かず、温和な微笑みを浮かべるコマッチモの小顔をおっとりと見つめる。
ス。
その笑みが消える。こっちは慌てて目を閉じる。
くる!
シャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカッ!!!!!!
ロボット掃除機顔負けの超高速でコマッチモの両手が上下に動く。
爪は一切立てず、あくまで指の腹で頭皮を刺激し、髪を洗ってくれる。
俺の髪の毛、抜けまくるかもしれないけれど、とりあえず極楽極楽。サロンシャンプーの良い香りが部屋を満たしていく。
なんて浮かれている場合じゃない。記されたモールス信号の中身をもう一度整理してみる。見逃している点がないかどうかもう一度確認する。
首都にして聖都アスクレピオスのさらに中心。主城レミエル。
アントピウス聖皇国の中枢。
すなわち元老院カペルラの在る所。
元老院のメンバーは聖皇を含めて十六名。盗聴魔法を警戒するため、魔法を使用すると警報のなる特殊な部屋で聖皇も交えて週に一度、秘密会議を行っているとか。
司会は特別な事情がない限り、常にマリク・ブロイニング枢機卿。
俺が異世界召喚で最初に会った枢機卿。
情報によれば元老院主席。
考えてみれば当たり前かもしれないけれど、聖皇の職務における最側近で、聖皇による召喚の儀の現場管理人。何かあった時の報道官も兼ねる。おまけにアントピウス聖皇国の主要施設とシータル大森林を管轄しているらしい。シータルの管轄ねぇ……。
まあいい。
とにかくマリク枢機卿を筆頭に、十四人の枢機卿と一人の図書館長が、数千の年輪を刻んだ巨樹の円卓の前で一座に情報を伝え、次に打つ手を披露したり、相談したり、捻出したりする。そして議題の最終的決断は聖皇が下す。
会議以前の小会議、つまり舞台裏で話を進めないってところが元の世界の日本と違って素敵。聖皇がお飾りでないところも大日本帝国っぽくなくて嫌いじゃない。
でも根回しは大事だってところはどこの世界でも一緒らしい。まぁ、それがないとこっちとしても面白くないんだけどね。うふふ。
その元老院の会議が現在のところ、紛糾している。
聖皇の表情は穏やかだけど明るくないとか。それも素敵。ざまあ味噌漬け。
それもそのはず。
議題は山積。
その一、追放聖皇オパビニアの行方。
アントピウス聖皇国に東接するイラクビル王国の首都バルハチが急遽壊滅して、生存者の話によれば「動く花に襲われた」。そこで世界最大の蔵書数を誇るソペリエル図書館の禁書庫を漁りまくってバルハチの存在理由を再認識し、青ざめる元老院一同。
排斥された元聖皇の収納魔法使いが亜空間に隠していた花人族を率いてバルハチを破壊したことまでは想像できても、その後の行方が一切不明。理解不能。ちなみに俺のことが大好きでいじめまくってきた竹越沙友磨ら召喚者は生き延びたものの、バルハチの城下民同様に「記憶がない」の一点張り。
そりゃそうだ。魔獣のソフィーが吐き出した泡にくるんで大砲の弾みたいにバルハチの外に吹っ飛ばしたんだ。意識を失っていて当然。
興味があって首を突っ込んだ俺がオパビニアを食べちゃったなんて知るわけがない。
オパビニアのもつ亜空間スペキエスノヴァを俺の亜空間ノモリガミが呑み込んだなんて知るわけがない。
歴代の聖皇らが消滅させるのをあきらめて封印し続けた魔法使いが元召喚者に消化吸収されたなんて思うわけがない。これがとても大事。
んで、この禍花王問題に対処しなければならないのがソビエスキー・グレイ枢機卿。
イラクビル行政の責任者。
元老院カペルラの中で一番自由度と独立性が高いのがかえって災い。自由と独立の代償は孤独。味方になれるキャラがいな~い。というわけでお抱えの隠密組織ヘレボルスをフル稼働。妹と幼馴染の馬鹿二人は……まぁ、関係ないか。少なくとも3号の俺には。
シャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカ……
コマッチモの右手が手首を軸にして左右に高速で振られる。おでこから前髪、頭頂部の髪の毛が徹底的に洗われていく。
摩り方が変わった!
指の背も使うんだ!?
さすがコマッチモ。テクニシャ~ン。
議題その二、ロンシャーン山道。
アーキア超大陸中央のロンシャーン山脈が大噴火を起こした際、俺はミソビッチョやシータルの仲間とともに溶岩流を流すための流路を必死に作製。
これによりアントピウス聖皇国がシータル大森林に兵を入れる軍用路をついでに壊滅させた。加えて山で彼らが開発していた鉱山へのアクセス道路もちゃんと消失させた。ゲームオーバー。ヴァウディ・アブレ。イディックチェルト。スベテハムダ。
聖皇国はそれをやっとこさ開通させたものの、鉱山内では事故が多発。まぁ、起こしている張本人は俺なんだけどね。ドンマイ。
これに対処するのは老眼鏡をかけたり外したりしている司会者マリク枢機卿。
彼の旧友であるジブリール図書館長は「ロンシャーン開発はしばしあきらめた方がいい」と会議の場で静かに助言。一千キロ先まで見通す光属性魔法の使い手の言葉に、一同はうなだれ、座の空気はただただ重くなっていくとか。
シャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカ……
コマッチモの左手が洗髪に参加。後頭部の毛を強く優しく擦ってくれる。
気持ちいい!毛穴の皮脂がかき出されてすっ飛んで、毛母細胞が歓声あげて喜んでいる気がする。
議題その三、ジペルテン監獄。
アントピウス聖皇国の属国みたいな立ち位置にあるパンノケル王国の北の地ジペルテン。ルバート大森林に近いこの辺境の地の重要犯罪者収容所で起きている連続行方不明事件。
これに関しては俺は何も関知していないから分からない。ここで情報収集をやって初めて知った。ウチの諜報部のミソビッチョも握っていなかったから4号も知らない。
収容所でヒト攫って誰が何してんだろう?
兵隊づくり?食糧確保?秘密保持?
聖皇を困らせたい輩がただ問題を起こしているだけかもしれない。
で、これに対応しなきゃいけないキャラはダキア・メソポタミア枢機卿。
彼は一言で言えばパンノケルの用心棒集団のトップ。
なのに用心棒の仕事ができていない。
パンノケル王国の治安維持のために秘密警察トイツブラーテンを率いるダキア枢機卿は改善できない現状を会議の場でしぶしぶ報告し続けなければならない。〝お便り〟によれば食が細ってもうじき心労で倒れるかもしれないとのこと。心臓お大事に。
気になるのは〝お便り〟をくれている張本人が抱えている問題。
議題その四、ルバート大森林。
ジベルテン監獄のすぐ北に広がる広大な森の中の異変。
魔物の減少。
さらには森の近くに住む人や獣が森に入ったまま帰らなくなる事例が多発。
その異変の結果かどうか、マルコジェノバ大陸に女帝リチェルカーレとかいう変なヤツが現れた。そしてその女帝を調査するのがマソラ2号。
ごめんね。魔力をほとんど3号の俺が持って行っちゃったせいで大変だよね、2号。
でも頼れる魔獣女子四人がいるし、2号の器用さとひらめきがあればたぶん女帝なんてやっつけられるよ。
コンコン。
部屋をノックする音が聞こえる。小さく咳込んだ後、「ハダリ様」と呼ぶ老人の声が扉の向こうで聞こえる。
ハダリ・ベリサリオス。
シギラリア要塞を出る際につけた俺の偽名。
俺は時折眺めようと思って宙に浮かせていた本を地面にそっと降ろしていく。
「どうなさいますか?」
シャカシャカやってる手を止めずに尋ねてくるコマッチモ。たぶん三十分以上ルンバみたいに手を動かしてる。すごい。
「!」
ふと瞼を開いて驚く。俺の髪だけじゃなくて部屋中泡まみれ!そうだ!ヘアカットの後のコマッチモ念入りシャンプーマッサージはこうなるのを忘れてた!
「メロヴィングさん。ちょっと待ってください」
うっかりしていた俺は亜空間ノモリガミの中に泡を呑み込む。乾かした床に本を着地させる。
「すみません。マソラ様の髪を洗うのが楽しすぎてつい」
ミシュランマンになりかけたままションボリするコマッチモの泡も俺の亜空間が呑み込む。
「気にしないで。少しの間、泡が飛び散らないように続けて」
「かしこまりました」
俺は「どうぞ」と言って声の主を部屋に招く。時計を見る。
午前十時十分。
「失礼します」
入ってきたのはこの屋敷主に仕える執事長メロヴィング。考えてみたら「失礼」しているのは居候のこっちなのに、律儀な人。いついかなる時も紳士って感じ。
「お届け物をお渡しに伺いました」
そう言ってメロヴィングは捧げるように小包を俺に見せてくる。
「いつもわざわざ部屋まで届けてもらい、すみません」
コマッチモに洗髪されながら俺は応える。
「いえいえ、礼には及びません。それより入用の物がございましたらいつでもお声がけください」
コマッチモのシャカシャカ音が小さくなったかわりに、開けた窓の外の音が中に響いてくる。
「おらおら客ども!もっとこのテオドリック様に感謝しろ!さもないとジェラートを値上げするぞ!」
「そうじゃない!このガイセリック様にこそ感謝しろ!聴いているのか低ランク冒険者たち!!氷の魔法以外使えない分際め!」
「何を言う!このアラリック様あってのジェラートだぞ!?わきまえておるだろうな賎民ども!頭が高い!」
痩せ衰えたメロヴィング執事長の額の皺が深くなる。……相変わらず、前立腺癌のニオイがする。しかも血流に乗って癌細胞の転移も日に日に広まってる。あまり余命は長くないだろうね。このままだと一年半くらいかな。
「すみません」
「どうかしましたか?」
メロヴィングの謝罪を聞き流して俺が目を閉じると、コマッチモのシャカシャカシャンプーのスピードが元に戻る。封印されし言葉「カンダチ」の力で俺はメロヴィングが机に小包をそっと置き、深々と一礼して部屋を去っていくのを嗅覚で知る。
「では、そろそろすすぎに入ります」
「お願い」
午前十時三十分。
二回目のシャンプーが終了したタイミングで俺は小包を宙に浮かせる。ひも解く。中から出てきたのはいつも通り書物。
シャー……
コマッチモにシャワーでシャンプーを洗い流してもらいながら、俺は本を読む。
タイトルは『竜の契り』。
パラパラパラパラパラパラパラパラパラパラパラッ!!
内容は戯曲。それはどうでもいい。問題は各ページの枠を飾るモールス信号。
パラパラパラパラパラパラパラパラパラパラパラッ!!
本の発送者はジブリール。
すなわちアントピウス聖皇国のソペリエル図書館館長。
つまり元老院カペルラにいる、俺の内通者はジブリール。
パラパラパラパラパラパラパラパラパラパラパラッ!!
ジブリールにモールス信号を教えたのは俺。それを使って異常な熱意で情報を伝えてくれる図書館長。俺にはアンチも多いけど、ファンもそれなりにいるみたいだ。
パラパラパラパラパラパラパラパラパラパラパラ……なるへそ。
「ようやく効果が出てきたみたい」
「それはようございます」
午前11時。
シャンプーを流し終えたコマッチモは俺の髪の水気をタオルで軽く拭き取り、再び肘掛け椅子に俺を連れていく。
ニュウ。ニュウ。ニュウ。ニュウ。
ヘアリンスを使ったトリートメントが始まる。
今度はゆっくりと頭皮をマッサージしてくれるコマッチモ。至れり尽くせりとはまさにこのことだ。ありがたやありがたや。
こんな天国みたいな状況とは真逆に陥っているのが今のアントピウス聖皇国とパンノケル王国。
演出家はナガツマソラ。
マソラ3号である俺。
つまりチンダラガケを使った演出が効果を出し始めた。
ナガツマソラ分裂体4体の中で一番潤沢な魔力素を持つことができた俺。マソラ3号。
俺は首から下の自分の体を動かせない。けれど〝他の体〟なら魔力素を使って動かせる。
他の体。
それは選りすぐりのチンダラガケ2種。
油赤子とモクリコクリ。
ニュウ。ニュウ。ニュウ。ニュウ。
油赤子はネズミをベースに作ったチンダラガケ。
こいつらは昼夜問わず活動し、菜種油を好んで食べる。
一週間で繁殖可能個体にまで成長し、一度に10匹前後の子を産む。俺が操縦するのは油赤子30匹。後から増えた個体に関しては支配しない。野放し。聖皇国首都アスクレピオスの発達した下水道を通じて、どんどん油赤子は広がっていく。
この油赤子のおかげでアントピウス国内の菜種油の先物取引は完全停止。時価での取引しかなくなる。
当然菜種油そのものが食いつくされるわけだから、菜種油の価格は高騰に次ぐ高騰。
こうして首都アスクレピオスの街灯用の油は底をつく。夜間の照明は消える。辺境の片田舎と同じ。夜は満天の星空を除き漆黒の闇に包まれる。
けれど田舎と違い、人は大勢いる。自然と野盗が増える。人心は闇に呑まれて、少しずつ爛れていく。
そしてモクリコクリ。
これは俺のお気に入り。見た目はハエ。
だけど中に高度好塩菌を共生させている。つまり塩を好んで食べるチンダラガケ。
塩を食べることで食欲が増進し、このチンダラガケは体重の五倍量の食事を毎日行う。その結果、四日で繁殖可能個体となり、一度に数百個の卵を産む。ただしハエのように産んですぐに死なない。死ねない。死ぬのは体内に塩を取り込みすぎて浸透圧調節ができなくなった時。高度好塩菌に全てを呑み込まれた時。
その瞬間。つまり体内に塩を取り込みすぎて死ぬまでモクリコクリは食事と生殖を続ける。そして大事なのはモクリコクリ自身も高度好塩菌に対して〝反撃〟すること。
つまりモクリコクリは塩分を排泄する。
ハエとしての生存本能が働き、塩玉として糞とは別に塩の塊をこのチンダラガケは排泄する。これを俺はアントピウスの首都から遠い街で放った。
目的。
それは聖皇国の塩の専売制の破壊。
夜の闇に紛れて飛ぶモクリコクリは塩蔵の岩塩をなめ尽くして消し、次の日には街や野のあちこちで塩玉を残す。塩分がないと生きられないという人間の弱みにつけ込み、歴史上の覇者たちはことごとく塩に税をかけてきた。異世界だろうとアントピウスだろうとそれは変わらない。
だからそれを終わらせる。塩はみんなの物。独り占めなんてさせな~い。
回収しても取り上げても次の日には再び散っていく塩。
塩を高値で買わずに済む人々。これでとりあえずは生きられる。
とはいえハエまみれ。糞便の処理には困らないけれど、ぼうっとしていると自分たちの食糧まで食らいつくされちゃう。ハエの幼虫である蛆を逆にタンパク源として養殖する強者は現れるかな?そして……ふっふっふ。
「あ~、やっちゃったか」
「マソラ様?何か不手際がございましたか?」
「ごめんごめん、なんでもない」
びっくりして手を止めていたコマッチモの動きが再開する。
俺は記憶したモールス信号の解読を終える。油不足と塩の放出。未曾有の混乱に収拾がつかず、紛糾する秘密会議。その打開策として、ジブリールは俺が用意した小ネタを会議の外の休憩室で別の枢機卿に、さりげなくほのめかした。
「塩に替わるものなど、神の赦しくらいしかあるまいて」。
ヒトはパニックに陥ると、とんでもないものを〝救い〟だと勘違いする。
ジブリールのぼやきが、とある枢機卿の中に〝救い〟を生んだ。
それが免罪符。
ようするにお守り。
これをもっていれば神の罰から逃れられますよという護符。どこの世界にでも存在する、インチキのかたまり。
免罪符を発行するために組まれたロジックは、「カディシン教の善なる神ミズラオリオが「塩の税収を失う支配層の地獄」と「油を失う被支配層の地獄」を一挙に解決する策が免罪符である」というもの。これが結構笑える。
悪神フレアデスとそれに仕える魔王ウェスパシア。
彼らが民をたぶらかすために「塩をまく」という〝民にとっての飴〟を用いたと元老院において説き、善神ミズラオリオが民の傲慢を戒めるために菜種油を没収するという〝民にとっての鞭〟を用いたと国民には説くつもりでいるらしい。笑うしかない。
こんな素っ頓狂な説を真面目に元老院でぶったのはシプレス・エコール枢機卿。
こいつはパンノケル王国、アントピウス王国、イラクビル王国の農林水産資源を管轄する。つまり追い込まれて後がもうない枢機卿。
だからジブリールに舞台裏で「免罪符」のひらめきを与えられた貴族。「当の本人は免罪符を天啓と心得ているところ、片腹痛し」のジブリールの記述がジワる~。
「免罪符はやむを得ないのでしょうか?」
とは、オファニエル聖皇の台詞。
そりゃそうだ。
こんなのを発行すれば自分の人気がガタ落ちするのは普通に考えればわかる。
「皆々様の前で口をはさむことをどうかお許しください。確かに、防衛費がかさんでいるいま、新たな税収が必要なのは事実だと考えます」
なんて余計で嬉しい口出しをしたのは、会議場の入口を警備する聖皇親衛隊の平井久我之介とかいう御仁。
詳しい情報はジブリールから知らされていないけれど、名前的には召喚者っぽい。まぁとにかくその軍人さんが国防費に言及。
確かに確かに。イラクビルの対魔王戦線も活性化。
そして油赤子の退治と首都の夜間警備のためにアントピウス国内の兵士が集められ、人件費はかさむ一方。
首都とは別に、郊外で跋扈するモクリコクリは冒険者の討伐クエスト上位を独占。手間はかかるけれど危険度が低いから低ランク冒険者でも挑めて超人気。というわけでアントピウスが冒険者ギルドに成功報酬として支払う金額も馬鹿にならない。カネ。カネ。カネ。金が思考を狂わせる。「免罪符がそもそも論外」という思考が回らなくなる。
「期間を限定し、効能を民に知らしめればより聖皇様および神への信仰も篤くなるかもしれません」
疲れ切ってそう助言するのがコンスタンティン・メセット枢機卿。パンノケルの行財政を管轄。それを聴いて頷くしかないのがダキア・メソポタミア枢機卿。パンノケルのお巡りさんのボス。
パンノケルが抱える真の問題は、ジペルテン監獄行方不明事件じゃない。
枢機卿二人を心から悩ませているのが俺の「現象型」チンダラガケ。
つけた名前は鳴子達磨。
これはロンシャーン南麓のスノードロップでやった姑獲鳥と一緒。地縛現象型。
つまり俺はチンダラガケをパンノケル王国の首都カテニンとその近隣にセッティングしたけれど、コイツに関してはノータッチ。コイツはほぼ好きなタイミングで能力を発揮する。そしてその能力は、油赤子やモクリコクリとは違った地味な嫌がらせ。
ただこの嫌がらせは個人的には意味深で面白いと思っている。
姑獲鳥と同じく特定の場所に地縛させたけれど、姑獲鳥のようにランダムに即死魔法を発動させ死を撒き散らすようなことはしない。あれは第一条件として常戦場のような魔力素の濃い土地が必要だし、そもそも即死魔法が危険。敵味方関係なくランダムに死んじゃう。
その点、鳴子達磨は安全。ただ〝安心〟じゃあない。
鳴子達磨はただ音を鳴らすだけ。
それも鈴と拍子木の音。
音が遠くまで響く夜に出現するようにしようかとも思ったけれど、逆の方がかえって怖いと思って昼に出現するようにだけ緩くセッティング。
その二つの音が意味するのは「これから病人がここを通りますよ」という合図。
カディシン教に染まるこの世界は差別だらけで、外見が変貌してしまう伝染病罹患者は、街や村を通過する際に音を鳴らさなければならない掟がある。
たぶんその掟の根幹にあるのは新たな感染者を増やさないための隔離思想だろうけれど、患者にだって人権はある。俺みたいに自分から〝ぼっち〟を受け入れているような自己充足者ならいいけれど、そうじゃないのに〝ぼっち〟にされるのはちょっと気の毒。
そう思って感染症罹患者の鳴らす鈴と拍子木の音を真似できるキジバトベースのチンダラガケを開発。
ハトに交じって鳴き、しかも光学迷彩で周囲の風景に溶け込んで目視不可能。
鳴けば周囲の鳥は驚いて逃げるか、キョドる。
鈴と拍子木の音と、羽ばたいて逃げる鳥を見て、互いに顔を見合わせる人々。
でも病人が道を移動する気配はない。怖くなって家に帰りたいけれど、それじゃ商売にならない。農作業ができない。
自分だけしか体験しない恐怖とは違い、真昼間にみなで体感する音の恐怖。
音は夜より響かないけれど、夜よりも早く恐怖は伝染する。
そして実際に音を鳴らす病人が通過した際は無視できず逃げ散るようになる人々。
ところが鳴子達磨のせいで逆に、病人はリンチされて殺されるようになった。
そうした事件が起きた場合は、カディシン教の法律に基づくと、リンチに加わった連中は死罪が適用される。カディシン教の聖典によれば死罪の理由は「弱者を殺めたから」。でも本当の理由はたぶん、「伝染病患者と濃厚接触したから」。
というわけで未来の労働力たる健康な若人が怒りと焦りで病人を痛めつけては次々に首を刎ねられ、パンノケル王国の民衆は鈴と拍子木の音に過剰反応する毎日。不満のはけ口をどこに向けていいのか分からない。
分からないけれど、徐々に向き始める方向はカディシン教そのもの。
神父や僧侶、さらにはその家族の行方不明者が相次ぐ。怖いねぇ。魔女狩りならぬ神父狩りか。人の心の闇は本当に怖~い。
パンノケル王国は、ジベルテン監獄の事件よりもこの鳴子達磨によって人心がかなり乱れている。
王国兵もSランク冒険者も鳴子達磨は倒せない。
だって現象だから。
鳴子達磨を倒したかったら地層で化石化した魔力素の地脈を消す以外にない。
でもそれは例えば、ロンシャーン規模の山を噴火させるしかない。
そしてそんなの、できるわけがない。
病人に音を鳴らすのを止めさせる以外にない。
それはつまりカディシン教の教えの一部を否定するしかないということ。
自分たちのよりどころである聖典を否定すること。
どうする~?
カディシン教の総本山に、それができるかなぁ?
「免罪符を持つ者は病人であっても鈴及び拍子木を鳴らさなくともよい。そして病人に対しては国から免罪符を支給するというのはいかがでしょう」
これがコンスタンティン枢機卿の殺し文句。
「それでも聞こえる鈴や拍子木の音があるとすればもはやそれは、魔物の仕業といえます。そして魔物は冒険者や兵士によって狩られ続け、少なくともパンノケルにおいては沿岸部を除き、数は多くありません。民衆が魔物の鳴らす音を聴く機会はきっと減りましょうし、病魔ではなくただの魔物の悪戯と分かれば民衆もいささか安堵するでしょう」
応援するダキア枢機卿の言葉とか。ツッコミどころ満載なのがウケる。
「残るは魔物の仕業とおっしゃられますが、ではもし音を鳴らす魔物がいた場合、その魔物を倒せる目途は立っているのですか?」
聖皇オファニエルの当然の問いに明確な返事を出せない枢機卿二人。倒せたらこんなに困ってないよってきっと思ってただろうね。
「はぁ……最悪の場合、私が動きましょう」
そう、これ。
ここが魔法の世界。
最後はボスが何とかできるらしい。
オファニエル聖皇はため息をついた後そう言って免罪符の案を許可したとか。すごい。コイツなら宇宙からタングステン製の金属棒を平気でシギラリア要塞に落としてきそう。タングステン製の金属棒をマッハ9の速度で落とせば鳴子達磨を殺れるね。
うんうん。ますます殺る気が湧いてくるよ。
オファニエル。
必ずオマエの前に立ってやる……
「おいお前!!今俺様のことを馬鹿にしただろう!!」
「め、滅相もございません!」
窓の外の喧しい声のおかげで、自分がトリートメント中であることを思い出す。
時計を見る。午前十一時十八分。
「騒々(そうぞう)しいですね。三人とも殺してブタの餌にでもしますか?」
ゆっくり優しく俺の頭皮をマッサージしてくれるコマッチモはちょっと怒モード。
「いや、俺が何とかするよ」
屋敷の外に養鶏場がある。俺は水蒸気を凝集させ、糸のように長く伸ばし、養鶏場の錠をあける。
「ブタじゃなくてトリで」
水滴の中に俺の魔力素を混ぜ、ニワトリたちの耳に入れ、小さな脳に浸透させ、タンパク質を弄りながらちょっとした仕事を命じる。「三人は卵泥棒だ。命がけで追い払え」。
コケーコッコッコッ!コケーッ!!
ドーパミンの異常分泌を起こした48羽のニワトリがけたたましく鳴きながら養鶏場を飛び出し、ジェラードショップの傍で客相手にふんぞり返っている三人の御曹司を襲撃する。
「うわ!?なんだこいつら!」
二十歳にもなって教養も武芸も魔法も処世術も何一つ持ち合わせない三人。
「ひいぃぃい!魔物に襲われる!!」
しかも趣味が飲酒と弱い者虐めという、絵に描いたカスみたいな三人。
「くそっ!あっちいけ!!あっちいけぇ!」
野鳥に近い筋肉質のニワトリにつつかれ引っ掻かれ、御曹司三人は急ぎ屋敷に逃げ込もうとする。けれどどこかの執事長の仕業で扉は閉まっていて開かない。その間も襲われ続ける三人はたまらなくなって屋敷の敷地の外へと真っ蒼になって逃げていく。それを執拗に追うニワトリたち。飛べないけど羽ばたいてジャンプできるし、走るのが思っていた以上に速い。
ジェラートを売る人、作る人、買う人は最初その光景を呆気に取られて見ていたが、次第にこらえきれなくなり、笑う。腹を抱えて笑いつつ、ジェラートを一口。また笑う。ひっくり返って笑い、笑い終わってジェラートを買い求め、一口。思い出してまた笑う。ジェラートを容器に入れて客に手渡しながら笑う従業員。
皆が笑う。ジェラートとともに。
ジェラート。
アイスクリームですら、召喚者が異世界の知識を持ち込んでからまだ日が浅く、一部の富裕層しか食べられない。
そこにきてジェラート。
庶民のデザートとしてかき氷は昔からあるみたいだけれど、平均気温が低い超大陸南西部ではそこまで氷食いは流行らない。せいぜい風呂上がりに口にするくらい。
そこにきてジェラート。
世界を晦ます香料の調香ができるマソラ2号ほどじゃないけれど、このアイデアは結構当たった。
みずみずしい高原野菜と糖度の高い果物、そして濃いミルクを使ったジェラードはカナウジ市の地元農家を驚かせることに成功した。
結果、噂は市を超えハルシャ州全体に鳴り響き、こうして毎日朝早くからお客が来てくれる。
塩の専売制を崩した俺のせいでアントピウスの各市を治める貴族たちの納税額は高まっている中で、収益を伸ばしたカナウジ市はどうにかトントンでやっていけてる。
そして収益のほとんどを農家に還元する。
どうせ俺のカネじゃない。だから稼いだ連中に返す。
普段安い価格で農産物を買い叩かれている農家にしてみれば夢みたいな話で、この市を治めるバーソロミュー家の株は上がる。バーソロミュー家はいつもどおりの税収で暮らせばいい。商人への借金をこっそり返済しながら。
誰にも損をさせないジェラート。
そりゃそうだ。
これは単に〝チート料理〟を持ち込んだ俺がズルいだけのこと。損なんてしない。
そして誰かと誰かをつなぐジェラート。
この氷菓子にはほかにも利用価値があった。
バーソロミュー家の当主チャルキア・バーソロミューは息子たちとは異なり有能らしく首都アスクレピオスで官僚として日々働いている。裏を返せば自分の荘園管理を息子たちに任せている。正確には無能な息子たちを見張る、堅実だけど敏腕さの少し足りない執事長に。
そのチャルキアがジェラートのことを知り、それがさらにソペリエル図書館の館長ジブリールの耳に入った。
『アントピウスにお越しくださると分かればこちらから会いに伺いましたものを』
というメッセージを、古代語4つを使って暗号化した手紙をジブリールはバーソロミュー家の屋敷に試みに送ってきた。表向きは『稀有な氷菓子をお創りになられている料理人様へ』。
『一度食べにおいで。会うことはできないけれど、ご馳走くらいはするよ。覗きの好きなおじいちゃん』
別の古代語3つを使って暗号化した手紙を逆に図書館のジブリール宛に送ったところ、〝おじいちゃん〟は本当にカナウジ市のバーソロミュー家までやってきたらしく、「ジェラートを食べたあと膝をつき、涙しながら屋敷に祈りを捧げている不思議な老商人がいた」とあとで従業員から聞かされた。
超級魔法アイ・インザスカイで「覗き」を向こうがしてきたら見つけてやろうと思ってたけれど、そこは奥ゆかしくなったんだね。やらずにジェラートを食べただけで帰った。おかげで「カンダチ」で探知し損ねた。やるじゃん。遺していった『〝真〟なる〝天〟味、たしかに堪能いたしました』のメッセージカードがこれまた心憎い。
とはいえこれで縁が切れたわけじゃない。ジブリール館長との〝文通〟は続いている。
俺はモールス信号と配送方法をジブリールに教え、そして首都アスクレピオスにおける状況報告を彼に頼んだ。
俺は俺のもつ既存の諜報網に直接頼れない。
アントピウスやイラクビルに最初から潜伏しているミソビッチョたちとは俺は接触しない。しない方がいい。
彼らは本部であるシギラリア要塞の4号に状況を報告する。その情報のやりとりは複雑緻密で、余計なことを3号の俺なんかがすると、せっかく築き上げてきた諜報網が崩れかねない。だからマソラ3号である俺は俺で情報を独自に入手し、4号からもらった情報とすり合わせ、必要があれば4号を介して、1号や2号にも情報を発信する。
とにかく。
他の分裂体とは違い、俺だけは他の三人の足を引っ張れない。
なぜなら3号の俺は魔力素が潤沢にあるから。
俺は絶対に足を引っ張れない。
他の分裂体はみんな課した制約が厳しい。そんな状況で必死に自分の責務を果たしている。
魔力素の少ない2号。
美人で強いけど、トンチンカンなところのある四人に守られながら、時には彼女たちを守らないといけない。
再生以外の魔法が使えない1号。
古参のニーヤカと新参のジョケジョケをまとめあげなければならない。
一切動けない4号。
ミソビッチョともども本部に残っているせいで、再び「神の杖」の標的にされるかもしれず、そんな中でも防衛対策を進めないといけない。
それに対して3号の俺は、首から上は自由に動くし、魔法も使える。魔力素も十分にある。
それに、
「またあの執事殿がいらしたようですね」
俺にはコマッチモがいる。何でもありの、元ヴァルキリースライムにして俺の魔獣。
「土のいい香りがたくさんする。働き者の汗のニオイも」
コンコン。
「ハダリ様」
ノックが聞こえ、ドア越しに執事長メロヴィングが挨拶する。
時刻は午前十一時四十五分。
「はいはい。今あけます」
「大丈夫でございます。お部屋の外からで失礼します。今日もジェラートは売り切れました。連日大変な好評で、私も大変うれしゅうございます。そこでなのですが、どうしてもということで、野菜の仕入れ先である村民らが一言ハダリ様にお礼を申し上げたいとのことで、お連れしました。洗髪中と存じ上げますので扉越しの無礼をご容赦くださいませ」
「ハァダリ様!本当~にいづもありがとうございまぁ、あっ!?」
俺は水の糸で扉のノブを回して開く。目線は向けられない角度に座っている俺だけど、匂いで人数と性別と年齢くらいは分かる。
「こんな姿でごめんなさい。こちらこそみなさんが毎日楽しそうに仕事をされている姿を窓から拝見させてもらって満足しています。これからもきれいな水と命溢れる土を使い、美味しくて新鮮な野菜と果物、それに乳牛を育ててください。そうすればカナウジ市の魅力はもっと国中に知れ渡りますよ」
部屋の壁に伸ばした水の糸と自分の頭を接続し、俺は小さく頭を動かす。
よれよれの帽子を両手でつかんで胸に抱え、口をぽかんとあけていた村の農家の人たちが大袈裟なくらい首を垂れる。「ありがてぇ」としぼるように言った誰かの言葉が、末期癌(ステージ4)の執事長の目を濡らす。
コケーコッコッコッ……
あ、忘れてた。
ドカンッ!
屋敷の扉が激しく開かれる音。
執事長の潤んだ眼が再び元に戻り、農家の人々を俺のいる向かい部屋の乾燥室に隠して急ぎ鍵を閉める。執事長の握る鍵束がジャラつく。
午前十一時五十分。
「こっちは閉めなくていいですよ。どうせ彼らは俺に用があるのでしょうから」
俺の部屋の扉まで閉めようとしたメロヴィング執事長にそう言うと、執事長は扉を閉めるのを止め、「では失礼します」と、代わりに俺の部屋の中に入ってくる。鍵束をしまい、ポケットからさりげなく出したのは強い鉄の匂い……寸鉄か。消えない古い血のニオイが混ざっている。
なるほどね。
あの〝糞臭〟を三人の護衛にチョイスしたのはたぶんこの執事長だろうな。
知り合いだったかな。だとしたら気の毒なことをした。
まぁジェラートでその件は勘弁してもらおう。
ドガドガドガドガ……
階段を駆け上る音がうるさい。
〈コマッチモ。絶対に殺しちゃダメね。それと剃刀で目を切断するのもダメ〉
〈……かしこまりました〉
身体の一部を既に変形させて髭剃り用の剃刀を掴んでいたコマッチモは剃刀を折り畳み、ポケットの中にしまう。
「「「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ!!」」」
美味しい野菜と果物の産地なのにそれらを嫌って一切食わず、毎日肉とジャガイモのフライと濁り酒ばかり食らって肥え太った三人の口臭が部屋中に広がる。ついでに虫歯菌の棲むプラークの臭いも。
午前十一時五十一分。執事長が三人に濁り酒を許可する五時間九分前。
「おい人形野郎ハダリ!」「魔物をけしかけたのはお前の仕業だな!?」「今すぐ出ていけ!この役立たずの穀潰し!」
唾を飛ばして叫ぶのはバーソロミュー家の御曹司。
それは三つ子のテオドリックとガイセリック、アラリック。
一卵性らしく顔かたちはそっくりだけど、母親の胎内で胎盤は一つしかないから栄養の取り合いが起きて、テオドリック、ガイセリック、アラリックの順番に身長が高い。そして栄養を摂取できなかった奴ほど飢餓に備えた遺伝子が発現したとみえて、アラリック、ガイセリック、テオドリックの順番に太ってる。
でもとにかく全員今は栄養過多で肥満体であることは間違いない。
そして想像するしかないけれど、父親の賢さは遺伝しなかったらしい。若年性アルツハイマーを患い部屋でボロボロのぬいぐるみを抱いて寝起きしている一階寝室の母親の遺伝の方が強いのかな。
「逗留のための〝宿泊代〟はお支払いしているはずですが」
「宿泊代だと!?カネなんて俺様はもらってないぞ!」「そんなことよりどうやって魔物をけしかけた!?」「あれは魔物じゃなくてニワトリだ!それよりジェラートを作ってる俺の邪魔をするな!」「何を言ってる!俺の使用人がジェラートを作ってる!」「違う!俺の使用人だ!だから俺のジェラートだ!」
ニワトリの羽まみれのバカ息子たちが俺の借りている部屋でいつもの言い争いを始める。
執事長の寸鉄を握る拳が硬くなる。いきなり飛び込んで頭蓋に穴でもあけそうな気配だ。
コマッチモの重心移動が始まる。お願いだから上段回し蹴りは止めてね。二階の壁だけじゃなくて屋根まで吹き飛んじゃうから。
壁。屋根。
全ては歴史あるバーソロミュー家の一部。
アントピウス国内において、チンダラガケを自ら操作し、状況を観察ための居場所が俺は欲しかった。
そこでたどり着いたのがたまたま、ハルシャ州カナウジ市のバーソロミュー家。
「うぬは何者か」
今から二か月前。
バーソロミュー家の領地に初めて足を踏み入れて間もなく、バーソロミュー家の用心棒を名乗る男がコマッチモに近づいてきた。ちなみにその時の俺はどこかの芸人みたいに、コマッチモの持つ旅行鞄の中に形を崩して梱包されていた。これがまた大事で、「マソラ様をこのような狭い所に詰め込んで運ぶなどできません!」ってコマッチモが泣いていやがったけれど「仕事だと思って我慢して」と説得するのに二時間もかかった。
さて用心棒。
用心棒は自分から「俺の名はエフタルだ」と名乗り、さらにBランク冒険者でもあると明かしたうえで、しかも秘孔を突いて相手を殺せる特技があるとわざわざ教えてくれた。「存じ上げませんが、その道ではさぞ名の知れた拳法家なのでございましょうね」とコマッチモは答えて「実は逗留先を探しております」と続ける。〝ここ〟まではよかった。おそらくエフタルの人生にとって。
ところが〝ここ〟で、用心棒エフタルは偉そうに自分がバーソロミュー家の用心棒であることを伝えたうえで「俺に奉仕するなら屋敷の連中に口を利いてやってもいいぜぇ」と、コマッチモのナイスバディーを嘗め回すように見ながら言った。やめておけばいいのにそれでコマッチモのオッパイを触ろうとした。そして触れた。
ムニュ。
「やめてくださりませんか」
「やなこった。それにこれは通行税だぜ。へへ」
胸を揉まれたコマッチモは俺の入ったカバンを静かに下ろすとこちらの指示通り、殺さずに反撃。とはいえこちらの想像を超えて半殺し。
エフタルの両目の眼球を一瞬で引き抜く。動揺しているのもお構いなくエフタルの顎を片手で強く掴んで舌をせり出させ、相手の腰に差してあるナイフで舌を切り落とす。トドメは腰椎に膝蹴りをぶち込んで、脊髄を背骨ごとへし折る。
〝ここ〟から先は闇。
ようこそ光無き暗闇へ。弁明することももはやできず、ついでに脊髄損傷のせいで糞小便の制御もできない下半身不随の人生の始まり。
こうして一人の元冒険者が難易度高めの闇に呑みこまれていった。
これがバーソロミュー家との縁の始まり。
エフタルはその時バカ息子三人の護衛として、一応彼らを見張っていた。その見張られていた三人がエフタルの悲鳴とコマッチモの存在に気づき、何事かと近づいてくる。
「おいお前、どこの者だ!」「女の一人旅か?」「エフタル!何してる!!」
「この殿方は転んだ拍子に胸を地面に強く打ちつけてしまい、そのせいで血を吐き、死にかけております」とコマッチモが嘘をかますと馬鹿三人はそれを心から信じ、村人いじめを中断して屋敷に駆けていった。
その間に俺は鞄から出て、亜空間ノモリガミから出したロッキングチェアに座らせてもらう。ちなみに椅子の脚の下には亜空間サイノカワラから出した動物ベニウミグモの「エリザベス」に入ってもらう。椅子と俺の体重を支えるのは大変だと思うけど、我慢して。餌は多めにあげるから。
それにしてもすごいのは亜空間サイノカワラ。
時の早く流れる亜空間なんて、便利だねこれ。
アルマン王国の埋葬都市バトリクスの死体置き場に「封印されし言葉」が眠っているなんて想像もしていなかったよ。
へぇ~。「ヒガンタロウ」ねぇ。4号、ご苦労様。
2号。悪いけど、3号の俺にも少しだけ使わせてね。埋め合わせは必ずするよ。
「さて、と」
全自動車椅子「エリザベス」に座らせてもらった俺は、指錠を亜空間ノモリガミから取り出し、コマッチモに渡す。
屋敷の使用人六人が担架を持ってこちらに走ってきた時には、エフタルは背中に腕を回され、両手の親指と親指を錠でロックされた状態。本人情報によれば秘孔突きらしいから念のために背中で握手させる形にして指をロック。腰から下が動かないから体を反るのは大変だよね。
「んんん……んごおお……」
「なんだ、こいつ」「エフタル!?」「お前は一体エフタルに何をした?」
全身汗だくで再び戻ってきた馬鹿三人は水筒の砂糖水でのどを潤したあと、様子が明らかにおかしい護衛のエフタルと俺を見て叫ぶ。
「初めまして。ハダリ・ベリサリオスと申します」
言って、俺は微笑み、まばたきをする。
水の表面張力の利用できるおかげで椅子から転げ落ちないでいられるけど、独りで頭の上げ下げはできず、俺は顔の表情だけで挨拶をしないといけない。
「さっきまでお前、いなかっただろう!」「エフタル?ひっ、目がない!エフタルの目がない!「なんて姿勢でいるんだ!?おい、口中血まみれだぞ!!」
「流行り病から逃れたく、従者とともに祖国を離れ旅をしていたのですが、このたび私の従者が破廉恥な暴行を受けたので仕方なくこのような仕打ちを行いました」
水の糸を使い、俺は地面に落ちているエフタルの眼球二つと舌を浮かせる。この時点でバカ息子三人もバーソロミュー家の使用人六人も俺が魔法使いであることを認識してくれたはずだ。
「何やら通行税なるものがあるとかで、それが婦女の乳房を獣のごとく握りしめるという行為。それを認めている領主様がいるのなら一度お会いしたいものですね」
俺はエフタルからくりぬいた眼球と切り取った舌を三人のバカ息子の顔面にゆっくりと近づけた。震え上がった三人はそれぞれ目と舌を払いのけて一目散に屋敷へとまた走っていく。忙しいね。そして何度も何度もよく転ぶ。
「「「「「「………」」」」」」
使用人たちは担架を手にしたまま、どうするかを話している。「カンダチ」のおかげで彼らがバカ息子にも用心棒にも好感をもっていないことは明らかだった。
「とりあえず、御屋敷にご案内します。事情によっては領地をすぐ去っていただくことになるかもしれませんが、その時はなにとぞご容赦ください」
「ええ。それは覚悟しております」
そうして俺はバーソロミュー家の敷居をまたぐ。後は「旨味」を何らかの形でこちらが提示できれば屋敷での長逗留は可能かもしれないとその時点で俺は計算し始めた。
バーソロミュー家の屋敷において一番の実力者。
それが執事長メロヴィング。
屋敷で初めて執事長のメロヴィングに会った時、彼はサーベルを腰に差していた。
ステータス的には、病魔に冒されたAランク冒険者。彼はコマッチモの隙の無さを見て悟ったようで、すぐにサーベルを置いた。うちの魔獣女子四人分に匹敵するコマッチモだからね、そりゃあ勝ち目ないよ。でも隠している相手の力量を初見で見破れただけでもすごいし偉い。
「同僚から伺ったところ、当家の嫡子の護衛人が大変な無礼を働いたとのこと。重ね重ねお詫び申し上げます。このような何もない所でよろしければ、お気の済むまで滞在してくださりませ」
「すみません。実はそのことで無心しようと思っておりました。しばらくの逗留をお許し願えますか。私の従者は腕が立ちますのでどうか」
「部屋は余っております。お好きにお使いくださいませ」
というわけで〝用心棒〟代わりにコマッチモが逗留できるから、ついでに俺も逗留できることになる。ちなみに最初の〝用心棒〟は屋敷内の折檻用の暗い地下房に、指錠をつけたまま押し込まれた。もちろんコマッチモによって。
さてさて。働かざる者食うべからず。
行き当たりばったりの展開で屋敷に流れ着いたけれど、俺も少しは役に立たないといけない。
ここからは知識と運に救われる。
キャベツと牛乳のスープを夕食に出された時にジェラートを思いついた。
「!?」
「お口に合いますか?」
「これは……魔法でございますか?」
「はい。魔法で凍らせました。味をそのまま再現するのは少々骨が折れますが」
「いえその、味も魔法で、幻でございますか?」
「え?」
「なんと……おいしい……」
「それは、魔法ではございません。ここの土と水と人の力によるものです」
おかわりをしたスープをその場でジェラートにして執事長に試食してもらったところ、これが好評。ついでに料理長や使用人たちにも食べてもらい、そこから話がトントンと進む。野菜や果物、そして牛乳の組合せを彼らが考え、俺が試しに凍らせる。
逗留して二週間で、とりあえず14種類のレシピができあがり、しかもジェラートの話がカナウジ市全体に広がる。
「重さ当たりで野菜を肉と同じ値段で買い取ってくれて、しかもうめぇ氷菓子にしてくれるって話だぜ!」
「アナグマや野ウサギもそりゃ脂が乗ってうめえけど、おらたちの丹精込めて作った野菜だって絶対ぇうめぇし体にもいいんだ。買い取り話がほんとなら、これほどありがてぇ話はねぇ。俄然やる気は出るべさ!」
「しかもしかもだぜ。聞いた話じゃ、ポトフやミネストローネの氷菓子もあるらしいぞ」
「なんだそりゃ!?温けぇ食い物まで冷たい菓子にしちまうだか?」
「そうそう。味はポトフなのに食べたことのない触感!それでとにかく美味くて安いんだってよ」
「そんなこと聞いちゃったら、騙されたと思って一度は食べてみたいわね、それ!」
「そうそう、そう言えば、氷菓子を作るもんだから水を操れる魔法使いをたくさん募集していたわよ!」
「マジ!?冒険稼業とか、死ぬリスクが高くて収入も安定しないから転職して、思い切って応募しちゃおっかな」
アントピウス聖皇国やパンノケル王国の世情が俺のチンダラガケのせいで不穏になっていく中、純粋な興味関心、それと収入と仕事を求めて、バーソロミュー家に続々と人が集まる。
屋敷の台所だけでは調理場所が全然足りなくなり、市全域から大工まで探して呼んでジェラード製作専用の小屋まで敷地内に立てる。
小屋の大きさは二十坪の三階建て。堅牢さは低いけど、高さだけだとバーソロミュー家の屋敷より高い。
ジェラートレシピの全工程は知らないけれど作業工程の一部だけは知る従業員たち二十名弱が寝泊まりできる従業員部屋や彼らの度肝を抜いた五右衛門ぶろ、ジェラート以外の食糧も貯められる食糧倉庫、年中溶けないロンシャーン西麓の氷河の氷を削り出して貯蔵できる冷蔵庫や広い厨房、そしてズルいけれど食中毒対策として俺の教えた浄水システムを完備した結構立派な小屋だ。
従業員の個室が一人1・3畳しか用意できなかったのがミスだったかも。漫画喫茶並みに狭い気がする。まぁ、野宿が当たり前の冒険者崩れの魔法使いには「個室があるだけでもうれしい!」と喜ばれたから、これでよしとしよう。彼らの研修期間は二日間。あとは実地で覚えてジェラートをつくる。体力と味覚と好奇心があればそれなりに楽しい職場だ。
俺の逗留開始後一か月で噂はハルシャ州全体に広がり、二か月でバーソロミュー家のけっこう傾いていた財政事情は元に戻る。病魔と闘う執事長の頭痛の種は一つだけ消せた。
というわけで、コマッチモだけじゃなくて俺も少しは役に立つことをこれで示せた。めでたしめでたし。
こうして俺は心置きなくアントピウスとパンノケルの恐慌演出に専念できる状態になった。油赤子の油食い。モクリコクリの塩放出。鳴子達磨が後押しした免罪符発行。バッチグー!
ちなみに〝用心棒〟のコマッチモも忙しい。
俺の世話が一番面倒くさくて大変だけど、ジェラートのレシピを盗みに来る冒険者や暗殺者は後を絶たない。レシピの全体像を知るのは俺だけだけど、一部の工程でも知っている従業員も標的にされる。屋敷よりもヴェラートハウスの方が狙われる。
でもコマッチモは有能で仕事が早い。
そういう不埒な連中を一々見つけ出してはバラバラに斬殺して俺の乗り物を運ぶエリザベスの餌にしてくれる。おかげでエリザベスも大きくなったし、ヒトの味も覚えた。命令すれば躊躇なくヒトを食べることができる。
エリザベスはエリザベスで、夜間は放し飼い。目的は運動不足解消と五感を研ぎ澄まさせること。
屋敷の屋根裏や床下のハツカネズミやアライグマ、ハクビシンを駆除するだけでなく、よく山里から出没するようなクマやシカまで仕留める。自由自在に味付けできるクマ肉は俺が食べたいと伝えているのでちゃんと残しておいてくれる。そしてエリザベスが殺したばかりのクマの気配に気づいたコマッチモが外に出ていって解体し、届けられた俺はそれを亜空間ノモリガミに取り込んでおく。
で、そんな平和な日々を暢気に喜ばず、ニワトリに襲われて羽根まみれ泥まみれ傷だらけで俺の部屋に今飛び込んできたのが三人の御曹司様々(さまざま)。
「「「とにかく、ジェラートのレシピをよこせ!」」」
さすが三つ子。臭い息がぴったりあってる。
「なぜですか?」
午前十一時五十三分。
「レシピを使い、首都のアスクレピオスで店を出す」「そうすれば大儲けできる!」「そしたら父上からの俺の評価も上がり、俺は首都で出世できる!」
ここで「いや俺だ」「俺だ」の合戦が始まる三人。
それにしても臭い。
歯磨きの方法を教えているのにいっこうにやらない。揚げ物ばかり食べているから体臭が無駄に濃い。水の豊富な土地なのに水浴びも嫌いだから滅多に体を洗わない。それにしても出世欲はあったのか。食欲と睡眠欲くらいしか持ち合わせていないと思っていた。
ん?
それとは別に糞臭。
そう言えばエフタルはもう二か月もせまい地下房の中か。
寂しくないよう人糞を食べるダイコクコガネムシもたくさん入れておいたから自分の排泄した糞で窒息していないと思うけれど、生きているかな?
さすがに反省したかな?
岩塩と飲み水と糞虫のサバイバル生活は満喫できたかな?
「分かりました。ただし交換条件でどうでしょう」
俺は姿見を水の糸で浮かせる。自分の顔とバカ息子三人の顔が映り込む角度に調整する。
「何?」「交換条件だと?」「言ってみろこの野郎」
俺は三人の顔を一つずつ眺めた後、切り出す。
「私をバーソロミュー家の嫡子にすること」
鏡に映る老執事長が目を大きくし、息をのむ。
「チャクシ?」「なんだそれは?」「使用人のことか?」
「嫡子というのは家督を継ぐ者を指します。つまり御三方の父上であるチャルキア・バーソロミュー様の跡を継ぐ権利をもつ者のことです。もっと砕いてわかりやすく言うと、あなた方の兄になるということです」
鏡の中の三人が互いに顔を見合わせる。顔がみるみる赤くなる。震える。鼻息が荒い。呼吸が乱れる。午前十一時五十八分。
「無礼者め!分をわきまえろ!」「よりによって俺様の兄だと!?」「バーソロミューの跡継ぎになりたいとほざくか!」
「交換条件を提示しただけです。ジェラートの収益でバーソロミュー家の財政赤字は消えました。この屋敷にある帳簿をご覧になったことはないでしょう?荘園の財務管理はどなたがやっていたのかも知らないでしょう?まあそんなことは今はどうでもいいです。とにかくお金がなくて、下手すれば領地を他の貴族や教会に没収されるか、豪商に買収されるしかなかった。それを回避できたのがジェラートによる殖産興業です。誇張でも何でもなくジェラートがバーソロミュー家を救ったのです。ですのでそのノウハウを知りたいとなれば、それ相応のものを提示していただかなければ等価交換とは言えず、レシピのお伝えはできません」
「ショクサンコーギョー?よく分からん言葉を使うな!とにかくありえない!」「ジェラートのレシピと交換に、俺様の兄貴になるなんてありえない!」「絶対に嫌だ。俺様の奴隷として生きろ!それいがいありえない!」
汚い唾がバンバン飛ぶ。そのすべてを凍らせ、地面に転がす。
「そうであれば交渉は決裂です。さてさて、ジェラートのレシピ欲しさのあまり、あなた方から何をされるか分かりませんから、そろそろ長逗留もしまいに致します。お世話になりました。よそで私はまたジェラートを作りたいと思います。屋敷の傍のジェラートハウスは以後、山小屋にでもお使いください。露天風呂を掘れ当てればゲストハウスにでもできるでしょう。五右衛門風呂を外に置いて星を眺めるというのもウケそうですね」
「こんの!人形風情が!」「レシピを持って出ていくだと!」「絶対に逃がすものか!」
三人が俺に襲い掛かろうとする。
はい。また。〝ここ〟まではよかった。そして一線を越えた〝ここ〟からはもう、闇。
チチチンッ。
メロヴィング執事長が動く前に、コマッチモの体の一部を伸ばした触手が三人のバカ息子の顎を鞭のように叩く。顎骨はその威力で亀裂が生じ、脳が激しく揺れる。脳震盪を起こした三人がその場で昏倒する。
「……」
「……」
正午。
ゴーン、ゴーン、ゴーン……
柱時計の鐘が鳴る。
俺は鏡の中のメロヴィングに目を向ける。
メロヴィングは最初、倒れた三人をぼんやり見ていたが、目に涙を浮かべて、鏡の中の俺を弱々しく見る。俺は一度目を閉じ、眼球の色を反転させる。桃色の角膜に白い瞳孔。一瞬驚くも、何かを受け入れたような表情になり、やがて落ち着く老人。
「地下室のエフタルは、まだ元気ですか?」
時計の鐘が鳴りやみ、俺は問う。
「かろうじて、生きております」
結んでいた口を開くメロヴィング。
「あのBランク冒険者は特殊な技をお持ちだそうですね」
「実は……子のない私の甥で、武術家のもとで鍛錬を積ませました。性格に難はありますが、武の才には恵まれていたと思います」
その〝武術家〟の声がかすれている。魔力素の流れが乱れている。色々なものをまたも、天びんにかけているんだね。
「そうですか。もう反省したと思いますし、私の従者ももう許してもいいと言っているので、どうか日のもとに出してあげてください……手綱を付けるのを忘れずに」
俺は鏡の中のコマッチモに視線を送る。頷いたコマッチモは一度手を拭い、エフタルの指錠の鍵をポケットから取り出してメロヴィングに手渡す。
「……かしこまりました」
受け取ったメロヴィング執事長は深くうなずくと、一切合切を別の部屋で聞き耳立てて聞いていた農民たちの部屋の鍵をガチャリと開ける。オロオロする彼らに執事長は落ち着き払って話し、失神してぐったりと横たわるバカ息子三人の重すぎる図体を俺の部屋から運び出そうとする。けれど重すぎて時間がかかりそうだったのでガイセリックとアラリックの二人はエリザベスに運ばせた。
「フツカ」
「はい?」
村人とエリザベスを使い三人を運び出した後、鍵束を握るメロヴィングの強い単音声に俺は聞き返す。
「二日ほど、御逗留を延期していただけませんでしょうか?」
「当家のご子息にケガを負わせたのに、私を追い出さないのですか?」
俺は眼球色の反転を戻し、クスクスと笑う。
「はい。そうして、居てください。できればずっと。それが叶わないのでしたらせめて二日ほど、こちらにいらっしゃっていただければ至上の幸いにございます」
メロヴィング執事長はこう言って、俺の部屋から出ていった。
「二日で何をするつもりでしょうか、あの御仁は」
「さあね」
時計を見る。午後零時二十一分。トリートメントを洗い流してもらった後、俺はコマッチモに髭剃りとフェイスマッサージを三時間かけてしてもらった。
二日経った。
「勇者だってさ」
「勇者?マソラ様のことでございますか?」
イチゴと葉わさびとマスカルポーネチーズのジェラートをスプーンで俺の口に運んでくれるコマッチモが手を止めて聞いてくる。
「違うよ。アントピウスが景気づけに勇者っていうのをお披露目するらしい」
ジェラートが口と鼻の中で香りと味を残して消える。
スンスン。
封印されし言葉「カンダチ」を使う。目の前のジェラート以外のニオイを手繰り寄せ、周囲の状況を観る。
屋敷のニオイが微妙に変わる。食べる奴が変わった。
糞便と汗と息のニオイが変わる。食べる物が変わった。
二日間、わざと二階の部屋から出ないで窓の外のジェラートショップの売れ行きを眺めて過ごしているうちにさっき、再び俺へ小包が届いた。
ただし部屋に運んできたのは執事長ではなく別の使用人。「メロヴィングさんは?」とは聞かず、簡単な礼だけ言って包みを受け取る俺。中身はワインの番付表『バッカス』。本の中身も配送業者も毎度変えているからジブリールと俺の交信はバレづらい。とは思っているけれど、案外バレているかもしれない。
でも別に俺は何も困らないから平気。
バレて困るのはジブリール。バレたら死刑なんて生ぬるい罰じゃ済まない。それを承知で俺に情報を提供し、俺の用意した情報を流してくれる〝どうかしている〟魔法使い。
それがジブリール。何が望みなんだろうね。
で、ワインの番付表の端々にモールス信号で書かれていたのは「勇者」と呼ばれる特殊能力者の情報と動向だった。
「勇者はその秘められた力を披露しつつ、無理難題をことごとく片付ける予定らしい」
自分の分のジェラートを食べさせてもらった俺は本を浮かせてページを繰りながらコマッチモに教える。
「秘められた力で無理難題を片付ける……やはりマソラ様のことではないですか」
そのコマッチモはようやく自分のジェラートを食べ始める。竹の子のミルクジェラート。
「だから違うって。なんでも、パンノケル王国が誇る魔法学園で武闘大会を盛大にやって勇者をデビューさせて、そんでもって開発のストップした山道だのお化けが出る監獄だの砂漠に咲く花人だの森の異教徒だの魔王との戦いだのを一挙に何とかするんだとさ」
コマッチモはこの時点で一個目のジェラート完食。二個目に突入。シーザーサラダジェラート。
「その武闘大会というのは魔法学園の〝身内〟だけで行うのですか?」
「ノン。それだと盛り上がらないから全土から募集するらしい。全土って言ってもパンノケル、アントピウス、イラクビルの三国からだね」
「では参加いたしましょう。そして勇者を私が捻り潰します。そもそもマソラ様以外の者が勇者を名乗る時点で打首獄門でございます」
「勇者なんて言葉はどうでもいいけれど、「神の杖」を落とした可能性のある連中に堂々(どうどう)と会えるのは都合がいいね」
コマッチモ女史、早々に三個目に突入。サクランボとアーモンドのジェラート。
「聖皇もしくはその似非勇者が「神の杖」を落とした犯人かもしれませんね」
「そうだね。だから大会の参加は魅力的。ただし参加するにあたって一つ問題がある」
俺はゆっくりと階段を上ってくる匂いを感じながらコマッチモに言う。
「それはなんでございましょう?」
「氏素性。つまり身分証がないと参加できない」
革靴の音。鍵束の音。病に蝕まれた老体に鞭打つ辛抱強い紳士の音。それが扉の前で止まる。
「ミソビッチョの諜報部に偽造身分証を作らせれば……というわけにはいかないのでしたね」
「うん。……でもその必要はきっとなさそうだ」
「?」
コンコン。
「どうぞ」
「失礼します」
部屋に入ってきたのはメロヴィング執事長。
塩と炭で徹底的に歯を磨き口を漱ぎ、流水で朝晩きれいに身体を隅々(すみずみ)まで洗っているから、清潔感がある。香水はほろ苦いオレンジピールから乾いた草のようなベチバー、そしてウッドへと滑らかに流れる。目立たないけど堅実な男にピッタリのシトラスオークモスの香りが漂う。
「突然のことで申し訳ございません」
「なんのことでしょう」
「下に降りてきてくださることは可能でしょうか」
既に身支度を済ませていた俺は「可能です」と返す。
亜空間サイノカワラからエリザベスを召喚する。
肢を伸ばしたら二メートルくらいにまで成長したかな。そのエリザベスの背中に載せた肘掛け椅子に改めて腰を下ろし、俺はコマッチモと共に階下に向かう。まぁニオイでだいたい想像はつくんだけどね。
「「「……」」」
豪華な肘掛け椅子に座る三人の御曹司。
テオドリック。ガイセリック。アラリック。
三人とも肘掛けに手首を麻紐で縛られ、背もたれに寄りかかり、首を少しだけ上に向けている。その首には涎掛けが巻かれ、涎をたらし続ける口はだらりと開いたまま。そして虫歯だらけの歯が、そうでない歯も含めてきれいさっぱり引き抜かれて、流動食専用の入口になってる。
ここの高原野菜は美味しいから食べるならスムージーなんかがおすすめだね。きっと生き返るよ。もう半分死んでるけど。
「「「……」」」
虚ろな目は左右とも違う方向に向き、時々痙攣したようにブルブルと揺れ動く。眼球の連動制御まで壊したのか。カメレオンみたいで面白い。でも不細工だからカメレオンに失礼か。……ああ、なるほど。
「さすがですね」
広間のテーブルに着席する三人の〝元バカ息子〟の仕上がりを俺は品評する。ロボトミーみたいに目頭から極細針を差し込んで脳を傷つけるスキルだ。ついでに眼筋の一部が切られてカメレオンアイになってるのね。おっそろしい~。
「アレにやらせました」
アレ。
広間に四つあるサイドボードの一つ。白い石膏の胸像に混じって、下半身のない人間が一人。
もっと正確に言うと、両脚を付け根から切断され消毒のため焼灼された男が一人。失った両方の眼球の収まっていた眼窩には、木製の魔道具が埋め込まれている。義眼かと思いきや、俺の目のステータス画面表示によれば「炎鈴の呪槐」とある。要するに呪い主に逆らったら炸裂する爆弾らしい。これまたおっそろしい~。
「お日様の温かさはどう?カビとクソの充満する地下房から出られた気分はどう?ダイコクコガネムシのように充実した生を送ってる?」
叔父にアレと呼ばれたエフタルに俺は声をかける。
「うぅ……」
コマッチモによって舌を切り落とされた男はまともに喋ることもできず、うつむき。ただ小さく呻いたきり、震えている。
あれ?親指が曲がってる。
そっか。二か月間も後ろ手に指錠をしていたから骨がずれちゃったのか。
「オマリ。エフタルさんの親指が曲がってる。戻してあげて」
「かしこまりました。ハダリ様」
コマッチモの声と近づいてくる足音でエフタルの震えと呼吸が尋常ではなくなる。せっかく清潔にした衣服が噴きこぼれた小便でたちまち汚れていく。大人用のオムツをはかせてもらっているのにずいぶんこぼれるね。
ゴキン!
「オウェ!」
「これで元通りです。また女子の胸を揉めますよ」
骨接ぎをしたコマッチモが石膏像の乳房にエフタルの手を当て、こっちに戻ってくる。叔父に命じられるがまま三つ子の中枢神経を器用に破壊した盲目のBランク冒険者は驚いて石膏像の乳房からすぐに手を離す。けれどバランスを失ってサイドボードから落ちそうになり、思わず胸像に抱き着く。その手は像の乳房にしがみついている。そしてそれが乳房だと気づき、全身に蘇る恐怖で離そうとするも、光と足がないためバランスがうまくとれない。だから結局しがみつくしかない。自身とあまり違わない姿の胸像に。
もう〝それ〟しかできないね。
「うう……ううう……」
石膏の胸像に抱き着いたまま、サイドボードの上で震えているエフタル。恐怖と絶望の極みに達した男の涙腺が崩壊し、肛門から下痢便が零れ出る。三つ子とは逆に肉類を少し摂るべきだね。歯もまだあるし。揚げ物じゃなくて焼肉がいいよ。
カチカチカチ……。
どれもこれもクサいのでとりあえず魔法で氷結させる。三つ子の涎とエフタルの糞小便の臭いが弱まる。
「こちらをご確認ください」
甥にも主人の息子たちにも構わず、執事長は淡々(たんたん)とした様子でテーブルの上の高級羊皮紙を俺に示す。紙の一番下にはチャルキア・バーソロミューなる人物のサインがある。
「ハダリ・バーソロミュー様」
羊皮紙の中身は、俺を嫡子として認める旨が記されていた。
「すでにカナウジ市の洗礼所の名簿にも記載を終えております。ハルシャ州の戸籍簿も同様です」
たった二日間でそこまで動けるとは見事。
「何から何までありがとう」
俺はメロヴィング執事長に礼を言う。そして対価として、亜空間ノモリガミからジェラートのレシピ本を取り出し、コマッチモを通じて渡す。
「確かに、拝領いたしました」
一礼してそれを受け取る執事長。コマッチモは本を渡し終えると部屋の窓という窓を開け始める。臭いが風に流れ、薄れていく。
「ところでみんなにはどう説明するの?」
自分の甥の使用できない両脚を切断し、逃げられないよう頭部に爆弾を埋め込み、仕える主人の御家存続のため、その息子三人を廃人にした執事長に尋ねる。
「領主の三人の息子たちはひどく酔って乱痴気騒ぎを起こし、ついには屋敷の二階のテラスからそろって転落した。一命はとりとめたけれど頭の打ちどころが悪く、清らかな魂は天国へと召された。この領地の者はみな〝そう〟言っております。ついでに三人の警護に当たっていた護衛はこの事件を苦にして川に身投げしたとも」
メロヴィングは俺にそう言って穏やかに微笑んだ。
「そっか。じゃあさっそくだけど出かけてくるよ」
「はい。〝ジェラートレシピの番犬〟と〝不出来な弟三名〟ともども、ハダリ様のお帰りを首を長くしてお待ちしております」
屋敷の外に出る。
「すぅ~ふぅ~」
生きた人肉からどうしても出る不快な臭いは去り、冷涼な風と湿った土のしっとりした香り、そしてジェラートの新鮮な命のような香りがする。鳥の鳴き声も素敵。
「ハダリ様!いってらっしゃいませ!」
ジェラートを作る従業員に明るい声を掛けられ、俺は笑顔を向ける。旅行鞄を手にしたコマッチモが俺の代わりに頭を下げる。ジェラートを買いに来ていた商人や冒険者が俺たちを見る。
背負っていた籠を慌てて置いて地面にひれ伏す村の人に「今日も美味しい野菜をありがとう!一日を元気に過ごしてね!」と大きな声をかける。顔をあげた村人に、近くにいた商人が何かを尋ねているようだけれど、俺は聞く必要がないから先に進む。
「さぁて、そろそろいいかな」
「え?まさか」
「入るよ。なんたって俺はエスパーだから」
「マソラ様!鞄に入ろうとするのはどうかおやめください!神のごとき主を鞄に詰めて運ぶような残虐行為、私の良心が耐えられません!」
木立に囲まれ、誰も見ていない所まで移動した後、俺はようやくエリザベスも肘掛け椅子も亜空間二つに分別して収納しようとする。
「いいのいいの!こっちの方が楽だから気にしないで!」
「ああマソラ様!」
「マソラ様じゃなくてここではハダリ様!」
「こうなったらハダリ様ではなく私が鞄に入ります!」
「また何言い出してんの!それじゃ誰が鞄を運ぶのさ!?」
「ではハダリ様と私が鞄に入ります!」
「だからなんでそうなるの!?それじゃ誰も鞄を運ぶ人がいなくなっちゃうでしょ!」
「エリザベスに運ばせれば問題ありません!」
「それじゃ鞄を背負った魔物と間違われて襲われるでしょ!コマッチモしっかりして!!」
「コマッチモではなくオマリです!!襲われればその都度私が鞄から飛び出し賊を撃破するのでご心配には及びません!!」
「クモの背負った鞄から出たり入ったりする所なんて何度も人に見せられるわけないでしょ!!」
「では目撃者を皆殺しにいたします!!」
「黙らっしゃい!!」
一悶着のあと、涙目のコマッチモの旅行鞄の中に収納された俺は、久しぶりに小さな闇の中で一息つく。
ふう。
本当にもう、こまっちもう。
lUNAE LUMEN
gelato