Spin-off of the しあわせな木 スカート
この作品はしあわせな木という作品の中に出てくる静香さんのお父さんとお母さんの話を父親の視点から描いたスピンオフ作品です。本編とは少し趣の違うやや硬いタッチの作品となりました。ひとえに、物語の語り手である道隆さんの見ている世界に寄り添った結果と思っていただけましたら幸いです。
一つの家族に起こった出来事を、静香さんの側から見て、第三者である春樹君の視点からも書きました。そして、今回は道隆さんの視点から書きました。香織さんは幸せなのか。その答えはどこからどう見るかによって違うのかなと思っています。
ただ一つ、父親に背を向けて逃げ出した娘を追って駆け出し、心臓を抑えて苦しいふりをする。そんな演技をして、悲劇の場面をがらっと変えてしまうようなお母さんには敵いません。世の中にはもしかしたらこのような、世間的には平凡なのだけれど、驚くようなことをしてのけて、人と人を繋ぎ合わせて家族を作っている母親という存在があるのではないでしょうか。
そんなお母さんたちに対する想いを込めて書きました。
最後までお読みいただけましたら嬉しいです。
2020年3月20日
汪海妹
スカート
月城道隆
人の運命というのは、生まれてから死ぬまでに山と谷がある。
最初に谷があった方がいいのか、それとも、最初は山でその後に谷があった方がいいのか……。ふとした時にそんなことを考えることがある。そりゃそれは、最初が谷で後から山が来たほうがいいと簡単に結論づける人もいるのではないか。だけど、それは、谷を乗り越えてそれなりに納得のいく山に登れた人が言うことだろう。或いは、最初に山があって晩年に落ちぶれた人間も同様のことを言うかもしれない。昔は良かったなと思いながら、惨めな思いをすると言うのもそれなりに苦しいのかもしれない。
でも、自分は思う。
最初に谷があって、そして、そのまま山を経験することなく平坦に人生を終える。
世の中で一番多いのはそう言う人種なのではないだろうか。
自分は子供の頃から偏った人間だった。現実よりももっと書籍の中とでもいうか、知識の中とでもいうか、そういう中に暮らしていた。目の前の現実に興味が持てず、頭の中にあるもっと別の物にばかり興味があって、そして、世界中の様々な書籍を読んでは思索を巡らして、現実に戻ってくると……、ひどくつまらなく思えた。全てが。
自分の周りの世界も、人たちも。平凡で、何も知らずに何も考えずに生きているように思えた。自分の親や、友人や、教師も。
『月城は俺らとなんか違う』
田舎では自分は常に尊敬されていた。親からも、友人からも、教師からも。小さな空の下で自分は田舎の優等生で、そして、狭い世界の中で自己をどこまでも肥大化させたのだと思う。大学で東京に出て来て卒業を迎えるときに、自分はその肥大化させた自己を抑えることができず、だからと言ってその落ち着く先を見つけることもできずに、社会に出ることを先送りして研究室に残って、だけど研究者として生きていくことにも確信を持てなかった。
いろいろな理由をつけて、院生と言う身分からすら逃げ出して、そして、売れない文章を書くようになった。いつまで続くのかわからないような暗いトンネルの入り口に立った。
今思うとそれは自殺的行為だったのだと思う。
自分はもう、ただの平凡な自分でいることができない。子供の頃から、根拠のない不思議な荷物を他人から預かってきた。親や友人や、教師からすら……。
『月城は俺らとなんか違う』
ずっと後になってから、不思議とその子供だった頃のことを、田舎にいた頃のことを思い出す。人というのは夢をみたいものなのかもしれない。人とは違う自分になりたいものなのかもしれない。そういうものにいつも憧れるものなのだ。
憧れの対象は運動のできる人でも、勉強のできる人でも、或いは芸術系のものでもいいのではないか。そう、なんでもいいんだ。
ただ、世間で認められるようなすごいこと。
そう、平凡ではないこと。
そして、本当に頭がいい人というのは自分では夢を見ない。本当に頭がいい人というのは、他人にその夢を託すんです。そうすれば頑張る必要もない。苦しむ必要も。頑張った挙句にダメだったという絶望の瞬間を味わうこともない。
ただ人に託して、そして、待つんです。その託した人間が失敗するのを。
夢を人に託す人の目的は夢を叶えることではない。人に夢を託して、そして、自分の代わりに失敗してもらうことなんです。
なんで?
簡単なことだ。この世は複雑そうに見えて、そんなに複雑なんかじゃない。もっとシンプルなんだ。
夢なんか見たって無駄だってことを、自分が痛い思いをせずに実感するため。だから、自分みたいに平凡に真面目にコツコツと生きることが大切なんだと実感するためです。
自分は頭がいい人間のつもりだった。でも、その実は、周囲の人間のそういう隠された欲望のために利用された人間だったんだ。プライドばかり高くて、そして、周囲の人間からそういうややこしい荷物を預けられた自分は、20代後半、高学歴のくせに定職もなく、金に困っていても親に頼るのもだんだんと苦しくなってきていて、行き詰まっていた。
金はない。大した仕事もない代わり、時間だけはたくさんあって、様々なことを考えた。捨てられない自分というものを押し付けられて、そうではない自分で自分は生きていくことができない。ただの、普通の、人間として。
『月城は俺らと違う』
『いや、俺は違わない。俺も君たちとおんなじだ』
そう言って、帰ってしまえばよかったんだ。みんなは満足する。
『月城が頑張ってダメなら、俺らが頑張ったって絶対ダメだ』
みんなはそう思うだろう。そして、俺を仲間として迎え入れるだろう。田舎で学習塾でも開けばいい。それでも、子供の頃のようにとはいかなくても、田舎の人間は俺を上に見てくれただろう。生徒だって集まったに違いない。
だけど、できなかった。そんなことをするくらいなら、消えてしまいたかった。
周りの人間とは違う自分、それを失う事は、物理的には死んでいなくとも、自分にとっては限りなく死に近い出来事だったんです。わからないと思う。そこまで追い詰められたことのない人には。
役割を生きる
自分には切っても切れない役割があった。世に出るという重荷を背負わされた自分は道化だった。道化の役割を与えられていたんです。
前に進むことも後ろに進むこともできない。
「あの、千円足りません」
「え?」
「三千三百二十円です。二千円しかありません」
「あ、すみません」
詳しいことは忘れてしまった。何か厄介な菌に感染してしまって、腸に入って熱が出た。病院に行って診察してもらったら、菌が完全になくなるのが確認できるまで通院するように言われていて、病院に通っていた。支払いの時に現金が足りなかった。家にいくらかあった現金を財布に入れるのを忘れていた。そして、その時自分の銀行口座には引き出せる現金がなかった。
探したってあるわけがない現金を、ポケットを探ってカバンを探って探すふりをする。恥ずかしさで耳まで赤くなるのが自分でわかった。
窓口の女の子はただ黙って自分のことを見ていた。
『家に忘れてきちゃった。どうしよう?』
実際、家に戻れば千円はあるわけだし、それは嘘ではない。でも、そんな簡単な言葉が自分からは出てきませんでした。嘘ではないけれど、嘘だと思われたらどうしようと思った。千円すら払えないくらい貧しい人間だと思われることが、とても恥ずかしかった。
「今、お持ち合わせの現金がないんですか?」
「……はい」
すると、窓口の女の子はこう言った。
「じゃあ、わたしが貸しておきます」
そう言われて、驚いてその人の顔を見ました。まだ若い人でした。
「そんなことをしてはいけないんじゃないですか?」
「いけないですね」
彼女は淡々とそう言いながら、僕の前で自分のカバンを開いて財布からそっと千円札を出してトレイにのせた。
「だから、これは秘密です。見つかると怒られます」
そう言って小さく笑いました。周りの人たちに見えないようにこっそりと。
「家に帰ればあるんです。今、帰ってすぐ持ってきます」
「病院に来られているということはお加減が悪いんですよね。急ぎませんから。また、お元気な時に」
そう言うと彼女は、メモ書きの切れ端に何やら書いてレシートと一緒にトレイに載せて、僕の方にトレイを置きました。ちょっと躊躇して、でも、だからといって他に方法もなく自分はその紙片とレシートを受け取った。
「すみません」
その紙片に彼女の名前と電話番号が書いてあった。
それが香織との出会いでした。
人には運というものがある。そんな非科学的な考えを自分は割と信じていて、それと同時に縁というものもあるのだと思う。自分と香織には縁があったのだと思います。それが、香織にとっていいことだったのかどうかわかりません。本人はもちろん、いいことだったのだと言ってくれるのだと思う。香織はそういう女ですから。
前に進むこともできない。後ろに進むこともできない。消えてしまいたいと思いながら、まるで流れる水にただ流されていくもののようにあったはずの自分。
じゃあ、自分は具体的に死にたいとでも思っていたのか?それは違うのだと思う。死にたいというのはもっと、もっと別のものなのだと思う。本気で死にたいだなんて自分は一度も思ったことがない。千円すら払えないくらい貧しいと思われることが恥ずかしくてたまらなかった。死にたいと思っている人間は、恥ずかしいなんて思わない。
香織は僕を拾いました。せっせと世話をし始めた。
どうして僕を拾ったのか、聞けばいろいろと話すのだろう。こちらが聞いていて恥ずかしくなるようなことを。だけど、結局は、彼女は優しいのだと思います。困っている人を放っておけない人なのだと思う。千円が払えなかったあの瞬間に、僕を放っておけなくなったのだと思う。
香織は不思議な人でした。
彼女が僕の生活に入ってきてから、僕の生きるリズムは変わってしまった。
彼女は暇さえあれば僕の部屋に来る。必ず食べ物を携えていて、そしてそれと一緒に笑顔をくれました。僕に食事を与えて、部屋の窓を開けて空気を換えて整える。そして、彼女はすることがなくなると、僕の書いたものを片っぱしから読んでは、わかっているのかわかっていないのか、とにかくすごいと感嘆しました。
僕はどちらかといえば書物の中に生きているような人間で、そして、どちらかといえば生きた人間が苦手です。でも、苦手と嫌いには距離があって、苦手だから嫌いだというわけでもなかった。
香織がそんなふうにそばにいるようになって、気がついた。自分はいつのまにかずいぶん長い間、一人ぼっちだったということに。
我ながら呆れました。本の虫のような人間なのでそこまで苦にしていなかったために、気が付かなかったのかもしれません。自分は確かに一人ぼっちでした。
たった1人、誰かがそばにいるだけで、こんなに違うものなのかと思った。
僕はその時、谷底を通り過ぎたのだと思います。
香織にあったのをきっかけに僕は底を抜けた。
「事件のルポを書いてみませんか?」
「え?」
「今までやったことないでしょう?」
「でも、僕の専門ではありません」
「それはわかっていますけど……」
そう言いながら、僕の原稿を読んで意見をくれる原さんは、向かい合っている喫茶店でタバコを灰皿に押し付けて、原稿をそっとテーブルに置いた。
「ああ、ごめんなさい」
タバコの灰が少しかかってしまって、それをそっと払った。
「これだけ文章力があって、社会経済のことをわかっている人が、世間で起こった一つの事件について書いてくれたら」
「はい」
「本当は何が悪いのか、誰が悪いのかがわかるんじゃないかと思うんです」
「……」
何かうまく言い込められているような気がその時していました。ただ、この原さんは、悪い人ではない。その時、自分が何本か持っていた生命線のような糸の一本でした。
「説得力が足りないんです。普通の人が書いたんじゃ。でも、学のある人というのはもっと別の方向を見ていて、世俗のことにはなかなか向かってくれません」
「はぁ」
「半信半疑でもいいから、書いてみてくれませんか?先生」
自分は、先生なんて偉いものではない。ものになるかどうかもわからない人間です。だけど、原さんはそんな自分にもいつも丁寧で、そして、自分の時間を割いてくれた。
そして、自分は書籍の中にばかりこもっていた自分を外へ向けだしたのだと思う。原さんにピックアップされた事柄について、自分の足で歩いて取材して、本にする作業を始めた。原さんは名刺をくれました。雑誌の取材をしていますと言って、僕はいろいろなところへ行くようになった。
いろいろな人に会いました。
僕は本当に何も知りませんでした。今だって何も知らないのかもしれないけれど。
今まで自分は自分の場所で生きてきた。自らの生活の範囲を超えてまで、人と話したり会ったりするようなことはなかった。だから、この世は広くて、この世にはたくさんの様々な人がいるということを知らなかったんです。
頭ではわかっていたつもりだった。だけれど、本やテレビを通しての関わりと直接関わるのは全然違う。
きっと僕がぎりぎりまで追い詰められたことがあるからだと思うんです。
香織に拾われて、そのぎりぎりのところから少し浮上して、そんな自分は、原さんに言われて取材に回って行った先で出会う人々、それは、事柄の被害者、世間で行けば底辺に近い人たちであることが多くて、そんな人たちに対して共感を覚えた。
それは違和感でもなく、敵意でも、軽蔑に近い感情でもありませんでした。
共感でした。
どうしてこの人たちは、こんな生活を強いられなければならないのか?
悪いのは個人なのか、それとも、別の何かか。
この時までずっと自分は、誰かのために何かを書くなんてことはしたことがなかった。だって、自分が筆を取っていたのは、親や田舎の連中に自分は優れているということを証明するためだったのだから。いつも、自分の後ろから何かが迫ってくるような、ひたひたとした足音を感じながら、苦しかった。
生きた心地がしなかったんです。
生まれて初めてそういうものから自由になることができた。初めてでした。夜、後ろめたい気分にならずにぐっすり寝ることができたのは。
そんなある日のことでした。
「道隆さん、お話があるんだけど、いいかしら?」
夕食が済んで、自分はまた、机に向かっていた。香織は夕食の後片付けをしていた。エプロンで両手を拭きながら、そっと声をかけてきた。
「なに?」
ペンを置いて、体の向きを変えて彼女の方に向き合う。香織は、そっと畳に両膝をつきました。いつも明るい彼女の顔が強張っていることにこの時まで気づかなかった。
「あの……」
「うん」
「妊娠したんです」
咄嗟に何も言えませんでした。きっと言うべきこと、かけるべき言葉、たくさんあったでしょう。でも、自分は何も言えなかった。何も言えないでいる自分に対して香織は言いました。
「わたし、この子のこと、産みます」
「……」
「もし、あなたが反対するのなら、1人になってでも、産みます」
その時、出会ってから今まで見たこともないくらい強い表情をしていた。その顔をみてわかりました。きっとこの人は、今日、自分に話し出す前に1人でさんざん悩んで考えてきたのだと。考えて出した結論なのだと思いました。
責任を取らなくてはならない。
今のような生活をしていてはならない。
そうだ、今こそ、あの自分を捨ててしまおう。
『月城は俺らと違う』
そういう言葉に踊らされてずっと捨てることができなかった自分を。
「僕が働くから」
すると、香織は目を見張った。彼女は驚いていた。
「書くことをやめてしまうということ?」
「だって、子供が生まれるのに今のままでは良くないだろう?」
自由になれる、そう思って、自分は嬉しかったんです。本当は。ああ、そうだ。自分は、本当はこんなこと望んでいなかった。僕がずっと望んでいたのは、平凡な人でいる権利。子供が生まれるんだ。誰にも文句は言わせない。
僕はもう、みんなと違う自分でいなければいけない理由はない。
「そんなつもりで言ったんじゃありません」
でも、香織は厳しい顔でそんなことを言った。
「あなたに諦めさせるために言ったんじゃない。あなたがそんなふうにいうと知ってたら……」
狭い部屋、オレンジ色の電気。自分たちは質素な身なりで、でも、その時まだ若かった。年をとってから今でも思い出す。あの日、あの時、香織だって絶対に不安だっただろうに、どうして彼女はあんなに強くいられたのだろう?彼女はその後こう続けた。
「妊娠したことを言わずにあなたの前から消えたのに」
「でも……」
「でも、なんですか?」
「こんなこと何年もやったって、意味がないさ」
本当にそう、思ってました。
すると、彼女はそっと膝を滑らせて僕の傍に寄ると、手を伸ばして机の上に乗せていた僕の下書き用のノートを取り上げて、びっしりと書かれた文字をそっと撫でました。
「途中でやめてしまったら、今まで何年もやってきた自分を否定することになってしまいます」
「……」
「わたしが好きになった人は、今のあなた。お願い。自分をそんなに簡単に捨てないでください」
苦しくて、逃げ出したくて、口実が見つかって、飛びつきたくて、でも、彼女の目に阻まれました。その澄んだ目に自分が映っていた。鏡のような役目を果たして、僕は僕の姿をその時、彼女の目の中に見ました。
どうして、自分だけがこんな目に。
幾千、幾万の夜を、焦燥感に駆られながら眠りにつかなければならないこの苦しさを、君は一体知っているのか?世間の大多数の人は、ただ、その日あったことに一喜一憂しながら、人生を楽しんでいるというのに。
どうして?
どうして、僕も、他の人と同じように生きてはならないの?
「僕が捨てようとしている自分って何?」
「ものを書いているあなた」
「僕のやっていることになんか意味はない」
彼女は僕の両手を握って、そして、首を振った。
「意味はあります」
「僕には意味なんかない」
そう、僕には生きる意味なんてない。存在する意味なんてない。
「じゃあ、なんでこんなに長い間、一生懸命やってきたんですか?」
なんで?
なんでだろう。
「他にできることがなかったから」
「本当にそうですか?」
「……」
「本当にそれだけで、こんなにたくさん、こんなに真面目に書き続けることなんて、人はできないと思いますよ」
彼女はそう言って、僕の机の周りにある、僕のノートの束を指さした。たくさんの資料、そして、書き綴った言葉。膨大な時間を費やして思考してまとめた僕の言葉。
そう、考えることは嫌いではなかった。新しいことを知ることも。
どこまで行っても、この世には自分の知らないことがあって、知るために僕は生きていた。そう、僕はこの世を知るためにきっと生まれてきた。
いつも、そこには強烈な喜びがあった。
誰かにやらされてきたんじゃない。僕は本当は自分から学ぶことを始めていた。
学ぶことを始めて、そして、思考することを行なってきた。
それだけで本当はただ満たされていた。満足だったんだ。
人に認められるためになんて考えは自分の中から出てきたものじゃない。
僕は周りの人間に利用された。踊らされた。
でも、このままでいいのか?このまま、踊らされて、そして、元々は自分の純粋な欲求であったはずの、この世を知り解明することを手放してしまって……。
そして、取材であった人たちのたくさんの顔が浮かんできました。たくさんの人の強がった笑顔や、何かを諦めた顔、ひどく傷ついた顔。それは虐げられた人たちの顔だった。大きなものに虐げられていて、自分たちが一体何に虐げられているのか、何が間違っているのかを知らずに、ただ、それでも生き続けなければならない人たち。
そういう夥しい人たちの群れの先頭に自分は立っていた。
本当にこのままでいいのか?
逃げ出せば、きっと最初は楽しいだろう。でも、きっと自分は死ぬ時に、こう思うと思うんです。自分は負けたのだと。自分の人生に負けたのだと。
目の前を見ると、そこに穏やかな顔で香織がいました。この人は僕の最後の頼みの綱のような人だった。
「もう少し……」
「はい」
「もう少しだけ、君に甘えても構わない?」
香織は笑った。
それからまた、少なくはない年月を僕たちは過ごすことになる。
なかなか羽化することのできない虫のように。僕は暗い土の中を這い回るような気持ちで、それでも書き続けていた。
娘が生まれた。
血の繋がった存在というものが、自分には本当に不思議だった。とても小さくて、でも、全部がちゃんとしていた。小さいのだけれど、きちんとしていた。
眠っている娘の小さな手がぎゅっと結ばれたり、開かれたりするのを、横で寝っ転がって見ていた。自分の手にそっとのせて、その大きさと硬さの違いを確かめた。
知っていたはずだったのに。
赤ちゃんというものにだって触れたことがないわけではない。
わかっていたつもりだった。
だけれど、良くわかっていなかった。生命。生命がつながるということ。
自分自身もこうやって生まれて、そして、大きくなったということ。
わかっていなかった。
娘はそこまで手のかかるほうではなかった。それでも、生まれたばかりの頃は夜中に泣いた。それまで睡眠のリズムを崩されるという経験が自分にはなくて、これには参った。熟睡しているところをぐいと引き戻される。
香織は静香がなくと、すぐに起きて、そして、オムツを替えたり、授乳したりした。たまにそれでも泣き止まないと、静香を抱いてベランダに出る。抱っこして揺らしながら小さな声で何かを歌っている。
「代わるよ」
そう言って背中から声をかけると、そっとこちらを見て笑った。
「道隆さん、休まないと、頭が働きませんよ」
「君だって昼、働いているのに」
「わたしの仕事は簡単ですから。もう長いですし。半分眠っていたってなんとかなるんです」
夜はあまり寝られず昼は働いて、その合間に家事をこなす。香織のことが流石に心配でした。自分に何かできることと探す毎日で、今までのように著作に向かうことはできなくなった。
時間が飛ぶように過ぎた。
その不思議な存在はすぐに大きくなった。動き回って、話すようになって……。そして、娘ができてしまったせいで、自分は今までであれば関わることのなかったような社会と関わるようになる。
「お父さんっ」
保育園に迎えに行く。勤め先からそのまま来たらしいお母さんたちに混じって男の自分がいるのは異質だった。じろじろと見られる視線にその頃耐えていた。香織と2人の生活では浴びる必要のない視線。自分の今置かれている立場というものを、その視線を浴びるために思い知らされる。針の上を歩くような心地だった。
娘と手を繋いで歩く。静香はわたしにはあまり話しかけない子供でした。それは多分、わたし自身が無口だったからかもしれない。だけど、娘はしゃべらないわたしと一緒に手を繋いで、それでもいつも嬉しそうでした。
こんなふうに人に好かれることが初めてでした。
自分は、きちんと働いているわけでもない。世間に認められるようなすごい人間であるわけでも……。本当にただの男でした。大人はいつもそういうものを見る。でも、子供はそういうことを気にしない。自分の親であるという事実だけで、全幅の信頼を寄せてくる。
そして、自分に今まで持ったことのなかった思いが生まれた。
この子に誇れる自分になりたいと。
手を繋いで嬉しそうにこちらを見上げてくる目。
自分がもしこのまま、今の自分のままでいたら、娘はいつかきっと自分を軽蔑すると思うんです。その目だけは見たくない。
不思議でした。
その感じは、やはりたまらないものでした。たまらないものだったけど、今までのものと少し違った。はらわたを焼かれるような焦燥感とは違った。そう、それは自分の願いでした。誰のためでもない。自分の願い。その時、自分は踊らされてはいなかった。
「お父さん、公園で遊んでいきたい」
「長い時間はダメだよ。お母さんが帰ってくるから」
ベンチに座って本を読みながら、時々目を上げて、娘がちゃんとそこにいるか確認する。砂場で、服をぐちゃぐちゃにしながら何か作っている。山のようなもの。乾いた砂だと崩れてしまうのが嫌なのか、水道まで行って小さな手の平に水を溜めて砂場と往復する。
あーあー、あんなに服を砂まみれにして。
呆れて見つめている。娘は砂場まで行って運んだ水を砂にかける。でも、もともと手のひらが小さいのと、運ぶ途中でこぼしてしまったのだろう。ほんのわずかしかかからない。そのしかめ面。
思わず笑ってしまった。
すると娘はこちらを見た。
「お父さん、手伝って」
「ええ?」
娘に付き合うと、自分まで砂まみれになってしまう。
「いいから手伝って」
しょうがないなと腰を上げた。自分が代わりに水を運ぶ。砂の山にかけると娘は喜んだ。濡れた砂で更に大きな山を作って、その山の天辺を平たくした後に、穴を掘っている。
「それは何?」
「秘密」
「湖か何か?」
「まだ教えない」
そして、その天辺に穴のある山が完成すると、娘はまたその天辺に水を入れろとせがんでくる。言われる通りにする。一度できちんと満杯になったのだけれど、もう一度入れろと言われた。
「せっかく作ったのが壊れちゃうよ」
「いいの!」
言われた通りに水を入れた。水が溢れて流れて、山を崩していく。
「噴火!溶岩!」
そんなこと言ってバンザイした。
その様子を見て笑った。そうか、これは火山だったんだな。静香、どこで火山なんか覚えたんだろう?子供は不思議だ。どんどん知識を吸収して変化していく。すくすくと。
烏がないて、空を見る。いつの間にか遅くなってしまった。
「さぁ、帰ろう」
服の砂を払うと、手を洗わせて家路に着く。
「砂だらけだから、ここで洋服脱ぎなさい」
玄関の靴を脱ぐ土間でそういうと、娘は嫌がった。
「このまま上がるとお母さん、後でお掃除大変になるでしょ?」
「じゃあ、お父さんも」
「はぁ?」
「お父さんも砂だらけ」
そういうと、保育園のカバンや帽子を玄関に置いて、服を脱ぎ始める。
「早く」
「はいはい」
しょうがないので自分もズボンだけ脱いだ。下着姿になった娘をバスタオルで包む。
「お風呂の準備するからそのまま待ってなさい」
「まだお風呂の時間じゃないよ」
「今日は汚れちゃったから早く入ろう」
「お父さんと?」
「うん」
嬉しそうに笑った。
お風呂に入って上がった娘の体を拭いているところに、香織が帰ってくる。
「あら?もうお風呂入ったの?」
「うん」
「洋服すごい汚しちゃって」
僕は砂だらけの服を見せる。
「あらあら」
「あのね、お母さん。火山作ったの。お父さんと」
「へぇ、火山?」
「そう。おっきいの」
静香は手振り身振りを交えて夢中で話す。
「こら、動くと髪がふけないよ」
よほど嬉しかったのか、その日は夕食の時まで砂山の話をしていた。
そして、そのうち娘は小学生になって、前ほど手がかからなくなった。送り迎えする必要もなくなり、鍵を持たせるようになった。自分はまた前のようにいろいろな人のところへ取材に行きやすくなった。
あれは娘が何歳の頃だったのだろう。
出先から戻るとき、偶然静香が友達と並んで帰るところに出くわした。自分は道のこちら側にいて、静香は横断歩道を渡った向こうの方を歩いていた。背中から、娘と同級生の子がランドセルを背負って歩く様子を眺める。
娘のスカートが、少し小さいように思った。体に合っていないように。
赤いチェックのそのスカートが、娘はお気に入りだった。新しく買った服の中に自分が気にいるようなものがなかったのかもしれない。小さくなったそのスカートを静香はそれでも履いていた。
娘は、たくさん服を持っていない。
どんどん大きくなる子供の服を用意するのは大変だったのだと思う。
もっと綺麗な可愛い服を買えと、娘が言っているところを見たことがない。それが母親を傷つける言葉だと、小さくても分かっているからなのだと思う。
子供は大人が思っているより大人だし、それに親に気を使うものだ。
痛烈な悲しみが自分を貫いた。
香織と静香の普段の笑顔の向こう側にあるもの。僕に見せないようにしてるもの。背中から見なければ気づかない、隠された何かだったのだと思う。
悲しかった。
自分はもう、1人ではなかったんです。
1人の悲しみは、こんなにも鋭い痛みを持ってはいない。
自分の大切な人が、惨めであったり辛い目に遭っているような時に感じる痛みは、自分自身に感じる痛みよりもなお、痛いものではないだろうか。
その頃自分は過労死についての本を書いていました。
遺族の人たちにあって、そして会社側にも取材をした。両者の主張を聞きながら、そこに自分は日本人の精神性について書いた。歴史や文化の中で構築されてきた、我々日本人という集団の精神性について。その精神性の何が尊くて、そして何が間違っているのか。時間の流れの中でその精神性がどのように変化し、そして今、危機を迎えているのか。我々はこれからどう変わっていくべきなのか?
家族を失ってしまった人たちの悲しみに触れ、そして、変わらなければこれからも奪われるかもしれない命のために。僕は遺族の人たちの代弁をしました。うまく言葉にできない人たちのために、自分の培ってきたものの全てを込めた。
「ありがとうございます」
「え?」
原稿を渡して、その日の夜に原さんから電話がかかってきた。
「わたしの願いを先生は形にしてくださった」
「……」
「わたしにはできない。できないけど、ずっともやもやと胸の中にわだかまっていたものを形にしてくださった」
「はぁ……」
「この本はきっと世に出します」
出ますではなくて出しますと言って、原さんは電話を切った。
そして、その自分の本は賞を取りました。
時代性もあったのだと思います。死者を出すような働き方をすることに対する強い批判の基調がその頃の社会にはあった。僕の本は売れました。話題になった。
嬉しいというよりは安心したというほうが正しかったと思う。
長い長い暗闇の中をずっと自分は歩いていたのですから。
でも、すぐにその安心は消えました。無名ゆえに無心になれた一作目と違い、二作目が難しかった。別の戦いの日々とでも言うのでしょうか?
どこかで無責任に自由に書いていたのとは全然違う。
大木道隆という名前を背負って、日々を生きる生活が始まりました。
自分の親や田舎の連中がまるで、ゾンビのように舞い戻って自分に連絡をしてくる。長く苦しい間には自分と距離をとっていた連中が。その連絡を受けて、全く何の感慨も湧かないことに驚きました。その人達は、すごく遠い人たちでした。自分に影響を与えていたはずなのに。いつの間にか遠い過去になっていた。
それよりも自分には新しい世界があって、そこで、必死になっていた。
新しい自分
二冊目、三冊目と何とか著作を出すことができ、いつしか自分は著名な人間になっていった。そして徐々にあの焦燥感が消えていって、そして、自分はやっぱり、普通の人とは違う自分なのだと思い始めました。
『月城は俺らとなんか違う』
肥大化した自己が、行き場を見つけた。
長い時間かけてとうとう勝負に勝ったのだと思った。有頂天になった。
そして、自分がしたのは過去の自分との決別だった。
昔の自分は本当の自分ではない。惨めだった自分を忘れようと思ったんです。
執筆用に部屋を借りて、それと同時に住んでいたアパートを引き払って家族をもっといい所に引っ越させました。
「好きな物を買いなさい」
香織にクレジットカードを渡した。彼女はそれを珍しい物でも見るようにじっと見ていた。その様子が今でも頭の中に残っている。新しい部屋でその広さに最初慣れなくて、ソファーにちょこんと他人の家にお邪魔したように硬い様子で座っていた香織。開け放した窓から風が入りこんで、買ったばかりの綺麗なカーテンを目一杯揺らしてた。
カードをもらって両手で捧げ持ち、香織はじっとそれを見ていた。
あの時は気づけなかった。
賞を取った時に、彼女は本当に喜んでくれました。僕の本が売れた時にも。でも、カードを渡した時、彼女は喜んでいたんでしょうか?
あの時、僕たちはズレてしまったんです。
僕は、過去を切り捨てたいと思っていた。
親も田舎の連中もどうでもよくて、ただ、香織と静香だけを過去から今の自分の現実へ連れてこようと思っていた。自分が変化を心から楽しむように香織にもそれに有頂天になって欲しかった。だけど、香織はちょっと違ったんです。
彼女は戸惑っていた。
ちゃんと考えれば分かったのかもしれない。
彼女自身はあの病院で千円を貸した頃から、一つも変わっていなかった。
ただ僕が変わった。僕が変わって、そして、彼女にも変わってほしいと思っていた。
好きな服を買って贅沢に着飾って、そういう平凡な人とは違う人になってほしいと思っていたのだと思う。そして何より、喜んで欲しかった。
ずっと苦労してきたのは僕だけではない。この人にやっと何かをあげることができる。
だから、喜んで欲しかった。それだけでした。
でも、香織はどこか不安そうで、心から満足をしているように見えなかった。
僕の、何が、いけないの?
当然のように喜んでくれると思っていたのに、その香織の反応に、自分は、傷ついたのだと思う。
もともと自分は人付き合いの苦手な人間です。
言葉も足りない人間で、それだけにごく少数の自分のそばに寄せた人にだけは、自分を理解してもらいたかったし、完全に受け止めてもらいたかった。一緒に自分と同じぐらいの強さでこの成功を喜んで欲しかった。
彼女は頑なに彼女のままでいようとしているように見えました。
与えられた部屋で、でも、引き続きつましく暮らし始めました。彼女は贅沢を好まない人でした。
この人は、男を飼いたい女だったのか。
そんな極端なことまで考えた。ずっと香織のお金で暮らしてきた。その長い屈辱からやっと解き放たれて、今度は立場が逆転した。でも、まるで香織は、与えられる生活はつまらないとでもいうように僕のお金を使おうとしない。必要な額以上には。
不思議な距離ができました。香織と自分の間に。
だけど、香織は僕の生活からいなくなりはしなかった。
彼女にとってもそれがちょうど良い距離だったのでしょうか?
家政婦のように僕の部屋へ来て、世話を焼いてゆく。それは、あれでした。ずっと昔、出会ったばかりの頃の彼女のようでした。食べ物を抱えて僕のところへ来た彼女。
自由にしてあげたほうがいいんだろうか。
自分はきっと家庭向きな人間じゃない。
時々そういうことを考えました。
この人を幸せにするのは他の男なのかもしれない。
だけれど、全くの1人になるのが嫌だった。
そして、ふと思ったんです。
自分は幸せだったのだなと。
あの、何者でもなかった自分。何も持っていないと思っていて、焦燥感と劣等感に苛まれていたあの過去の自分。あの時、でも、自分は幸せだった。
それに気がついていなかった。
だから、大切にできなかった。自分はその過去を切り捨てたかったのだから。
でも、その切り捨てようとした自分を香織は愛していたのだと思う。
だから、喜んでくれないのだと。あれからずっと自分といて香織は喜んでくれないのだと。
やがて自分はテレビにも出るようになった。自分の顔と名前は次第に売れていった。有名になるというのは不思議な経験だった。あんなに長い間、箸にも棒にも引っ掛からなかったのに有名になるのは一瞬だった。テレビというものの真の威力を知った気がした。
「先生。大木先生」
とある日、収録が終わって帰ろうとしていた時に、局の廊下で番組の女性キャスターから声をかけられた。
「この前フランスに行ったんです。仕事絡みですけど。その時向こうでしか買えない珍しい香水を手に入れたので」
にこにこ笑いながら、手渡してくる。
「僕に?」
そういうとコロコロと笑った。
「先生にじゃありません。奥様にどうぞ。女性用の香水ですから。とてもいい香りなんですよ。でも、限定盤ですから絶対日本では手に入りません」
小さな紙袋を開いてそっと香りを嗅いだ。瓶は封をされていたけれど、香りが少し漏れていた。
「これ、いい香りなの?」
「お嫌いですか?」
「僕は香水なんてこれっぽっちもわからない」
そういうとまた片手を口にあててコロコロ笑った。
「先生が女の人の香水に詳しかったらちょっと嫌です。でも、たまには奥様に贈り物されないと」
「うちのはそういうのじゃないから」
「そんな……。贈り物されて怒る女の人なんていませんよ。先生」
そう言ってまだにこやかにしている彼女を見た。
40前後のはずだがとてもそうは見えない。頭脳と容姿を合わせ持ち、いつもセンスのいい服に身を包み、キャリアもある人。
「ありがとう」
もらった紙袋をそっと掲げるとそう言って、背中を見せた。
その時、自分の胸の内に浮かんだ考えにゾッとした。ゾッとして、怯えて歩き出した。1人になって、少しずつ落ち着いてきた。少しずつ。
タクシーを捕まえて、家の場所を伝える。夜の中を車が滑り出す。街の様々な色が目の中を流れてゆく。
いつの間にか自分は昔とは比べ物にならないくらい華やかな世界にいた。
だけれど自分はそこに入りこんだ。自分は普通の人間とは違う、非凡な人間だという自負があって、それでもって自分はそこに入りこんだのだと思う。
そして、違和感を感じてはいなかった。周りも自分をこの華やかな世界にいるのに相応しいものとして扱った。そうでなければこんなにも出演依頼がくるわけもない。著作も売れなかった時代が不思議なくらいに順調だった。
さっきキャスターの彼女を見ながら、自分は彼女と香織を比べてしまった。そして、違和感を感じた。よくわからないけど、おそらくいい香りなのだろう。その香水は彼女には似合うけれど、香織には似合わない。
香織は平凡な女だ。
理性がその言葉を弾き出したんじゃない。浮かんでしまった。考えようと思って考えたのではなくて、浮かんでしまった。
変わって欲しかった。
自分が本来いるべき場所へと進んだ時に、彼女にも変わって欲しかった。
香織は恩人だったから。傷つけたくなかったんです。
でも、彼女は頑なに彼女のままであろうとし続けた。
僕は、彼女を自分の妻として今自分が付き合っているような華やかな世界の住人に紹介したいだろうか?
それは、絶対にできない。皆、表向きは丁寧に彼女を遇するだろう。だけど、心の中でやはり思うに違いない。これは平凡な女だと。そして、彼女はそれを悟るだろう。悟ってしまうに違いない。
香織は、自分と深く結びついていました。あの、ものになるかならないか、人生の谷底の底辺で彷徨っていた自分。千円を払えなくて、耳まで真っ赤になってしまった自分。そして、大事な娘のスカートさえ買ってやれない自分。
香織を笑われることは、その過去の自分を馬鹿にされることと同義だったんです。
隠したかった。
『月城は俺らとなんか違う』と周りから敬われてきて、そして、先生先生とおだてられ、意見を求められる、自分はずっとそういう自分だった。そうではない時期などなかったと周りに思わせたかった。そうでないと、そういう惨めな自分にあっという間に戻ってしまうような気がして怖かった。
あの苦しい時代の自分は本当の自分ではない。
時間に追われるように過ごす自分の傍に、香織はまるで自分が言葉にしない言葉を聞き取ったかのようにそっといました。影の様に目立たない様にして。仕事関係で出入りする人間とは極力顔を合わせないようにしながら、やはり僕のところに通ってきた。
彼女が来るのが普通になって、僕が帰ることがほとんどなくなった。
僕はこの人を愛しているのだろうか。次第にそんなことを考えるようになりました。
彼女が恩人だから、その恩に報いるために側にいたいのではないかと思った。人並みの良心を持っている。人を心底傷つける勇気なんて自分にはない。それに好色な性質ではない。もともと人嫌いな自分に新たに女を見つけるような気はさらさらない。
だから、彼女を捨てる様な気はない。
でも、その実、心の底では彼女を平凡な女だと思っているわけです。そして、周りに見せびらかしたいと思ってはいない。誇ってはいないわけです。
そういう自分が不誠実であるように思っていた。
娘の目がその後ろめたさのようなものを後押ししていた。
娘は大きくなりました。そして、いつしか僕を冷たい目で見る様になった。突き放すような目で。いつからそうだったのだろう?気がつかなかった。
だけれど、そうだな。娘の変化に気づかなかったのは、僕が娘を真っ直ぐに見られなくなったからなのだと思う。心の中に香織に対する後ろめたさを感じる様になってから、僕は静香に向き合うこともいつしか怖くなっていたのです。
皮肉なことです。
うだつの上がらぬままに、家族の経済を支えられず、いつしか蔑まれるのではないかと怯えていた遠いあの日、まさか自分がここまで成功するとは思ってはいなかった。だけれど、もっと予想していなかったのは、成功をしたのに娘に突き放されることです。
娘は僕を軽蔑はしていない。だけれど、僕と手を繋ぐだけ、一緒にお風呂に入れるだけであんなに喜んでくれた娘はもうどこにもいない。あの頃の僕は本当に何も持っていなかった。香織に生活の面倒を見てもらう男でした。でも、香織も静香もあの昔の僕を愛している。
どこで間違ってしまったのだろう?
それなら僕は一生、夢を叶えず地を這うような生活を続けていればよかったとでも言うのでしょうか。
唐突に悟った。
自分はまだ負けている。
結局自分はまだ踊らされているんです。本当に欲しいものはなんだろう?
周りが僕に持たせようとしたものではなくて、僕自身が本当に欲しいものはなんだったんだろう?わからない。わからないけれど、何かが違う気がする。
更に時間が過ぎました。娘が大学を卒業して院で勉強しているとき、卒業と同時に結婚したい相手がいるという。
「早過ぎるんじゃないか?」
驚いてそういうと香織は困った顔をした。
「でも、いい人なんですよ。一度会ってみてもらえませんか」
変な相手ではなかった。家もしっかりとした人だった。自分は特に静香に親としていろいろしてきたわけではない。香織が反対しないならと、結婚前提での同居に反対はしなかった。だけれど、もっと驚いたのは、数ヶ月で静香が同居を解消し婚約を破棄した時だった。
「何が原因だったの?」
本人には聞けずに香織に聞くと、香織はまた困った顔をした。
僕はその時には知らなかった。その香織の困った顔の後ろにある色々な事。静香が自分を好いてはいないということは知っていたつもりだった。だけど、静香は口に出してぶつかってきたことはない。だから、その思いが具体的にどういうものなのか、分かってはいなかった。
静香は自分に似てしまったのだと思う。
考えていることを口にして、ぶつかることのできない子だった。特に僕と。
「ま、でも、結局お互いまだ若過ぎたんだろう」
「ええ……」
そのうち、また、別の相手が現れて、静香も落ち着くだろうと思っていた。自分はまた仕事に没頭した。正面から見たくないことから逃げるのに仕事は便利だったし。それに、自分にはこちらの才能はあった。家庭に対する才能はなかったかもしれないけど。
院を出てから娘はカウンセラーとして働き出した。それから結婚の話は出なかったけど、仕事が楽しいからだと思っていた。
娘が年頃と言える年齢を越えてくると、香織はたびたび懸念を口にする様になった。
「もうあの子も30を超えるのに全然そういう話が出なくって。お付き合いしている人がいるって話も出ないし」
「最近は20代で結婚する方が珍しいくらいだよ。気に病む必要はない」
「昔のことを気にしてるのかしら?」
「昔のことって?」
「一度ダメになったじゃないですか」
妻は若い頃の婚約破棄について言っていた。
「あんな昔のこと。それに結婚して別れたわけではないし」
「そうですけど……」
香織はため息をついた。
「あの娘が幸せにならないと、わたしも落ち着かない」
そう言った横顔がしばらく妙に忘れられなかった。
その横顔が忘れられないうちにそれが起こった。
また立て続けに忙しい日々が続いていた。夜は夜で付き合いでいろいろと出なければならない集まりがあって、家には寝に帰るだけ。香織とも顔を合わせなかったし、昼、彼女がきているかどうか確かめてもいなかった。確かめなかったけどいつも通りきているのだと思っていた。あの日、自分は娘から何度も電話が入っていることに気がつかなかった。
静香が自分に連絡をした翌日に、携帯に数度の着信があったのを見た。すぐにおかしいと気がついた。娘はわたしと極力連絡を取ろうとはしない。香織経由でしか。残された留守電を聞いた。香織が倒れて、手術になりそうだと。勤めている病院に入院したからすぐに来てほしいと、硬い声で告げていた。
それを聞いた途端に、自分の頭の中にあの出会った時の香織の顔が浮かびました。
お金を払えなくて困っている自分に、そっと目立たないように微笑んだあの顔。
どうして自信を持って自分はこの人を愛していると言えなかったのか。
どうして他の人たちと比べたりしたのか。
世間のみんなから素敵だとか、素晴らしいとか、そんなふうに思われる必要なんてなかったんです。ただ自分が、自分1人がその人の価値をわかっていれば。周りに認められる必要も、何もなかった。
香織は変わる必要なんてなかった。
彼女の輝きは、あの出会った瞬間にもう存在していました。彼女の女性としての輝きはあの瞬間にちゃんと存在していた。僕をどん底から救ってくれた。あの笑顔の中に存在していたんです。
そして、僕はそのことにきちんと報いることのないままに香織を失うのかもしれない。
「先生、どうかされましたか?」
収録の途中でした。休憩中だった。僕の様子がおかしくなったのを見たスタッフに声をかけられた。
「あ、すみません。大丈夫です」
「お加減でも悪いんですか?」
「いや、その、家族に病人が出まして……」
そのスタッフの人はまだ若い人でしたけど、気のつく人でした。いいと言ったけれど責任者のところへ相談に行ってくれた。
「先生、後の部分はどうにかしますから」
ディレクターさんがそう言ってくれて、自分は局を出た。時間を守らなかったりとか、機嫌を悪くしたりとか、僕はそういう人間ではなくて……。愉快な人間ではないですが、人に迷惑をかけるようなわがままな人間ではない。だけど、やってみたことはなかったけれど、わがままというのは通るものなんだなとぼんやり思った。
タクシーに乗って、病院に向かいながら、ショックを受けたままで、そして、なぜなのでしょうか。強い衝撃を受けると、そのせいなのか、僕はずっと考え続けてわからなかった問いに対する答えの様なものを得ていた。
僕がどうして香織に愛していると言えなかったのか。
それは、そのままの自分を愛していなかったからなのだと思います。
ずっと周りの人の目を気にして生きてきた。
周りに認められる自分になるために、自分は自分を作ってきた。
でも、香織が愛しているのは、世間に認められるために作った自分ではない。そのままの自分だったんです。飾りのないそのままの自分。
飾りのないそのままの自分を受け入れて、そして、それを周りの人たちにも見せる。そして、それが受け入れられると信じる。いえ、受け入れられること。
そのままの自分が周りに受け入れられること、それが、自分が人生に望んでいることであり、それを助けるために香織はずっと自分の横にいたんです。
タクシーが病院に着いた。お金を払っておりた。
空が青いと思いました。病院は改装されて綺麗になっていた。
でも、前庭は同じ。そう、きっとあの日もこの立木はここに立っていた。もっと低かったかもしれない。あの人と僕が出会った病院。今日僕はここで彼女と別れるのだろうか。
娘に電話して、状況を聞くことが憚られた。
電話になかなか出なかったことが、後ろめたかったのです。それに、娘と自分はもう随分、直接話していなかった。
受付で香織の部屋を聞いた。応対した人が一瞬、お?という顔になって、すぐ事務的な顔に戻りました。廊下をゆく途中でも何人かちらちらとこちらを見てくる人がいる。普段はもう少し目立たないように眼鏡を替えるとか気をつけているのだけれど、今日はそんな余裕がありませんでした。
教えてもらった病室へたどり着いた。すぐに開けなかった。数秒、廊下に立ってそのドアを見つめた。刑の宣告を受けるような気分で、ドアを開いた。
顔色の悪い娘がいて、そばに男の人がいた。誰だろうとぼんやり思う。驚いた顔で向こうもこちらを見ている。
「静香」
「今更来て何よ!何回、電話かけたと思ってるの?」
「……」
娘が僕にこんな風に面と向かって言いたいことを言ったのは初めてだったと思う。ただ、娘のその剣幕よりも自分は香織の容態が聞きたかった。でも、娘の言葉は止まらなかった。止まらずにそして、僕の胸を刺しました。
「いつ連絡したってそうなんだから。こんな大変な時にだって。お父さん、いっつもそうなんだから」
「静香……」
「なんで来るのよ!どうせなら、もう、完全にいなくなってよ!わたしとお母さんの人生から完全に消えて!」
「静香さん」
黙ってそばにいた男の人が娘を宥めた。
「やめなよ。もう、やめな」
娘は泣いていました。泣いている娘を見ながら、僕は思った。香織は、香織はもう、ここにいないんでしょうか。泣いている静香と僕を残して、もうここには戻って来てくれない?その時、彼が呟いた。僕と娘の間にいたその若い男が一言呟いた。
「静香さん、お母さん、目が開いた。起きたよ」
静香がベッドに取り縋って泣いている。背中から眺めていた。その泣き声を聞いて、うっすらと目を開けた香織の顔を眺めました。自分の呼吸の音が聞こえた。頭の中で響いた。
神様は僕を許してくれた。執行猶予の判定をくだした。
「お医者さん、呼んできます」
彼はそう言って病室を出て行った。
医者が病室に来て、香織の様子を一つ一つ確認した。時々頷いている。一通り済んだ後、しばらく待たされて、それから、別室に呼ばれた。心臓に問題があって、ペースメーカーを入れて暮らさなければならない。香織の現在の状態とこれからの生活での注意点等が説明される。
僕が気になったことをいろいろ聞くと、聞くたびに静香が嫌な顔をした。
今更何かと思われている。自分が嫌われている、嫌われているのを通り越して憎まれているということを実感した。
医者の説明を聞いた後に病室に引き返した。香織は一度目を開いたが、もう一度眠っていた。静香は黙ってまた、ベッドに突っ伏した。突っ伏して顔だけ向けて寝ている香織の顔を見ている。僕と口をきこうとしない。
「あの……」
振り向くと、説明を受ける間病室で待っていたらしい先程の男の人がいる。
「ちょっといいですか?」
小声でそう言われた。
そんな必要はなかったのかもしれないけれど、なんとなく2人で廊下に出た。静香の前でやりとりをすると、娘がまた怒鳴り出したりするようなそんな気がしていたのだと思う。
「先程はばたばたしてたので、ご挨拶できなかったんですが、上条春樹と申します」
病院の廊下で名刺を渡された。
「僕は名刺を持って歩くような仕事をしていないもので……」
返せる物がない。
「あ、でも、お名前は……。大木道隆先生ですよね?」
「ああ、はい」
上条君はため息をつきました。
「すみません。その、彼女から聞いてなかったものでびっくりしてしまって」
僕は苦笑しました。
「僕はね、娘から嫌われているものですから」
「……」
「君は、娘の?」
「ああ、あの……、お付き合いさせていただいています」
そう言って少し身を固くしてお辞儀をした。思わずため息が出た。
「静香にもそういう相手がいたんだね。香織がずいぶん心配していたけど……」
よかったと思って、次に喜ぶ彼女の顔が見えた。そして、ふとぴんと張った緊張の糸が緩んだ。もう一度思った。よかった。
「帰ります」
「え?」
「静香はわたしがいるのが嫌なようだから。すみませんが、娘についていてやってくれませんか。僕は静香がいない時にまた来ますから」
上条君は少し困った顔をしました。我々親子の事情をきっと娘から聞いてなかったのでしょう。戸惑ったのだと思います。
「すみませんね」
「ああ、いえ」
それからしばらく、僕は予定を断り続けた。人と会う予定や、打ち合わせの予定。普段だったら絶対に断らない収録の予定。たくさんの人に迷惑をかけて、そして、香織のそばにいました。静香と顔を合わせないように気をつけながら。
後で知ったことだけど、一部では大木先生が倒れて病院に入院したという噂が出回ったらしい。大木先生の奥さんが倒れたというのが、少しねじ曲がって伝わったのだと思う。
香織はしばらく経つと、ちゃんと話せるようになりました。
「お金の苦労はさせてないんだから」
「はい」
「もう働くのはやめなさい」
「……」
そう言うと、不服そうではなくただ不思議そうに僕を見ていた。
「身体に悪いでしょ」
「そんなに無理してたわけじゃないんですよ」
「でも、君は若い頃に無理をしてたから」
「……」
僕は言葉を入れ替えた。
「君には若い頃に無理をさせたから、もっとゆっくりして欲しいんだよ」
「……」
「なにか僕に不満があって、そういうことをするの?働いたりとか……。お金を自由に使って遊んだりするわけでもないし」
「そんな、不満だなんて」
彼女はそう言って、ぽかんと驚いた。
「そんなこと考えてたんですか?あなた」
「……」
確かに僕は長い時間そんなことを考えていた。でも、一回もそれを香織に言ったことはなかった。
「わたしが考えてたのは」
「うん」
「わたしは、あなたが有名になるまで助ける役目の人間なんだって思ってました」
「うん」
「だから、一生懸命頑張りました。夢が叶って嬉しかったの。あなたも嬉しかったと思いますよ。でも、わたしも嬉しかったの。あなたが成功するのはわたしの夢でもあったから」
「うん」
「でも、あなたが有名になったら、わたしの役目は終わったと思ったんです」
「……」
「でも、そばにいたかったんです。だから、いなくならなければならないその時まで、邪魔にならないようにそばにいようと思って。あなたのお金はあなたのものだもの。あまりたくさん使ったら悪いと思って」
そして、彼女は笑った。その笑顔はやっぱりあの日と同じ笑顔だった。人に千円貸して、周りに見つかると怒られると思って、こっそりとちょっとだけ笑って、僕にだけ見せたあの笑顔。
香織は知らないのかもしれない。こんな風に笑える人は、君のように考えて、そして、こんな風に笑える人というのは、靴を擦り減らして歩き回ってもきっと見つからない。
きっとずっと見つからない。どこまで行っても。
彼女の手を取った。両手で包んで自分の額に押し当てた。
「馬鹿だなぁ」
「え?」
「本当に馬鹿だなぁ」
「そんなこと、あなたにわざわざ言われなくても知ってます」
少しだけ怒った。怒った顔を見て笑いました。
「もうね、馬鹿みたいにテレビに出たりするのはやめます」
「え?」
「僕はまだね。人生で本当に欲しいものを手に入れていないんだ。残りの人生はそれを手に入れるために使いたい」
香織は黙って僕の話を聞いていた。
「うまくいかない時間が長かったから、不安だったんだろうな。言われるがままにテレビにまで出たりして……。そういうことをしていないと、また、無名の自分に戻ってしまう気がして不安だったんだ。名声を得なければならないというのが僕にかけられた呪いみたいなものだったから」
「呪い?」
「でも、僕が欲しかったのは名声じゃない。名声を得て呪いは解けたんだから、今度こそ、自分が欲しいものが欲しい。昔、君の横で、ただ純粋に書きたいものを書いていたように暮らしたい」
僕の話を香織がどういうふうに理解したのかわからない。きっと彼女なりの解釈でやはり僕の話は少し違った風になるのだろうと思う。ただ、彼女はその時、嫌な顔はしていなかった。僕に手を握られて、そして大人しく僕の話を聞いていました。
「今住んでいるところは売ってしまって、どこかもう少し静かなところへ引っ越さないか?」
「え?」
「君は、働くのをやめて、僕は仕事を減らして、もっと静かに暮らそう」
「本当ですか?」
「ああ」
「2人で一緒に?」
「ああ」
それだけのことで彼女はとても嬉しそうに笑った。ああ、なんで気づかなかったんだろう。彼女に欲しいものはあったんです。でも、それは高い服でも宝石でもなんでもなかった。ただ、僕とゆっくり過ごすことだった。そんなことだったなんて。
「ね、あなた。わたし、この前、幻みたいなの見ちゃったわ」
「この前って?」
「倒れて、一回目に目が覚めた時、あんまりはっきり覚えてないんだけど、静香がいて、あなたがいてね。もう1人誰か男の人がいたような気がするんです。部屋の隅っこに」
「うん」
「わたし、頭がぼんやりしてたじゃない?だから、あら、静香の彼氏がいる。これは死んではいられないと思って……。でも、こうやって冷静になって考えたらね。死にかけたものだから、幻でも見たのかしらって」
「いたよ」
「え?」
「来てたよ。君が倒れた時に、その人」
「あなた、会ったんですか?」
「ゆっくりは話せなかったけどね。確かどっかに名刺が……」
手帳に挟んでた名刺を渡すと、香織は興奮した。
「やだ。弁護士ですって。この事務所って有名なところ?」
「ああ、もう、体に悪いから興奮するのはよしなさい」
「だって、ずっとあの子、恋人なんていないって言ってたのに」
「本当によしなさいよ。もう一度倒れるよ」
きらきらと目を輝かせて喜んでいる。そう、きっと喜ぶと思っていた。そして、ふとあの日の静香のきつい目を思い出した。
「そう言えば君の倒れている横で、静香に言われてしまったよ」
「なんて?」
「わたしとお母さんの人生から完全に消えてって」
「ええっ?なんでまたそんなこと」
「静香が連絡してから、気づくのが遅くてね。君の手術が済んでずいぶん経ってから現れたものだから……」
僕はまた失敗をしてしまった。きっと今回の失敗で、娘は完全に僕を……。
「なにがいけなかったんだろうな。全てがだめだったのかな?父親として」
「簡単ですよ」
「え?」
「あのこはね。あなたに一緒に遊んで欲しいんです」
「え?」
驚いた。
「僕なんか一緒に遊んで楽しい相手ではないでしょ?ぺらぺら話すわけでもないし。静香はいつも君とおしゃべりしてたじゃない」
「いいえ、あの子はいつも子供の頃から、あなたに会えるのを待ってました。一緒に会って遊べるのを。遊んでもらえなかったから、拗ねてるんですよ」
「そんなこと言ったって、今はもう大人だもの。そんな簡単な話ではないでしょ?」
拗ねているという言葉で片付けられるようなものではなかった。この前叩きつけられたあの言葉の重みは。
彼女はため息をつきました。少し長く。
「あなたと静香と2人でいたら、きっと簡単ではないかもしれないけど、わたしが間にいたら大丈夫ですよ。あの子のことはわたしはよくわかってるし、あなたのこともわたしはちゃんとわかっていますから」
「……」
そして、僕に向かって微笑んで、僕の肩にそっと手を伸ばして触れました。怪我をして泣いている男の子を宥めるような顔で。
「ね」
彼女の言葉が柔らかく響いた。この、娘に消えろと言われた同じ部屋で……。
僕にとっては重くて硬い出来事が、香織にとっては大したことのないものなのかもしれない。絶対に溶けるだなんて思えない大きな氷の塊を、この人は簡単に溶かしてしまう人なのかもしれません。確かに香織は僕にはできないことをできる人でした。
大丈夫な気がしてきた。いろいろなこと、静香とのことも、それに、これから死ぬまでのこと。この前までとても冷たい世界に生きて、途方に暮れていたと思ったのに、どうしてだろう。
夕方の海を眺めているような気がした。落ちる太陽があらゆる光を海へ投げかけてきらきらと、きらきらと光らせている。明るいものしか見えない。明るいことしかないと信じられる。全てがうまくいって、みんながにこにこ笑っている、そんな絵が見えた気がしたんです。その時、確かに。
「香織……」
「はい」
「ありがとう」
「なんですか?あらたまって。やだわ。あなた」
香織の頬は先程興奮したせいか、ほんのりと赤く染まっていました。
2021.3.20
僕の幸せな結末までで、うまくいかない親子として主人公の清一君とそのお母さんの塔子さんを書いた時、清一君の気持ちはわかったんですが、塔子さんの気持ちはわからなかった。それでは不完全だと思って書いたのが、ゆきの中のあかりでした。
子供の側の話がまず生まれて、それに対する親の側の話を書く。いつも、後から書く親の話の方が難しいです。
ゲームのようにこういうことをやっているわけではなくて、なんと言えばいいのか、私なりの3Dとでもいうのでしょうか?一つの出来事が、一つの山だとすれば、山は南側から見るのと北側から見るので様子が違います。
静香さんには見えていない風景、お父さんの道隆さんには見えていない風景。こういうすれ違いのようなものが、実は現実の世界でも起きているのではないかと考えています。
そして、それを繋げてくれる人がいる。
二人だけでは繋がることができなくても、間にいる人が、香織さんとか春樹君とか、きっと二人を繋げてくれると、そういうことをぼんやりと考えながら書いていました。
人は1人1人違うもので、中には道隆さんのように難しいことを考え、1人の世界に閉じこもってしまう人もいるのかもしれません。だけれど、そのすぐ横に香織さんのような全く違う考え方をして生きている人もいる。その人と過ごすことで、世界が全く変わっていってしまう。
これは、私の中では起こりうる出来事です。
世界は全て自分の脳を通して認識されるものですから。考え方を変えれば世界は変わるんです。
人は1人では生きていくことができない。
結局はそんな当たり前のことを、今回も書いたのだと思います。
次作もまたお手に取っていただけましたら幸いです。
汪海妹
2020.3.20