自問(上)
夜になり夕食も終えた修也は湯船に入っていた。
閑静な住宅街ということもあってか外からの音もなく、静かな浴室の天井を彼は見つめている。
湯船に浸かっているその顔はとてもだがリラックスしているようには見えない。
理由は脳裏に別れ際に凛に言われた言葉がずっと再生されているからだ。
『私を、私を戦う理由になんかにしないで……』
無理やり絞り込んでいるようでありながらも明確にはっきりとしっかりと突き放すような感じに取れる声音だった。
(俺は……)
今日の戦闘でもう一度立ち上がれたのは諦めない凛の姿を見たからだ。
もし彼女がいなければあの場所で諦めていただろうし、そのまま死を迎えていたのは間違いない。
それを避けられたのは桑田凛という存在があったからだ。
死を望んだ彼女が戦うのならば自分が諦めるわけにはいかない。
だから戦おうと思えた。
立ち上がり、剣を振るい、拳を握りしめることができたのだ。
(戦う理由、か)
アルカナを手に入れてもう1週間は過ぎる。
戦闘の要領を得始め、今日は大きな危機を迎えるながらも能力、自分の士気や意思によって能力が変わるということを知ることができた。
戦える。
今日の戦闘では折れかけたがそう自分に自信が芽生えたころだ。
だが、戦う理由と聞かれるとたしかに首をかしげるしかない。
今が日常であり、普通であり、それ以上を望んでいないため今の修也には凛のような理由が持てない。
かといって誰かを守るなどということはどうにも曖昧で実感が持てない。
わからない。
何もわからない。
そのまま自問を繰り返し続けていた修也は大きく息を吐くと顔を洗う。
そして視線を天井から風呂の液面に写る自分へと移した。
「本当にわからないもんだな。自分のことなのに」
自嘲気味に己の口から出たものであるはずなのに、まるで誰かから言われたかのようにその言葉は耳にこびりついた。
◇◇◇
言い過ぎた、かもしれない。
布団に包まっていた凛はそう自分の行動を振り返る。
たしかにあれはあの場で、あの時に言いと思ったものだ。
そしてそれが強かったからこそオブラートに包まれることなく口から出されたということはわかる。
しかし、やはりもう少し言いようというものがあったはずだ。
あれほどストレートに言う必要は──
「……でも」
ごろんと寝返りをうった凛は暗くなった自室の天井を見つめる。
その顔は今から眠る者とは思えないほどに真剣なものだ。
(でも、あれで良かった。そう思えている私もいる)
桑田凛が持つ紫原修也の印象に悪いところは今の所ない。
歳相応の少年で接しやすいと思える。
彼の友人もまだ2人ほどしか会ってないがあの様子から交友関係もガラが悪いというわけではないだろうとは予想できた。
今日1日で彼の性格もより理解を深められた。
だが、だからこそ不信を覚えたのだ。
(なんで、私を……)
彼女の脳裏に過るのは修也が放った一言。
『誰かが戦っているのを知ったんだ。見て見ぬ振りなんてできない』
凛が戦うのは自分のためだ。
それは彼も知っているはずなのに出た言葉がそれだった。
自身ではアルカナを纏い、戦場に立つ自分が素に近いものだと思っている。
同時にそれが酷く暴力的であるということも自覚していた。
だが、彼はそんな自分の姿を見てもなお見て見ぬ振りはできないと言った。
好き勝手に戦っている者に対して放って置けないと彼は言ってのけたのだ。
(……嬉しくない、わけがない。
私を、素顔に近い私を見て、それでなお認めてくれるなんて)
だからこそ怖いのだ。
凛からすれば普通に恵まれている彼がこんな自分を認めているという事実。
そして、いずれは裏切られるのではないかという不安。
その2つが混ざり合った結果、口からあの言葉が出た。
「はぁ〜」
思考が一周しているのを確信した凛はベッドから立ち上がると自室から出てカーテンを軽く開く。
この辺りは博部駅は周辺は商業地区、西は高級住宅街、東はマンション街となっている。
その先にあるのは疎らに灯りがついた高く伸びるマンション群だ。
そこから視線を少し手前へと向ければ自分が飛び降りようとしたベランダが目に入る。
(あの時、ダインに会わなければこんな悩みに突き当たることなんてなかったろうにね)
自分の悪運の良さに呆れや自嘲を含んだ笑みを浮かべた。
そこでふとある事が頭を過る。
「そういえば、この状態で飛び降りるとどうなるのかしら……」
アルカナを纏えるようになって1ヶ月と2週間程度立っていたが、その間に考えることもなければ当然、試してもいなかった。
そうして自然にベランダの引き戸に手を伸ばしたが、その手は引き戸を開けることもなく下される。
(今は、いいか……)
なんとなくそれを試す気分にはなれなかった。
しかしそうなってしまえばまた思考の迷宮に戻ることになってしまう。
とりあえずお茶なり水なり飲んで気分を紛らわせよう。
そう考えた凛は慣れたように自室から出てリビングへと向かった。
「あっ」
しかし、そこには先客がいた。
リビングの椅子に座るのは背中の中ほどにまで伸ばされながらも綺麗なツヤを保つ栗色の髪を持つ女性。
ふと気配を感じた彼女はリビングの出入り口の方へと振り向くとそこに立つ凛を見つけて表情を緩めた。
「ん? あぁ、凛ちゃん」
彼女の名前は桑田 真夢。凛の母親だ。
もう40も手前だというのに若々しい顔立ちやタレ目気味の優しそうな目は凛と似通っている。
だが母親という役割を持っているせいか凛と比べるとさらに柔らかな雰囲気を纏っている。
「お母さん。まだ起きてたの?」
「うーん。ふふっ、少し寝付けなくてね。
凛ちゃんは?」
「私もそんな感じ」
照れ笑いと共に出されたその言葉に真由はどことなく嬉しそうに笑うと立ち上がるとキッチンへと向かった。
「あ、自分でするのに……」
「いいのよ。こういう時ぐらいはお母さんに頼って」
答えた真由はテキパキとお茶を準備すると彼女が座っていた場所の向かい側に置いた。
凛は誘われるままにそれの前に椅子に座る。
そこでふと気がついたのか真夢は凛へと問いかける。
「どうしたの? 凛ちゃんが眠れないなんてらしくないじゃない?」
「そりゃ、私だって眠れなくなる時ぐらいあるわよ」
「それって、恋?」
「……どうだろう。わからないけど、違う、と思う」
たしかに眠れない原因は修也という少年。異性が原因ではあるが、これは恋という感情ではないような気がする。
そういう感情を持ったことがないため、断言はできないがなんとなく凛はそう思った。
彼女としてはいつも通りの声音で一言返しただけで何かを説明したわけではない。
しかし、真夢にとってはそれで十分だったようだった。
「そう……」
不安気でありながらもどこか表情に険しさのようなものは見えない。
コップに入ったお茶を飲んだ真夢を息を吐くと優しい声音で言う。
「大丈夫。凛ちゃんなら超えられるわ。だって、あの人の子どもだもん。
だから大丈夫、ね?」
「……うん」
いつも母親に接する時のお面、表情と声を使うことを意識しながら安心したような笑顔を貼り付けた凛は答えていた。
しかし、その裏、心中では心底に呆れていた。
凛は真夢という母親のこの物言いが嫌いだ。
いい母親だと思う。
優しくて綺麗で小言も言わない母親だ。
しかし放任というわけではない。
悪いことをすればきちんと叱ることができる。
ここまで育つことができたのは父親の働きもあるが真夢という母親の存在が大きかったのは言うまでもない。
なのに彼女は自分のことを卑下し続けている。
それはまるで褒められることさえも怯えて誰かの背中に隠れているようにしか凛には見えなかった。
そして、そんな姿は酷く惨めに写って仕方がなかった。
どれほど頑張ろうとも褒めはするがあの人、つまりは凛の父親のおかげと言い続けている母親が凛は嫌いだった。
自分にどれほど自信があってもその母親がまるで自信や誇りと呼ぶものがまるでないというのは良い気はしない。
その良い気がしない状態をずっと押し込め続けていたのも凛が自殺を図った原因の1つだ。
「何かあったら相談、するわね」
口から出た言葉はそれらの思いを必死に押し隠したいつもの凛の言葉であった。