げじげじ
…あるところに、二枚のげじげじがございました。
このげじげじが何かと申しますと、いわゆるひとつ…いや一対の、つけまつげでございます。
こちらのげじげじ、まぶたの際に接着いたしますと、摩訶不思議な現象が起こるのです。
ばさり、ばさり…瞬きするたび麗しく瞳が輝きます。
ばさり、ばさり…けだるげに見つめる瞳が彩られております。
ただの黒いげじげじを装着するだけで、なぜかただのつぶらな瞳がゴージャス感あふれるようになるのです。
緩やかなカーブを携えた、繊細な跳ね上がりの集合体。
絶妙に重なり合い、天を仰がんとばかりに広がる眦誇張物質。
…かなり消極的に鈍い光を灯す、つぶらな瞳の持ち主の為の、救世主。
げじげじをつけたとたんに、目元はパアッ!!と輝き始めるのであります。
げじげじをつけたとたんに、乙女はパアッ!!と輝き始めるのであります。
二枚で800円、ややお値段が張っただけございます。
何度も何度も、接着剤の粘りと絡まり。
何度も何度も、貧弱なまつげと共にマスカラに溺れ。
何度も何度も、美しくありたいと願う乙女の汗と涙を受け止め。
日々、美しさを追及する乙女の涙ぐましい努力に応えるべく、凛としてげじげじの役目を全うしておりました。
ずいぶん、長いこと…げじげじは乙女と共にありました。
「このツケマ、マジ神だし!なくなるとかマジ在り得ねえし!つか、なくなったらそっこー引きこもるし!こいつ無くなったらあたしがあたしじゃなくなるってゆっか!」
乙女は常日頃から、明言しておりました。
このげじげじがいなくなったら、乙女はいなくなってしまう、覚悟をしておいてくださいねと。
…乙女の控えめすぎる瞳は、このげじげじでなければ到底彩ることはできなかったのです。
…このげじげじで彩られた瞳が、乙女の乙女たる確固たる証として広く認識されていたのです。
しかしながら。
乙女は、自分が消える日は遠くない、むしろ近いことを…知っていました。
乙女の愛するこのげじげじは、もう、スペアがないのです。
乙女の愛するこのげじげじは、もう、生産終了してしまったのです。
乙女の愛するこのげじげじは、もう、この世に、この二枚しか、一対しか、存在していないのです。
…大切に、大切に、毎日取り扱っておりましたが。
ある日突然、げじげじは、三片になりました。
いつものように、まぶたに貼り付くげじげじを摘んだ瞬間、ばさりとげじげじの一部が崩壊し、分裂してしまったのです。
…げじげじは、もう、乙女を輝かせることができなくなってしまったのでございます。
乙女は、嘆き、悲しみ、けれどもいとも簡単に…げじげじとの別れを受け入れました。
…ありがとう、あたしを輝かせてくれて。
…ありがとう、あたしの相棒。
…ありがとう、さようなら。
乙女はぷつんと、緊張の糸が切れてしまいました。
げじげじで飾り立てたから、あたしはあたしでいられた。
げじげじが飾り立ててくれないと、あたしはあたしでいられない。
「げじげじがいなくなったから、あたしはもう、あたしではいられなくなっちゃったの。」
…げじげじは、それはそれはすばらしいつけまつげだったのです。
げじげじ以外のつけまつげを装着することを拒んだ乙女は、ずいぶん変わってしまったのでございます。
げじげじの恩恵に与れなくなった乙女は、自らを飾り立てる手段すべてを手放したのです。
げじげじのいないこの世の中で、乙女はもう、自らを飾り立てようとは思えなかったのでした。
中途半端に化粧を施したところで、げじげじの足元にも及ばない。
中途半端に化粧を施したところで、げじげじのインパクトは越えられない。
中途半端にげじげじの幻影にすがるくらいならば、すべて手放してしまえばいい。
乙女は、誰もが二度見する、驚きの変貌を遂げたのです。
慌てふためく周囲の人たちを、乙女はどこか他人事で見ていました。
目の大きさが変わっただけじゃない。
ナチュラルメイクに変えただけじゃない。
ファッションを変えただけじゃない。
髪型を変えただけじゃない。
ギャル語を標準語に変えただけじゃない。
「…私自身は、なにも変わっていないんだけどな。」
つぶらな瞳は、つぶらなまま…まっすぐ世間を見るようになりました。
つぶらな瞳を持つ乙女は、まっすぐ、世間を、見るようになりました。
げじげじが無ければ、外に行けないと思っていたけれど。
げじげじが無ければ、外に出たら恥ずかしいと思っていたけれど。
げじげじが無ければ、誰も私を見ようとしないと思っていたけれど。
げじげじが無ければ、誰も私と向き合ってくれないと思っていたけれど。
…げじげじを装備して、たくさんの人の前に出ていた私は、げじげじ越しにしか、人を見ようとしていなかった。
…げじげじを装備していたから、強気になっていた。
…げじげじを装備していたから、人との距離感が近かった。
…げじげじを装備していたから、人との距離感が遠かった。
乙女は、ぼんやり、ぼんやり、つぶらな瞳で世界を見渡しました。
乙女は、ぼんやり、ぼんやり、世界というものに目を向けてみたのでございます。
世界は案外…乙女の事を気にしていない事に気がつきました。
世界は案外…乙女の事を気にしている事に気がつきました。
「え、誰かと思った。」
「ああ、いいんじゃないの。」
「ギャルメイク卒業したんだって?」
「つかノーメイクだと残念すぎねwww」
「似合うと思うよ、清楚系。」
「落ち着いてくれてよかった。」
皆、自由に感想を伝えました。
乙女が何を思おうが、人は思った事を思ったとおりに伝えてきたように思いました。
…そこに、乙女に対する気遣いがあったかもしれません。
…そこに、乙女に対する蔑みがあったかもしれません。
乙女の知らぬ思惑があったのかもしれません。
けれど、自分ではない誰かの思惑など気にしなくても、乙女は乙女として自由に存在していいのだと気が付いたのでございます。
げじげじが付いていようといまいと、世界は皆…自由に存在しているということに気が付いたのでございます。
勝手に自分で世間のあり方を決め付けていたのだと、気が付いたのでございます。
素顔が分からなくなるようなメイクを施さなければならないほど、厳重に自分を守らなければ生きていけないような世界ではないと、気が付いたのでございます。
素顔をさらけ出してのほほんと歩いていても、世界は自分を攻撃などしてこなかったのです。
むしろ、素顔をさらけ出す前…げじげじと共に過ごした日々のほうが、世界からの風あたりが強かったのです。
…げじげじと共にいるから、攻撃的な意見交換だって強気でいることができたけれど。
…げじげじがいなくなったら、強気な発言をする必要がなくなったみたい。
げじげじにあんなにも固執していた乙女は、げじげじと決別してずいぶん物腰が柔らかくなりました。
会話は、戦いながらするものじゃない。
会話は、相手に勝つためにしなくてもいい。
言い負かされまいと気を張っていた、げじげじと共に過ごした日々は、過去のものとなったのであります。
時はやがて穏やかに過ぎ去ってゆきました。
げじげじ装着の影響で、ごっそり抜け落ちてしまったまつげがすっかり生えそろいました。
げじげじの存在感に影響が出ないよう、そり落とされた眉毛がすっかり生えそろいました。
げじげじに相応しかろうとせっせと塗ったエナメルの影響で、ぼろぼろになっていた爪がすっかり生えそろいました。
げじげじのボリュームに負けないようふわふわに仕上げていた金髪を切り…すっかり地毛が生えそろいました。
乙女は、いつしか、落ち着いた女性になっておりました。
女性は、乙女であった頃の写真をたまに見返しては…色々と思うのです。
これは、私。
これは、私だと分からない私。
これは、私が私であることを、さらけ出していなかった頃の私。
これは、私が私であることをさらけ出していなかったけれど、あたしとして確かに存在していた頃の、私。
げじげじと一緒に過ごした日々を経て、今の自分がいると、女性は知っているのです。
「うわ!!なにこれ!!誰!!」
「意外!!!」
「うん…可愛い。」
「めっちゃ尖ってる!!」
「時代を感じるねえ…。」
…時折、女性が昔の写真を見せますと。
…ずいぶん騒がしいことになるのでございます。
人は皆、自由に自分の感想を述べる、それは今も昔も変わらないのでございます。
そこに気遣いがあるかもしれません。
そこに蔑みがあるかもしれません。
そこに素直な感想があるかもしれません。
…あの時、げじげじがバズっていたならば。
…げじげじが生産終了になっていなかったら。
…今の自分はいなかったかもしれない。
女性は不意に…感無量になったのです。
バラエティ雑貨店で、げじげじによく似たまつげを見つけてしまったからなのです。
ハロウィンコーナーの一角に、げじげじの面影を持つつけまつげを見つけてしまったからなのです。
女性はげじげじに似たつけまつげを、思わず手に取りました。
「これは、げじげじじゃ、ない。」
1200円のつけまつげは、げじげじではないのです。
似たようなフォルムをしているけれども、げじげじではないのです。
…少しばかり、げじげじの思い出に浸った…女性がいたのでございます。
…少しばかり、乙女であった頃を思い出した…女性がいたのでございます。
女性はそっと、つけまつげを棚に戻したので、ございました。