スギ花粉の中心で愛に溺れる
春の陽は暖かく優しくこの地上を照らし、花は芽吹き、恐怖の花粉を飛ばす。
太陽は皆に平等に愛情を注いでいるように閖は感じていた。
「いい天気ね」
伸びをながら深呼吸をすると、春の爽やかな空気を身体に取り込んでいるような気分になってくる。
「さ、学校行こう」
この陽気と共にスキップをしながら学校に行きたい気分だ。そこに。
「おはよ、ゆ、りちゃん、っくしゅん!」
親友の純子が話しかけてきた。
「お、おはよう、純子ちゃん」
「っ、あの、っね。急に、花粉症になっちゃって」
「っくしゅん!」と、くしゃみを繰り返す純子の瞳は赤く潤んでいた。
「だ、大丈夫?」
「だっ、だっ、大丈夫っくしゅん!」
話すら、くしゃみでまともにできないようで、とても大丈夫そうには見えない。
「それにしても、急に花粉症になるなんて。昨日までは平気だったでしょ?スギ花粉?」
「うん、そう、スギ花粉なの。今年は、花粉症、発症率ほぼ100%ですってっくしゅん!に、ニュースでや、ってっくしゅん!」
「え、そうなの?」
「ゆり、ちゃんは、平気そうっくしゅん!」
「平気なのよね、不思議な事に」
「羨ましい」
純子は恨めしそうに言うけれど、その情報が正しければ、確率的に間違いなく閖も花粉症になるはずだ。
けれど、とくに身体に変化はない。
「おは、ぶえっくしょいっっ!」
「おはよ。高野くん」
純子の幼馴染で恋人の高野が声をかけてきた。
どうやら、彼も花粉症になったらしい。
「花粉症。昨日までは平気だったのに。酷いのね」
「あぁ、閖ちゃん、は、平気そうっぶえっくしょい!」
「うん、まぁね」
高野もくしゃみ混じりの受け答えだ。
純子同様に瞳を充血させ、鼻をかみ過ぎたのだろうか、顔も真っ赤だ。
辛いのだろうか、どこか思い詰めた表情をしている。
「閖ちゃん、実は……っぶえっくしょい!」
「え、何?」
「俺、君の事が好きなんだ!っぶえっくしょい!」
閖は突然のくしゃみ混じりの告白に唖然となる。
「は?」
「高野!どういう事っくしゅん!」
純子が高野のに詰め寄るが、くしゃみ混じりのため緊迫感が全くない。
面白いドッキリでも始まったのかと閖は真っ先にそう思った。
「やめてよ高野くん。分かりやすい冗談とか。面白くない」
「冗談なんかじゃない。俺は前から……」
高野は瞳をジュクジュクに赤く潤ませる。
その表情はふざけている様子は全くなかった。
閖は、どうやらこれは冗談ではなさそうだと思い始めていた。
「え、嘘よね」
「嘘じゃない!」
高野は閖の両肩を掴み、顔が溶けそうなくらい真っ赤にさせる。
「高野くん!!私への気持ちは嘘だったの?」
「黙ってろ」
純子が高野の腕にすがり付き詰め寄るが、高野はそれを勢いよく振り払った。
純子は地面に、頭をゴトンと力強くぶつけて倒れた。
「離して!」
高野は大声に驚き肩から腕を離した。
「じゅ、純子ちゃん」
閖は慌ててしゃがみこみ、純子の顔を覗きこむ。
「許さない。閖……」
彼女は涙を流し、両目を溶けさせながら閖を掴もうと両手を伸ばす。
そう、文字通り彼女の瞳は、溶け始めていた。
「あ、あぁ、あ」
純子の鼻からは、肌色の鼻汁が鼻を溶かしながら流れ出ていた。
「ゆ、閖」
伸ばした指先は少しずつ形を変え、熱を加えられたアイスクリームのように溶けていく。
「きゃあぁぁ!」
閖は、純子のあまりの姿に悲鳴をあげ、尻餅をつき後退りする。そして、何かにぶつかり後ろに下がれなくなった。
反射的に顔を上げるとそこには……。
「あ、あぁっ」
「ゆ、閖ちゃん」
純子と同じように顔が溶け始めている。高野が両手を伸ばす。
「いやぁぁ!!」
「ねぇ、ひとつになろう。閖ちゃん愛しているよ」
高野の両手は溶けていて、ポタポタとその体液が閖の制服を濡らした。
「こっちだ!」
誰かに手を捕まれ閖は引き寄せられた。
「和也くん」
クラスメイトの和也が、立ち上がれない閖を強引に立たせ、その場から走り逃げ出した。
「た、助かった。ありがとう」
「お礼なんていいよ。気にしないで」
和也は息を切らしながら、苦しげに微笑んだ。
「なぜ、こんな事に」
閖は答えが出ないことがわかっていても、ついそんなことを彼に聞いてしまう。
「俺もわからない。みんなく、しゃみをしてそれから溶け始めたんだ」
そう、こうなる前に二人は酷いくしゃみを繰り返していた。そして、「花粉症になった」と話していた。
もしも、そうなら身体が溶け出す現象は花粉症がきっかけの可能性がある。
「その、純子ちゃんも、高野くんも花粉症になっていたわ。和也くんは大丈夫?」
「俺は平気」
「良かった」
「と、とにかく。室内に逃げよう。少しでも花粉から逃げないと」
和也の言う通りだった。発症をさせないためには花粉から逃げないといけない。
「行こう」
閖は和也の手を握りしめて、一番近くの建物へ向かった。
「うっ、酷い」
閖は大きなビルに入るなり、その惨劇に顔を歪ませる。
皆、身体は完全に溶けていて、人の姿ではなくなっていた。
「っ……っ」
肌色の液体は声にすらならない、音を出してウネウネと形を変えながら蠢いていた。
「こっ、ここなら誰もいない」
和也に引っ張られ会議室のような部屋に入る。
「液体になるともう追いかけて来ないのね」
建物内で見つけた人であった生物は、閖達を認識している様子はなかった。
「その、和也は誰と一緒に居たの。一人ではなかったんでしょう?」
閖は和也に、助けてもらう前までは何をしていたのか問いかける。
「っ瑞穂と、安見と一緒にっ」
和也はしゃくりあげるように話し出した。瑞穂はたしか和也の恋人だったはずだ。
「ごめんなさい。思い出させてしまったのね」
「っいいんだ」
閖は顔を俯かせた和也にハンカチを差し出すと、受けとり彼は「ズーッ」と鼻をかみ出した。
閖はそれに驚くが、そんな事よりも大切な事に気が付く。
「逢いたい人に逢わなきゃ。もしかしたら、私たちも花粉症になってしまうかも」
「……っ」
「その人が花粉症になって溶けていたら、意味はないかもしれないけど」
「……っ」
「探しに行かなきゃ」
閖には、片想いの相手がいた。彼とはほんの数回しか話したことはないけれど、もう、何年も前から好きだった。
どうせ死ぬのなら彼に一目逢いたかった。
こんな事になるのなら、少しでも話をすれば良かったと後悔は強くあったけれど。どうしようもない。
「……っ」
「和也くんは逢いたい人居ないの?ご両親とか」
「……っ」
閖は、話と考え事に夢中になっていたから、すぐには気がつかなかった。和也が会議室に入ってから一言も発していない事に。
「……っ」
しゃくりあげる音は、泣き声を隠しているのかと思っていたが。くしゃみを噛み殺している音にも聞こえる。
「ねぇ、和也くん?」
声をかけると、和也は俯いていた顔を上げた。
「閖ちゃんっ。俺はっ」
和也の顔は肌色の体液を垂らしながら、溶けていた。
「き、きゃぁぁぁ!!」
閖は驚きと恐怖でその場から飛び退く。
「閖ちゃんが好き。ねぇ、一緒に溶けよう。ひとつになろう」
べちゃっと体液を床にこぼし、和也は閖に向かって歩き出す。
その度に、ぐしゃりと身体の形は崩れる。
「こ、来ないで!」
閖は和也を押してその場から逃げ出した。
「ど、どうして、どうせ死ぬんだ!俺と一緒でいいじゃないか!」
和也の舌足らずな叫び声がその部屋に響いた。
「はぁ、はぁ」
どのくらいの距離を走ったのだろう。もう、和也の姿は見えなかった。
「どうしよう、もう、ここにも居られないわ」
「ゆりちゃん!なんでおれからにげるんだ。逃げないで。ひとつになろう」
和也はなんとか人の形を保ちつつ、床を蛞蝓のように伝いながら閖に近づいてくる。
「い、いやぁ!来ないで」
閖が悲鳴をあげ頭を抱える。
もう、逃げられないと悟った時だった。
「こっちだ!」
嘘でしょう?
閖は幻聴が聞こえたのかと思った。それは、今、一番逢いたかった人の声がしたから。
「あ」
ある、ひとつの部屋のドアが開くと、閖はそこに引きずりこまれた。
「あけて!ゆ、ゆひちゃん。お、おれをうけいれて、ねぇ、ゆひちゃ」
べちゃべちゃとドアに、粘度のある何かを叩きつけたような音が響く。
「和也はしばらくしたら動けなくなる。それまで時間稼ぎすればいい」
閖は、人が溶け出した事よりも、今この瞬間が夢のようだと思った。逢いたくて、逢いたくて仕方なかった人が目の前にいる事がとても信じられなった。
「雄一くん」
「ずっと、探してた」
「私も」
雄一に力強く抱き締められて、閖は、その背中に両腕を回した。
彼女は狂おしいくらいの幸せを感じていた。
「閖……」
「雄一くん」
「きっと、俺たち二人きりだね」
「そうね、なんでみんなあんなふうになってしまったのかしら」
「きっと、誰かに恋しているからだよ。おいで」
「えぇ」
雄一の瞳はジュクジュクに赤く潤んでいた。
口づけを交わすと、そこから蕩けていくようだ。
雄一の体液は閖の身体を伝いながら。息を塞ぐ。
「ゴフッ、グッフッ」
閖は苦しくてもがき出すけれど、雄一の体液が彼女を離さなかった。
きっと、太陽は平等に皆に愛を与えてくれたのだろう。ひとつになれないことは、とても悲しい事だから。
誰かを愛しても、それを受け入れてくれるとは限らないけれど……
閖は死ぬ事をわかっていても全く恐怖はなかった。
ダラリと閖の身体は弛緩し倒れた。
雄一の体液は閖の中に入り込み、完全にひとつとなった。