第9話:11月24日 言えない訳〈中編〉
「ほいよ。せっかくだからあたしもいただく事にするよ。悪いな、夏姫。開けたらいい匂いだったからあたしも腹減ってきてさ」
「いいのいいの、二人で食べてもらおうと思って持ってきたんだから。さすがに三人分は重かったし、私は出来たて食べてきちゃった。あんまり煮込む時間なかったからお口に合わないかもしれないけど」
「口に合わない訳ないよな、蒼」
「もうっ、そんな言い方をしたら『はい』としか答えようがないじゃない。蒼さんがかわいそうよ?」
「まずけりゃ残していいさ、あたしが食べてやるから。夏姫が作ってくれたうまいもんを残す罰当たりがいれば、の話だがな。ほらっ」
いつものように嫌味を言う、これが蒼にとって一番『アゲハさんらしい』姿だろう。あたしが途惑っててどうする、普通に、普段通りにしてやる事が今の蒼にとって必要な事かもしれないと思った。
スプーンを差し出してやると目が合ったのでにやりと笑ってみせた。蒼はしばらく申し訳なさそうにあたしの顔を見ていたが、やがておずおずとスプーンを受け取った。
「……アゲハさん、夏姫さん、ご迷惑を……おかけしました……」
「……ったく、食べようとしてる時に湿っぽい事言うんじゃねぇよ。……いただきます」
「あの、アゲハさん……」
「……何だよ。迷惑も心配もかけるだろ、人間なんだから。かけない奴がいるなら紹介してもらいたいもんだね。なぁ、夏姫」
目配せなんぞしなくても、夏姫はにっこりと笑顔で頷いてくれた。あたしと違って正直な笑顔を向けられる夏姫を羨ましく思う反面、あたしはこれでいいんだ、とも思う。正直者ばかりに肯定されると人は不安になるからだ。あたしのように悪態つく奴と普段から優しい奴に囲まれていた方が、何が真実なのか判断しやすいだろう。もっとも、今の状態はどちらも真実なのだが……。
夏姫の頷きを見て安心したのか、蒼は少し躊躇いがちに「いただきます」と手を合わせた。ウーロン茶を一口飲んでからスプーンを差し入れ、シチューをちびちびと食べ始めている。元々申し訳なさそうに食べる奴だが、今日は一段と気を遣いながら食べているのがバレバレで見ていられない。ふぅっと一呼吸おいてあたしもシチューを口に運んだ。
「そうだ、私、お使い頼まれてたんだったね。コンビニ行ってくるけど、蒼さん何か欲しい物あります?」
「……いえ」
「ヨーグルトですね、分かりました。じゃあアゲハ、行ってくるね」
「え……夏姫さん、ぼくは何も……」
夏姫は聞こえないふりをしていそいそと立ち上がり、またも手をひらひらさせながら扉の向こうへ消えていった。気をきかせやがって、夏姫の奴……と苦笑いが湧いてきたので、ごまかすようにシチューを頬張った。
さっさと食べ終わったあたしが灰皿を取りに席を絶つと、カチャンとスプーンを置く音がした。戻って見てみると、半分程減った辺りで手が止まっていた。きっと夏姫の手前、口に運ばない訳にいかなかったのだろう。半ば強制的に進めたあたしだったが、やはり今の蒼には無理だったか、と蒼の皿を取り上げた。
「足りないからもらってやるよ、残したら罰が当たるしな。今日だけだぞ?」
「……すいません」
「吸うか?」
「……はい、すいません」
「ははっ、どっちだよ。吸うのか吸わないのか、『すいません』じゃ分かんねぇだろうが」
「……吸わせて、もらいます」
差し出したタバコを一本受け取ると、あたしの灯したライターに先端を近付けた。シチューと引き換えに滑らせた灰皿を見て「どうも」といいながら煙を吐く。タバコは身も心も鎮痛させてくれる、そんな話がある。出来たての傷を抱える蒼にとっては、癒して治すより先に、痛みを抑える方が必要なのかもしれないと思った。
「分かってたんじゃないですか? アゲハさん」
「何をだよ」
「ぼくが切り出さなかった訳ですよ。アゲハさんは分かってたんじゃないんですか?」
「バカめ、夏姫も察したから買い物に行ってくるだなんて言い出したんだろうよ。あたしが頼んだのはタバコだけだ、もう店閉めてるんだから明日の開店前に買えばいいものをさ……」
「そう、だったんですか……。また迷惑かけちゃいましたね……」
「しつこい奴だな。迷惑と思ってたら気ぃなんぞ使わんよ。申し訳ないと思う気持ちがあるんなら、その好意を無駄にしない事だな。あいつが帰ってきて何も進捗なかったらあたしの信頼も欠けるんだ、さっさと自白してもらおうか?」
「自白、ですか……」
蒼はふーっと最後の煙を吐き出すと、吸い殻をぎゅっと灰皿で押し潰した。その表情にはさっきまでの怯えた様子はない。元々陰りのある雰囲気はあるが、今はそれを差し引いても曇りないようにすら見えた
「黒崎さんに殴られたんです。……いや、ぼくが殴ったから逆ギレされたんですけど……」
「黒崎? って、お前が未成年の頃に世話になってたパトロンのか?」
「……まぁ、元モデルなので、見た目はパトロンみたいですけど……その言い方だとぼくが貢がれてるみたいなんでやめてもらえます? 書類上、れっきとした『後見人』ですから」
「その元モデルのおっさんが、なんでまた美形の顔に傷作るようなマネしてくれたんだ? 表に立つ人間なら見た目の大事さは分かってるはずだろ? それとも若い綺麗な顔を妬んで?」
「……茶化すならやめますよ?」
「茶化してなんぞおらんよ。あたしら裏社会で生きてる奴には、表の世界で動いてる奴らの考えてる事が分からんだけさ」
蒼は納得のいかない様子で小さいため息をついた。
「……それでですね、家を出て夏姫さんとすれ違ってから、駅前のロータリーで黒崎さんに会ったんです。向こうはタクシーに乗り込むとこだったんですけど、ぼくの事を見つけて話しかけてきたんですよ。二年ぶりだね、って……」
「つまり二十歳超えてからは会ってなかった、と」
「そうですね。お世話になってた頃から滅多に会う事はなかったんで、会えば『久しぶりだね』って言われてましたし、保護者代わりの後見人といっても一緒に住んでた訳じゃないので、ぼくは別に会わない事はどうも思ってなかったんですよ。逆に、あの事を知った高二の冬からはずっと、会いたくなかったくらいですから」
あたしの聞いていた限り、黒崎という男が蒼の彼女さんの叔父だという事を、高二の時にかのじょさんから知らされたという。もっとも、蒼は彼女さんの叔父だという事を知らなかったばかりか、彼女さんもまた、自分の叔父が後見人をやっている事すら知らなかったらしいのだが。そして黒崎もまた、自分が世話をしている蒼と自分の姪が同級生だった事を、奴らと同じ日に知ったらしい。
「黒崎さんに聞かれたんです、今どこで働いてるのかって。もちろん詳しくは言えませんでしたが、バーテンだと言いました。黒崎さん、今は現役を引退してモデル事務所の専務かなんかやってるって言ってて……まぁ高校の進路の話の時にも誘われた事あったんですけど、モデルやってみないかってまた誘われて……」
「向いとらんな、お前には。輝かしい世界なんぞ向いとらん」
「ぼくも思いますよ、ひっそり静かに暮らしていきたいし。それに、ぼくはどうしても言ってやりたい事があったんで、モデルなんて似合わない仕事の断りついでに言ってやったんです……。ぼくは『あの事』を知ってるんだと、それでもぼくは彼女とカナダで生きていきたいから日本で働くつもりはない、と」
悔しそうにも見えたし、笑ったようにも見えた。こいつの中ではまだ過去と決別しきれていない部分があったのだろう。それを思い出して悔しかったのか、言ってやってすっきりしてきたほくそ笑みだったのか、あたしには分からない。