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第8話:11月24日 言えない訳〈前編〉

 今夜に限って客足はとんと少なく、現在十時を過ぎたばかりだと言うのに客と言えばたったの一人。しかもその客といったら蒼目当ての女子大生。蒼が店にいない訳として風邪だと嘘をつけば、カクテル一杯だけ飲んで帰ってしまったという始末。


 こんな日は忙しくしていれば忘れられるのに、閑古鳥が鳴いているもんだからちらちらとあいつの顔が浮かんで仕方ない。あたしの事を心配した夏姫はずっと側にいてくれているけれど、恋人が職場にいるというのは正直やりづらい。夏姫にとってはどうでもない事なのだろうが、あたしにとっては店主としての姿はあまり見せたくないのだ。


「閉める? 店」


「いいや、まだ十時だぞ? カクテル一杯しか売り上げがないんじゃ光熱費にもならんからな。もうちょっと粘ってみるよ。夏姫、明日早番なんだろ? あたしの事は大丈夫だから、もう帰って寝な」


「私は大丈夫。それより、ゆ……アゲハ? タバコ吸い過ぎじゃなくて? にーしーろー……もう七本だよ?」


「しゃーないだろ、客が来なきゃする事ないんだ。……夏姫、まだいてくれるなら留守番頼んでいいか? あいつがいないとタバコのストックも出来やしない。ちょっと自販機まで行くだけだから」


「うん、いいよ。でも私が行ってくる。店主さんはうろうろしてるより、どっかり座ってた方が『らしい』でしょ?」


 おっとりとした夏姫の口調からはからかってるのか本音なのか判別しがたい。あたしのそわそわが伝わっているのか、少しだけ外に出たいという気持ちを察した上で「店にいなければ店主らしくない」と遠回しに言ってくれているのだろう。


「じゃあ頼むよ。今メモするから」


「そんなに? 私じゃ覚えられないかなぁ?」


「いくら定食屋で大量注文を覚えられるからっつっても、タバコ吸わない奴には何がどう違うのか分からん物もあるからな。信じてない訳じゃないが一応だよ、一応。あと、悪いがコンビニでヨーグルトも買ってきてくれ」


「いいけど……雪枝がヨーグルトなんて珍しいね。もしかして蒼さんのおやつ?」


「……バーカ、違うよ」


 あたしがカウンターの中へ入って釣り銭からタバコ代を出し、タバコのストック棚を確認しながらメモを取っていると「そっかそっか」と笑いながらコートを着る夏姫の声が聞こえた。もう少し適当な物の方がバレにくかっただろうか、とひねくれ者の自分が舌打ちをした。


「どうせならタバコもコンビニで買ってくるよ。領収書ももらってくるね」


「あぁ、頼む。他に欲しいもんあったら買ってきてもいいぞ」


「やぁね、子供じゃないんだから……ふふっ。じゃあ行ってきまーす」


 ひらひらと手を振る恋人を、お使いに行く子供を送り出す親のように「車に気を付けてな」と嫌味ったらしく言って手を振り返す。そんなあたしにくすくすと笑顔を向ける夏姫が愛おしくて愛おしくて……柄にもなくまた頬が熱くなった。


 こんな恥ずかしい顔なんぞ見られないように、と扉の閉まる音が聞こえる前にくるりと背を向けて吸い殻の山をゴミ箱へと放り込んだ。ちりりん、と鈴の音が聞こえるとふぅっとため息がもれた。


「あ……あ、蒼さんっ!」


 出たはずじゃ、と思った夏姫の声に振り返ると、キャメル色のダッフルコートに身を包んだ痩せっぽちの肩を抱く夏姫の背中があった。ここからでは顔はちゃんと見えないが、あれは確かに蒼がよく着ているお気に入りのコート……。


 どくんっという嫌な緊張が先か、ほっとした安心が先か、あたしは恐る恐るカウンターを出て二人に近付いた。


「アゲハさん……すいません……でした……」


 震える声はいつものヘタレ具合とは別の、ぐっと押し殺したような低い声だった。項垂れるように頭を下げて詫びているつもりなのだろうが、そんな事は後でもいい、あたしは蒼の顔をちゃんと見たかった。


 押し黙っているあたしと頭をさげたままの蒼を見比べた夏姫がそっと蒼の背中を摩るように押す。申し訳ない程度に一歩足を出したところであたしのため息が洩れた。


「心配かけやがってバカタレが……来週の給料日から減給しとくからな」


「……はい、すいませんでした……」


「すいませんじゃねぇよ、冗談だっつーの。……いいから座んな。今日はもう閉めるから、話があるなら聞くよ」


「……はい」


 あたしが背を向けるまで、蒼はずっと俯いていた。無断欠勤でバツが悪いのかそれ以上の何かがあるのか気になったけれど、話はゆっくり聞く事にしよう、と黙ってカウンターの端に座った。それを見ていた夏姫はソファーに座るよう蒼を誘導し、自分も蒼の前にウーロン茶とおしぼりを置いてから隣に腰掛けた。


「で? どこ行ってたんだ? 四時くらいに夏姫とすれ違ったそうじゃないか。あたしに連絡出来ない予定でも入ったか?」


「……いえ」


「ほぉ? じゃあ単にサボりたかったから電話に出なかった、と?」


「……いえ」


「じゃあなにか? 辞めるつもりで無断欠勤したけど、やっぱり給料だけもらおうと取りに来たのか?」


「……いえ」


「はっきりしねぇ奴だな。話すつもりがないんなら何で来たんだよ! いいわけの一つでもしに来たんじゃねぇのかよ!」


 思わず荒げた声に、夏姫がシッと指を自分の口元に当てた。カウンターとソファー、少しの距離だが蒼の手が小さく震えている事が分かった。


 言いたい事が山程ある。聞きたい事も山程ある。だが今はずけずけとせっついてはいけない、夏姫の人差し指がそう物語っていた。


「蒼さん、手が冷えてますよ? おしぼり暖かいですからどうぞ?」


「……すいません。ありがとう……ございます……」


「謝らなくて大丈夫です。アゲハも私もずいぶん心配しましたが、こうして蒼さんがちゃんと来てくれてほっとしてるんですよ? 訳があるなら聞きますが、言いたくなったら言えばいいし、言いたくなかったら言わなくてもいい、話したい事だけ話せばいい、それがこの店のヒアリングでしたよね?」


「……はい。ありがとうございます……」


 それから夏姫はおしぼりを蒼の手に乗せ、ウーロン茶の入ったグラスを手前に滑らせた。あたしはその光景を観ながら、夜の街で働いてきたあたしなんかよりも夏姫の方がずっと接客に向いているじゃないかとノンキに思った。


 長い沈黙の後、ずっと俯いたまま目も合わせない蒼が、夏姫が手に乗せたおしぼりをぐっと握りしめた。それを見ていたあたしの目に入ったのは、痩せっぽちの蒼の右手の甲にあった擦傷だらけの痕だった。


「蒼、お前、それどうした? 昨日はそんな傷なかっただろ。洗い物だって普通にしてたし……」


「……笑いませんか? 聞いても」


「笑うかどうかはあたしらの勝手だ。話すかどうかもお前の勝手だ」


「……そう、でしたね」


 ハスキーがかったアルトボイスを更に低め、蒼はぼそっと呟いた。その声に二度目の緊張が走ったが、それはゆっくりとこちらを向いた蒼の顔を見た瞬間に頂点に達した。


 傷だらけ、だった……。


「人を……人を殴ったんです……。もっとも、ぼくの力なんかじゃ相手にダメージ与えられませんでしたが……。アゲハさんはぼくの事ヘタレヘタレって言いますけど、ぼくも今日改めて思いましたよ、ぼくはどうしょもないヘタレなんだ、ってね。こんな軟な拳で精一杯殴ったとしても、痛めるのは自分の方なんだと思い知りました」


 傷だらけの右手を摩る左手の甲にもいくつかの小さな傷があった。口調からして本当の事なのだろうが、それだけが真実じゃない、そう思って次の言葉を待った。蒼もそれを感じ取ったのか、少し息を整えてから続けた。


「先に手を出したのはぼくなんです。だからぼくが悪いんです。一発だけですけど……その後は向こうに逆ギレされてぼこぼこに……笑えますよね、はは……」


「……笑えねぇよ。一見なよっとした男に見えるだろうが、残念ながらお前の身体は女なんだ。その美形に傷を付けられて笑ってるなんて、お前頭も打ったんじゃなかろうな?」


「まぁ、おかしいのは元々ですけど、頭も打ったんでしょうね……よく覚えてません」


 悔しそうに噛みしめるその唇ににも、切れたのであろう傷痕があった。誰に手当てしてもらったのだか分からないが、左目の下の大きなガーゼが悲痛に苦しんでいる蒼の気持ちを表わしているように見えた。


「こんな時に思いますね、本物の男に生まれてればこんな思いしなくて済んだのかなって……。ぱっと見はごまかせても、アゲハさんの言う通りぼくはやっぱり女なんだなって……。自分の心に嘘はつけても、身体には嘘つけないんだなって……」


「しゃあないよ。悔しがる気持ちは分からんでもないが、この世には性は二つしかないし、あたしたちが選べる訳じゃないんだ。お前だってもう十年もその事実と戦ってきただろ?悪いのは自分でもお袋さんでもなく、ジェンダーに捕らわれてる理解ない奴らだけさ。男だからとか女だからとか、二種類にしか分けられない社会なのが現状だからな。……だからと言って男だから殴ってもいいってのは違うな。いくらこっちから手を出したとはいえ、こんなもやし男みたいな蒼を相手に……」


「違います」


 言い終える前に語気を強めた蒼の言葉が被さる。カウンター席に座るあたしの方を睨みつけ、それでもその目には薄らと涙が浮かんでいた。


「……悪かったよ。こんな時にもやしだなんて言って」


「そうじゃありません。ぼくが違うって言ったのは……相手はぼくを男じゃないと知って殴ってたって事です」


「じゃあ殴ってきたのは蒼の事を知ってる女だったって事か? うちの客じゃないだろうな……」


「それも違います。……アゲハさん、聞きたいですか?」


 何を今更、と言おうとしたところで一瞬夏姫と目が合った。そんなあたしらの様子を見て、蒼も隣に座る夏姫の顔をちらりと横目で見た。どうやら蒼はあたしらの顔色を窺っている。それはつまり、蒼は言いたくないんじゃなくて、聞かせたくないんじゃないかという推測に辿りつく。


「いいや、聞かない事にするよ。……それより蒼、お前腹減ってるだろ? 夏姫が賄い持ってきてくれてるんだ。今温め直してやるよ」


「……聞かないんですか? 経緯も、相手も……」


「あたしらに聞いて欲しいなら、ヒアリング代よこしな。お代は気持ち次第だ。……なんつってな。いくらあたしでも従業員から金取ろうなんて思っちゃいないさ。それに、従業員のプライベートに土足で入るつもりもない。遅刻の理由はもういい、お前の顔が見れたからな……」


 最後の方は蒼には届かなかったかもしれない。他人の前で恋人にも言わないような台詞を口にしてしまって、自分でも気恥ずかしくて尻すぼみな言葉になった。


 不思議そうにあたしを見上げる蒼に背を向けて、キッチンに置いた賄い入りのタッパーを取りに行く。厳重なフタを開けると、中にはラップのかかったどんぶりが入っていた。その中にはクリームシチュー。味気ないどんぶりから深皿へ二つに分けて移し、一皿ずつレンジに入れた。


 電子レンジの音にかき消されて上手く聞き取れなかったが、蒼に話しかけている夏姫の声が耳に届いた。おっとりとした口調も癖のないまろやかな声も、夏姫の声は治癒効果があるように思えるのは恋人であるあたしの贔屓目(ひいきめ)なのだろうか。


 そういえば、あたしもマサヤがいなくなってぼろぼろになった時あの声に少しずつ癒されていったのだから、一概に贔屓目という訳でもないかもしれない。今まさにぼろぼろな蒼にも、その治癒効果が発揮されるといいのだが……。



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