第7話:11月24日 長い一日
時刻はすでに五時を回っており、冬の訪れを語るかのように空はとっぷりと暮れている。無断欠勤のバイトの代わりに買い物から戻っても、奴の姿はなく、あたしを待っていたのは暖房の効いていないひんやりとした空気だけだった。
いくら寝坊助な蒼とはいえ、入店を三十分以上も遅刻する事は珍しい。ギリギリセーフならぬギリギリアウトなら心配しない程日常茶飯事なのだが、それでも遅刻の連絡くらいは一応してくる。
毎週数回五分やそこらの遅刻をするのなら、いっそ入店時間を予め五分早めておいてやろうかとも思う時もある。とは言っても従業員は店主のあたしとバイトの蒼だけ、あたしさえ目を瞑ってやってれば問題ない話なのだが……。
ところが今日はいつもと様子が違う。遅刻は遅刻だが、ほんの数分でも遅れる時には連絡をよこす蒼から一切の連絡がない。それどころか、三十分経過したところでこちらから電話しても、受話口から聞こえてきたのは数回の呼び出し音と留守番電話の案内メッセージだけだった。
過剰に気にしている訳ではない。貧弱とはいえ、奴は立派な成人なのだから信頼はしている。だが、信頼しているだけに、普段と違う状況に余計な心配をしてしまう。
蒼のアパートを訪ねた事がないあたしが様子を見に行くとしても、たったの二人で営業をしているこの店はどうなる? さほど遠くはないが、スムーズに辿りつけたとしても片道二十分はかかる。用事を済ます時間を入れなくても往復四十分ともなれば、それこそ開店時間に帰って来られない……。
「ちっ、しゃーねぇな……」
あたしは重い買い物袋を勢いよくカウンターに乗せ、再び携帯を取り出した。もちろん未だ着信はない。だがあたしの指は蒼にリダイヤルする訳ではなく、出来る事なら知らせたくない奴へ発信していた。
『もしもし? どうしたの? 忘れ物?』
「あ、いや……すまん、悪いが蒼の部屋に行って様子を見てきてくれないか?」
『蒼さんなら、さっき私が帰ってくる途中ですれ違ったけど……どうかしたの? まだ行ってないの?』
「すれ違った? それ何時頃だ?」
『そうね……四時前後だったと思うから、行ってるとしたらとっくに着いてる時間なはずなんだけど……慌ただしく挨拶してくれたから、また遅刻ギリギリなのかしらとは思ったのよね。でも、いつもと違った様子はなかったし……もしもし? 聞こえてる?』
一瞬、血の気が引いていくのを感じた。マサヤが失踪した時も、あたしはこんな風に近所の人にマサヤを見かけなかったかと聞いて回っていたのだ。脳裏に浮かぶあの日のフラッシュバックに、携帯電話を持つ手が小刻みに震え、逆の手も汗ばんでくる。
だがここで平然を装わなくては声色に出てしまう。相手に余計な心配はかけたくない、そう思って一呼吸置いてから口を開いた。
「あ、あぁ、聞いてるよ。ヘタレな蒼の事だ、どこかでナンパでもされて逃げ回ってんだろうよ。……心配しなくていい、そのうち来るさ。部屋にいるのかどうかを知りたかっただけだったから、電話して悪かったな。ありがとう、夏姫」
『ううん、私は大丈夫よ。それより、ほんとに蒼さん大丈夫なの? 電話してくるくらい心配してるんじゃ……』
「いや、あたしなら心配いらんよ。たった一匹のバイトがおらんから忙しくて焦ってるだけさ。……じゃあ切るよ。明日は早番だろ? 待ってなくていいから先に寝ててな」
『……うーん……そうね、考えておく。それじゃ、お仕事頑張ってね、ア・ゲ・ハ・さん』
通話は彼女のからかったような笑いと共に切れた。夏姫の事だ、きっとあたしを焦りから解放する為にわざとからかった言い方をしたのだろう。通話履歴に残った愛しい恋人の名をなぞって携帯を閉じた。
部屋にはいない、電話には出ない、待てど暮らせど来ない……あらぬ心配をしたところで展開が起きる訳でもないのだと自分に言い聞かせ、あたしは深いため息をついてカウンターの中へと入っていった。心配する事以外に、あたしには開店準備と営業というあたしにしか出来ない事があるのだ。あたしにしか……。
そうは言っても頭の切り替えというのは簡単には出来ず、ちょっとした雑用でつまずいてあいつの名を呼びそうになる。やれ酒の発注はしてあるのか、やれゴミ袋はどこだ、やれ明日の予約は……。
「……はー、ダメ店主だな、あたしは……」
思わず洩れた呟きが本音だと知った瞬間、あたしは自分の弱さをとことん痛感した。偉そうな口を叩くくせに、自分一人では何も成し遂げられない、呆れる程愚かで情けない弱者なのだと……。
もう一度だけ、もう一度だけ、もしかしたら……と再度携帯の着信履歴を開いた。鳴ってもいないのだから着信していた訳がないのに。ないと分かっていても未読メールがないかも確認してしまう。我ながら女々しいな、と嫌気が刺した。
ため息混じりに時計を見上げれば、針はあれから一周していた。不慣れな雑用に手間取って開店時間が過ぎている事にすら気付かなかった自分にまた深いため息が出た。
こんなのは自分らしくない、じめじめした中身をスカッとさせる手っ取り早い応急処置を取る為に、あたしは自分のカクテルグラスにワインとカルピスを注いだ。そして、レシピにはないが少し多めの炭酸も。喉の奥に溜まったもやもやを炭酸で一気に吐き出せたらいいのに、という答えの分かっている期待を持ちながら飲み干した。
「……違うな……」
あいつの、蒼の作る配分はどうだったかと思い出しながら二杯・三杯と継ぎ足していく。酔えない事にも少しイラ立ちを覚え、誰もいない店内で、店主のあたしだけがカウンターで飲んだくれていた。
やがて炭酸の瓶が一本空き、もう一本開けるか……と立ち上がった瞬間、ちりりんというかすかな鈴の音がした。
「おっせーじゃねぇか! 何時間遅刻したら気が済むんだ、このバカあお……」
「ごめん、蒼さんじゃなくて……。心配だから来ちゃった……」
「夏姫……」
振り返った先には誰よりも愛おしい恋人の姿……。だけど、待っていたそいつの姿ではなくて……。
「ごめんね。もし蒼さん来てたらと思って賄い作ってきたの……。でも、その表情からするとまだ連絡すらも来てないってとこね……」
「……なんで謝るんだよ。わざわざ賄いを持ってこさせる程心配かけたこっちが謝らなきゃいけないくらいだ。まだ連絡はないが大丈夫だ、給料日前に消える奴はおらんだろ」
「顔はそう言ってないようだけど?」
「……紅茶入れるよ、座んな」
あたしはバツが悪くなって席を立った。じっと見られている事に気付いて、夏姫の視線から逸れるように賄いを受け取ってカウンターの中へ入ろうとした。
「待って、雪枝」
聞き捨てならない名前に振り返ると、夏姫の細い腕があたしの背中を包んだ。柔らかい髪、柔らかい頬があたしの乾いた頬に触れる。ここはあたしの仕事場、店主アゲハとしての劇場。だからここでは……。
「違う、あたしはアゲハだよ。そんなしみったれた名前なんかじゃない」
「ううん、私といる時は雪枝だもの。『アゲハ』なんて大そうな名前でも強いママでもない。私の大事な雪枝だもの……」
「知らないね。ここはアゲハの店で、アゲハはママなんかじゃない。……客が来たらどうするんだ、放してくれないか?」
「放してあげるよ、雪枝の涙が止まったら、ね……」
あたしらの頬の間には、生暖かいものが伝っていた。弱い、あたしはいつからこんな弱い女になってしまったのだろう。蒼がいてくれなくて、夏姫が来てくれて、強がるどころか涙を流す弱い女なんかに……。