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第4話:11月12日 ミカ(30)の場合

「なんなら帰ってくれても構わないんだが? お代は気持ち次第って事にしてるんだから、この一万は返してくれと言うのなら返すしな。あたしもそこまで意地汚い女じゃない。後はミカさん、あんたが決める事だ」


「一度支払ったお金を返してって言う程ミーちゃんは貧乏じゃないもん。その代わり、最後までちゃんと聞いてもらうから!」


「貧乏じゃないからって……これも彼氏の稼いできた金だろ?」


「うるさいなぁ。マーくんのお金はミーちゃんのだもん!」


 やれやれとため息が出る。このミカという女、同棲してる彼氏に結婚しようと指輪までもらっておきながら、もらった小遣いで飲み歩いてた先で知り合った女と恋に落ちたという。


 別に恋するタイミングに善悪などないのだから、籍を入れる前に真実を打ち明けて、相談した上で離別すりゃいいものを……この女はどちらも捨てられないと言い切る。彼氏の金が目的かというとそうではなく、結婚も真剣に考えている。かといって知り合ったばかりの女を諦める事も出来ず、式を直前に慌ててこの店に相談しに来たという始末。


「何度も言うが、ここは女だけの店なんだ。彼氏さんを連れ込むことは許さない。それは例えあたしと従業員だけの時間であってもだ。説得して欲しいなら、別の奴に別の場所で説得してもらってくれ」


「だーかーらー! 説得じゃなくて、納得してもらうの! マーくんがミーちゃんと結婚しても、ミーちゃんはチーちゃんと付き合ってもいいよって。マーくんさえ納得してくれればなぁーんにも問題ないんだもん」


「……問題だろ……。結婚する前から合意の上で不倫する奴がどこにいるんだよ。それを了承する相手もいないと思うが? ……蒼っ、これにビール足してくれ」


 冷めきったコーヒーをあたしが滑らせると、振り返った蒼がカップとあたしの顔を見比べる。それを無視してタバコを咥えると、カップを手に取った蒼がおずおずと尋ねてきた。


「ビール、ですか? ブランデーじゃなくて? それともこのコーヒー捨ててからって……」


「いいんだよ、そのまま足して。頭を回したいし炭酸も飲みたいんだ。どうせ冷めちまってるんだから混ぜても問題ないだろ?」


「……だろ? じゃないですよ。頭回したいなら別にコーヒーじゃなくても……」


「……早よせい」


 無理な注文に「まずそ……」と呟きながらカウンターの中へ入っていく。あたしだってうまいだろうと思って頼んでる訳じゃない。


 何でもいいんだ。とりあえず今は一気に飲み干して遠慮なくゲップしたい気分だから。さすがに人前でゲップなんて出来ないが、そうでもしないと胸につかえた(わだかま)りを吐き出せない。もっとも、実際に遠慮なしのゲップを吐き出したところで、このもやもやも吐き出せる訳ではないんだが。


「合意の上だったら不倫とは言わないよぉ。不倫って言われたとしても、旦那さんになるマーくんが認めてくれてたら問題ないない! だからね、女同士もいいもんだよって、一言マーくんを納得させてくれるだけでいいんだってば。そしたらミーちゃんも嬉しいし、みんなハッピーでしょ?」


 三十路にもなって、なにがミーちゃんだ……と頭を小突いてやりたいが我慢我慢。


「何度頼まれてもあたしは引き受けないし、そんなワガママに手を貸すつもりもない。さっきは別の奴に頼んでくれって言ったが、誰に頼もうが答えは一緒だぞ? 二兎追う者は一兎をも得ず、例えあんたがワガママを突き通したとしても、あんた以外の……マーくんとチーちゃんとやらは幸せなんかじゃないはずだ。誰特だ。あんたのご都合で人生振り回される奴の身にもなってみろ。……あたしならぞっとするね」


「ミーちゃん得! ミーちゃんが幸せなら二人も幸せだもん!」


「……そうかそうか。マーくんとやらはあんたが幸せなら自分も幸せってか。んなら説得も納得もいらんだろ。好きなようにさせてもらったらいいさ」


 着火する手が震える。タバコを咥える唇も、微かに震えてるかもしれない。こんなアホらしいヒアリングは初めてだ。水でもぶっかけて追い返したいところだが、あたしにぶっかけられた事のある蒼がちらちら様子を窺っている。やりかねない、そんな空気を感じて止めに入るつもりなのだろう。我慢だらけでイライラする!


「分かってくんないかなぁ? ここはレズさんたちの溜まり場なんでしょ? 女同士の方がエッチ気持ちいいんだぞって、マーくんに教えてあげてよー!」


「ぶっ! げほげほっ」


 吸い切れなかった煙を思わず吐き出した。あたしが(むせ)るのと同時にシンクからガチャンという音がする。見やると蒼の奴があたふたとグラスを拾い上げていた。


「どうしたの? ほんとの事でしょ? マーくんだって別に下手とかじゃないけど、チーちゃんと初めてした時、あぁ女の子同士だと性感帯が共感出来るから気持ちいいのかぁって腑に落ちたんだよね! 最初は女の子同士に抵抗あったけど……まぁハマっちゃった訳よ。……アゲハさんたちだってそうでしょ?」


「……あ、あのなぁ……」


「違わないでしょ? 男とだって相性は大事じゃない。合わない奴と結婚したら地獄だしさ。その点女の子同士はいいよね! やってる最中の『もっとこっちなんだけどなー……』っていうあの微妙な素に戻る瞬間がないんだもんね! なんで今まで男としかやってこなかったんだろーって後悔したくらい! アゲハさんたちも一回レズったら男には戻れないでしょ? でもミーちゃんはマーくんのおっきいアレも捨てがたくてぇ……」


「……蒼っ! 塩っ!」


 咥えていたタバコのフィルターをがじりと噛みながら立ち上がると、蒼が血相を変えてカウンターから出てきた。身を乗り出してミカの肩を掴むあたしを引きはがそうとする。でもあたしはそんな事で冷静さを取り戻せる訳もなく、驚いて目を丸くするミカに怒鳴りつけた。


「きゃっ! な、なにっ? 痛いんだけど! 放してよー!」


「真面目に聞いてりゃネジぶっ飛んだ事ばっか言いやがって! 身体だけで何が分かるってんだ? いいか? レズってのはなぁ、身体よりもっと深いとこで繋がってんだ! あんたみたいなクズがレズを語ってくれちゃぁ、あたしらアンダーで生きてる奴らがもっと汚い目で見られるんだよ! 一緒にすんじゃねーよ! レズの名が廃るわ!」


「い、痛いなぁ! 人を好きになるのに身体から入って何が悪いの! 身体ごと好きなのが何が悪いの!」


「帰れよ、ほらっ放してやるから帰れよ淫乱阿婆擦れ色ボケ女め! 二度とレズなんて言葉使うんじゃねーぞ!」


 ミカのバッグを押し付けて扉の方へと引きずって行く。怒りに任せて強く腕を掴みすぎている事を自覚していたが、こんな女に掛ける情けなんぞ持ち合わせていない。


 抵抗するミカを扉の前まで連れて来ると、蒼がギィッと扉を開いた。表情までは確認せず、あたしは蒼に差し出されたグラスを無言で受け取った。そして追い出したミカに向けて言い放つ。


「お幸せにな! せいぜい二人に捨てられないように頑張れよ! バーカ!」


 バシャッという湿った音が響いた。同時に扉を閉める音も。そしてチリリンという鈴の音も。


 散々怒鳴り散らしていたからか、いつもの店内もやたら静かに思える。あたしは立ち止まったらいけないような気がして、元いたカウンター席まで足早に戻った。あれだけ怒鳴れば喉もカラカラになる。扉にもたれ掛ったままこちらを見ている蒼にグラスを突き出した。


「……何でもいいから作ってくれ」


 思った以上に声が枯れていた。元々嗄れた声ではあるが、まるで酔い潰れた後にカラオケで歌いすぎた時みたいな汚い声だった。


 蒼はその声を聞いて一瞬驚いた顔をしたが、少し小さなため息をついてからグラスを取りにきた。渡した後にグラスと指に付いていた水滴を舐めると、塩っ辛い味がした。


「しょっぺぇな……。蒼、お前これ何入れた?」


「塩水ですよ。アゲハさんが塩持ってこいって言ったから」


「塩水とは言っとらん」


「水ぶっかけたい顔してたので、塩水にしときました」


「……ははは、お前にしちゃ気が効くじゃんか」


 たまに褒めてやると不信そうな顔するくせに、今日ははにかみながら受け止めていた。あたしもかなり頭にきていたが、物言わん蒼も少し頭にきてたんだろう。本当は自分がぶっかけてやりたい物をあたしにぶっかけさせたんじゃないのかとすら思った。


「……コーヒーのビール割りですか?」


「それはもういい。その気分はもう終わったんだよ」


「何でもいいって言ったじゃないですか。開店前なんだからあんまり酒臭いのは……」


「酒とは言っとらんぞ?」


 あたしがわざと意地悪そうに言うと、苦笑しながらキッチンへ消えていった。奥から聞こえる製氷機から氷を取り出すカランコロンという音が、今のあたしをクールダウンさせてくれる。蒼の事だから、『これ飲んで頭冷やして下さい』とか言いながらトマトジュースでも入れてくるんだろ、と目を瞑って予測していた。


「これ飲んで頭冷やして下さい」


「……ほれ、思った通りの台詞だ。蒼、お前はまだまだ分かりやす過ぎる! もうちょっとあたしをあっと言わせる事してみろよ」


「あっと、ですか? トマトジュースじゃ芸がないかなって思って、今日はグレープフルーツにしたんですけど……驚きませんでした?」


「……あっ……」


 くそ! とあたしが舌打ちすると、蒼は珍しくにやにやしながらキッチンへ戻って行った。ったく、機嫌がいいんだか悪いんだか……。


「なぁ、蒼よ」


「……はい?」


「お前は初めて彼女さんとした時、罪悪感みたいなもん味わわなかったか?」


「……な、何聞くんですか!」


「隠さんでもいいじゃないか。……あたしはさ、今の相方と付き合うまでは男しか知らんかったから……ちょっとどころか、かなり抵抗あったんだよ。でもな、相方はあたしがマサヤと付き合ってる頃からあたしに惚れてくれてたんだ。だいぶ我慢させてたみたいでさ……。あぁ……聞きたくなかったらやめるが?」


「……いえ」


 蒼はわざとだろうか、グラスを探すふりをして背を向けた。表情は読み取れないが、あいつもまた、あたしがどんな表情で話すのか知らない方がいいのかもしれないと思った。


 本当は「灰皿くれ」と言いたいところだが、あたしは重い腰を上げて自分で灰皿を取った。カチャッという灰皿の音に一瞬反応してちらりとこちらを見たが、またすぐに背を向けた。あたしの話を聞いてやろうと、蒼なりに気を使ってるのかもしれない。


 グレープフルーツジュースを一口飲んだ後のタバコはやけに苦くてまずかった。


「罪悪感、って言葉があたしには一番しっくりくるんだけどさ、それまでノンケだったあたしが同性とする事は、やっぱり倫理に反してんじゃないかとかさ、柄にもなく思ってたんだよ。だから罪の意識があった。でも、大事な奴を我慢させて苦しめてる、その方が罪なんじゃないかって、ある日気が付いたんだ。だからその……やったんだけどさ……やっちまったら何の事はない、あいつの事をもっと愛おしく思えたんだ。それは快楽を味わえたからじゃない。あいつがあたしをどれだけ大事に思ってくれてるのか、文字通り肌で感じたんだよ。あたしもまた、逆にしかりだ。こいつの事、もっと大事にしたいって……肌で感じた……」


「……分かりますよ。ぼくも、彼女を大事に思ってるんだなって実感する瞬間だったりしますから」


「……そっか。なぁ、蒼よ。快楽の為に相手を繋ぎとめておく気持ちって分かるか?」


 少し意地悪な質問だったかもしれない。答えの見えている質問なのだから。そうとは気付いていない蒼は、少し沈黙してから振り返った。唇を尖らせて、いかにも不愉快だといった表情だ。


「分かりませんね。ミカさんのように快楽で人を、愛を計るような人の気持ちはさっぱり分かりません。ただ女同士でしたいのなら、レズ風俗に通うって手もあるでしょうし。今日のミカさんの話は、マーくんって婚約者にも、チーちゃんって彼女さんにも失礼だと思いました。相手の気持ちを踏みにじってます。裏切りですよ」


「ほぉ……レズ風俗ねぇ……。それは思いつかなかったぞ? さっきの女に教えてやりゃよかったのになぁ」


 あたしが茶化した口調で言うと、真面目に話していたのに、と言いたげな目でこちらを睨んだ。お返しににやりと笑ってみせるとむすっとして背を向けた。まったく……冗談の効かないバカ真面目な奴め。


「アゲハさん、いつまでも休憩してないで開店準備しましょうよ。アゲハさんが上手にぶちまいてくれなかったから、店の中にも塩水こぼれちゃってるんですよ? モップ掛けするからどいて下さい」


「おーおー、今日の蒼さんは怖い怖い! はー、これから開店かよ……もうどっと疲れてるんだが……。明日はヒアリング入ってないだろうな?」


「……入ってます。明日はお二人で来店、だそうです」


「はー……カップルかぁ……。今日みたいにセックスの話ばっかじゃないといいけどな……」


 口ではそうは言うものの、恋愛に肉体関係は切っても切れない話なのは仕方ないと思っている。だからといって、快楽で人を天秤に掛ける事が仕方のない事だとは思っていない。ミカのように、愛と快楽の違いも分からない奴を許せる訳がない。


 明日はカップルで来店か……。笑える話で終われるといいんだが。


 ……そうも簡単にいかないのが、あたしたちレズビアンの悲しいところだがな……。




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