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第3話:11月11日 アゲハの事情

 アゲハさんはこの店を二年前に開いてから、『ママ』と呼ばれる存在になった。もっとも、アゲハさん自身はママと呼ばれる事を断固拒否している。それは三十路になった今でも変わらない。「愛称といえど皮肉に聞こえる」、そう言っていつも眉を顰めた。


 同性愛者にとっては、親になる事ができない現状がジレンマだったりする。パートナーと幸せに暮らせればそれでいいという人も少なくはない。だけど、アゲハさんが『ママ』と呼ばれたくない理由は、年齢をいくら重ねても(くつがえ)る問題ではない。


 アゲハさんはこの店を開く前はキャバクラで働いていたという。銀座や新宿のように上流階級が訪れる繁華街ではなかったけれど、そこそこ満ちた街の、そこそこ満たしていた店で、そこそこ成績を満たしていたキャバ嬢だったという。「過去の事だよ」と言って、街の名前や詳しい事は教えてもらっていないし、ぼくもまた、あえて聞き出そうとは思っていない。


 ただ、話したがらない内容もあれば、愚痴の吐きついでにいつももらしている話もある。その店に来ていた二つ年下の男性と一年間だけ同棲生活をしていた話は何度も口にしている。


 マサヤという名前だった事。アゲハさんがナンバーワンになるまで通い詰めてくれた事。笑顔がかわいかった事。プログラミングの仕事をしていた事。機械オタクで、マニアックな話をし出すと止まらなかった事。九州の出身で、とても親思いだった事。寝言でも「愛してる」と言ってくれた事。


 さよならも告げずに去ってしまった事。


 結婚資金の為に積み立てていた通帳が無くなっていた事。


 マサヤがいなくなってすぐ、妊娠が発覚した事。


 愛も金も子供も未来も、全部失ってしまった事。


 だけど、その後お腹の中の子供がどうなったのかを口にした事は一度もない。出産したのか流産したのか中絶したのか、初めはぼくも気になったけれど、アゲハさんの心の痛みと同等の痛みを身体にも味わっているのかもしれないと想像しただけで、実際には聞いてもいないし、事実も知らない。ぼくが聞いたところでアゲハさんの痛みが消える訳でもないのだから。


 今現在同棲している彼女さんとは、マサヤが去る少し前に知り合ったという。近所の定食屋で働いていた彼女さんは生粋のレズビアンで、アゲハさんがマサヤと昼食を取りに来ていた頃からアゲハさんに恋焦がれていたらしい。


 彼女さんはたまにこの店にも顔を出すが、今でもアゲハさんにベタ惚れなのが一目瞭然で微笑ましい。雑な言葉遣いをするアゲハさんとは真逆の、おっとりとした口調が特徴的な人だ。ミルクティーのような色のおかっぱスタイルのアゲハさんに対し、彼女さんは長い黒髪のいわゆるゆるふわパーマ。


 髪型からも正反対な恋人を、アゲハさんもまたとても大事にしている。ただ傷を埋める為ではなく、お互いを心から求めている、ぼくにはそんな風に見える。ぼくが口にしたら、「生意気だ」なんて照れ隠しの暴言を吐かれそうだから言わないけど。


 そんなアゲハさんとぼくが出会ったのは、高校を卒業してすぐにバイトし出した男装カフェ。「一度でいいから行ってみたい」という彼女さんのおねだりに、アゲハさんがしぶしぶ付き合って来店した時の事だった。


 灰皿が欲しいというアゲハさんに対して店内禁煙だと説明した時に、アイスコーヒーをぶっかけられたのがきっかけだった。


 ぼくの断り文句は差し支えない接客用語だったと思う。一度はホールにいた先輩に相談して、丁重にお断りしてこいと言われて、確か先輩に言われた台詞をそのままアゲハさんに伝えたんだった。今思えば酒の匂いが漂っていた客に対して、ぼくはちょっと軽率だったかもしれない。


 だけどあの時、ぶっかけられたにも関わらず頭を上げなかったぼくを見て、アゲハさんは酔いが覚めたという。キャバクラで働き出した時の自分と同じ態度だった、と。理不尽な事で腹を立てた客にウイスキーを頭からかけられ、本当は殴ってやりたいところをぐっと我慢して頭を下げた時の自分を思い出した、と。愚かな客と同じ事をして恥ずかしくなった、と。


 その後は店長とアゲハさんのやり取りだったからあまり詳しくは聞いてないけれど、『あいつの連絡先を教えないのなら、うちの店に来るように言え』と言って帰ったらしい。店長もぼくも、てっきり土下座しに来いという意味だと思って内心ビビッていた。

 だけどそうではなく、いわゆるスカウトというやつだった。来月オープンするバーのスタッフとして働かないか、と。


 やっと働き慣れてきたカフェを辞めて新装開店のバーで働き出すのはかなりの抵抗感があったのと、当時十九歳だったぼくは水商売はできないと主張した。断る度に「金稼ぎたいなら色付ける」だの「あと二カ月すれば二十歳なんだし、そんな事は問題じゃない」だの説得されて……結局は今に至る。


 そんなワンマンなアゲハさんだけど、ぼくの事情も状況も全部考慮してくれる。こんなぼくのどこを気に入ってくれたのか未だに真相は謎だけど、一つだけ分かっていることがある。


 お節介で世話好きで、口は悪いけど心は繊細で、誰にも負けない強さを持っている、アゲハさんはそんな人だということ。


「蒼、電話誰だったん?」


「ヒアリングの予約です。えっと、初めての方で、今日これからいいかって言われたので明日の予約にして頂きましたよ。営業中は嫌だと言われたので……ダメでした?」


「ダメも何も、もう予約取ったんだろ? 別に明日の開店前ならいいが、ダメかどうか分からんなら初めからあたしに聞けよ」


 学歴も職歴も関係ない。アゲハさんは人生の経験が豊富だからこそ、自分にも他人にも厳しい。ツッコミどころ満載のぼくじゃなくても、アゲハさんの目に届く小さな穴は許されない。ここに若くして経営を成功させた秘訣があるのだろう。


「すいません。それでですね、お名前はミカさん。三十歳だそうです。六時から営業なので五時にはお越し下さいと伝えてあります」


「なんだよ、あたしと同じか。丙午(ひのえうま)はじゃじゃ馬で気が強いんだよなぁ。あたしと同い年の奴はどうもろくな奴がいない……」


「……そうですね。あ、そうだ。こないだ話題になった赤ワインとカルピスのフィズなんですけど、好みの割合があると思うのでアゲハさんに試飲してもらってからと思って……。あれ? アゲハさん?」


「……蒼、お前今どさくさに紛れて『そうですね』とか言わんかったか?」


 切れ長の目を細めてじっと睨んでいる。聞き流してくれないところもまた、アゲハさんの真面目過ぎる一面なんだけど……。逐一ツッコまれるぼくもそろそろ学習しないとな、と重ね重ね思う。


 それにしても、その切れ長の目で睨まれるのは本当に心臓に悪い。メイク用品もこだわりがないと言っていたし、実際してるかしてないかってくらい薄化粧なのはキャバ嬢だった頃から稀だったはず。素がいいから化粧する必要ないとは思うものの、もしするとしたらその目つきが柔らかく見えるメイクを是非とも学んで頂きたい……。


「……え、えっと……それでですね、試作品を作ってみたはいいんですけど、アゲハさん用のグラスが見当たらなくて……」


「はぁ? 店入ってすぐ使ったんだからその辺にあるだろ? シンクは見たのか?」


「見ましたよ。ぼくもさっき確かにどこかで見かけたんですけど……って、アゲハさん、それ……」


「え、あ……あれ、あたしなんで持ってんだ? 疲れてんのかな……いいから早く洗って試作品入れてこい」


「……はいはい」


 思わず苦笑してしまう。若干二十八歳で店を開いたやり手の店主の、たまに見せるおっちょこちょいなところ。完璧な人間などいない。おっちょこちょいなところもアゲハさんの魅力なんだから、これで、このままでいい。


 明日来店のミカさんはアゲハさんと同い年。もしこんなキャラのお客さんだったら……いや、怖い事は考えないようにしよう。人それぞれなのだから。


 さて、ミカさんはどんなヒアリングをするのだろう……。

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