第2話:11月11日 サエコ(38)の場合
繁華街に不釣り合いなスタイリッシュなスーツの女が入店してきた。ちりりんという小さな鈴が鳴り響き、あたしと蒼は振り返る。
女は後ろ手に扉を閉め、ゆっくりと店内を見渡した。カウンターの一番奥に座るあたしと目が合うと、深々と頭を下げる。あたしもまた、それに応えて小さく頷いた。
「……いらっしゃい。サエコさん、でいいのかな?」
「えぇ、予約しましたサエコです。お時間よりだいぶ早く着いてしまいましたが……よろしいですか?」
「もちろん。カウンターでもソファー席でも、好きな方に座って」
サエコと名乗る女は、カウンターの方へカツカツとヒールを鳴らしながらやってきた。だが、ふと立ち止まり、キッチンの中を覗き込んだ後、ソファー席の方へ戻っていった。
うちの店はカウンター席が五つ、ソファー席が二つ、窮屈に座れば八人は座れる。そんな狭い店だからって、いくらなんでも離れて座るのはおかしい。一番奥のカウンター席に腰掛けているあたしの隣に来るのかと思いきや、なぜソファー席の方へ戻っていったのかと不思議に思った。話たいのならば普通は聞き手の隣に来るはず。だがサエコはなぜあたしの隣に座らなかったのだろうか……。
その理由は、キッチンに見えた後ろ姿なのかもしれないと直感した。
「サエコさん、あいつは男じゃないよ。女……って言うのも違うが、蒼は男じゃないから安心していいよ」
「……そう、でしたか。それは失礼」
「ここには男なんぞおらんし、レズビアンを否定する奴もおらんよ。だからってなんでもかんでも話せとはいわんがね。話したい事だけ話していけばいい」
「……噂通りですね。それではお言葉に甘えて……」
サエコはまたもカウンターの方へカツカツとやってくる。今度は安心したのか、あたしの席から一つ飛ばした椅子に腰掛けた。それでも隣に座らない事が、サエコの警戒が解け切っていない事を物語っている。それに、やっぱり蒼が気になっているらしく、頬杖をつきながらちらりと横目で見ていた。
「サエコさん、ブラックでいいかな?」
「ミルクを一つお願いします」
「ミルクね。蒼っ、ミルク持ってきて」
あたしがキッチンへ呼びかけると、一連のやり取りを聞いていただろう蒼がポーションミルクを持ってきた。無愛想とまでは言わないが、明らかに申し訳なさそうな表情をしている。言われ慣れてない訳じゃないくせに……まぁ、慣れたところで気持ちのいい誤解ではないかもしれない。
こんな店だ。男嫌いの客がいない訳ではない。もちろん蒼もそんな事は分かっている。神経質な男嫌いなら尚の事、視線や距離を意識してしまうんだろう。ヒアリングに来る程の客なのだから、この店にレズビアン以外の何かがいないか警戒してしまっただけの事だ。
「……お待たせしました」
「ありがとうございます。……ごめんなさい。近くで見たら綺麗なお顔でしたね」
「……いえ。ごゆっくりどうぞ」
蒼とサエコはお互いにバツが悪いといった顔をした。先に目を逸らした蒼がキッチンへ消えて行くと、サエコはその後ろ姿をじっと見つめていた。
「彼……いえ、あの方、蒼さんと言ったかしら。ハスキーで声も中性的なんですね。わたしもあんな風にかっこいい女だったら……あるいは人生変わっていたかもしれません」
「蒼はかっこよくなんかないさ。ああ見えてヘタレだからなぁ。口説き方も知らん奴は、見かけばかり良くったって宝の持ち腐れってやつだよ。……サエコさん、あんただってバリバリ仕事が出来るキャリアウーマンって感じでかっこよく見えるが?」
「えぇ、自分で言うのもなんですが、わたしは仕事の出来る女だと思います。仕事は、ですけど」
「へぇ、いいじゃないか。会社っていう組織なんぞに不向きなあたしらにとっては羨ましい長所だと思うが?」
サエコはコーヒーをかき混ぜてカチャリとスプーンを置いた。そして一口嗜むように飲むと、カップにはダークチェリーのような色の口紅の痕が薄らと残った。
「わたしは特にやりたい事がなかったので就職しただけです。大学に入ったのも、なりたいものが見つからなかったのでとりあえず進学しておこうかしら、という夢のない学生でした」
「ふぅん。それで?」
あたしもコーヒーカップに口を付けた。縁を見ると口紅の痕は付いていない。あぁそうか、さっきおでんを食べてから化粧直しをしてなかったんだ、と今更気付く。それに比べてサエコは薄くも厚くもないメイクをきちんと保っている。ここに女の差が生じるのだ。
「もう一つ言いますと、うちの会社は化粧品メーカーでもトップブランドの一つなんです。わたしはそこで営業部のsvをしています。他の会社では課長に当たる役職でしょうか。……こう見えて三十八なんですが、アゲハさん、どう思います?」
「どうって、何が? 若く見えるかって事なら答えはイエスだ。……んまぁ、聞いてるのはそんな事じゃないんだろうよ。何を聞きたい?」
「取っつき難いかって事です。大手会社で若くして役職に就いてて、容姿や口調もそれなりに気を使っている女は……ハードル高いと思いますか? 高いように見えますか?」
「高いのはプライドの方なんじゃないのか? それと自意識。高すぎても低すぎてもダメだろうがさ、キャリアだの容姿だの以前に、プライドっつー壁があったら取っつきたくても取っつけないだろうよ」
少し言い過ぎたか、サエコは口を噤んだ。しょっぱなから辛口なのはあたしの悪い癖だ。その辛口を好いてくれる奴も少なくないが、「話を聞いてくれるって言うから来たのに!」と泣きながら、あるいは怒りながら出て行った客もいなかった訳じゃない。
サエコが黙っている間、あたしも黙ってコーヒーを啜っていた。話したいなら話せばいい。話したくないなら話さなくていい。話したくなったら話せばいい。あたしはサエコの開口を待ちながら、蒼が奥で挽いているコーヒーミルの音を聞いていた。
「……そうですね……。ママさんのおっしゃる通りです。わたしはプライドを捨てればいくらか近寄り易くなるかもしれません」
「ママじゃない。アゲハでいいよ」
「失礼。それも噂通りですね。ではアゲハさん、ここからが本題なのですが……」
サエコはもう一度カップを口に運ぶと、自分の口紅の痕に気付いて一瞬ぴたりと手を止めた。それからダークチェリーのような色のそれを親指でぎゅっと拭い、飲まずにカチャリとカップを置いた。深いため息からするに、そのプライドが話したい気持ちを塞いでしまっているんじゃないかと感じた。
「ゆっくりでいい。話したいから来たんだろ? 開店まではまだ一時間以上あるんだ。話したくなったらでいいよ。ゆっくり考えな」
「いえ……。お察しの通り、わたしはこんなプライドの高い女なので、好きになってしまった部下を飲みに誘う事すら出来ないんです。部下の方から誘ってくれないかひたすら待ち続けて……そうですね、もう九カ月経ちます。きっかけがバレンタインデーなので、正確にはあと三日で九カ月になります」
「バレンタイン? 男、じゃないんだろ?」
「えぇ、女性です。それもわたしより十六も年下の。……かわいい子なんですよ? 短大を出て新卒で入社してきた、まだ会社という組織がどういうものであるかも分かっていない、二十そこそこの子なんです」
「二十そこそこねぇ……。うちにも二十二にもなって人見知りきどってる奴がいるがなぁ……なぁ、蒼」
呼ばれてなんとやら、背を向けてキッチンに立っていた蒼が振り返る。聞きたくなくたって、狭いこの店じゃ耳でも塞がない限り聞こえてしまう。
蒼が他人の話を聞きたがらないのは知っている。だが意地悪なあたしとしては、あたしらのように肩身の狭い思いをしてる奴らの嘆きを少しでも知ってもらいたいと思っている。それが共感、だとあたしは思うから。悩んでるのはお前だけじゃない、それを感じ取って欲しくて。
「……はい?」
「はい? じゃねぇよ。そっちで吸ってないでお前も座んな」
「……はぁ……」
吸いたての長いタバコをしぶしぶもみ消し、蒼は自分のカップと灰皿を持ってソファーの方へ腰掛けた。途中、あたしの前にも灰皿を置くのも忘れなかった。自分だけ吸っていた事を少し反省したんだろう。気を利かせたというよりはご機嫌取り、かもしれんが。
サエコはソファーに移動する蒼を目で追っていた。先程「あんな風に」と羨ましがっていたが、サエコだって充分端整な顔を持っている。それこそ八こも年下のあたしよりも、下手したら若く見られるかもしれない。まぁ、あたしらみたいな水商売と違って、会社の役職持ちは年上に見られた方がいいと言う人もいる。貫禄があった方が下に嘗められなくて済むから、という理由らしい。
「今年のバレンタイン、その部下が手作りのチョコレートをくれたんです。それはまぁ、いくら女性の多い職場でもよくある光景なんですが。違ったのは手紙付きだったって事です。『手作りです。よかったらどうぞ』と言って部内の社員にも配ってました。わたしのところへも同じ台詞を言いながら笑顔で渡しに来ました。その子……名前はマヤといいますが、マヤの他にもチョコを配ってる子もいたので、全部開けずに家へ持って帰ったんです。手紙も……入ってるとは知らなくて……」
「ほぉ? 手紙はラブレターだった、と?」
「いえ、一言『今度飲みに誘って下さい』と書いてあっただけです。カラフルなハートがたくさん描かれているメッセージカードに、ただ一言、それだけ書いてありました。……どう思います?」
「どうって……またその質問? サエコさん、あんた部下にそんなアバウトな質問されたらどう返すよ。何を聞きたいのか明確に聞いてくれなきゃ分かんないだろって教えてないのか?」
「それとこれとは別です。蒼さん、あなたはどう思います?」
質問を質問で返したあたしじゃ役不足だったのか、サエコは後ろのソファーで吹かしている蒼に話を振った。寛ごうとしていたところに急に振られた蒼は目をぱちくりさせている。無理もない、まさか自分に振られるとは思ってなかったんだろう。
蒼はタバコを咥えながらウーンと首を傾げた。客の前で咥えタバコなんぞ行儀悪い、とツッコみたいのを我慢しているあたしと、アバウトな質問に対してどんな返答をもらえるのか期待しながら眺めるサエコ。二人の視線にしばらく耐えていた蒼だったが、ここではコミュ障っぷりを発揮、慌ただしく顔を叛けてふーと煙を吐き出した。
「ぼくなら……どうも思わないです……」
「そうなんですか……。蒼さんは女の子からラブレターもらった事ありますか?」
「……高校ん時は。ラブレターっていうか……ファンレターってのも男装カフェん時にもらった事ありますけど……」
「どっちももらった事あるなら答えて下さい。どうも思わないっていうのは、ラブレターかそうではないかって事自体が気にならないって事ですか? それとも、ラブレターだったとしても、相手の事をどうも思わないって事ですか?」
「……うーん……。思わないっていうか、思えないっていうか……。好意を持ってくれてたとしても、ぼくには公表してない……出来ない彼女がいましたし、気持ちは嬉しいけどどうする事もできないので……。可能性がないのに相手の好意を刺激するような事はするなと彼女に言われてたのもありますけど。だから手紙をもらってもどうしてあげる事も出来ないからどうも思えなくて、ぼくには読む事しか出来ませんでした。もちろんその……内容にもよるとは思いますよ? ……って、参考になりませんよね、すみません」
「どうしてあげる事も、ですか……。いえ、参考になりました。ありがとうございます。どうしてあげる事も、か……」
サエコはしばらくその言葉を反芻していた。あたしにはあんな例題が参考になったとは思えない。仮にもサエコは恋人がいるとは一言も言っていないのだから、状況の違う意見が参考になったとは考えにくかった。
「サエコさん、あんたはチョコをもらう前からマヤって子を気に入ってたんだろ? 誘えない理由は?」
「飲みに誘って下さいというだけでは、マヤがわたしに好意を持って待ってくれてるのか分からないじゃないですか。それこそみんなで飲みに行きましょうという意味かもしれないんですよ? 蒼さんもおっしゃってましたが、好意を持っているわたしは、マヤのどんな些細な言葉でも都合のいいように捕えてしまっていそうで……誤解して恥をかくのが怖いんです」
「ビビる気持ちも分かる。男女の恋愛でも社内恋愛が上手くいかなかったら微妙な空気のまま仕事せにゃならんだろうしな。ましてや女同士。相手がレズとも限らない。こちらに好意があるのかと誘って失敗した時に壊れるものはたくさんあるだろうよ。恋心、上司としての尊厳、同性愛者というだけでも人間としてのイメージが下がる。あんたはそれが怖いから誘えない、そうだろ?」
「……その通りです。もしマヤに拒絶されたり、わたしが同性愛者だという事をバラされたりしたら……わたしは部内から、いえ、会社から白い目で見られ、信頼も失うかもしれません。そんな高いリスクを抱えるなら……わたしはマヤを諦めるまで片思いを隠していく方がいいのかもしれませんよね……」
今までリンとしていたサエコの表情からは、さっきまでのプライドの高さは感じられなかった。いや、プライドが恋心に勝ってしまっていて、打ち砕く手段を見つけられないのかもしれない。
不安、恐怖、それ故に実るかもしれない恋に駒を進められない。ただの男女の恋愛関係とは失う重みが違うんだ。臆病になっても仕方ない。
「愚問だが、あんたはどうしたい? おとなしく鎮火を待つか、勇気を出してマヤを誘ってみるか。いずれにせよ、あたしにはあんたの背中を押す事しか出来ないがね」
「……分かりません。アゲハさんたちのようにカミングアウト出来たら……もっと生きやすいんでしょうけどね」
その言葉を聞いてあたしの頬がぴくりと引き攣った。そしてゆっくりと蒼の方へ振り返ると、あたしの変化を察して一瞬目を逸らした。空気に敏感になるのも、あたしたち肩身の狭い奴らのめんどくさい特殊能力。蛇に睨まれた蛙のような蒼がもう一度恐る恐るこちらを見る。そしてあたしと目が合ったところでこくんと頷いた。
「サエコさん、あたしらは生きやすくなんかないんだよ。カミングアウトしてもしなくても、世間から白い目で見られてるんじゃないかと、いつも背中を気にしてる。後ろめたい気持ちは同じなんだ。だからこうやってレズバーなんて開いてる。そうでもしなきゃ気が休まる場所がない。うちの店はさ、一見カミングアウト出来てる強い女どもの溜まり場に見えるかもしれん。だけどなサエコさん、最初からおおっぴろげに暴露出来る奴なんていないんだよ。みんな少しでも自分が生きやすくなるように頑張ってんだ。ここに来る奴らがカミングアウトしてるからって強い女だとは限らない。むしろ弱いからここに来るんだ。……分かるか?」
「……まぁ、おっしゃる事は分かります。でもわたしだって強くないんです。マヤに拒絶されて職場に影響を及ぼす事があれば、それこそ色恋で職を失う事になるんですよ? 今の立場を失うくらいなら……このまま黙ってマヤと一緒に仕事する方が、わたしもマヤも穏やかな人生を歩めるのかなって……」
サエコはそのまま黙り込んだ。続きは聞くまでもない。もうサエコの中では決まった事なんだ。いや、ここに来る前から決まってたのかもしれない。間違った恋愛よりも、自分の今がかわいかったんだ、サエコは。
「気が済んだか? うちのヒアリングは気持ち次第だ。百円でも一万でも、好きな金額でかまわんよ。……蒼、温かいの入れ直してあげな」
「……はい」
「サエコさん、あたしにはこれ以上言える事はない。だけどあんたが話したくなったらいつでもおいで。ここはそういうとこだから」
サエコは小さく「ありがとうございます」と呟いて、財布の中から五千円を取り出した。
「もう少し強くなれたら……また来ます。コーヒー、ごちそうさまでした」
「はいよ。いつでもおいで?」
サエコは立ち上がってあたしに深々と頭を下げた。バッグを腕に引っ掛け、そのままカツカツとヒールを鳴らして扉へ向かう。最後にもう一度ぺこりと軽い会釈をしてから出て行った。扉のぱたんと閉まる音と、鈴のちりりんという響きが、今日のヒアリングの終わりを告げた。
「……はー……。蒼、お前どう思うよ?」
「どうって……何をですか?」
「サエコさんだよ。……あー、あたしも移っちまったな。『どう思う』なんてアバウトな質問が」
「強くっていうよりも……サエコさんは素直になれたら、とは思いました。結局息苦しい方を選ぶんだなって」
「息苦しい、か。社内恋愛自体が息苦しそうだよな。組織に入り込めないあたしらには分からんけどさ、役職ってのはそんなに大事なもんかねぇ。アンダーグラウンドで生きてるあたしには足枷としか思えんよ」
「それでも、サエコさんは足枷を選んだ、んじゃないんですか? 自分ともマヤさんとも素直に向き合えず……」
「……蒼ぃ、お前……」
あたしがじろりと目をやると、蒼はびくっと肩を震わせた。……ったく、どこまで小心者なんだか。
「な、なんですか? ぼく変な事言いました?」
「……いや、分かったような事言いやがるなって言おうとしたんだが、その通りだなって思ったんだよ。サエコさんはきっともう来ない。あの人はこれからも窮屈な足枷を外そうとしないと思うんだ。素直になれず、恋愛を選ばず、ただひたすら仕事の出来る自分をかわいがる。仕事に生きる女には、ここは必要ない。自ずと、窮屈を窮屈と感じずに麻痺してくるんだ。そしたら、それはそれで幸せだと思わんか?」
「んー……そうですね……」
あたしらは目が合って苦笑した。腑に落ちないとこは多少あるが、それを選ぶのは本人が決める事だから、このもやもやを飲み込む事しか出来ない。後味の悪いヒアリングは、いつになっても消化に困る。
それでも、強引にこちら側へ引きずり込めないのは、こちら側が幸せかって言ったら胸を張って肯定出来ないところがあるからだ。
まぁそれは次の機会に語るとして、今日のヒアリングはこれで締め括ろうと思う。