第15話:1月12日 店主『アゲハ』
その日の深夜、営業を終えて帰宅したアゲハはひどく荒れていました。決してお酒は弱くないのに、少し目も虚ろで、一目で何かあったのだと分かりました。
だけど聞き出そうとはしません。私はアゲハが口を開いてくれるまで、何も気付いていないふりをしていたのです。あの店の方針と同じ、『話したくなったら話せばいい』それと同じにしました。
普段なら玄関まで出迎える私ですけど、今はそっとしておいた方がいい気がしてキッチンから「おかえりなさい」と声をかけただけでした。
零時を過ぎたあたりからだったでしょうか。窓の外からはザーザーという雨音がしていました。アゲハはお店の置き傘をさして帰ってきたのでしょう。左肩と、右肩に下げられたバッグがほんのり濡れていました。
お気に入りのベージュのソファーに雑にバッグを投げ捨て、チャコールグレーのロングコートをダイニングチェアーに引っ掛けてまっすぐシャワーを浴びにいきました。「小腹が空いた」とぼそりと呟いて。
私は浴室から聴こえるシャワー音と雨音が混ざり合うキッチンで手早くオムレットを作りました。さっさと出てきたアゲハは冬だというのに髪も乾かさずリビングチェアーに腰掛け、半分ほど食べたあたりで急に箸を置き、心の中の蟠りを語り始めました。
「あの後、閉店直前に電話があったんだ。サヤカさんから。帰ったら彼が書き置き一つ残して出て行った、ってね……」
アゲハは目を合わせませんでした。
「なぁ、夏姫。なんで男ってのはどいつもこいつも身勝手なんだろうな……。身も心も傷つくのはいつも女ばかりだ。損をするのはいつも女ばかりだ……」
やはり、アゲハは自分と重なってしまっていたのです。若かったあの頃の自分と。私と付き合いだす少し前の自分と……。
「入店してきた時から嫌な感じがしたんだ。胸騒ぎ、とはちょっと違うが。だからあたしは逃げた。夏姫には悪い事したな……」
私は首を振りました。手元に視線を落としているアゲハだけど、それくらいは感じ取れているでしょう。少しの沈黙のあと、アゲハは再び箸を進め続きを語り出しました。
「今度こそ報われる、そう信じていただろうよ。なのに裏切られ、女だけならず子供まで捨てるなんぞ人間のする事じゃない。いや、動物以下だ。あんな大きなお腹を抱えて、あの子はこれからどうやって生きていくというんだ……」
それはあなたも同じ。同じだったでしょう。結婚まで約束していたマサヤさんが通帳ごといなくなってしまって、愛もお金も、そして子供もいっぺんに失ったのだから。
「だけどあの子は泣いちゃいなかった。あの子は強い。実家に帰るんだか一人で産むんだか聞きはしなかったが、また今度ヒアリングしてもらいに行ってもいいですか、って言ってきたよ。それがどういう意味なんだか分かるか?」
私は頷きました。
「そうか……。あたしも聞いてやりゃあよかったな。だがそれはいい意味だと捕らえておくよ。今度、か……」
そうです。私もいい意味だと思います。また今度来店するという事は、サヤカさんは彼を忘れ、大好きだった幼馴染さんの事を再び思い続け生きていくという事でしょうから。
それが決して報われない恋だとしても、サヤカさんが自分に偽って誰かと生きていくよりもよっぽど幸せでしょう。両想いだけが幸せなわけではないですもの。大好きな幼馴染さんの側にいられるだけでも、きっとサヤカさんにとっての幸せであると私は思います。
私がそうであったように……。
「夏姫……。あたしはもうあの店を畳んだ方がいいんじゃないかって思ってんだ……」
「え? どうして急に……。だって、せっかく開いたお店じゃない。それにサヤカさんだってまた来てくれるかもしれないし。なにより常連さんや蒼さんはどうするの?」
「分かってる。思い付きなんかじゃないさ。ただ隠れ家的なうちの店が逃げ場になってるんだとしたら、あたしはあの店を開くべきじゃなかったんだ、って思ったんだよ」
久しぶりに見る恋人の思い詰めた顔。紆余曲折しながらも精一杯営んできたアゲハのバー……。私には分かりませんでした。留まらせるべきなのか、背中を押すべきなのか……。
「一緒に小料理屋をやろう。夏姫の夢だった小料理屋をさ」
「何言ってるの。私は夢のままでもいいのよ? 深夜にも関わらず、こうして私の手料理を食べてくれる人がいるんですもの。私はそれだけでも充分幸せ」
顔を上げたアゲハはにっこり笑って言いました。お店では決して見せないその笑顔。私の前でしか見せない笑顔を。
「あたしも手伝うよ。もっとも、あたしにゃ皿洗いかホールくらいしか出来んけどな。でも軍資金なら協力出来る。あのバーのように始めは慎ましくとも、誰もが食べるだけで幸せになれる店を開こう」
私はなんだか恥ずかしくなって俯いてしまいました。プロポーズは受けた事ないですけど、きっとプロポーズよりも嬉しい言葉です。真っさらになったお皿を片付けるふりをして、キッチンへといそいそ立ち上がりました。
「夏姫?」
「ありがとう。でも、私はバーの店主のアゲハも好きよ。畳むだなんて言わないで? 小料理屋はもっとおばあちゃんになっても開けるわ。その時は……」
どうしてでしょう。涙が出ます。嬉し過ぎたからでしょうか。嬉しい決意を無駄にしようとしてるからでしょうか。それとも……。
「……分かったよ。夏姫が乗り気じゃないなら無理にとは言わん。あたしもお前も、婆さんになるにゃまだまだ時間がかかる。だけど……それまで、それからも一緒にいてくれるって事だよな?」
私は悟られないように人差し指の背で滴をそっと拭いました。深夜の街から、水溜まりの上を駆け抜けていく車の音が聴こえました。
「ふふっ、当たり前でしょう?」
だから、これからも私のあなたであり、レズビアンバー『violet lily』の店主でいてください。
そして、多くのレズビアンたちの喜びを、怒りを、切なさを、幸せを見守ってあげるアゲハでいてください。
〈完〉
ここまでお読みいただきましてありがとうございます。
途中、更新に月日が経ってしまいましたが、完結まで持ってこられたのはみなさまの応援あってのものです。
このお話を書こうと思ったきっかけは、昨年初めてジャズバーに連れて行ってもらったところからでした。
そこの女店主さん(70代)がすごくかっこいい方だったのでビビッときたのです。
なんというか、アゲハのように姉御肌なわけではなく、一見上品で物静かな女性なのに、お客さんのリクエストでジャズを1曲歌ってくれた時にものすごい痺れを感じたのです。
容姿とか振る舞いではなく、歌声がかっこいいというだけだったのですが…。
でもそれを聴いた時に降ってきたんです。かっこいい店主アゲハが。
それ以来3回しか行ってないしアルコールアレルギーなのでこれからもしょっちゅうは行かれないですけど、完結した今、もう一度行ってあの店主さんの歌声を聴いてきたいと思っています。
この物語はここで終演となりますが、芝井流歌はこれからも執筆して参りますのでどうぞ変わらぬ応援をよろしくお願い致します。
2018年8月15日 芝井流歌